吉田義男(よしだ よしお、1933年7月26日-)とは、京都府出身の元プロ野球選手である。
阪神タイガースの永久欠番選手(23)であり、阪神タイガースの監督としてはただ一人3度の監督を務め、阪神の監督で初めて日本一を達成した人物である。
現役時代はその華麗な守備から「牛若丸」の異名で呼ばれた。また1990年~1995年にはフランスの代表監督も務め、フランスでの野球の普及に大きく貢献した。
阪神タイガース #23 | |
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吉田義男 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府京都市中京区 |
生年月日 | 1933年7月26日 |
身長 体重 |
167cm 56kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 遊撃手 |
プロ入り | 1953年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 |
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プロ野球選手テンプレート |
幼少時代は食糧難で、両親のほかに吉田の兄一人・姉二人・妹一人と大所帯だったため非常にひもじい生活を送っていた。
野球は中学時代に始め、兄とともに野球に夢中になった吉田は勉強もあまりせず、父には大変怒られた。
山城高等学校進学後も兄と共に野球を楽しんでいたが、高校一年の年に父と母が相次いで亡くなる不幸に見舞われ、家計のために吉田は野球をあきらめようとするが、母の「好きなことをやりなさい」という遺言と、兄の「おまえは野球を続けろ」という言葉を受け、吉田は引き続き高校に在学し遊撃手のレギュラーとして甲子園にも出場した。
高校卒業後は立命館大学に授業料免除という好条件を提示されたため入学を決意、また入学前の東京遠征に同行した際はのちのライバルである早大の広岡達朗とも出会っている。
立命館大学では1年目から四年生を押しのけ遊撃手のレギュラーとなるが、1952年10月から阪神の阪神の青木一三スカウトの猛アタックを受け、当初はそれほど乗り気ではなかった吉田だが、スカウトの「藤村富美男さんも金田正泰さんも君ならプロで十分やっていけると言っている。」・「親会社阪神電鉄があるから野球もやめても食いはぐれない。」という殺し文句を受け、吉田は大学を中退して阪神に入団することを決意。実は前者は全くのウソで、藤村・金田の両者は最初に吉田を見たとき、その細い体つきから新しいマネージャーだと思ったらしい。ともあれ吉田は1953年に阪神と契約金50万・月給3万で契約、この年の同期には小山正明・三宅秀史らがいた。
入団後初めてのキャンプで吉田は、阪神の監督でありノックの名手でもあった松木謙治郎と臨時コーチであった岡田源三郎に徹底的に鍛えられ、当時の正遊撃手が肩を痛めたこともあって新人ながら守備範囲の広さを買われてレギュラーに抜擢される。しかしながら吉田は遊撃という重要なポジションを任されながらもエラーを連発し、度々投手や当時慣れない一塁を守っていた藤村富美男を怒らせたが、監督の松木は「人は失敗して覚える」という考えの元、吉田を辛抱強く使い続けた。結局プロ1年目の1953年は38もの失策を記録、2年目の1954年も51盗塁で盗塁王を獲得する活躍を見せるが失策も30を数えた。
1955年、遊撃でエラーをしないように吉田は常にボールとグラブを持ち歩き、ボールをグラブにぶつける動作を何度も何度も繰り返して守備を改善、またこの練習で手首が鍛えられたためか、打撃も147安打でリーグ最多安打を記録。オフには来日したニューヨーク・ヤンキースとの日米野球のメンバーに選ばれ、1分15敗というフルボッコな結果に終わるものの、二塁のビリー・マーチンや遊撃のギル・マクドナルドのプレーに目を奪われたという。
1957年には24歳で結婚し、1959年には天覧試合に出場するなどすっかり阪神に欠かせない選手となっていった。
