若竹(駆逐艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した若竹型二等駆逐艦1番艦である。1922年9月30日竣工。1944年3月30日、パラオ大空襲から脱出する際に沖合いで直撃弾4発を受けて沈没した。
艦名の若竹は今年生えた竹、あるいは生長して勢いのある竹を意味する。
大日本帝國海軍はアメリカを仮想敵に定め、1911年に排水量1000トンを超える海風型駆逐艦を就役させた。しかし予算不足の問題から海風型の大量生産は行えなかったため、代わりに安価で小型な二等駆逐艦を量産して戦力の穴埋めをしようと考え、桜型、樺型、桃型、楢型が続々と建造された。
1918年から始まった八六艦隊案にて二等駆逐艦16隻の建造が決まり、最初の3隻は樅(もみ)型駆逐艦として就役。しかし樅型には復元力不足の問題があり、その影響で高速旋回時に船体傾斜が大きくなってしまうため、帝國海軍は樅型に改良を加えた若竹型を新たに設計し、残り13隻の枠を全て若竹型で埋める事に決定した。樅型は峯風型をベースにしていたので若竹型は神風型をベースにし、船体幅を15cm、喫水を10cm拡張して復元力不足を解決、その代償に速力が0.5ノット低下した。艦橋前側面には銅系金属製固定ブルワークを設置。全幅と喫水以外は樅型との違いが殆ど無く、樅型に採用された重油専焼缶も引き続き搭載している事から準同型艦と見なされる。若竹型は駆逐艦ではあるものの小型で艦隊随伴には向かず、その代わり喫水が浅い事から中国沿岸や河川での作戦に適していた。
計画では23隻生産されるはずだったがワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、単艦での戦闘能力が低い二等駆逐艦の建造が打ち切られ、8隻のみが就役した。ちなみに若竹型は帝國海軍が最後に建造した二等駆逐艦である。
要目は排水量820トン、全長88.4m、全幅8.1m、出力2万1500馬力、最大速力35.5ノット、航続距離は14ノットで3000海里。乗組員110名。兵装は45口径12cm単装砲3門、6.5mm単装機銃2丁、53cm二連装水上発射管2基。
1921年10月12日、達第190号により第2駆逐艦と命名され、12月13日に桔梗の仮称で川崎重工神戸造船所で起工。八八艦隊計画による大建艦計画により、艦名不足が心配されたため、神風型ともども艦名を番号に変えられる事になり、1922年7月24日の進水式に第2号型駆逐艦級第2駆逐艦という名前を与えられた。7月29日に艤装員事務所を設置し、そして9月30日に竣工を果たす。10月7日に佐世保鎮守府へ編入。
1924年4月24日に第2号駆逐艦へと改名。無味乾燥な艦名は乗組員から大変不評だった上、通信する際に混乱の原因となったため忌み嫌われたという。だが、ワシントン海軍軍縮条約により八八艦隊計画が中止、これに伴って艦名不足も無くなり、1928年8月1日に第2号型駆逐艦は若竹型の固有艦名に改名。若竹型駆逐艦1番艦若竹となった。
1932年12月3日、若竹、呉竹、早苗、早蕨の4隻は馬公に向かうべく呉を出発。ところが12月5日、基隆北方にて暴風雨に遭遇し、早蕨の煙突内に高波が入り込んで機関停止に陥った事で転覆してしまう。同行していた若竹たち3隻の他、軽巡五十鈴と北上も出動して救助活動を行ったが、助かったのは120名中14名に過ぎなかった。
