アメリカ本土爆撃単語

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アメリカ本土爆撃とは、大東亜戦争中の1942年9月9日9月29日に実行された日本海軍伊25潜水艦による爆撃である。与えた被害は少なかったが、アメリカ歴史上交戦国から直接爆撃受けた一の例であり、現在も破られていない。

概要

背景

1941年12月8日大東亜戦争が開戦して以来、海軍は各地で破の快進撃を見せ、僅か数ヶ東南アジアインド洋から連合軍を一掃。その士気はを突く勢いだった。そんな日本に冷やぶっかける事態が発生。1942年4月18日、敵空母ホーネットより発進したB-25が初めて日本本土を爆撃したのである(ドーリットル空襲)。民間人だけでなく小学生まで撃され命を落とした。

翌日の4月19日ヶ関にある軍部第三課ではから会議が開かれ、意趣返しでアメリカ本土を爆撃する壮大な計画が提案される。しかし、アメリカ西海ハワイより更に遠く、当然ながら敵の警備も厳重である。そんな危険な場所へ連合艦隊空母を貸してくれるとは思えない。そんな中、会議に出席していた大尉は一人の男の姿を思い浮かべた。大尉の前任は伊25の先任将校で、その伊25には1932年から水上機に乗り続けているベテラン搭乗員・藤田信雄飛行兵曹長が乗艦していた。彼は以前より水上機爆弾を装備する事を具申していたためそのアイデアを採用。また伊25艦長・田上明治少佐も大変有能な人物で、藤田との相性も良かった。こうして空前絶後の任務は伊25に任される運びとなった。

4月21日、軍部は横須賀に停泊中の伊25電報を打って藤田飛行長を召喚。アメリカ本土爆撃の大任を命じた。かつても挑んだ事が不可能への挑戦。さすがの藤田も成功させる自信がく、ひそかに遺書をしたためるほど死を覚悟していたという。母艦伊256月上旬よりアリューシャン作戦に参加する予定だったため一先ずは眼前の任務に従事する。

ジャック港の偵察やアメリカ西海での通商破壊を終えた伊25は、7月11日横須賀へ帰投。8月上旬に藤田は再び海軍省2階の第三課に召喚され、中佐大佐クラスお偉いさん、皇族の高松殿下が注する中、シアトル駐在の経験がある副官がアメリカ西海地図上に広げる。

零式偵察機が積める爆弾量では仮に地へ投下しても大した被害は出せない。そこでオレゴン州の山爆撃する事に。西海の山には原生が多く、強が吹く気上、一度山火事が起きると消火困難であり、多くの財産を焼き払って住民に心理的疲弊をもたらせる。わずかな爆弾で最大の被害を与えられる実に合理的な作戦だった。「ドーリットル空襲で敵は民間人を攻撃したが、々は直接攻撃しない」という武士道精神も含まれている。軍事標に対する爆撃ではないと知って一度は落胆する藤田だったが、森林火災の重要性を説明されるうちにやる気みなぎってきた電車に乗って伊25に帰艦した藤田は、1枚の作戦地図田上艦長に手渡し、金庫の中に収める。アメリカ本土爆撃の全容を知るのは藤田田上艦長、数名の士官だけだった。

作戦に備え、伊25には3ヶ分の食糧、医薬品、被弾薬が積載された。作戦に使用する零式偵察機航空技術で76kgテルミット爆弾6発を搭載出来るよう改造。1発の爆弾の中に520発の焼夷弾が入っており、着弾と同時に四方100mに飛散し、2000℃の高温で1分間燃焼させる仕組みとなっている。

8月15日横須賀を出港。極秘作戦のため見送りは在泊艦艇のみと大任とは裏に寂しかった。

出港から1週間が経った頃、伊25アリューシャン列島を航行していた。この日、田上艦長、藤田飛行長、先任将校福本大尉の3人で作戦の打ち合わせを行い、偵察機の回収ポイントを三ヵ所定めた。西海に近づくにつれ艦内の緊は高まっていく。敵機の圏へ入ってからは日中は潜航、間のみ水上航行で進む。9月2日、敵勢力圏のっただ中で偵の発艦と収容訓練を実施。

