水木しげる(1922年3月8日~)とは、鳥取県出身の妖怪・漫画家・妖怪研究家である。本名は武良茂(むらしげる)。
「なまけものになりなさい」
大阪府で出生。三人兄弟の次男として生誕するが、両親が故郷鳥取に戻りそこで育つ。この頃から、乳母から妖怪の話を聴かされたことが、後に作風へ影響をするようになる。また幼少期から絵にも興味を持つようになる。
職を転々としていた頃に、大阪で洋画教室に通い絵の基礎を学ぶが、21歳の時に召集令状が届き、1943年にラバウル島へ出征する。途中でマラリアを発病している時に診療所が爆撃に遭い、左腕を切断する程の負傷をするが九死に一生を得て帰国が出来た。
帰国後は日本中を転々としていたが、神戸市にかつてあった「水木荘」というアパートの大家になった時に、紙芝居語り手が水木に紙芝居を依頼して紙芝居作家となり、そこから水木しげると名乗るようになる。が、紙芝居が廃れるようになるとアパートを畳み上京。その後貸本作家に転向するようになるが、かなりの貧乏生活を強いられる。40歳近くになった時に見合いを勧められて、10歳下の飯塚布枝と結婚。後に長女も誕生するが貧乏生活は続いた。1964年に漫画雑誌『ガロ』で漫画家としてデビュー以後は、人気漫画家として成功を収めるようになる。人気作家になって以後は次女が生誕したりと順風満帆になったが、1980年代初期には一時低迷をする。しかし、1985年に『ゲゲゲの鬼太郎』が再アニメ化がされ、人気を取り戻す。故郷の境港市にはゲゲゲの鬼太郎のキャラクターたちのブロンズ像が立ち並ぶ水木しげるロードができるなど漫画家として、また、妖怪研究家としてもその地位を確立し、現在に至る。
代表作としては『ゲゲゲの鬼太郎』、『悪魔くん』、『河童の三平』等がある。特に『ゲゲゲの鬼太郎』と『悪魔くん』は何度もアニメ化やドラマ化がされるほどの水木しげるの代名詞となっている。また戦争中の体験や乳母の話等をまとめた著書も多数あり。1970年頃から妖怪研究家としての著書も多数ある。また、妖怪という民俗学での専門用語を一般化したのも水木しげるの功績である。
2010年4月~9月期のNHKの『朝の連続テレビ小説』に布枝夫人原作の自伝『ゲゲゲの女房』がドラマ化がされ、水木しげる作品が再び注目をされるようになる。
眠ることに執着心が強い。幼少期より起きるのが苦手で、いつも始業時には学校におらず、二時間目くらいから登校していた。現在でもその生活サイクルは変わらず朝起きるのは十時以降であり、NHKが生放送で水木夫妻に対するインタビューにやったきた際もマイペースに眠っていて、妻の布枝夫人だけがコメントをする羽目になったことがある。
現在は十二時間寝て十二時間起きるという生活がメインであり、こういった本来の生活方法を人気雑誌の連載漫画家だった頃にはまったく出来ず、かなり辛かったと語っている。
また、これだけ稼いでいる大人物であるが、今になっても儲けに対してはことさら敏感である。それは貸本漫画家時代に味わった長く辛い貧乏生活の経験からくるもので、墓場鬼太郎がアニメ化することになった際にコメントを求められた時にもこういったことを述べている。
「鬼太郎やるのにコメントがほしい?
それはやっぱり嬉しいの一言で終わるんじゃないですかね。それ以外にもっとしゃべれという話になると製作費がどうのこうのとかで話が立ち入るとややこしいばかりで嬉しさが中々表現できないわけですよ。
だから、『うれしい』とこれでいいわけですよね」
食に対する執着心が強いのも特筆すべき点である。父は胃が突出して強い、すなわち「イトツ」という渾名を付けられていたほど食いしん坊な人であり、それを受け継いだしげる自身も何でも食べる浅ましい奴という意味で「ズイダ」などと呼ばれていた。80を過ぎてもなおその食欲は健在で、メガマック・ドミノピザなどを平気で食べている。
2010年現在においても三兄弟はともに健在であり、兄は90歳を迎えた。しげる自身も左腕を失ったことを除けば健康であるが、自宅の冷蔵庫には「おとーちゃんは最近糖尿気味だから食事に気をつけるべし」といった意図の張り紙がしてある。
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最終更新:2025/04/10(木) 03:00
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