1933年4月29日午前6時10分、上海外港ウースン沖で停泊中に前部12cm砲弾薬庫内に浸水が発生。直ちに調査したところ艦底部全てが満水状態という非常に危険な状態に陥っていた。すぐさま総員を防水及び排水作業に当たらせ、汚水放射器まで投じて午前11時20分に浸水を完全に食い止めた。9月頃、厦門港の偵察を実施し、埋立桟橋や石油桟橋の追加等が行われて内港の情況が現用図と大きく異なっていると報告している。
1935年11月15日、若竹、呉竹、早苗からなる第13駆逐隊と第16駆逐隊は軽巡洋艦夕張を旗艦とした第5水雷戦隊を新編。11月18日に夕張に率いられて馬公を出発、上海沖で哨戒任務に就く。
1937年8月13日の第二次上海事変をきっかけに日中は本格的な武力衝突へと発展(日華事変)。地上の陸軍部隊を支援するため南支方面で馬公警備府の協力を得ながら各種作戦に従事する。
8月17日より福州在住邦人の引き揚げが始まり、まず最初に長沙丸、盛京丸、大球丸の3隻が婦女子を基隆へ移送、続いて8月20日午前、邦人を収容して福州を出発する大球丸を若竹が護衛して基隆まで護送し、引き揚げ任務を見事完了させた。8月25日に第3艦隊の長谷川長官が揚子江から汕頭までの海上封鎖を宣言した以降は福州近海の監視任務も付随。
9月12日、若竹は早苗と海上封鎖任務に従事中、大亜湾排牙山東方に野砲3門からなる有力な砲兵陣地と中国国民党軍兵数十名を発見して砲撃(若竹19発、早苗31発)、野砲1門を破壊するとともに弾薬庫を爆発炎上させる戦果を挙げた。続いて陸戦隊を揚陸させて1門を鹵獲し、残りの野砲や弾薬を破壊海中投棄して無力化、その後は平海湾欽街にある広東海軍特設無電台に各艦10発ずつ砲弾を撃ち込んだ。
10月20日に支那方面艦隊が新編。若竹が所属する第5水雷戦隊は第2監視部隊に部署し、漁山群島南端以降の中国沿岸の海上封鎖と国民党軍の通信施設の破壊に従事する。10月23日、上海で戦う陸軍を支援するため杭州へ増援を上陸させて国民党軍の背後を突くH作戦が発動、第5水雷戦隊は上陸支援に回り、無事作戦成功させて第二次上海事変の勝利を決定付けた。
12月7日、南支作戦ことA作戦の発動。この作戦には第5水雷戦隊の参加も決定していた。陸海軍間で協定を結んで大規模な上陸作戦を決行する予定であったが、12月12日にパナイ号事件が発生してアメリカの対日感情が悪化、これ以上の上陸作戦は米英に更なる刺激を与えるとして12月22日にA作戦の中止が決まった。
1938年12月1日に第4予備艦となり、呉工廠で復元性能の強化と強度性能の改善工事を受ける。安定性を向上させる目的で追加のバラストを積載した。
1940年11月15日の戦時編制で第13駆逐隊は呉防備戦隊に部署。1941年1月15日に内令第31号で警備艦兼練習駆逐艦となって潜水学校の教務に協力。3月5日から5月26日にかけて磁気機雷対策のため舷外電路の装着工事を受け、9月3日から6日まで、壱岐水道で沈没事故を起こした伊61の救難作業に参加する。
1941年12月8日に大東亜戦争が開戦。内地で運命の開戦を迎えた若竹は豊後水道、瀬戸内海、九州西部沖で対潜掃討に従事し、真珠湾攻撃から帰投する南雲機動部隊のための道を整えた。樅型の多くが哨戒艇へ格下げとなる中、若竹型は駆逐艦籍に留まり続けて価値を維持し続けていたが、さすがに旧式の二等駆逐艦という事で後方での船団護衛が主な任務であった。
12月20日、特設輸送船国津丸と洛東丸を護衛して呉を出港し、翌日佐多岬沖で特設水上機母艦香久丸や特設砲艦香港丸が合流して船団の護衛を行い、12月25日に香久丸及び香港丸と分離、12月28日にパラオへ入港した。