そして9月4日にいよいよアメリカ西海へ到達。そびえ立つ山々民家を横アスリアを南下すしていく。フラッタリーの50合いに到着すると、田上艦長が全員を集めて訓示を行い、乗組員にアメリカ本土爆撃の内容を説明した。

「いいか諸君、本艦はこれよりアメリカ本土爆撃を行う。知ってのとおり、さる4月18日東京米国陸軍重爆B-25爆撃された。神州始まって以来の恥辱、これ実に、昭和元寇である。これは東京襲に対する々の心のこもった返礼である。借りはきっちり返してやろうではないか。米国160年、アングロクソンのっ柱を々がへし折ってやるのだ。」

毎日ワンズ出版『わが本土爆撃』より抜

訓示が終わると艦内は歓喜と万歳ので包まれた。

到着から数日は恵まれなかったため発進を延期。明けとともに潜航して次のが来るのを待つ。9月8日未明は恵まれていたものの、中のB-17爆撃機2機を発見したため発進を取りやめた。

一度目の爆撃

9月9日未明、伊25ブランコ西方25里で浮上。ようやく恵まれた事で午前4時に「飛行機発進用意、作業員前甲」の号が下った。飛行機格納筒のが開かれ、中から折りたたまれた零式偵察機が引っり出されると、先任将校揮のもとテキパキと組み立て作業を行って僅か30分で了させる。これは操作マニュアルに記載されている所要時間より短かった。

エンジンを起動するとパタパタと小気味良い音とともにプロペラが回転を始める。発進位置に向けて伊25の巨体が動き出し、速力16ノットで波を蹴りながら突き進む。飛行着替え藤田飛行長と奥田省二兵曹が「艦長、出発します」と短く告げると、田上艦長は緊した面持ちで「爆撃地点は予め命した通り。慎重にやれ、成功を祈る。出発」と返す。これは私情に囚われず、きっちり森林爆撃しろという意味が込められていた。藤田は400年前から代々伝わる日本刀を携えて機体に乗り込む。

午前5時34分、カタパルトから零式偵が射出された。爆弾を搭載しているため機が重く、面すれすれまで降下するも、ぎりぎりのところでエンジン出力が勝って徐々に上昇。陸地の方へと飛び去っていった。ブランコにある灯台は進入するのに丁度良い印であり、灯台の横を通過して遂にアメリカ本土上に差し掛かった。高度2500mまで上昇して突き進んだ後、海岸から80km地点にある、エミリー山の森林に向けて1発を投下。着弾とともに炎と煙が噴き上がって山火事の発生を確認する。陸地から立ち昇った煙は合いの伊25からも観測出来た。投下地点から東へ5km移動したところで2発を投下。こちらも火災の発生を認めた。

任務を終えた藤田は軽くなった機体のエンジンフルスロットルにし、240km/hで飛行して回収ポイントに向かう。途中ブルキングがあるため通過の際はエンジン音で発覚しないようスロットルを絞った。灯台の横を通過して上に脱出した後、その先に籍不明タンカー2隻が9m間隔で北上しているのを撃、15mの低を飛んで2隻の間をすり抜け、タンカーが見えなくなったのを確認してから高度50mまで上昇する。回収ポイントには伊25の姿があり、バンク(両を左右に振って味方と知らせる合図)を行って右舷艦尾側に着、揚収用デリックで機体をり上げ、甲上で待機していた整備班が素分解して格納筒に収めた。こうして一度爆撃は見事成功したのだった。

爆撃は成功したものの山火事には至らなかった。当時のオレゴンは大雨が上がったばかりで土も植物も湿っておりそれが延焼を妨げたのである。燃え広がった炎は自然鎮火、あるいは火災監視員の手で消火された。ところが、残っていた爆弾の破片から日本製だと判明すると、日本軍機から爆撃を受けたとしてアメリカ政府に絶大な恐怖を与えた。政府報道管制を敷いて爆撃の件を隠そうとしたがマスコミにすっぱ抜かれて一般市民にも知れ渡ってしまう。

