自他ともに認める、中距離の王者。
2000Mで彼を前に行かせたら、必ずマークしなければならぬ。
その実力が、ジャパンカップで大きく花開いた。
外国馬たちを蹴散らした、府中2400M、逃げっ切りのひとり旅。
そのうしろ姿に、ぼくたちは、天翔けるサラブレッドの夢を見た。
カツラギエース(1980年4月24日-2000年7月3日)とは、日本の競走馬。日本調教馬として初めてジャパンカップに優勝した。
同世代の1983年クラシック世代には三冠馬であるミスターシービー、マイル王者のニホンピロウイナー、1983年の有馬記念に優勝したリードホーユー、安田記念・天皇賞(秋)に優勝して様々なエピソードを持つギャロップダイナ、南関東三冠馬のサンオーイ(後に中央移籍して、毎日王冠でミスターシービーやカツラギエースとも対戦)、1985年の宝塚記念に勝利したスズカコバン、オークス馬でエアグルーヴの母としても有名なダイナカールなどがいる。
主な勝ち鞍
1983年:NHK杯、京都新聞杯
1984年:宝塚記念(GI)、ジャパンカップ(GI)、サンケイ大阪杯(GII)、毎日王冠(GII)、京阪杯(GIII)
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「カツラギエース(ウマ娘)」を参照してください。 |
生い立ち
1980年4月24日、三石の片山専太郎牧場で生まれる。父がボイズィーボーイ、母がタニノベンチャ。
タニノベンチャはカントリー牧場が見切りをつけ、セリに出したところを350万で購入した馬である。
この時に受胎していて生まれた馬が後の「カツラギエース」だったが、血統的にもそれほど見所は無く、期待できる要素はほとんど無い馬だった。日高のセリに出されたカツラギエースは710万円で落札され、栗東の土門一美厩舎に入厩することになる。
デビュー
入厩したカツラギエースはダート調教の動きが悪く、やはり関係者の期待は高くなかった。
しかし阪神の芝1200mでデビューするや、2着に8馬身もの差をつけて圧勝し、関西のファンから注目されることになる。
関西のメジロモンスニー(後に皐月賞とダービーで2着)らと好勝負を演じ、4戦2勝、2着と3着が1回とまずまずのスタートで3歳を終えた。
4歳 勝てない春・ミスターシービーの登場
休養明け4歳初戦こそ惨敗したが、3月19日の春蘭賞を勝利し、皐月賞に挑戦することになる。
しかし雨の影響で苦手の不良馬場となり、大惨敗してしまう。ここで優勝したのは共同通信杯、弥生賞に勝利し、名をあげていたミスターシービーだった。
この敗戦により賞金加算しないとダービーに参加できなくなるため、当時のダービートライアルであるNHK杯に出走した。府中の2000mで大外枠の不利にも関わらず後方からの差し切りを決め、再びダービー有力候補になる。
しかし本番のダービーでもミスターシービーの6着と敗れ、その後に挑戦した中京4歳特別をニホンピロウイナーの2着で春シーズンを終えた。
秋 トライアル勝利と三冠馬誕生
秋に放牧から帰ってきたカツラギエースは神戸新聞杯で2着と敗れたが、次走の京都新聞杯で新しい鞍上・西浦勝一(以後全てのレースで騎乗)を迎え、2着のリードホーユーに6馬身差をつけ優勝した。
夏を順調に越せていなかったミスターシービーは4着に敗れた。しかし、本番の菊花賞では2番人気に支持されたにも関わらず20着と大惨敗、ミスターシービーの三冠達成でカツラギエースのクラシックは終了した。
古馬時代 遂に悲願のGⅠ制覇
初戦の鳴尾記念こそ4着に敗れるが、大阪杯、京阪杯と重賞を連勝し、中距離では負けないことをアピールする。
そして距離不適から回避した天皇賞(春)組も加えたグランプリレース・宝塚記念でスズカコバン、ホリスキー、モンテファストらを完封し優勝。遂にGⅠのタイトルを手にする。
しかしライバルのミスターシービーは春を全休しており、シービー不在での勝利には不満が残るものであった。
5歳秋 ミスターシービーに勝利。しかしまた本番で…
秋初戦は毎日王冠から始動し、菊花賞以来の出走となるミスターシービー、大井から移籍してきたサンオーイが出走し、三強対決と報道された。このレースでは積極的に先行し、最後の直線で激しい叩き合いになったがミスターシービーをアタマ差で封じ勝利した。
しかし次の天皇賞(秋)で2番人気に支持され、中距離という得意舞台であったにも関わらず折り合いを欠き、またもやミスターシービーの5着と敗れてしまう。
「前哨戦では勝つのに本番ではミスターシービーに負ける」と揶揄され、もう本番ではシービーには勝てないのか…。そんな声も囁かれた。
ジャパンカップ出走 2頭の三冠馬と外国馬に勝利
これで生き抜く
あいつらが来る。
唸りをあげて迫る。
もちろんこちらも
無抵抗じゃない。
精魂を尽くして
生きのびるとしよう。
