伊52とは、大日本帝國海軍が建造・運用した伊52型/巡潜丙型改潜水艦1番艦である。1943年12月28日竣工。1944年6月24日、中部大西洋上にて、護衛空母ボーグ所属の対潜哨戒機から攻撃を受けて沈没。
概要
巡潜丙型改とは、巡潜丙型…ではなく巡潜乙型改二をベースにした戦時急造型潜水艦である。要は巡潜乙型改三。伊52、伊53、伊55の3隻が生産された。
生産性を高めるため、乙型改二から更に航空艤装を撤去し、代わりに14cm甲板砲を1門追加するとともに、弾薬搭載数も2倍に増やして砲撃力を強化。即応弾も各門40発になっている。航空艤装の撤去は巡潜丙型でも行われているので、丙型の発展型と言えなくもないが、魚雷発射管の数は8門ではなく巡潜乙型と同様の6門であり、かえって雷撃能力は低下した。
機関については、乙型改二と同様に生産が容易な艦本式22号10型を採用しており、したがって最大速力が17.7ノットに、主電動機も従来の半分の出力となって水中速力も低下。しかし性能低下ばかりではなく、内殻板をDS鋼から軟鋼に変更しつつ板厚を厚くする事で耐圧深度を維持し、機関重量の低下と燃料搭載量の増加で航続距離は増大している。
排水量2095トン、全長108.7m、全幅9.3m、最大速力17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中)、ディーゼル燃料搭載量895トン、安全潜航深度100m、乗員94名。兵装は艦首魚雷発射管6門、魚雷19本、40口径14cm砲2門、九六式25mm連装機銃1基。
伊52は巡潜乙型を凌駕する長大な航続距離を買われ、遣独潜水艦作戦の第五次訪独艦に選ばれる。ドイツに派遣して最新技術を学ばせる民間人専門家と物資を乗せ、1944年4月23日にシンガポールを出港するが、伊52の動向は常に連合軍に監視され、6月24日にカーボベルデ諸島西方で護衛空母ボーグの対潜哨戒機から攻撃を受けて沈没。竣工から沈没まで僅か179日という短命に終わった。
こうして呂501に続いて2番目に大西洋で失われた日本潜水艦となる。大西洋で撃沈された枢軸国潜水艦の中では最大級の大きさであった。
ドイツに支払う金の延べ棒146本を輸送していた事から「黄金の潜水艦」とも呼ばれ、戦後トレジャーハンターたちがこぞって沈没地点を捜索。そして沈没からおよそ51年が経過した1995年5月2日に残骸が発見され、彼らによって引き揚げられた一部の物品は、防腐処理を施した上で呉市に返還されている。
ちなみに沈没前の伊52を写した写真は1枚も残っていない。多くの資料で「伊52」としている写真は、海大型の方の伊52(伊152)なので誤りである。一方、沈没後の写真はトレジャーハンターが撮影したので現存する。
艦歴
最後の訪独艦
1941年に策定されたマル追計画において丙型一等潜水艦第625号艦の仮称で建造が決定。
1942年3月18日に呉海軍工廠で起工、8月20日に伊52と命名され、11月10日に進水、1943年11月15日に艤装員長の宇野亀雄中佐が着任する。順調に工事が進んでいたが、完成間近の12月24日に揚弾筒の漏水が認められたため竣工日が少し遅れた。そして12月28日に無事竣工。艦長に艤装員長の宇野中佐が着任するとともに呉鎮守府に編入されて第1艦隊第11潜水戦隊へ部署。ちなみに宇野艦長は訪独を成功させた伊8艦長・内野信二大佐の元教え子だった。伊52は別府を拠点に伊予灘で慣熟訓練を行う。
1944年1月4日から11日まで、伊45や呂115とともに潜水母艦長鯨を標的とした襲撃訓練に従事し、伊45の統制を受ける。途中の1月6日、徳山の第3燃料補給所に寄港して給油。1月22日に補給のため呉へ寄港した。
1月24日、連合艦隊司令長官・古賀峯一大将が大海令第322号を発し、伊52を遣独潜水艦作戦第五次訪独艦に指定。遠く離れた同盟国ドイツへ赴く事となり、暗号名モミが与えられる。伊52は300トンの物資を積載出来、無補給で3万4000kmを航行出来る長大な航続距離が買われた訳である。この長い足のおかげでドイツ商船ボゴタによる洋上給油が必要無くなった。翌25日、海軍参謀本部はベルリンの駐独海軍武官に向けて「伊52は3月下旬にシンガポールを出港予定。松(伊29)よりも航続距離が長いため、途中で燃料補給は不要と思われる」と打電。