1960年は初めて打率が.250を切ったため、大徳寺という寺でのちに終生の師と仰ぐ盛永宗興師の下で修業に励み、何があっても集中してやり通す、いわゆる「徹する」ことが大事と教わり、打率が.228とさらに低下した1961年には、自宅に練習場所を作り、近所の人にトスをしてもらうという形で練習を重ねた。
その猛練習が功を奏したのか、1962年は打率を.261まで引き上げて阪神の初優勝に貢献した。
1964年には打率.318と生涯唯一のシーズン三割を記録した他、179打席連続無三振という当時の記録を打ち立て、またもや優勝を経験した。
1966年に藤田平が入団すると状況は一変、1966年こそレギュラーは死守したが、1967年には遊撃手の座を藤田に奪われて二塁にコンバートされる。
慣れない二塁守備に苦戦した他、年齢による衰えもあり、結局吉田は1969年限りでに現役を引退した。
引退後は解説者を経て、75年に阪神の監督に就任、キャンプでは自らノックを行い選手たちを鍛え上げ、当時19歳だった掛布雅之を三塁のレギュラーに抜擢し、広島から安仁屋宗八、かつてロッテに所属していたアルトマンを獲得。
シーズンでは田淵幸一が43本塁打を放って本塁打王を、安仁屋が66試合に登板して12勝5敗7セーブ、防御率1.91の活躍でカムバック賞を獲得し、広島・中日と激しい優勝争いを繰り広げるが9月半ばで広島に離され3位に終わった。
1976年1月、吉田はチームのエースであった江夏豊を南海に放出するという思い切ったトレードを実行する。
これは江夏が不摂生な生活を続けたことで患った心臓疾患や、長年の勤続疲労により発症した血行障害により今までのような活躍を期待できなくなったほか、もともと江夏自身が一匹狼のような性格で度々首脳陣などと対立することがあったためである。
吉田は南海の監督であった野村克也に「江夏いりまへんか?」と持掛け、阪神側が江夏豊・望月充、南海側が江本孟紀・島野育夫・長谷川勉・池内豊という2対4のトレードが決定。
しかし吉田は球団から「監督は知らないことにしておいたほうがいい。」という方針に従い、何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通したため、結果的にマスコミ及び江夏との間に大きな亀裂を作ってしまった。
この年は新たに助っ人としてラインバック・ブリーデンを獲得して打線を強化し、前年本塁打王の田淵、三塁のレギュラーに定着した掛布が打ちまくり、チーム総計で193本の本塁打を放つが、張本勲などを獲得した巨人に僅差で敗れ2位となった。
また、守備に衰えが見えてきた田淵の起用の問題で対立したヘッドコーチの辻佳紀が退団し、その後の辻の暴露が原因でますますマスコミに吉田は叩かれる羽目になる。
1977年は前年同様チームは総本塁打数で一位を記録するが、総得点は最下位と繋がりにかけ、投手陣も振るわずに4位となり吉田はこの年でいったん監督を退任する。
吉田が再び阪神の監督に就任するのは1985年、前年4位で退任した安藤統夫の後を受け、大洋から首位打者を獲得したこともある長崎啓二を獲得、守備の問題から解雇されそうになっていたランディ・バースを「絶対に必要な戦力」として残留させ、外野に回っていた岡田彰布を二塁に、替わって二塁・遊撃を守っていた真弓明信を外野にコンバートしてセンターラインの強化を図り、捕手は木戸克彦を固定して主戦捕手への育成を考えた。
シーズンが始まると3番ランディ・バース・4番掛布雅之・5番岡田彰布のクリーンナップが爆発、4月17日の巨人戦では槙原から「バックスクリーン三連発」が飛び出し、その後の原・クロマティのホームランなどでピンチを迎えるも前年あまり登板機会が無かった中西清起が後続を抑え6-5で勝利。
この試合をきっかけに1番真弓明信・2番弘田澄男・3番ランディ・バース・4番掛布雅之・5番岡田彰布・6番佐野仙好・7番平田勝男・8番木戸克彦の強力打線は止まらなくなり、投手陣も先発のゲイル・池田親興・中田良弘は打たれ気味ではあったが、中継ぎの福間納やこの年11勝19セーブの成績を残した中西清起、終盤でアキレス腱断裂で離脱するものの5勝11セーブの活躍を見せた山本和行のダブルストッパーの奮闘により、巨人・広島との激しい首位争いを繰り広げ、9月には広島・巨人が急降下する中阪神は13勝5敗1引で突き離し、引き分けでも優勝が決まる10月16日のヤクルト戦ではスタンドが黄色一色に染まる中、阪神は2点リードで迎えた6回の裏にヤクルトの猛攻を受け一気に4点を取られるが、9回に掛布雅之が尾花高夫か2ランを放ち同点に追いつくと、10回裏は中西が抑え、時間切れ引き分けと阪神の優勝が決定する。