さっそくFBIがオレゴン州にやってきて調を開始。しかし「太平洋を渡ってきた潜水艦から発進した」とは到底考えられず、で組み立てたと断定して州内の底的に調べた。

危うし伊25

9月10日爆撃通報を受けてタコマのマッコード飛行場から緊急発進したロッキーハドソン爆撃機3機が出現。敵機が急降下を始める前にベントを開いて何とか急速潜航が間に合った。深度計が18mをしたところで140kg爆弾が頭上で炸裂して艦が大きくむ。不幸中の幸いだったのは緊急発進ゆえにハドソンが対潜弾を持っていない事だった。

深30mまで潜ったところで今度は150kg爆弾3発が炸裂。これが痛恨の一撃になったようで電信室の電線引き込み口が損傷して浸が始まり、み込んだ事で艦の自重が増えて徐々に海底へと沈んでいく。このままでは全員あの世行きである。電力を喪失し、夜光塗料を塗られた計器以外まともに見えない中、乗組員の不断の努力で辛くも浸は食い止められた。水上からの爆撃に耐えながら水中を這うようにして進んでいると日爆発音が途絶。闇に紛れて伊25は浮上し、飛び出る溶接の炎をシートで覆い隠しながら徹夜修理作業を行う。作業が了すると明けとともに潜航して北方へと退避した。

部より伊25宛てにサンフランシスコラジオの内容を要約した電文が届き、それには数人の死傷者と相当の被害が出た旨が書かれていた。傍受した対日プロパガンダ放送「日本日本」でも9月9日爆撃報道されていたが、敵側の放送でも「潜水艦による爆撃」という答えに辿り着いていなかった事から、乗組員の士気は上がった。

爆撃をしてからは敵の警網が格段に厳重となり、潜望を上げようものなら、駆逐艦哨戒機がすっ飛んできて追い回されてしまうため、もはや間にしか浮上出来なかった。9月27日大本営から再びアメリカ本土爆撃を命じられて移動を開始。

二度目の爆撃

9月29日ブランコ90kmで浮上し、速に偵を組み立てて機体を射出。陰に隠れて再びオレゴン州に進入した。灯火管制が敷かれているのかブルキングは暗闇に覆われている。今回は伊25と陸地の距離が90kmも離れているため深入りせずにオーフォード付近で投弾、花火のような火がパッと開いた。そして敵に見つからないようエンジンを切り、グライダーの要領で滑しながら印のブランコ300mを通過して、事洋上への脱出を果たす。陸地を脱してから15分。そろそろ回収ポイントのはずなのだが何故か伊25の姿が見当たらない。燃料が切れる前に、ゴマ粒のように小さい母艦を探し当てねばならない。不安になった藤田は一度ブランコまで戻り、奥田に帰路の針路を割り出させたが、それでも伊25を発見出来ず「いよいよ自爆か」と死を覚悟し始める。

すると間から一筋の月光が降り注いで面をく照らし出した。よく見ると膜のようなものが漂っており、それをで追っていくと右前方に伊25を発見。信号用電で合図を送ると伊25側も返信してきた。こうして死の淵からぎりぎりの所で藤田機は生還し、機体は手分解して格納筒に収容。田上艦長は爆撃成功の電文を大本営に打電するよう命じた。ちなみにの流出は損傷によるもので、伊25側は漏に気付いておらず、帰投の際に重要な役割を果たしたもののこれでは敵に発見されるとして、藤田飛行長は艦長に報告した。