ベルリンにある帝國海軍の駐独海軍武官室が約40名を動員してドイツ側との調整を行い、日本との通信や伊52への指令なども全て武官室の関係者が担った。しかし如何に同盟国と言えど、ドイツ側が最先端技術を易々と譲渡してくれるはずがなく、厳しい条件下での交渉が行われて中々折り合いがつかなかった。そこで、ヨーロッパでは採れない東南アジア産天然資源や金塊2トンを代金代わりに供与するという方向で、駐日ドイツ海軍武官パウル・ヴェネッガー大将と何とか話をつけた。
1月31日に呉を出港した伊52は一旦江田島で待機。2月1日に同島を出港して伊予灘で訓練に従事する。2月4日、東京の軍令部はシンガポールの第1南遣艦隊に伊52の出港スケジュールを通達し、シンガポール停泊中にドイツ向けの物資を積載出来るよう準備を命じた。2月9日から11日まで別府で乗組員を休養させたのち再度伊予灘で訓練。2月22日に呉へ入港して訪独に向けた準備を開始する。道中の大西洋は連合軍の対潜哨戒が厳しいため2月中に後部甲板砲を下ろして25mm連装機銃2基に換装、司令塔前部に22号電探を装備して対空能力の底上げを図った。
出港前に日本銀行大阪支店から49個の金属箱に収められた146本の金の延べ棒(純度99.5%)を積載。これは当時の価格だと770万128円64銭になる。この金塊は伊52がドイツから持ち帰る水銀300トン、T-5音響魚雷、ロケットエンジン及びジェットエンジンの図面、新型エニグマ暗号機、地上用ウルツブルク・レーダー逆探知装置、潜水艦用レーダー、ベルリン型9センチ波レーダー、レーダー装置の真空管多数、鹵獲した米英軍の計器類などの代金であった。3月6日、ベルリンは伊52を通じてインド洋の気象情報をドイツに送るよう東京に要請している。
訪独任務に従事する事となった宇野艦長は、かつての教官で第二次遣独潜水艦作戦を成功させた内野大佐のもとを訪れ、「ロリアンに到着するまで、独は持ちこたえられるでしょうか?」と尋ねた。だが内野大佐は何も答える事が出来なかった。戦後内野大佐は「本当に彼には同情しました」と語っている。乗組員も今回の訪独任務は限りなく生還率が低いものと確信していた。彼らは出発前に里帰りし、ある者は生前に墓を建て、ある者は世話になった人への挨拶回りを済ませ、遺書を書き残していた。
この頃からアメリカ軍は暗号解析により伊52の動向を探り始め、断片的ながら情報を入手して監視下に置こうとしていた。ただ当初はまだ情報の精度に問題があったようで「伊52はモミではなく、モミはペナン沖で沈んだ伊34もしくはイタリアの潜水艦」「モミを支援する救援船が伊52」といった誤った判断も下している。
苦難の旅路に赴く
本土からインド洋脱出まで
3月10日午前8時50分、中継点であるシンガポールへ向けて呉を出港。宇野艦長ら士官11名と水兵48名が乗り組んでいた。同日中に第6艦隊第8潜水戦隊へ転属。本土とシンガポールを結ぶ航路でも既に米潜水艦の跳梁が始まっていたため、日中は潜航、夜間のみ水上航行を行ってバッテリーの充電を行った。
3月21日にシンガポールへ入港。現地で乾ドックに入渠し、ドイツが求める東南アジア産資源270トンを積載する予定だったが、宇野艦長の提案で290トンまで積載量を増やす事に決定。
タングステン102トン、錫120トン、モリブデン9.8トン、カフェイン58kg、アヘン2.88トンやキニーネ3トンといった医療品、生ゴム54トン、その他暗号書数冊、陸軍から依頼された文書など300トンを超える物資、ドイツ海軍作戦部が輸送を要請したインド洋の気象情報及び帝國海軍の気象参考資料、技術を学ぶためにドイツへ派遣される民間技術者7名、暗号員5名、通訳1名を乗せる。民間技術者は各軍需産業から艦政本部に身分を移して海軍嘱託となったトップの技術者で、「ダイムラーベンツ社から魚雷艇用エンジンの製造法取得」「艦上用高射砲指揮装置に必要不可欠な先端技術の持ち帰り」といった秘密の命令が各々に与えられていた。
