伊52とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊52型/巡潜丙型改潜水艦1番艦である。1943年12月28日竣工。遣独潜水艦作戦の第五次訪独艦としてドイツに向かっていたものの、道中の1944年6月24日、大西洋上にて護衛空母ボーグ所属の対潜哨戒機から攻撃を受けて沈没。半年にも満たない命であった。
概要
巡潜丙型改とは、巡潜丙型…ではなく巡潜乙型改二をベースにした戦時急造型潜水艦である。要は巡潜乙型改三。
生産性を高めるため乙型改二から更に航空艤装を撤去し、代わりに14cm甲板砲を1門追加するとともに弾薬搭載数も2倍に増やして砲撃力を強化。即応弾も各門40発になっている。航空艤装の撤去は巡潜丙型でも行われているため丙型の発展型と言えなくもないが、魚雷発射管の数は8門ではなく巡潜乙型と同様の6門であり、かえって雷撃能力は低下した。
機関については乙型改二と同じ生産が容易な艦本式22号10型を採用しているので最大速力が17.7ノットに、主電動機も従来の半分の出力となり水中速力も低下。加えて内殻板をDS鋼から軟鋼に変更しているが、板厚を厚くする事で耐圧深度を維持し、機関重量の低下と燃料搭載量の増加で航続距離は増大。伊52、伊53、伊55の3隻が生産された。
1943年12月28日に竣工した伊52はその長大な航続距離を買われて第五次訪独艦に選ばれる。ドイツに派遣して最先端技術を学ばせる民間人専門家と物資を乗せ、1944年4月23日にシンガポールを出港。しかし伊52の動向は常に連合軍に監視され、6月24日にカーボベルデ諸島西方で護衛空母ボーグの対潜哨戒機から攻撃を受けて沈没。呂501に続く2番目に大西洋で失った日本潜水艦となった。ただ、帝國海軍は呂501をインド洋で喪失としている一方、伊52はビスケー湾で喪失としており、記録上では唯一となる。
ドイツに支払う金の延べ棒146本を輸送していた事から「黄金の潜水艦」とも呼ばれ、戦後トレジャーハンターたちがこぞって沈没地点を捜索した。そして沈没からおよそ51年が経過した1995年5月2日に残骸が発見された。
排水量2095トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、ディーゼル燃料搭載量895トン、安全潜航深度100m、乗員94名。兵装は艦首魚雷発射管6門、魚雷19本、40口径14cm砲2門、九六式25mm連装機銃1基。
伊400型が登場するまではこの巡潜丙型改が最大級の大きさだった。
艦歴
最後の訪独艦
1941年に策定されたマル追計画において丙型一等潜水艦第625号艦の仮称で建造が決定。
1942年3月18日に呉海軍工廠で起工、8月20日に伊52と命名され、11月10日に進水、1943年11月15日に艤装員長の宇野亀雄中佐が着任し、12月28日に竣工を果たした。艦長に艤装員長の宇野中佐が着任するとともに呉鎮守府に編入され、第1艦隊第11潜水戦隊へ部署。ちなみに宇野艦長は訪独を成功させた伊8艦長・内野信二大佐の元教え子だった。伊52は別府を拠点に伊予灘で慣熟訓練を行う。
1944年1月4日から10日まで潜水母艦長鯨を標的とした襲撃訓練を実施し、途中の1月6日、徳山の第3燃料補給所に寄港して給油。1月22日に補給のため呉へ寄港した。1月24日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将が大海令第322号を発し、伊52を遣独潜水艦作戦第五次訪独艦に指定。遠く離れた同盟国ドイツへ赴く事となり、暗号名モミ(後にギンマツへ変更)が与えられる。伊52は300トンの物資を積載出来、無補給で3万4000kmを航行出来る長大な航続距離が買われた訳である。
ベルリンにある帝國海軍の駐独海軍武官室が約40名を動員してドイツ側との調整を行い、日本との通信や伊52への指令なども全て武官室の関係者が担った。しかし如何に同盟国と言えど、ドイツ側が最先端技術を易々と譲渡してくれるはずがなく、厳しい条件下での交渉が行われて中々折り合いがつかなかった。そこで、ヨーロッパでは採れない東南アジア産天然資源や金塊2トンを代金代わりに供与するという方向で何とか話をつけた。
