水木しげる(1922年3月8日~2015年11月30日)とは、鳥取県出身の妖怪・漫画家・妖怪研究家である。本名は武良茂(むら しげる)。
「なまけものになりなさい」
大阪府で出生。三人兄弟の次男として生誕するが、両親が故郷鳥取県境町(現・境港市)に戻りそこで育つ。この頃から、自宅に出入りしていた「のんのんばあ(境港の方言で「信心深いおばあさん」の意)」と呼ばれていたお手伝いさんの景山ふさという老婆から妖怪の話を聴かされたことが、後に作風へ影響をするようになる。また幼少期から絵にも興味を持つようになる。高等小学校の時に画家でもあった教頭の勧めで個展を開き、地元新聞にも載ったことがあった。本人も「武良茂鐵」(むらもてつ)という雅号を名乗ったことがある。
高等小学校卒業後は大阪に出て職を転々とした後、東京美術学校(現:東京藝術大学)入学を志し、入学に必要な中等学校卒業資格を得るためいろんな学校に通うが、どれも上手く行かなかった。また、同時期に大阪の洋画教室に通い絵の基礎を学ぶが、21歳の時に召集令状が届き、1943年にラバウル島へ出征する。途中でマラリアを発病している時に診療所が爆撃に遭い、左腕を切断する程の負傷をするが九死に一生を得て帰国が出来た。
余談ではあるが氏が出征する際に乗っていたのは、日露戦争の日本海海戦の「敵艦見ゆ」で有名な信濃丸であり、復員する際に乗船したのは、あの幸運駆逐艦雪風であった。いずれも太平洋戦争の地獄を生き抜いた船であり、あたかも水木しげる氏の強烈なバイタリティを象徴するようなエピソードである。
帰国後、武蔵野美術学校(現:武蔵野美術大学)に通ったり、日本中を転々として仕事をしていたが、神戸市にかつてあった「水木荘」というアパートの大家になった時に、紙芝居語り手が水木に紙芝居を依頼して紙芝居作家となり、そこから水木しげると名乗るようになる。が、紙芝居が廃れるようになるとアパートを畳み上京。1958年に貸本漫画家へ転進するが、かなりの貧乏生活を強いられる。1959年に調布市の家を買い、50年以上にわたる生涯の住みかとする。1961年、40歳近くになった時に見合いを勧められて、10歳下の飯塚布枝と結婚。後に長女も誕生するが貧乏生活は続いた。1964年に漫画雑誌『ガロ』で商業誌デビュー。貸本漫画として細々と続けられた『墓場の鬼太郎』(のちの『ゲゲゲの鬼太郎』)が『週刊少年マガジン』で連載を始めるようになって以降、人気漫画家として成功を収めるようになる。人気作家になって以後は次女が生誕したりと順風満帆になったが、1980年代初期には一時低迷をする。しかし、1985年に『ゲゲゲの鬼太郎』が再アニメ化がされ、人気を取り戻す。故郷の境港市にはゲゲゲの鬼太郎のキャラクターたちのブロンズ像が立ち並ぶ水木しげるロードができるなど漫画家として、また、妖怪研究家としてもその地位を確立し、現在に至る。
代表作としては『ゲゲゲの鬼太郎』、『悪魔くん』、『河童の三平』等がある。特に『ゲゲゲの鬼太郎』と『悪魔くん』は何度もアニメ化やドラマ化がされるほどの水木しげるの代名詞となっている。また戦争中の体験やのんのんばあの話等をまとめた著書も多数あり。1970年頃から妖怪研究家としての著書も多数ある。また、妖怪という民俗学での専門用語を一般化したのも水木しげるの功績である。
2010年4月~9月期のNHKの『朝の連続テレビ小説』で布枝夫人原作の自伝『ゲゲゲの女房』がドラマ化され、水木しげる作品が再び注目をされるようになる。
2015年11月30日、多臓器不全のため東京都内の病院で死去。93歳という長寿であった。しかし氏のことだ、今頃見えなくなった姿でも境港にある銅像のように鬼太郎達に囲まれながら執筆を続け、かつてのように旺盛な食欲を満たしながらこの世を見続けているのかもしれない。