優勝が決まると吉田は阪神ナインに胴上げされ、掛布・川藤・バースがこれに続いた。
関西テレビの視聴率は50%を超え、瞬間では75%近い数字を叩きだしたほど、全国の阪神ファンは実に21年ぶりとなるタイガースの優勝に酔いしれた。なお優勝が決まった日、カーネル・サンダースの人形は「バースに似ているから」という理由で川に投げ込まれてしまった。
終わってみればこの年の阪神はリーグ1位の219本塁打731得点と圧倒的な打撃力を見せたほか、犠打数でも141と当時のリーグ記録も作っており、意外と手堅い野球でもあった(ただしのちにバースはこのバント戦術をあまりにも単純と批判している)。
当然打者一人一人の成績も圧倒的で、特に3番のバースは打率.350、54本塁打、134打点という成績でリーグ三冠王を達成、4番の掛布は打率.300、40本塁打、108打点とバースには見劣りするがそれでも4番として文句なしの結果を残し、5番の岡田は打率.342、35本塁打、101打点とこの年謎の確変で自己最高成績を収めた。
日本シリーズでは現役時代、同じく遊撃手のポジションを守っていた広岡達朗率いる西武と対決、しかしここでもシーズンで活躍した打線が爆発、1戦目はバースがリリーフ登板した工藤公康から3ランを放ち、先発の池田が9回を完封して3-0で勝利、2戦目もバースが先制された後の4回に逆転2ランを放ち、投手陣もゲイル・福間・中西とつなぎ序盤の1失点だけに抑え2-1で勝利、3戦目は先発の中田が打ち込まれ4-6で敗戦、4戦目も2-2の同点で迎えた9回表に福間が西岡良洋の2ランで勝ち越され2-4で敗戦、5戦目はここまで本塁打なしだった掛布が初回に3ランを放ち、5回には長崎啓二の2ランでリードを広げ、福間・中西のリリーフ陣がリードを守りきり7-2で勝利、6戦目は初回に長崎がいきなり満塁ホームランを叩きこむと、2回に真弓、9回には掛布もホームランを放ち、先発のゲイルは9回を3失点に抑え、結局9-3で完投勝利を挙げる。
こうして阪神は西武も粉砕して初めての日本一を達成、最優秀選手は文句なしでバースが選ばれた。
この年以降阪神は優勝はあっても日本一になったことは2023年まで実に38年間なかったため、吉田は長らく阪神で唯一の日本一を達成した監督だった。なお2023年に日本一を達成した監督は、この時選手として戦っていた岡田彰布である。
1986年は開幕4連敗とスタートダッシュに失敗し、4月20日には4番打者である掛布が死球を受け負傷離脱、5月には復帰したものの前年のような力強い打撃は見る影もなくなり、そのほかの打者も2年連続で三冠王を獲得したバース以外は軒並み成績が低下。
投手陣は前年同様リリーフの山本・中西が奮闘したが、先発陣は前年よりも成績が悪化し、新人の遠山昭治や若手の仲田幸司らがかろうじて穴を埋める程度の活躍で、広島・巨人の優勝争いには全く食い込めず3位に終わった。
1987年は前年同様打線が湿り続けただけでなく投手陣も崩壊が始まり、4月から連敗を重ね続け8連敗を含む4連敗以上を計10回も記録。最終成績は41勝83敗6分とぶっちぎりで最下位に転落し、吉田はマスコミ・ファンの非難の的となり、マスコミには自身の発言を悪意のある表現に捏造され、心無いファンには自宅にいる吉田の妻に電話で罵詈雑言を浴びせられるなど、仮にも阪神を日本一に導いた監督とは思えない仕打ちを受け続けることになる。
結局吉田はこの年に監督を辞任、球団は吉田に功労金を渡し、背番号23を永久欠番にするなどして報いるが、吉田の心やプライドは数々の批判・中傷・嫌がらせなどでズタズタにされ、吉田はしばらく野球への情熱を失ってしまった。
2度目の監督を退任してしばらくはプロ野球を避けるかのように吉田は妻を連れて世界旅行やゴルフ三昧の日々を送っていたが、数年前に知り合った日立フランスの社長である浦田良一に「フランスの野球を見に来てほしい」と誘いを受け、吉田は旅行気分でパリを訪れる。パリで吉田は浦田によってフランスの野球連盟に招かれ、コーチをしてくれないかと頼まれるが、吉田は返事を一旦保留し、日本に帰国時に盛永宗興師に相談すると「野球しかないなら野球をやりなさい」と諭され、吉田はフランスに渡ることを決意する。