1月31日に呉を出港した伊52は一旦江田島で待機。2月1日に同島を出港して伊予灘で訓練に従事し、2月9日から11日まで別府で乗組員を休養させたのち再度伊予灘で訓練。2月22日に呉へ入港して訪独に向けた準備を開始する。道中の大西洋は連合軍の対潜哨戒が厳しいため2月中に後部甲板砲を下ろして25mm連装機銃2基に換装、司令塔前部に22号電探を装備して対空能力の底上げを図った。
出港前に日本銀行大阪支店から49個の金属箱に収められた146本の金の延べ棒(純度99.5%)を積載。これは伊52がドイツから持ち帰る水銀300トン、T-5音響魚雷、ロケットエンジン及びジェットエンジンの図面、新型エニグマ暗号機、地上用ウルツブルク・レーダー逆探知装置、潜水艦用レーダー、ベルリン型9センチ波レーダー、レーダー装置の真空管多数、鹵獲した米英軍の計器類などの代金であった。3月6日、ベルリンは伊52を通じてインド洋の気象情報をドイツに送るよう東京に要請している。
訪独任務に従事する事となった宇野艦長は、かつての教官で第二次遣独潜水艦作戦を成功させた内野大佐のもとを訪れ、「ロリアンに到着するまで、独は持ちこたえられるでしょうか?」と尋ねた。だが内野大佐は何も答える事が出来なかった。戦後内野大佐は「本当に彼には同情しました」と語っている。
乗組員も今回の訪独任務は限りなく生還率が低いものと確信していた。彼らは出発前に里帰りし、ある者は生前に墓を建て、ある者は世話になった人への挨拶回りを済ませ、遺書を書き残していた。
この頃からアメリカ軍は暗号解析により伊52の動向を探り始め、断片的ながら情報を入手して監視下に置こうとしていた。ただ当初はまだ情報の精度に問題があったようで「伊52はモミではなく、モミはペナン沖で沈んだ伊34もしくはイタリアの潜水艦」「モミを支援する救援船が伊52」といった誤った判断も下している。
苦難の旅路に赴く
本土からインド洋脱出まで
3月10日午前8時50分、中継点であるシンガポールへ向けて呉を出港。宇野艦長ら士官11名と下士官48名が乗り組んでいた。同日中に第6艦隊第8潜水戦隊へ転属。本土とシンガポールを結ぶ航路でも既に米潜水艦の跳梁が始まっていたため、日中は潜航、夜間のみ水上航行を行ってバッテリーの充電を行った。
3月21日にシンガポールへ入港。現地で乾ドックに入渠してドイツが求める南方産資源タングステン102トン、錫120トン、モリブデン9.8トン、カフェイン58kg、アヘン2.88トンやキニーネ3トンといった医療品、生ゴム54トン、その他暗号書数冊、陸軍から依頼された文書など300トンを超える物資、技術を学ぶためにドイツへ派遣される民間技術者7名、暗号員5名、通訳1名を乗せる。民間技術者は各軍需産業から艦政本部に身分を移して海軍嘱託となったトップの技術者で、「ダイムラーベンツ社から魚雷艇用エンジンの製造法取得」「艦上用高射砲指揮装置に必要不可欠な先端技術の持ち帰り」といった秘密の命令が各々に与えられていた。
4月23日にシンガポールを出港した伊52は、最短ルートのマラッカ海峡ではなくスンダ海峡へ迂回してインド洋に進出。というのも去る1943年11月13日、第三次訪独艦の伊34がマラッカ海峡を通過中に英潜水艦トーラスの待ち伏せを受けて撃沈されていたのだ。こうして3万kmにも及ぶ苦難の旅路の第一歩を踏み出す。日中は潜航し、夜間のみ水上航行して敵の対潜哨戒網を掻い潜る。
しかし暗号解析によってアメリカ軍は5月7日に伊52のシンガポール出港を把握(シンガポール周辺を監視するスパイからの報告説もある)。また夜間に必ず短い信号を日独に向けて発信していた事もあり、暗号通信を傍受してから4~5日の間に英訳化された報告書まで作られ、以降監視下に置かれて常に正確な位置を特定され続ける事となる。ワシントンの司令部にある壁には日独全ての潜水艦の位置がリアルタイムに記載されていた。戦後公開されたアメリカ公文書館の記録によれば、伊52に誰が乗り組み、どのような荷物を積み込んで、何の目的でドイツに向かっているのかまで把握されていたという。伊52に関する機密文書は何と2000ページに及ぶ。
巡潜丙型改は巡潜乙型よりも航続距離が長いため洋上補給は必要なくスムーズにインド洋を西進。
5月11日、キールを出港して日本へ回航中の呂501から「付近は警戒厳重であり、3日間に渡って爆雷攻撃を受けている」との通信が東京へ入り(打電自体は5月6日)、この通信を伊52に中継する。