眠ることに執着心が強い。幼少期より起きるのが苦手で、いつも始業時には学校におらず、2時間目くらいから登校していた。後年もその生活サイクルは変わらず朝起きるのは10時以降であり、『ゲゲゲの女房』放映時、NHKが直後の番組『あさイチ』にて生放送で水木夫妻に対するインタビューにやってきた際もマイペースに眠っていて、妻の布枝夫人だけがコメントをする羽目になったことがある(ただし、このインタビューは最初から布枝夫人のみを対象としていたため起きる必要がなかったというのもあったが)。
晩年は12時間寝て12時間起きるという生活がメインであり、こういった本来の生活方法を人気雑誌の連載漫画家だった頃にはまったく出来ず、かなり辛かったと語っている。
「わたしの日々」によると漫画家のパーティで徹夜自慢合戦をしていた手塚治虫氏と石ノ森章太郎氏に「睡眠は大事なんですヨ!」と熱弁を振るったほど、睡眠をとることを大事にしている。
また、これだけ稼いでいる大人物であるが、今になっても儲けに対してはことさら敏感である。それは貸本漫画家時代に味わった長く辛い貧乏生活の経験からくるもので、墓場鬼太郎がアニメ化することになった際にコメントを求められた時にもこういったことを述べている。
「鬼太郎やるのにコメントがほしい?
それはやっぱり嬉しいの一言で終わるんじゃないですかね。それ以外にもっとしゃべれという話になると製作費がどうのこうのとかで話が立ち入るとややこしいばかりで嬉しさが中々表現できないわけですよ。
だから、『うれしい』とこれでいいわけですよね」
食に対する執着心が強いのも特筆すべき点である。父は胃が突出して強い、すなわち「イトツ」という渾名を付けられていたほど食いしん坊な人であり、それを受け継いだしげる自身も何でも食べる浅ましい奴という意味で「ズイダ」などと呼ばれていた。90を過ぎてもなおその食欲は健在で、メガマック・ドミノピザなどを平気で食べている。
最近じゃスタバデビューまで果たしちゃった。いいぞ、もっとやれ。
2015年11月30日にしげるが亡くなるまで三兄弟はともに健在であり、兄弟3人全員が90歳超えという長寿兄弟であった。しげる自身も左腕を失ったことを除けば健康であるが、自宅の冷蔵庫には「おとーちゃんは最近糖尿気味だから食事に気をつけるべし」といった意図の張り紙がしてある。
インタビューが面白いので有名で、わざとやってるのか、インタビュアーの質問にとぼけた珍回答をすることがある。
(例)ゲッツ板谷のインタビュー本「わらしべ偉人伝」より抜粋
ゲッツ板谷「水木先生は今でも現役でいらっしゃる」
水木「水木サンはもう10年以上ハレンチなことはしとりませんよ」
このあと即座に地の文で「そっちの現役じゃねえんだよっ!」と、突っ込まれている。
これらの豆知識の出典は水木しげる著「コミック昭和史」「神秘家水木しげる伝」に拠る。
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掲示板
423 ななしのよっしん
2024/05/26(日) 21:05:34 ID: 46BU4Q5NmC
>>416
『水木しげる伝』の中に、まだ戦前の学生時代に
テストがわからなくて答案に「アーメン」とだけ書いて
呼び出されてアーメンとはどういうことだと聞かれて
すらすらと答えたら落された、という話が載っている
博物学の答案が長すぎてやっぱり落されたという話もある
勉強はできなかった、と繰り返されてるけど、明らかに読書量が多かったことは節々の描写にあるし
この頃すでに人文や民族学については尋常でない博識だったようだ
424 ななしのよっしん
2024/08/11(日) 20:31:36 ID: OmQqVFaO5V
425 ななしのよっしん
2024/09/15(日) 20:39:20 ID: vYBoYxMaKS
まんだらけ「史上最大の発見」水木しげる、デビュー前に描いた幻の紙芝居が550万円で落札ーー歴史的意義
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最終更新:2025/01/20(月) 08:00
最終更新:2025/01/20(月) 08:00
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