1942年3月26日13時、陸軍徴用船元山丸、ぼすとん丸、東祥丸、錫蘭丸、鳥羽丸、安島丸、東洋丸、天昭丸、関西丸を護衛して六連を出港、台湾方面に向かう。3月28日午前3時45分に安島丸が敵潜から雷撃を受けた(イルカを誤認しただけで損傷無し)。
緒戦の連戦連勝の結果、シーレーンが東南アジア方面や内南洋方面にまで拡大され、鎮守府や警備府の持つ防備戦隊ではカバーし切れなくなってきた。これを受けて帝國海軍は4月10日、占領した東南アジアの資源地帯と日本本土を往来する輸送船団を護衛すべく新設された専門部隊、南西方面艦隊第1海上護衛隊の指揮下に第13駆逐隊が編入される。内地・台湾、台湾・マレー・マカッサル間のシーレーンが護衛対象であった。
しかし、連合艦隊は護衛任務に艦艇を貸してくれなかったため、海上護衛隊には旧式駆逐艦10隻、水雷艇2隻、特設艦船6隻しかなく、慢性的な戦力不足に悩まされていた。四方八方から若竹たちを求める声に応えるべく、やむなく勢力圏内を縦横無尽に駆け回ってハードスケジュールをこなす事になる。
4月19日午前8時、若竹、呉竹、刈萱、芙蓉、特設巡洋艦浮島丸が呉を出港、翌日17時30分に船団が待つ六連島に到着。4月25日正午に輸送船6隻からなる第103船団を護衛して六連を出発、4月30日午後12時30分に馬公へ到着し、すぐさま5月2日正午、輸送船7隻で編成された第203船団を護衛して出発、5月6日16時に六連へ帰投した。以降、第13駆逐隊は六連と馬公を往来する船団護衛に従事し続ける。
六連・馬公間は2日おきに船団が出発するので休む暇など全く無かった。深刻な戦力不足のせいで船団1つにつき1隻の護衛艦艇しか付けられなかったのだから。5月に入ると東南アジアの産油地帯が戦火から復旧して往来する船舶が更に増加し、数少ない護衛艦艇は南行きの船団護衛が終わると、そのまま北行きの船団護衛に就くという、ブラック企業も真っ青なフル稼働状態となった。フル稼働してもなお数の不足は補え切れず護衛の無い船団も出始める。
5月15日に第113船団を護衛して出港。5月16日午前5時35分、五島列島白瀬灯台沖11海里を航行中、若竹が左4000m先に潜望鏡を発見し、爆雷攻撃を行っている。5月19日に陸軍徴用船中華丸が解列、翌20日に目的地の馬公に入港した。帰路は第213船団を護衛して六連に帰投。6月3日から行われた特船団とA船団護衛任務ではマニラにまで足を伸ばしている。この頃はまだ米潜水艦の出現も少なく、平穏な護衛任務で占められていた。
7月23日に第141船団を護衛して六連を出発、7月25日に浮遊機雷を発見してこれを処分し、7月28日に馬公へ入港。
8月に入る頃から南方占領地域の復旧が進んで内地輸送量が急激に増加、またソロモン戦線が形成された事で陸軍部隊の作戦輸送という加重を招き、5月以上の船舶数が輸送任務に励んでいた。開戦からずっと低調だった米潜水艦の脅威もレーダーの活用や群狼戦法の採用等の要因で増大したため、護衛艦艇の需要は凌雲の如く高騰し続けたが、海防艦の計画的量産が遅かった事もあり、開戦から1年を迎えても新造艦は1隻も就役しなかった。よって若竹たちは老体に鞭打って敵潜の脅威に曝されながら過酷な護衛任務を続ける羽目になる。
9月15日午前1時13分、台湾海峡で反航の勝鬨丸と駆逐艦文月が正面衝突し、文月の艦首が圧壊して大破する事故が発生。救難のため若竹は馬公を出発し、翌16日午前9時15分、文月と合流・護送して18時に馬公へ到着した。