4月23日にシンガポールを出港。伊52は片道3万kmにも及ぶ苦難の旅路の第一歩を踏み出す。
インド洋への最短ルートはマラッカ海峡を通る事だが、海峡内では英潜水艦の跳梁が激しく、去る1943年11月13日、第三次訪独艦の伊34がマラッカ海峡を通過中に英潜水艦トーラスの待ち伏せを受けて撃沈。出発の4日前にも英潜水艦タンタラスがタグボートを沈めていた。このためマラッカ海峡ではなくスンダ海峡へ迂回してインド洋に進出。日中は潜航し、夜間のみ水上航行して敵の対潜哨戒網を掻い潜る。4月27日、シンガポールからの通信を傍受。
スマトラ島西方では英潜水艦テンプラーが哨戒し、英東洋艦隊がコロンボから長駆してスラバヤへの空襲を仕掛けるなど不穏な雰囲気に包まれていたが、幸い捕まる事なく突破。巡潜丙型改は巡潜乙型よりも航続距離が長いため洋上補給は必要なくスムーズにインド洋を西進した。
5月2日22時、在独海軍武官は、ドイツ海軍作戦部からの「敵空母が中部大西洋に出現した。松(伊29)と皐月(呂501)はドイツ海軍作戦部が定めた航路に厳格に従う必要がある。ドイツ艦艇による皐月への補給は不可能である。この情報はモミ(伊52)にも通達せよ」という電文を中継し、伊52に伝えた。翌3日21時、ベルリンの海軍武官は東京に伊52に乗っている士官、乗組員総数、便乗者の氏名を問い合わせた。
しかし暗号解析によってアメリカ軍は5月7日に伊52のシンガポール出港を把握(シンガポール周辺を監視するスパイからの報告説もある)。また毎日正午に位置情報を、夜間に必ず短い信号を日独に向けて発信していた事もあり、暗号通信を傍受してから4~5日の間に英訳化された報告書まで作られていた。
5月10日にはフランス西部に向かっている事、推定航法によって南緯20.39度、東経77.27度にいる事が割り出される。ワシントンの司令部にある壁には日独全ての潜水艦の位置がリアルタイムに記載されていた。戦後公開されたアメリカ公文書館の記録によれば、伊52に誰が乗り組み、どのような荷物を積み込んで、何の目的でドイツに向かっているのかまで把握されていたという。伊52に関する機密文書は何と2000ページに及ぶ。
5月11日、キールを出港して日本へ回航中の呂501から「付近は警戒厳重であり、3日間に渡って爆雷攻撃を受けている」との通信が東京へ入り(打電自体は5月6日)、この通信を伊52に中継する。
5月15日に1年中天候が荒れている難所こと南アフリカ南端の喜望峰沖へ差し掛かった。アフリカ大陸南端にはイギリス軍や南アフリカ軍の航空基地があり、2ヶ月前の3月11日にはそこを拠点に哨戒するPBYカタリナ飛行艇にペナン行きのUIT-22が撃沈されていた。敵の哨戒圏は800海里と予想されたため、これを避けるべくドイツ側から喜望峰南方500海里へ迂回するよう指示があったが、それを行うには南緯40度線を中心に東西約1600km、南北約320kmの広大な海域に渡って常時風速40mに及ぶ西向きの暴風が吹き荒れる、通称ローリング・フォーディーズと呼ばれる暴風圏を突破する必要があった。人智を超えた暴風と荒ぶる波が伊52の行く手を遮る。
大西洋進出後
5月20日にようやく喜望峰を通過して南大西洋へ進出。ここまで来ると波は穏やかだった。ドイツとの無線通信が可能になったので宇野艦長は最初のメッセージを送る。対するアメリカ軍の暗号解析班は南大西洋に入った伊52の現在位置と予測航路をすぐに割り出してハンターキラーグループに通報。5月22日、伊52との合流を命じられたU-530がロリアンを出港する。5月30日、ドイツ海軍は日本の潜水艦が大西洋に入った事を作戦中のUボートに伝達し、その特徴を伝えて誤って攻撃しないよう厳命した。
大西洋はレーダーを持った哨戒機やハンターキラーグループがひしめいており、伊52が南大西洋へ到達した時点で、ペナン基地を目指していたU-177、U-801、U-851、U-1059、呂501が大西洋を出る前に撃沈。5月中だけで計23隻のUボートが失われていたのである。今やドイツ海軍は大西洋の戦いに敗れて制海権・制空権を失い、積極的な通商破壊作戦も事実上停止へと追いやられていた。