当初はPUCという野球好きが集まって構成されたいわゆるクラブチームの指導を任されるが、穴ぼこだらけで夜間用の照明もないグラウンド、見本となるプロ選手などがいないため間違いが多い練習、ボールなどの道具もまともにそろっていないという状況だったため、吉田は自らバットとグローブの調達に動いたほか、かつて監督時代に投手コーチとして吉田の元にいた新山彰忠に協力を仰ぎ、89年6月から指導を開始する。
吉田は捕球の仕方、ゲッツーの取り方などの基本的な技術を何度も何度も教え込み、新山は投手の指導兼任打撃投手という役割でそれぞれ選手を指導、二人の指導が実ったのかフランスはヨーロッパ・クラブカップで優勝(ただしBクラスの大会なので強豪のイタリアやオランダは参加していない)、吉田も試合を重ねるごとにどんどん試合にのめりこみ野球への情熱を取り戻していった。
その指導力がフランスの野球連盟にも認められると、吉田はオリンピックの出場を目的としたフランスのナショナルチームのコーチも頼まれるようになり、ヨーロッパ選手権にも同行、しかしフランスチームは吉田と新山の指導でいきなり強くなれるわけでもなく、スペインやイタリアに大敗し5位に終わった。
1990年、この年からPUCおよびナショナルチームの監督も務めることになった吉田は、まずPUCのクラブカップに向けた指導を大阪産業大学に就職しながらも手伝いに来た新山とともに行い、前年Bクラスで優勝したためこの年からAクラスとしてイタリアやオランダの強豪チームと対決、オランダ・ベルギーには敗れたものの、大会最終日にはイタリアの強豪であるリミニというチームと対戦し11-4という点差で勝利、大会こそ5位だったがそれまでイタリアにいいようにやられてきたフランスの選手達は大喜びし、吉田もいつの間にか一緒に喜んでいた。
8月には新山の就職先である大阪産業大学の選手たちがパリを訪れ交流試合を行い、フランスチームはボコボコにされるが、吉田は日本の野球部の練習風景などを見せられただけでも良いと考えていた。
1991年は日本での仕事が忙しくなる新山に代わり、現役時代三遊間を組んだ三宅秀史に協力を仰ぎ、さらにナショナルチームの面々を日本に呼んで大阪産業大学と合同練習や試合を行ったり甲子園で春の選抜を観戦させてナショナルチームの強化を図り、PUCの監督としてもクラブカップに挑むなど忙しい日々を送る。
6月に行われたインターコンチネンタル大会ではナショナルチームを率いて挑むも散々な結果に終わり、特に日本には1-14とボロ負けだった。
8月のヨーロッパ選手権ではバルセロナ五輪への切符を目指して参戦するが、やはり強豪のイタリアにはかなわず4位に終わっている。(それでも大会史上最高順位なので連盟の人々は喜んでくれたらしい。)
1992年も相変わらずナショナルチームとPUCの監督を兼任という激務に追われながら指導を続け、7月には日本プロ野球殿堂入りを果たし、8月には再び大阪産業大学とナショナルチームの合同練習を行い、その後フロリダの大会では5位だったが主力選手の成長を吉田は感じ取っていた。
1993年はまず4月にPUCの監督としてクラブカップに臨み(結果は4位)、それが終わると今度はナショナルチームの監督としてインターコンチネンタル大会に挑んだ(結果は2年前同様最下位)。
そして7月にはヨーロッパ選手権に出場し、選手たちの成長を確信していた吉田はイタリア・オランダの次である3位を目指して戦うが、3位決定戦ではまさかのスウェーデンに敗れた。
9月には日本から来た高校野球選抜チーム(この中にのちに近鉄にプロ入りする大村直之がいた)と対戦、2試合でいずれも敗れたが吉田はフランスの力をそれまで知らなかった日本に知らしめた。
1994年、この年から吉田はPUCの監督から解放されナショナルチームの監督に専念できるようになり、この年は「打撃の職人」と言われた山内一弘に助っ人を頼み山内はそれを了承、4月に山内はフランスに訪れると自らグラウンドを整備したり、選手たちがもういいというまで指導を続けるなど「教え魔」と言われた山内の指導は止まらず、しかも山内の指導でフランスの選手たちはいい打球が飛び出し始めたため、山内はすっかり心をつかんでしまった。