9月17日16時に輸送船4隻からなる第263船団を護衛して出発、9月23日正午に六連に帰投し、福海丸は釜山に向かうため単独で離脱していった。9月26日16時、水雷艇隼とともに輸送船5隻で編成された第167船団を護衛して出発、10月1日午前6時に馬公へ到着する。帰路に第271船団を護衛して10月8日13時に六連へ帰投。間もなく呉に移動して入渠整備を受ける。
敵潜水艦の出現及び襲撃回数の増加に伴い、第1海上護衛隊司令部から駆逐艦長宛てに直接指令を発する事が多くなった一方、海上にある駆逐隊司令は護衛隊司令部からの情報が入らないため入手情報の少なく、また司令部と艦長との間に司令官が挟まると却って作戦行動が遅れがちになるため、司令官が駆逐艦を指揮する機会が少なくなった。そこで艦長と司令官の共通認識のもと、駆逐隊を解散して単独駆逐艦にするよう司令部に意見具申を行い、12月10日の内令第2268号で第13駆逐隊が解隊。第1海上護衛隊に直属して北護衛隊に部署する。
2月13日15時10分、7隻の輸送船で構成された第127船団を護衛して門司を出港、2月17日15時に馬公へ到着した時に白鹿丸が基隆回航の目的で離脱し、残りは高雄へ移動、2月22日午前10時に第372船団を護衛して出発する。今回は本土方面ではなくそのまま南西方面に進み、2月28日にインドシナのサンジャックへと寄港した。
3月5日14時に第563号船団と一緒に出港、3月8日15時54分に初めてシンガポールに入港し、しばらく同地を拠点に任務を遂行する。3月15日午前8時に第674船団を護衛して出発、サンジャック、馬公、高雄を巡り、4月5日13時に第744船団とマニラへ入港。3月26日に東護衛隊へ転属して作戦海域を東南アジア方面に移動させる。
ここで若竹は単独行動に移り、4月7日15時に1隻でマニラを出発、道中の4月9日20時39分、バルタサル島灯台17海里沖で敵潜水艦を発見して爆雷を投下し、4月12日17時50分から翌13日午前9時45分までダバオに寄港した後、4月15日正午にパラオへ入港。翌日16時、日州丸、大友丸、西山丸、朝霞丸、天翔丸からなるマニラ行きの第3204船団を護衛して出発した。4月20日午前8時、チカオ水道の対潜掃討を行うに伴い船団をレガスピーに退避させ、翌21日午前10時9分に会同、4月23日午前10時に無事マニラ到着。
8月23日、イタリアの特設巡洋艦カリテヤを給糧艦として運用するべく門司から神戸へ回航される事になり道中を若竹が護衛、翌日神戸に到着した。その後は9月14日まで整備を行う。
9月17日14時、10隻で編成された第198船団を護衛して門司を出港、9月25日午前9時40分に高雄へ寄港し、姉妹艦朝顔を加えて9月28日18時に第771船団とともに出発。マニラとタラカンを経由してバリクパパンに寄港し、10月18日午前8時に燃料を満載した第2609船団を護衛して出発。10月21日午前10時、輸送船乾山丸と大丸、第41号駆潜艇がメナドに向かうため分離、その1時間後に栄光丸が機関故障を訴えて船団から落伍したため若竹が付き添い、午後12時30分に船団へ復帰した。
10月22日午前8時30分に千光丸が船団より分離。そして10月25日21時20分、パラオに到着。10月29日正午から翌31日午前7時30分までパラオ沖で対潜掃討任務に従事する。10月31日午前10時、第2512船団を護衛してパラオ出港、11月5日午前8時にバリクパパンへ到着した後、11月11日に第2警備部隊電令作第184号を受け、第4号及び第5号駆潜艇とともに一時的に護衛を離脱して対潜掃討を実施。11月14日午前8時に第2611船団と出発してパラオ方面に向かう。
