通州事件とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関に対する襲撃と、それに続いて起こった日本人居留民(朝鮮系日本人を含む)に対する虐殺を指す。
通州とは、北平(現在の北京市)の東約12kmにあった通県(現在の北京市通州区北部)の中心都市である。
1937年7月29日、約3000人の中国人部隊が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。
事件の原因は、日本軍機が華北の各所を爆撃した際に、通州の保安隊兵舎をも誤爆したことの報復であるとする説明が一般的だったが、近年は反乱首謀者である張慶餘の回想記により、中国側第二十九軍との間に事前密約があったとの説も有力になっている。
概要
事件発生翌日の7月30日午後、現場に入った天津歩兵隊の萱島隊長は、こう語っている。
「旭軒(注:飲食店)では四十から十七~八歳までの女七~八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されて居り、その中四、五名は陰部を銃剣で突刺されていた。
商館や役所に残された日本人男児の屍体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した後があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった」
とりわけ凄惨を極めたのが、通州城北門近くにあった旅館・近水楼だったという。第二連隊歩兵隊の桂鎮雄隊長代理は、数少ない目撃者だった。
「近水楼入口で女将のらしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、きものは寝たうえで剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、掠奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだようだった」
「一年前に行ったことのあるカフェでは、縄で絞殺された素っ裸の女の屍体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内蔵が散乱していた」
内蔵引き出しや陰部突刺などは中国人特有の残虐な処刑スタイルだろう。その中でも特異な「胸腹部断ち割り」という残虐な殺害方法を後述の桜井小隊長が目撃している。
「陰部に箒(ほうき)を押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。池の水は血で赤く染まっていたのを目撃した」
数珠繋ぎにして引き回した上での殺害は、各所で行なわれていた。旅館・近水楼でも女中ら殺戮のあと十数人の男女従業員と宿泊客が麻縄で繋がれ、銃殺場に連行された。
その日本人大量処刑の模様は、発生直後には確認できなかったが、当日偶々宿泊していた同盟通信社の安藤利男特派員が命からがら城外へ脱出。後日になって蛮行が明らかになった。
支那駐屯歩兵第二連隊の桜井文雄小隊長は、信じられない光景を目の当たりにした。
「『日本人は居ないか』と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった」これは兵士が垣間見た惨状のごく一部である。
武装した中国人の群れは、駐屯する我が軍の関係施設を攻撃しただけでは収まらず、居留民の家をすべて襲撃。略奪・陵辱・惨殺など残虐の限りを尽くした。
通州は現在、北京市内の一区であるが、事件当時は別の行政区であった。位置は、北京中心部から約20キロの地点だ。
通州は古くからある街だが、事件が起きたのはごく限られたエリア内だった。城壁に囲まれた通州城の中で悪鬼のごとき残虐行為が長時間に渡って繰り広げられたのだ。
これらの残忍な行為は、中国共産共が捏造する虐殺ストーリーと重なる。つまり、戦後に脚色した“南京の惨劇”なるものが、中国人の処刑スタイルそのままであることを皮肉にも浮かび上がらせる
現在、中国共産党は南京虐殺を主張し「屠城」なる言葉を用い、出鱈目な宣伝を続けている。城門を閉じ、その内部で殺戮が行なわれたとする物語だ。
だが、実際の「屠城」とは正に通州城の中で起きていた事件なのである
通州事件の重要性は、そこに垣間見られた猟奇的な良民殺害の手法だ。南京プロパガンダで振りまく“日本鬼子”の所業なるものは、すべて通州において中国人自らが行っていたものだった。