5月15日に1年中天候が荒れている難所こと南アフリカ南端の喜望峰沖へ差し掛かった。アフリカ大陸南端にはイギリス軍や南アフリカ軍の航空基地があるため、その哨戒圏を避けるにはどうしてもローリング・フォーディーズと呼ばれる暴風圏を突破しなければならず、風速40mに及ぶ西向きの暴風と荒ぶる波が伊52の行く手を遮る。
大西洋進出後
5月20日にようやく喜望峰を通過して南大西洋へ進出、ドイツとの無線通信が可能になったので宇野艦長は最初のメッセージを送る。5月30日、ドイツ海軍は日本の潜水艦が大西洋に入った事を作戦中のUボートに伝達し、誤って攻撃しないよう厳命した。
ベルリンの駐独海軍武官小島秀雄少将はこれまでの例から北大西洋を突破するにはドイツの優れた逆探知装置が必要だと考え、「6月22日に北緯15度西経40度の座標で独潜水艦U-530と合流せよ」と伊52に指示。しかしこの通信は連合軍に傍受・解読されてしまう。アメリカ軍は「伊52の積み荷がドイツに渡る事は絶対にあってはならない」とし、護衛空母ボーグを基幹としたハンターキラーグループ第22.2任務群…これまでにUボート13隻を撃沈したベテラン対潜掃討部隊をカサブランカから出撃させた。
6月4日、伊52は赤道を北上して北大西洋に到達。その翌日、ドイツ海軍作戦本部は「伊52が既にドイツへ到着したとの偽情報を流して連合軍を撹乱してはどうか?」という提案を日本側に行っているが、これも連合軍に解読されてしまっている。間もなくノルマンディー上陸作戦が始まった事で偽情報計画は立ち消えとなった。
6月6日、小島少将は「連合軍がノルマンディーに上陸した。ロリアンへの入港は危険であり(ノルマンディーはロリアンの北東250km先とかなり近い)、状況によってはノルウェーまで行かなければならない」という旨の警告を東京と伊52に打電。この通信を傍受したアメリカ軍は早速アゾレス諸島沖で活動中の対潜掃討部隊に警戒を促した。日に日に大西洋が危険な場所と化していく中、6月9日に駐独武官から「U-530と伊52の合流は6月22日夜に行うべし」との電文を受信。6月11日に訪独を終えて帰国中の伊29とすれ違う。当日中に伊52から現在位置を伝える電文が送信されるが、この通信も連合軍に読まれ、第22.2任務群が静かに伊52の方へとにじり寄る。
6月16日、伊52はベルリンに向けて「燃料は十分、食料は3ヶ月分残っている」「寄港先がノルウェーに変更されても対応可能」「11ノットで航行中」と打電。更に西アフリカ沖にいるとの位置情報も添えた。この日より伊52の行動はより事細かに海図上へ刻まれるようになり、それらの情報を基にボーグがスペイン沖を一気に南下、24時間体制で伊52を探し始めた。上空にはかなりの頻度でアベンジャー雷撃機が飛来するようになり、いつ見つかってもおかしくない状況に陥る。6月20日、ベルリンの日本大使館から「連合軍の空母が北緯15度西経30度付近に出現、付近のUボート2隻が失われた」と東京の海軍省に警告(傍受したアメリカ軍は護衛空母ブロックアイランドの事だと判断)。
6月22日、厳重な航空哨戒を掻い潜って伊52はカーボベルデ諸島西方1580kmの合流地点で浮上し、U-530の到着を待つ。ところがいつまで待ってもその日は姿を現さなかった。
U-530との合流、そして敵襲
伊52の威容を見たU-530乗組員は「あの日本潜水艦はとても大きくて、美しい艦だった」と回想している。案内人のシェーファー中尉、2人の無線通信士、2人の下士官、FuMB7 ナクソスレーダー探知機をゴムボートを使って伊52へ移乗させる。移動する際にレーダーが海中に落ちてしまうトラブルがあったものの、伊52乗組員が飛び込んで回収したため事なきを得た。また日本語を話すU-530乗組員が宇野艦長にロリアンへ無事辿り着くためのアドバイスも行っている。
2時間かけて交換を終えるとU-530はトリニダード方面へと潜航して去っていった。U-530乗組員の1人であるラインハルト・カースティンは「日本の潜水艦の司令官は我々に丁重に別れの挨拶をした。その後、日本側は自分たちの進路へ進み、U-530も予定通り潜航した」と記録を残している。艦長のクルト・ランゲ中尉は「いつ敵機が現れてもおかしくない」と神経質になっており、一刻も早く合流地点から逃げ出そうとしていた。