1943年中期から増大してきた船舶被害を抑えるべく11月15日に大本営直轄の海上護衛総司令部が新設。連合艦隊と同格であり、シーレーン防衛と対潜作戦を指揮すべく海上護衛隊、各鎮守府、各警備府を統括して指揮系統を一本化、戦力は海防艦18隻、旧式駆逐艦15隻、水雷艇7隻、特設砲艦4隻、駆潜艇13隻、掃海艇12隻、哨戒艇4隻、特設掃海艇22隻に及ぶ。ところがシーレーン防衛に使える航洋艦は特設砲艦以上の44隻しかなく相変わらず戦力不足に悩んだ。新たに建造された海防艦が少しずつ増えてきたものの、それ以上に海防艦、駆潜艇、旧式駆逐艦の喪失数が多く、満足に至るものではなかった。
11月16日21時、敵潜水艦追跡のため護衛を離脱し、翌日午前7時に船団護衛に復帰。その後は何事もなく11月20日正午にパラオへ到着した。1943年末までに早苗、若宮、沼風、芙蓉の4隻を喪失し、第1海上護衛隊は1割強の兵力を失った。ただでさえカツカツな護衛体制に風穴を開けられた格好となる。
1944年1月7日朝、パラワン島沖で第三伏見丸と第二小倉丸からなる第2602船団を護衛中、米潜キングフィッシュに発見されて追跡を受ける。23時50分、浮上中のキングフィッシュが4本の魚雷を発射し、このうち2本が第三伏見丸に命中して沈没(若竹の存在には気付いていなかった)。敵襲を受けて急遽近くにいた第46号駆潜艇が応援に駆け付けたが敵潜には逃げられた。
1月10日午前7時、若竹は護衛から離脱して単独でマニラに向かい、1月11日午前10時5分に到着。相次ぐ米潜水艦の侵入によりセレベス海も安全とは言えなくなりつつあった。1月13日15時、7隻からなる第3102船団を護衛して出港、1月20日15時にミリへ到着したのち船団の再編成を行い、翌日正午にタンカー4隻からなる第3202船団とともに出発。1月22日午後、ラブアン島沖で米潜水艦ティノーサに捕捉され、17時36分、ティノーサから雷撃を受けて海軍配当船青南丸と廣進丸が沈没。ティノーサは貪欲に戦果を拡大させるべく浮上、三度に渡って魚雷3本、計9本を発射して第3202船団に集中攻撃を加える一方、17時47分より若竹も爆雷17発を投下して反撃している。これ以上の敵襲を避けるため第3202船団は1月23日にラブアン島沖へ退避し、1月26日にミリから出港してきた第3203船団と合流。規模を大きくして1月31日13時にマニラへ到着した。1月中の船舶喪失数は30万トン、先月の18万トンから飛躍的に増加した。
2月2日午前8時、さんぱうろ丸と輸送船2隻で構成されたマタ01船団を護衛して出港、2月4日13時に高雄へ到着し、今度は2月9日午前8時にタモ02船団を護衛して出港する。2月12日午前、徳之島沖を航行中に米潜水艦タンバーに発見され、20時55分に魚雷3本の発射を受けて崙山丸が沈没。23時から若竹が対潜掃討を行ったが、タンバーは魚雷が命中するより先に潜航退避していたため効果は得られなかった。犠牲を出しながらもタモ03船団は2月17日午前10時30分に門司へ到着。若竹は下関海峡を進んで同日17時に呉へ入港し、工廠にて電波探知機、水中聴音機、25mm連装機銃4基、同単装機銃2基を装備する。2月中の船舶喪失数はトラック島空襲もあり50万トンに達した。