例えば「鼻に針金を通して引き回す」などの蛮行は、当時の日本軍にはないもので、中国人の伝統的な陵辱スタイルである。中国共産党は南京捏造で様々な「残虐性」を考案しているが、それらは彼ら中国人自身のの伝統に源していると言える。
彼らの主張する「南京残虐」とは、通州事件で実際に中国人が起こした惨劇の裏返しだ。そのモデルケースとして、すべては通州で再現されていたものであった
通州事件の惨劇を知ることは、今日の中国共産党による南京プロパガンダの嘘を透視するうえで極めて重要である。
中国による類似の責任転嫁事例
このように、実際には中国人自らが行った残虐行為を日本軍になすりつけた例としては、清晴野作戦や三光作戦がある。
どちらも、日本軍が占領先で徹底的に奪い尽くして殺し尽くして焼きつくした。という類のものである。清野作戦とは大地を焼きつくす作戦という意味で、焦土作戦と同意義、三光作戦も、「槍光、燃光、殺光、つまり奪い尽くす、殺し尽くす、殺し尽くす作戦」だというのである。
しかし、これは中国側にはメリットがあるが、日本がこれをすればたちまち兵站が破綻してしまうため、行う意味が全く無い。
そもそも「清」という漢字を焼くという意味で使うのは中国語の使い方で日本語に存在しない用法であるし、「光」を「~し尽くす」という意味で使うのは中国語特有の用法で、やはり日本語の「光」は単純な「太陽光」などの光の意味が殆どである(少なくとも日本語で光を「~し尽くす」なんて意味で使う単語はない)。
日本軍が中国語の作戦を採用すれば現場に混乱をきたすのは当然である。
実際中国軍は退却の際にこうした略奪等を行っており、中には日本軍の進軍を妨害するために黄河の堤防を故意に決壊させて、数十万~百万人の犠牲者を出し、日本軍が救出・復興作業をした例まであった有様であった。更に、日本軍と住民が共同で行っていた防水作業を中国軍が妨害するというどっちが現地の軍隊なのかわからないような状況であった。
通州事件と阿片
NHKの偏向番組の影響か日本軍による中国毒化政策への報復が
通州事件の原因と唱える無知者もいるが大きな間違いである。
そもそも日本と交戦する以前から中国では既に阿片栽培が蔓延していた。
これは当時の中国の阿片蔓延の実態を少しでも知れば充分であろう。
資料としてはラルフ・タウンゼント著書『暗黒大陸中国の真実』『アメリカはアジアに介入するな!』等が
当時の福建省の一大平原に作付された阿片畑の写真や
財閥名、共産党が阿片を資金源にしていたことも掲載されているためわかりやすい。
タウンゼントは綴っている。
当時、中国人の約8人に1人が阿片常習者でありの上海や北京、天津など大都会では
一風変わった喫茶店程度の感覚で人々は自由に出入りしていた。
中共軍閥は農民に食糧を作らせず代わりに阿片を栽培させ、それを巻き上げ、また栽培させては税金を取る
販売と喫煙に際しても税を取るというように、彼らの政権維持のための貴重な資金源となっていたのだ。 と
当時の特務機関関係軍人が番組で証言したように
日本軍の特務や後の興亜院が里見甫を使って阿片の売買を行っていた事は事実だが
当時の中国において阿片は、嗜好品としてだけでなく、現金化(換金)できる金銀などと
同様の貨幣の代替品であり著書内で「当時中国の国費4分の3は阿片で賄われている」と書かれている通り
信用に値する通貨が他に何もない以上日本軍も通貨として阿片を利用するしかなかった。
つまり、追い出した中国国民政府が収益源としていた阿片をそのまま利用していただけだったという事だ。
NHKの番組内では日本軍こそが阿片を広めたと喧伝していたが日本軍が占領した後の昭和13年には北京にあった最大の4階建ての鴉片窟はなくなっている
このNHK番組は、支那政府や支那軍がそれ以前から国を挙げて行っていた阿片戦略には全く触れず
中国国民政府のそうした実態を言及しない。
そればかりか日本軍が阿片によって戦費を賄っていた部分のみを執拗に
取り上げ、報じそれを中国側の意のままに放映する様はとても日本の公共放送とは思えない。
番組HPでNHKは「日本が世界から孤立する大きな要因になった」と述べているが
日本軍は台湾において、流行していた阿片を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ
また新規の阿片免許を発行しないことで阿片商業を撤廃させることに成功している。
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