ベルリンの駐独海軍武官小島秀雄少将は、これまでの例から北大西洋を突破するにはドイツの優れた逆探知装置が必要だと考え、「6月22日に北緯15度西経40度の座標で独潜水艦U-530と合流せよ」と伊52に指示。しかしこの通信は連合軍に傍受・解読されてしまう。アメリカ軍は「伊52の積み荷がドイツに渡る事は絶対にあってはならない」とし、大西洋を担当する第10艦隊のF-21潜水艦追跡室とF-211秘密室は、護衛空母ボーグと護衛駆逐艦5隻からなる対潜掃討専門グループ第22.2任務群に伊52迎撃を命じた。
6月1日、ベルリンの海軍武官は目的地ロリアンでの伊52受け入れ準備を始めるとともに、伊52が運んでいる積み荷や便乗者などについての仔細を海軍省軍務局に求めた。
6月5日17時、ドイツ海軍作戦本部は「伊52が既にドイツへ到着したとの偽情報を流して連合軍を撹乱してはどうか?」という提案を日本側に行い、15日20時に東京とベルリンで同時発表の計画を立てていたが、これも連合軍に解読されてしまっている。間もなくノルマンディー上陸作戦が始まった事で偽情報計画は立ち消えとなった。
6月6日、小島少将は「連合軍がノルマンディーに上陸した。ロリアンへの入港は危険であり(ノルマンディーはロリアンの北東250km先とかなり近い)、状況によってはノルウェーまで行かなければならない」という旨の警告を東京と伊52に打電。この通信を傍受したアメリカ軍は早速アゾレス諸島沖で活動中の対潜掃討部隊に警戒を促した。翌7日、再び小島少将より「駐在武官からモミ艦長へ。連合軍がフランスのルアーブルとシェルブールの間の海岸に6月6日以来上陸している。目的地は依然ロリアンであるが、状況によってはノルウェーになるかもしれない」との伝達があった。
日に日に大西洋が危険な場所と化していく中、6月9日に駐独武官から「U-530と伊52の合流は6月22日夜に行うべし。貴艦は浮上後、緯度線と平行方向に航行せよ。会合点を中心に往復しつつU-530を待て」「U-530は潜航しているため最初は必ず水中聴音機で推進音を聴き、それからその場所へ向かうように。夜明けを迎える前に潜航退避せよ」「もし最初の日に会合出来なければ、同じ方法を翌朝まで試みる。それでも成功しない場合は無線で報告せよ」「目的地がノルウェーに変更される場合もある。そうなれば燃料が不足するだろうが、ドイツ軍側が燃料補給を行う事は非常に困難である」「合流後は子午線に沿って進み、その後はドイツ海軍の指示に従ってスペイン沿岸を北上せよ」と通達を受けた。
6月11日に訪独を終えて帰国中の伊29とすれ違う。両艦は通信を交わす事なく無言で離れていった。当日中に伊52はベルリンに向けて「燃料は十分、食料は3ヶ月分残っている」「寄港先がノルウェーに変更されても対応可能」「11ノットで航行中」と打電。更に西アフリカ沖にいるとの位置情報も添えた。翌12日20時50分、11日前に求められた質問の回答として乗組員・便乗者の名簿と積み荷の詳細が軍務局から送信された。
6月15日、迎撃の任を帯びた第22.2任務群がカサブランカを出撃。U-530ともども伊52を葬り去るために。同日夜、伊52の航路付近でU-860が米護衛空母ソロモンズの艦載機7機に襲われて沈没。それはまさに伊52の行き先を暗示しているかのようだった。翌16日、この日から伊52の行動はより事細かに海図上へ刻まれるようになり、それらの情報を基にボーグがスペイン沖を一気に南下、24時間体制で伊52を探し始めた。伊52の上空にかなりの頻度で対潜哨戒機が飛来し、いつ見つかってもおかしくない状況に陥る。
6月20日、ベルリンの日本大使館から「連合軍の空母が北緯15度西経30度付近に出現、付近のUボート2隻が失われた」と東京の海軍省に警告(傍受したアメリカ軍は護衛空母ブロックアイランドの事だと判断)。一方、ボーグでは対潜哨戒機が伊52を求めて積極的に離発着していたが、このうちアベンジャー2機が海に墜落する事故が発生。パイロットはゴムボートで救助されたものの、機体から離れた直後に搭載爆弾が起爆して2機とも木っ端みじんになっている。