西海岸沖での通商破壊

9月29日以降はが荒れて偵の発進が出来なくなり、また沿部の警が更に厳重になったため通商破壊戦に移行。敵船舶めて北上する。

10月4日未明、オレゴン州クースベバッテリー充電すべく水上航行していると、三番見り員がシェルオイル社の武装キャムデン(6653トン)を発見して急速潜航。キャムデンは7万6000バレル石油をサンペドロからポートランドに輸送しているところだったが、機関故障により洋上停止を強いられ、修理を行っているところだった。伊25は2本の魚雷を発射、このうち1本が右舷首に命中して大破炎上。被雷の衝撃員のスチュワードが吹き飛ばされて行方不明となる。

満身創痍ながらもキャムデンはしばらく浮いており、救難信号に応じてやって来たタグボートによってコロンビア河口に航。しかし被雷が原因で10月10日に突如炎上して放棄されている。

10月6日21時20分、が降りしきるシアトルでリッチフィールド社所有の大武装ラリー・ドヘニー(7038トン)を発見。至近距離から雷撃を仕掛けたが外れてしまう。一度は暗闇の中へ逃げられて見失うも、22時6分、前方に現れたラリー・ドヘニーに向けて魚雷1本を発射、18後に左舷へ命中させた。積み荷の6万6000バレルの重に引火して大爆発が起こり、ラリー・ドヘニーは首から沈没していった。

10月11日、帰路に就いた伊25西海約600里の地点で、単縦を組みながらアメリカ本土に向かっている2隻の潜水艦を発見。残っていた最後の魚雷1本を発射し、ソ連海軍機雷敷設用潜水艦L-16(1095トン)を撃沈した。残った1隻が45mm弾で反撃してきたものの正確な位置を掴めていないのか的外れな場所を撃つだけだった。

ちなみに当時日ソは中立条約を結んでいて敵対関係ではなかった。このため伊25がL-16を撃沈した事は国際問題になりかねない事態なのだが、この事はソ連には伝わらず何の追及もかった。実はL-16にはアメリカ軍の従軍カメラマンが便乗していた。これは「中立の艦艇に交戦国の軍人を乗せた」戦時国際法違反の行為であり、故にアメリカ政府はL-16の撃沈を隠蔽。ソ連政府に伝わらなかった訳である。

そして10月24日横須賀へ帰投。前代未聞の難題を見事やってみせたのだった。

その後

伊25零式偵察機によるアメリカ本土爆撃は日双方に大きなを与えた。

潜水艦艦載機を載せるのは効果的と考えた山本五十六大将は、拡大発展させた伊400型潜水艦攻撃機晴嵐開発示。スーパー爆撃機富嶽」も伊25爆撃成功から着想を得て開発計画がスタートしている。一方、アメリカでは市民が恐慌状態に陥り、西海の大都市にはシェルターが次々に建造されて日本軍の上陸に備えた。またルーズベルト大統領は日系人の協力がかったにも関わらず日系人の強制収容を開始している。

戦後1962年5月ブルキングアゼリア祭に藤田元飛行長を招待(奥田兵曹は1944年9月22日フィリピン方面で戦死していたため呼ばれなかった)。当初藤田は「自分が裁かれる時が来た」と覚悟し、日本政府からも止められていたが、けじめのため自決用の日本刀を持って渡した。

ところが藤田を迎えたのは罵倒ではなく、たった一人でアメリカ本土を爆撃した勇敢な元日本兵という歓迎のだった。すっかり緊が取れた藤田は持参した日本刀ブルキングに寄贈。パーティには元アメリカ陸軍少尉ローガン・ケイも参加しており、藤田に歩み寄ると「過去を忘れてお互いの祖国の繁栄と、引いては人類の幸福という大きな標に向けて努力しましょう」と言って固い握手を交わした。

以降、藤田は日友好の非公式大使となり、何度もブルキングを訪問。1985年には日本高校生3名をブルキングへ招待している。藤田の献身的な活動を受けて時の大統領ロナルド・レーガン藤田宛てに感謝状を書き、一日ホワイトハウスで掲揚された星条旗を贈った。亡くなる数日前、藤田ブルキングの名誉市民となり、1996年がんで逝去。彼の死はニューヨークタイムに掲載された。

ブルキングでは初めて藤田が同を訪れた5月25日藤田信雄デーとしている。

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