伊52の艦内ではシュルツェ二等兵、ベーレント二等兵、連絡将校シャーファー大尉の指導のもと、ナクソスの設置作業と調整を実施。テストを行うにはどうしても水上航行をしなければならずこれが最悪の形となって表れてしまう。異説では宇野艦長は嵐に身を隠して移動出来ると考え、思い切って水上航行を選んだとされる。しかし宇野艦長の考えとは裏腹に、悪天候の中、護衛空母ボーグから出撃したTBFアベンジャーが伊52がいる海域の捜索を開始する。
23時39分、ボーグから90km離れた先でジェシー・テイラー少佐駆るTBF-1Cアベンジャーが伊52をレーダーで捕捉、照明弾を投下して2095トンもの巨体を照らし出す。どうやらナクソスはまだ稼働状態に無かったようで伊52は接近されるまで敵機に気付かず、慌てて甲板上の乗組員が艦橋のハッチへと駆け込んで急速潜航を開始、アベンジャー側もMk54爆雷2発を投下するが、1発は右舷6mに、もう1発は同じく右舷15m離れた場所で炸裂。その間に伊52は潜航して海中へ沈み込んだ。U-530の乗組員が高射砲で撃つような音を聴いているため対空射撃で応戦した可能性がある。
一度頭上を航過したアベンジャーが旋回して戻ってくると、伊52は既に水深80mまで潜っていて海面には僅かな航跡が残っているだけだった。するとアベンジャーは1平方マイルの海域にソノブイを投下して伊52のスクリュー音を探知。Uボートのものとは明らかに違い、そしてあまりに大きな異音だったという。この音を頼りにアベンジャーは音響魚雷ファイドを発射――これはハーバード大学が開発した、スクリュー音に引き寄せられる回避不能の魚雷で、今回が初めての運用だった――23時50分に大きな水中爆発音を聴き取った。聴音手曰く、それは「ブリキ缶が潰れる音に似たパチパチ、カリカリという音」だった。
伊52は損傷しながらもまだ生き残っていた。
最期
1944年6月24日午前0時54分、ウィリアム・D・ゴートン中尉が操縦する新手のアベンジャーが到着して更に多くのソノブイを投下。午前1時頃、ゴートン機に便乗していた民間の水中音響専門家プライス・フィッシュが「近隣海域でかすかなスクリュー音を聞いた」と報告したため、その海域へ向けて再びファイドを発射。午前1時15分、燃料不足のためテイラー機が帰投する。警戒飛行を続けるゴートン機には「もし潜水艦の気配を察知すればMk24爆雷を投下せよ」という命令が与えられていた。
午前1時45分、北に設置したソノブイから大きなスクリュー音が聞こえ、伊52が北方へ逃げようとしていると判断したゴートンは、9分後に3本目のファイドを発射した。魚雷は17分間に渡って航走するも爆発音が聞こえる前にバッテリー切れを起こした。
ところが午前2時13分に突如として断末魔が30秒間に渡って轟く。艦体が軋む金属音、空気が漏れ出る音、そして水圧によって潰される音が続き、最後に鈍い爆発音が響いて何も聞こえなくなった。乗組員95名、乗客14名、ドイツ水兵3名全員死亡。その際にソノブイが聴音した伊52の圧壊音は「ゴートン・ワイヤーNo.1」「ゴートン・ワイヤーNo.2」の名称で戦時中の教材に使われた他、ワシントンD.C.の米国国立文書館に現在も残されている。
爆発音はU-530にも聞こえていたようで生存者の救助を試みようとしたが、U-530もまた攻撃を受けて損傷し、命からがら逃走に成功した。朝になると護衛駆逐艦ヤンセンとハーバーフィールドが現場海域に駆け付け、大きな油膜が漂っているのを発見、撃沈の証拠となる大量の生ゴム俵、ゴムサンダル、黒い絹の釣り糸、破片等を回収した。この戦果によってボーグの艦体には旭日旗が描かれた潜水艦のキルマークが刻まれている。
その後
6月27日、U-530は伊52との会同に成功したとの電文を打ち、駐在武官室は歓声を上げた。そして北フランスの戦況を伊52に伝えながら受け入れ準備やドイツ側との調整に奔走。帰国予定の海軍駐在員及び技術者17名と陸軍の技術士官10名の計27名が伊52へ乗り込む予定だった。
沈没後の7月30日、ロリアン近郊のドイツのラジオ局が文字化けした到着信号を受信し、解読してみると伊52が港まで36時間以内の場所にいる事が判明。翌日にも同一の信号が傍受された。これを受けて8月1日午前4時30分、ロリアンに護衛兵力のM級掃海艇3隻とT級魚雷艇1隻が急派され、波止場には伊52が日本へ持ち帰る物資(T5音響魚雷、真空チューブ、爆撃照準器、合金鋼、1000ポンドの酸化ウラン、光学ガラス等)が用意されたが、当然の事ながら入港しなかった。8月3日、ドイツ海軍と駐在武官室が伊52に「護衛艦艇が合流地点にて待つ。合流出来ない場合は理由を報告せよ」と電文を送ったが、返信は無かった。