6月22日、厳重な航空哨戒を掻い潜って伊52はカーボベルデ諸島西方1580kmの合流地点で浮上し、U-530の到着を待つ。北大西洋では今でもレーダーを持った哨戒機が乱舞し、またロリアンへ辿り着くにはイギリス本国の眼前であるビスケー湾を突破しなければならず、優秀な逆探装置は必須である。U-530も合流地点に到着していて伊52を探し回っていたが、この日は合流出来なかった。
U-530との合流、そして敵襲
6月23日夕刻、第22.2任務群が会合地点に到着。狙われているとは知らずに20時20分、伊52はU-530との合流に成功、すぐさま燃料補給を受ける。
伊52の威容を見たU-530乗組員は「あの日本潜水艦はとても大きくて、美しい艦だった」と回想している。連絡将校アルフレッド・シェーファー大尉、レーダー操作員のクルト・シュルツェ二等兵、ロルフ・ベーレント二等兵、FuMB7 ナクソスレーダー探知機、エニグマ暗号機をゴムボートを使って伊52へ移乗させる。移動する際にレーダーが海中に落ちてしまうトラブルがあったものの、伊52乗組員が飛び込んで回収したため事なきを得た。また日本語を話すU-530乗組員が宇野艦長にロリアンへ無事辿り着くためのアドバイスも行っている。過酷な旅路を歩んで来たにも関わらず伊52乗員の健康状態は良好だった。
シェーファー大尉が乗艦した事で伊52はドイツ海軍作戦部の指揮下に入る。
2時間かけて交換を終えるとU-530はトリニダード方面へと潜航して去っていった。U-530乗組員の1人であるラインハルト・カースティンは「日本の潜水艦の司令官は我々に丁重に別れの挨拶をした。その後、日本側は自分たちの進路へ進み、U-530も予定通り潜航した」と記録を残している。艦長のクルト・ランゲ中尉は「いつ敵機が現れてもおかしくない」と神経質になっており、一刻も早く合流地点から逃げ出そうとしていた。
伊52の艦内ではシュルツェ二等兵、ベーレント二等兵、シェーファー大尉の指導のもと、ナクソスの設置作業と調整を実施。テストを行うにはどうしても水上航行をしなければならなかった。またナクソスはすぐに使用可能になるという訳ではなく、ヨーロッパ大陸に近づいた時に初めて運用出来る予定だった。宇野艦長は嵐に身を隠して移動出来ると考えて思い切って水上航行を選ぶ。しかし宇野艦長の考えとは裏腹に、悪天候の中、23時より護衛空母ボーグからTBFアベンジャーが出撃。伊52がいる海域の捜索を開始する。
23時39分、ボーグから90km離れた先でジェシー・テイラー少佐駆るTBF-1Cアベンジャーが伊52をレーダーで捕捉、照明弾2発を投下して2095トンもの巨体を照らし出す。これまでに見た事もない大きい潜水艦だった。どうやらナクソスはまだ稼働状態に無かったようで伊52は接近されるまで敵機に気付かず、慌てて甲板上の乗組員が艦橋のハッチへと駆け込んで急速潜航を開始、アベンジャー側も高度90mからMk54爆雷2発を投下するが、1発は右舷6mに、もう1発は同じく右舷15m離れた場所で炸裂。致命傷には至らなかった。その隙に伊52は潜航して海中へ沈み込む。
一度頭上を航過したアベンジャーは伊52の左前方を旋回したのち左舷艦首に向けて直進。伊52は既に水深80mまで潜っていて海面には僅かな航跡が残っているだけだった。するとアベンジャーは1平方マイルの海域に、紫、オレンジ、青、赤、黄の5つのソノブイを投下し、伊52のスクリュー音を探知。Uボートのものとは明らかに違い、そしてあまりに大きな異音だったという。
23時47分、この音を頼りにアベンジャーは音響魚雷Mk24ファイドを発射――これはハーバード大学が開発した、スクリュー音に引き寄せられる回避不能の魚雷で、今回が初めての運用だった――23時50分に大きな水中爆発音を聴き取った。聴音手曰く、それは「ブリキ缶が潰れる音に似たパチパチ、カリカリという音」だった。伊52が沈没を免れた時に備え、アベンジャーは新たに3つのソノブイを、伊52の推定位置を囲むように敷設する。
ファイドを受けて損傷しながらも伊52はまだ生き残っていた。
最期