5月、吉田は8月に行われる世界選手権の初出場を目指して南アフリカとの3回勝負に臨み、1戦目はサヨナラ勝ちで勝利、2戦目は9回に外野の選手が信じられないエラーをしてしまい終始リードしていた展開ながら敗戦、3戦目は9回表にリードを許す苦しい展開となったが、その裏に選手の必死の走塁もあり同点に追いつき、最後はサヨナラ勝ちを収めた。
試合終了の瞬間、選手たちだけではなく吉田と山内も泣きながら手を取り合い一緒になって大騒ぎし、中にはシャンパンを吉田にかける選手もいたほどフランスの人々は大喜びし、めったに来ないフランスのマスコミにも吉田は顔を真っ赤にしながらインタビューを受けた。
しかし直後の6月にアトランタオリンピックのヨーロッパ出場枠は2つに決定したというニュースが飛び込んできたため、現在の戦力でイタリア・オランダに勝てるとは思えなかった吉田はオリンピック出場という目標を果たせそうになくなりショックを受けるが、かつて大徳寺で教わった「徹する」事を思い出した吉田は最後まであきらめずに戦うことを決意する。
ただやはり世界との力の差はまだ大きかったようで8月の世界選手権ではキューバ、台湾、コロンビア、オーストラリアなどの国々に惨敗し、16か国中16位という結果に終わった。
1995年は1月に自宅が阪神大震災の被害を受けた影響で、1か月不自由な生活を送ることを余儀なくされ、さらにこの年もコーチを頼もうと思った山内は阪神のコーチに就任し、新山や三宅も都合がつかなかったため吉田は単身フランスに渡った。
そして7月、この年限りで監督を退任することを決めていた吉田にとって最後の選手権が始まった。
初戦のロシアは11-3で大勝、二戦目は強豪オランダとあたり途中まで8-9と食い下がるが、投手陣の薄さが災いして結局8-15で大敗、三戦目のウクライナは17-5でコールド勝ち、四戦目はスペインと対戦、かつて破ったこともある相手だから勝てるとふんでいた吉田だが、スペインの左投手に点が取れず、投手もそれで緊張したのか手痛い一発を浴びるなど0-4で敗戦、この瞬間オリンピックに出場するという吉田の目標は潰えた。
しかし吉田は試合終了までベンチで声を上げる選手や敗戦の瞬間に泣き出してしまった選手たちを見て改めて選手の成長を実感し、最終戦のドイツ戦では就任当初グダグダだった守備もしっかり締まってきていたことを確認、試合も18-2で大勝した。
この試合をもって吉田はフランス代表監督を退任、この時の縁か2011年にはフランスの野球・ソフトボール連盟から名誉会員に選ばれた。
1996年、フランスから帰った吉田は以前は嫌悪していたマスコミとも普通に話せるようになり、またフランスから連れて帰った選手と日本で練習する日々を送っていた。
そんな中、10月に当時の阪神の球団社長である三好一彦から電話があり、「阪神の監督をやってほしい」という依頼が来る。
当初は断るつもりの吉田だったが、考えるうちに気持ちは揺れ、以前フランスに訪れるべきか悩んだときに盛永宗興師掛けられた「野球しかないなら野球をやりなさい」という言葉を思い出し、三度目の監督就任を決意する。
1997年、吉田は得点力が不足している打線を強化するため、レッドソックスに所属していたマイク・グリーンウェルを3億円超えで獲得し、ドラフトでは一位で今岡誠を指名、また西武からFA宣言していた清原和博の獲得を狙うが、清原は最終的に巨人を選んだため獲得は失敗。
シーズンが始まるとシーズン開始当初は和田豊の開幕24試合連続安打などもあり2位にまで上がるが、すぐに6連敗で調子を落とす。4月末には頼みとしていたグリーンウェルが来日し、初出場試合で決勝打を放つ活躍を見せるがその試合からわずか8日後の巨人戦にて自打球による骨折で戦線を離脱すると、その5日後には「野球を辞めろという神のお告げ」という意味不明な言葉を残して帰国、吉田は「嵐のように来て嵐のように去って行った。まるでつむじ風のような男だった。」とコメントした。
結局この年は5位となり最下位は免れたものの、チーム得点はリーグ最下位、チーム全体で1000三振を記録し(主に新庄と桧山のせい)、盗塁はわずか38盗塁で盗塁王の緒方孝市一人にも及ばぬ数字だった