8月8日、小島少将は伊52にロリアン入港は危険過ぎるとしてノルウェーへの回航を指示。やはり伊52からの応答は無い。8月30日、ドイツ海軍は「伊52は7月25日の時点でビスケー湾で沈没したと推測される」と公式に発表。帝國海軍は8月2日にビスケー湾方面で喪失とし、12月10日に除籍。伊52は呂501に続いて2番目に大西洋で喪失した艦となった。仮にロリアンまで到着していれば現地でシュノーケルの搭載工事を受ける予定だったという。
極秘任務だったため乗組員や民間技術者の遺族には行き先が伝えられておらず、「日本から出撃した後に行方不明になった」という事しか分からなかった。1945年に遺族のもとへ戦死公報が届くも、その公報には「任務が重大な国家機密に属するため口外を禁ずる」と書かれ、昭和天皇から見舞金が贈られている。
戦後
伊52撃沈はテイラー少佐とゴードン中尉両名の功績とされていたが、伊52が最初の攻撃で撃沈したのかどうかは不明だったため、ゴードン・ワイヤーの音響をジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所の専門家が調査したところ、テイラー少佐が撃沈したと結論付けた。
戦後、伊52が時価30億円に及ぶ金塊を抱えて大西洋に沈んでいる事を知ったアメリカのトレジャーハンターたちは、金塊を求めて伊52の残骸を探していた。しかし、当時はまだ伊52の沈没地点は軍事機密として公開されておらず、トレジャーハンターはロリアンまで36時間以内の場所にいるという謎の電文をヒントに捜索を行ったが当然特定出来ず、思いのほか捜索は難航。事態が急展開を迎えたのは1980年代後半にアメリカ軍が機密文書を公開して沈没地点が一般市民にも知れ渡った事だった。アメリカの海洋研究家ポール・ティドウェルは5年以上に渡ってアメリカ、イギリス、ドイツ、日本の資料を読み漁って伊52の沈没地点を推定。
1994年後半、積み荷の金塊を回収するプロジェクトオルカが始動。研究成果を基にティドウェルはワシントン州レドモンドのサウンド・オーシャン・システムズ社と契約を結び、1995年4月12日に捜索隊を乗せた船がブリッジタウンを出港、沈没地点を中心に捜索を始める。しかし2週間が経っても伊52の残骸が見つからず乗組員に苛立ちが募り始める。燃料が尽き始めた5月2日朝、ソナーの画面に小さな反応が映った。ロシアの海洋調査船ユツモルゲオルギア(ちなみに同船は水深5240mに沈むタイタニック号の残骸の撮影にも使われた)を投入し、ついにカーボベルデ西方1200海里の水深5200mに横たわる伊52の残骸を発見、送られてきた映像を見て参加者全員が安堵の表情を浮かべるのだった。
司令塔は無事で艦体番号も確認出来たが一方、艦首は粉砕され、司令塔後方には魚雷によると思われる大きな穴が開いていた。早速伊52を引き揚げて金塊を回収しようとしたころ、日本政府が「沈没船は乗組員にとっての墓である」との見解を示して反対したため、ティドウェルと政府の間で適切な手続きを進めた結果、「引き揚げた金塊を貰う代わりに残骸は日本政府に渡す」という条件で許可が下りた。ティドウェル率いるサルベージチームはまず軍艦旗を回収し、伊52の艦体に張り付ける。次に艦内から金属製の箱を引き揚げてみたものの、中からは金の延べ棒ではなくアヘンが出てきてチームをガッカリさせ、そのまま船外へ投棄された。金以外にも司令塔全体、暗号機器といった残骸を引き揚げ、2000万ドルの費用を投じて洗浄・保存・腐食処理を行ったのち3年間ニューオーリンズで展示、それが終わると呉市に返還された。ティドウェルは再度伊52の引き揚げを行いたいと表明したが、目当ての金塊は見つからず、また水深5000mもの深海に沈んでいて莫大な費用が掛かる事から、今なおも実現していない。
2020年、元潜水艦士官で作家のデビッド・W・ジョーダンが伊52の艦歴と残骸の調査を328ページかけてまとめた『オペレーションライジングサン 日本の秘密潜水艦伊52の沈没』を出版した。
関連動画
関連項目
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