関東軍の一部をマリアナ諸島やカロリン諸島の防衛に充てるためパラオ行きの松江丸、はんぶるぐ丸、忠洋丸に陸軍部隊と軍需物資を積載、また敵潜水艦の跳梁に対抗するべく大船団方式を取り入れ、サイゴン等その他方面に向かう12隻の輸送船とモタ09船団を合体させた西松2号船団を編成。3月8日、西松第2号船団を護衛して六連を出港、3月10日に第38号哨戒艇が護衛に加わった。翌朝、忠洋丸が機関不調で落伍。第38号哨戒艇が捜索したが発見出来ないまま船団と合流している。3月13日18時44分、中国沖にて第38号哨戒艇が敵潜水艦を探知し、爆雷50個を投下して撃退に成功。3月14日午前11時38分にも台湾海峡で敵潜水艦の接触を受けたが、攻撃される前に18時30分に馬公へ逃げ込めた。高雄へ移動した後に船団の再編成が行われ、松江丸、はんぶるぐ丸、忠洋丸の3隻で新たにタパ06船団を編成。
3月20日午前10時、タパ06船団を敷設艇前島、第38号哨戒艇と護衛して高雄を出発。3月26日午後、激しいスコールの中を航行中、米潜水艦タリビーにレーダー探知されて追跡を受ける。豪雨による視界不良や威嚇用の爆雷投下に苦しみながらも三度目の接近でようやく雷撃ポジションに付き、タリビーは2本の魚雷を発射するが、このうち1本が弧を描いて戻ってきて自滅。突然起こった爆発に船団は攻撃を受けたと勘違いして海面に機銃掃射が行われた。奇跡的に助かった砲手のクリフォード・ウェルドン・カイケンダール二等兵曹を若竹が救助し、「捕虜アリ」と信号を掲げると輸送船に便乗していた陸軍部隊から喝采を浴びたという。3月27日14時40分、無事パラオへ到着。
アメリカ軍はニューギニアのホーランジアを円滑に攻略するため、パラオに集結中の連合艦隊の無力化を狙ったディセクレイト・ワン作戦を発動。3月22日に米第58任務部隊がメジェロ環礁を出撃した。
3月27日午前9時30分、メレヨンを飛び立った日本軍索敵機がウェワク沖で空母2隻、巡洋艦及び駆逐艦10隻以上からなる敵艦隊を発見、更に翌28日午前9時30分にはブカ島北端西方にて空母2隻、戦艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船10隻以上が北上しているのが発見され、15時30分に南雲中将はパラオとメレヨン方面の空襲を予期して警戒を厳重にするよう命じた。泊地内で停泊中の船団に対して第30根拠地隊は緊急出港させようとし、3月29日14時45分、若竹が護衛するパタ07船団(五洲丸、あけぼの丸、東興丸、雷山丸、吉備丸、てしほ丸、北泰丸)に高雄への出発を命じた。同日17時頃、戦艦武蔵を基幹とした艦隊はパラオを脱出して北西に移動。続いて17時50分に若竹の出港準備が整い、同じく出港準備が終わった輸送船4隻とともに西水道へ向けて出発するが、残りの輸送船は準備の遅れから今日中の出発には間に合わず明朝出発を命じられ、18時40分に泊地内へ戻らざるを得なくなった。その後、五洲丸で船団会議を開いて翌日午前5時に出港予定と定めた。
3月30日午前5時、若竹は第31号哨戒艇、第26号駆潜艇とともにパタ07船団を護衛してパラオを出港。しかし午前5時50分、パラオ沖3kmで米第58.1任務部隊の敵艦上機に発見され、猛攻を受ける。直ちにパタ07船団は分散して敵機の魔手から逃れようと試み、若竹も爆弾を回避しながら対空射撃で応戦するが、まさに多勢に無勢。瞬く間に直撃弾4発を受けて15秒以内に沈没。田中艦長や近藤砲術長を含む乗組員多数が戦死した。分散した船団も逃げ切れずに2日以内に全滅している。
1944年5月10日除籍。若竹は姉妹艦の中で唯一航空攻撃で失われた艦となった。
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最終更新:2025/12/16(火) 11:00
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