1998年は前年オフにトレードで獲得した大豊泰昭・矢野輝弘、新人の坪井智哉などを積極的に起用し、投手も川尻哲郎がノーヒットノーランを達成するなど話題を集めたが、前年同様得点力不足は改善には至らず、6月半ばから最下位をさまようこととなった。吉田はこの年で退任するが、ドラフトで獲得した今岡・井川やトレードで獲得した矢野はのちの阪神優勝の原動力となるため、まったく何も残せなかったわけではなかった。
3度目の監督退任後はマスターズリーグの監督(現在は退任)や解説者などで活動している。
幼少期から監督第二期までの吉田は非常に頑固な性格であると言われており、学生時代に教師が不良生徒を更生のために入部させようとすると、部長だった吉田はそれを頑としてはねのけ続けた。また監督時代も自身の経験から選手が多少のミスをしても粘り強く使い続け、力の衰えたベテラン選手も同様の措置を取り続けたため一部のコーチと対立を招いてしまったこともある。(上述の田淵の起用を巡る辻佳紀など)
しかしフランス監督を経験してからはフランスの空気に影響されたのか、笑顔でジョークを言うようになったりと非常に丸い性格になっている。
打撃では打率3割を超えたことは一度しかないが、三振の少ない粘り強い打撃が持ち味であり、球界の大投手である金田正一は吉田を身長が低くストライクゾーンが狭いこともあって苦手としており、吉田は通算本塁打数66本の内金田からはサヨナラを含む8本の本塁打を放っている。
守備はその守備範囲の広さと、捕球から送球までの異常なスピードから「牛若丸」と称され、現役時代は9度のゴールデングラブを受賞しており、三宅秀史・鎌田実と組んだ内野陣は史上最強とも言われる。
,. -‐'''''""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『吉田がボールを捕球したと思ったら次の瞬間にはもう投げていた』
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ |
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ おれも何が起こっているのかわからなかった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ 頭がどうにかなりそうだった…
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \ 井端だとか鳥谷だとか
/ // 广¨´ /' /:::::/´ ̄`ヽ ⌒ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
ノ ' / ノ:::::`ー-、___/:::::// ヽ }
_/`丶 /:::::::::::::::::::::::::: ̄`ー-{:::...イ もっと恐ろしい超一流の守備を味わったぜ…
通算:17年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2007 | 7835 | 6980 | 900 | 1864 | 273 | 70 | 66 | 434 | 350 | 264 | 20 | 498 | 71 | 325 | 144 | .267 | .321 |
通算:8年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1051 | 484 | 511 | 56 | .486 | Aクラス4回、Bクラス4回 |
タイトル | ||
---|---|---|
最多盗塁 | 2回 | 1954年、1956年 |
表彰 | ||
ベストナイン | 9回 | 1955年-1960年、1962年、1964年、1965年 |
オールスターゲームMVP | 1回 | 1956年第1戦 |
日本シリーズ敢闘選手賞 | 1回 | 1962年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 13回 | 1954年-1966年 |
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最終更新:2024/12/27(金) 04:00
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