次走はジャパンカップが選ばれた。このレースはここまで日本馬の勝利が無い絶望的な状況で、外国馬と日本馬には歴然とした差があった。しかし昨年にキョウエイプロミスが自らの競走生命を犠牲にし2着となったことや、今年は前年の三冠馬ミスターシービーに加え、この年に無敗で三冠を達成したシンボリルドルフが出走してきたこともあり、日本馬初優勝が大いに期待された。
このレースでカツラギエース陣営は気性の悪い本馬に初めてブリンカーを着用させ、さらに作戦にはスタートからハナに立つ逃げを選択。騎手の西浦は手綱を通常より長く持ち、馬の行きたいようにいかせる長手綱を戦法として用いた。
カツラギエースは2400mでは距離実績が無く、10番人気と低評価であった。レースではスタートでハナに立ち気ままにレースを進め、10馬身以上2番手に差をつける大逃げを打った。最終コーナーで後続が追い上げて捕まりそうになる(この時フジテレビの盛山アナウンサーは「カツラギの逃げが鈍った!カツラギ鈍った!」と実況している)が、最後の直線で捕まりそうで捕まらず2着ベッドタイムに1 1/2身差をつけて勝利。3着にはシンボリルドルフが入り、初めての敗北を喫した。またミスターシービーは後方で位置取りが悪く10着と惨敗した。
勝利ジョッキーインタビューで西浦騎手は現在の気持ちについて尋ねられ、「してやったり!」と名言を残した。
有馬記念 皇帝の逆襲~引退
ジャパンカップを優勝したカツラギエースは有馬記念を最後に年内で引退し、種牡馬入りすることが決定した。
これを聞いていきり立ったのがシンボリルドルフ陣営である。菊花賞から中1週でジャパンカップというハードなローテーションを走ったシンボリルドルフは当初有馬記念を回避する予定であった。しかし、ここでルドルフが回避した結果カツラギエースが勝利するようなことがあれば、それはすなわち「勝ち逃げ」を許すということである。皇帝としての威厳を保つためにも、最早出場以外の選択肢は残されていなかった。
この有馬記念は、シンボリルドルフ・ミスターシービー・カツラギエースの三強対決となり、出走頭数が11頭と少ないグランプリレースとなった。
このレースでも自ら逃げを打つ積極的な競馬をし、戦前に野平調教師が「カツラギエースとマッチレースでもいい」と語った通りシンボリルドルフの徹底マークの結果最後の直線で交わされて2着に終わるものの、3着のミスターシービーには再び先着。JCでの力走がフロックでないことを証明してみせた。
種牡馬入りしたカツラギエースの産駒には牝馬とダート馬の活躍馬が多く、大井競馬の東京ダービーを勝ったアポロピンクや、サンスポ賞4歳牝馬特別を勝利したヤマニンマリーン(オークスで予後不良)などがいる。京都新聞杯でメジロライアンの2着になったグローバルエースも本馬の産駒である。
2000年7月3日、心不全のため死亡。有志によって北海道日高郡新ひだか町の冬沢牧場に墓が建てられ、かの地で眠ることになった。墓碑銘には、こう刻まれている。
血統表
*ボイズィーボーイ Boysie Boy 1965 黒鹿毛 |
King's Troop 1957 鹿毛 |
Princely Gift | Nasrullah |
Blue Gem | |||
Equiria | Atout Maitre | ||
Epona | |||
Rising Hope 1951 黒鹿毛 |
The Phoenix | Chateau Bouscaut | |
Fille de Poete | |||
Admirable | Nearco | ||
Silvia | |||
タニノベンチヤ 1971 黒鹿毛 FNo.14-c |
*ヴェンチア 1957 黒鹿毛 |
Relic | War Relic |
Bridal Colors | |||
Rose O'Lynn | Pherozshah | ||
Rocklyn | |||
*アベイブリッジ 1958 鹿毛 |
Entente Cordiale | Djebel | |
Herringbone | |||
British Railways | Umidwar | ||
Euston | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 5×4(9.38%)、Pharos 5×5(6.25%)、Easton 5×5(6.25%)
主な産駒
- ヒカリカツオーヒ (1987年産 牝 母 ヒカリスキー 母父 マルゼンスキー)
- アポロピンク (1988年産 牝 母 ミネノユウヒ 母父 *テューダーペリオッド)
- ヤマニンマリーン (1988年産 牝 母 *ヤマニンサムシング 母父 Little Current)
関連動画
関連項目
外部リンク
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