1944年6月24日午前0時54分、ウィリアム・D・ゴートン中尉が操縦する新手のアベンジャーが到着して更に多くのソノブイを投下。2機のアベンジャーが円を描きながらソノブイから聞こえてくる音に耳を傾ける。
午前1時頃、ゴートン機に便乗していた民間の水中音響専門家プライス・フィッシュが「近隣海域でかすかなスクリュー音を聞いた」と報告、任務部隊司令のアウレリウス・B・ヴォッセラー大佐が攻撃を命じたため、その海域へ向けて再びファイドを発射。午前1時15分、燃料不足のためテイラー機が帰投する。警戒飛行を続けるゴートン機には「もし潜水艦の気配を察知すればMk24爆雷を投下せよ」という命令が与えられていた。
午前1時45分、北に設置したソノブイから大きなスクリュー音が聞こえ、伊52が北方へ逃げようとしていると判断したゴートンは、9分後に3本目のファイドを発射した。魚雷は17分間に渡って航走するも爆発音が聞こえる前にバッテリー切れを起こした。
ところが午前2時13分に突如として断末魔が30秒間に渡って轟く。右舷司令塔後方にファイドを喰らった伊52は致命傷を負い、艦体が軋む金属音、空気が漏れ出る音、そして水圧によって潰される音が続いたのち、最後に鈍い爆発音が響いて何も聞こえなくなった。乗組員95名、乗客14名、ドイツ水兵3名全員死亡。その際にソノブイが聴音した伊52の圧壊音は「ゴートン・ワイヤーNo.1」「ゴートン・ワイヤーNo.2」の名称で戦時中の教材に使われた他、ワシントンD.C.の米国国立文書館に現在も残されている。ゴートン機が燃料不足で退却した後はブレイディ機が監視を引き継いだ。しかしもはや何の音も聞こえてこなかった。
爆発音はU-530にも聞こえていたようで生存者の救助を試みようとしたが、U-530もまた攻撃を受けて損傷し、命からがら逃走に成功した。
朝になると護衛駆逐艦ヤンセンとハーバーフィールドが現場海域に出現。特に残骸や油膜は無く、強いディーゼル臭だけが感じ取れた。午前11時45分、上空から捜索していたボーグの搭載機が大きな油膜を発見し、ハーバーフィールドが調査を開始する。16時58分にヤンセンが大きく広がっている油膜と大量の残骸を発見。2隻は撃沈の証拠となる大量の生ゴム俵、ゴムサンダル、黒い絹の釣り糸、破片等を回収した。周辺には人肉に引き寄せられたと思われるサメが大量に集まっていたという。
この戦果によってボーグの艦体には軍艦旗が描かれた潜水艦のキルマークが刻まれている。伊52はファイドによって撃沈された日本潜水艦5隻のうちの1隻となり、また大西洋で沈没した枢軸国潜水艦の中では最大の大きさだった。
その後
6月27日、U-530は伊52との会同に成功したとの電文を打ち、駐在武官室は歓声を上げた。そして北フランスの戦況を伊52に伝えながら受け入れ準備やドイツ側との調整に奔走。帰国予定の海軍駐在員及び技術者17名と陸軍の技術士官10名の計27名が伊52へ乗り込む予定だった。
沈没後の7月30日、ロリアン近郊のドイツのラジオ局が文字化けした到着信号を受信し、解読してみると伊52が港まで36時間以内の場所にいる事が判明。翌日にも同一の信号が傍受された。これを受けて8月1日午前4時30分、ロリアンに護衛兵力のM級掃海艇3隻とT級魚雷艇1隻が急派され、波止場には伊52が日本へ持ち帰る物資(T5音響魚雷、真空チューブ、爆撃照準器、合金鋼、1000ポンドの酸化ウラン、光学ガラス等)が用意されたが、当然の事ながら入港しなかった。8月3日、ドイツ海軍と駐在武官室が伊52に「護衛艦艇が合流地点にて待つ。合流出来ない場合は理由を報告せよ」と電文を送ったが、返信は無かった。
8月8日、小島少将は伊52にロリアン入港は危険過ぎるとしてノルウェーへの回航を指示。やはり伊52からの応答は無い。8月30日23時15分、ドイツ海軍は「伊52は7月25日の時点でビスケー湾で沈没したと推測される」と公式に発表。帝國海軍は8月2日にビスケー湾方面で喪失とし、12月10日に除籍。伊52は呂501に続いて2番目に大西洋で喪失した艦となった。仮にロリアンまで到着していれば現地でシュノーケルの搭載工事を受ける予定だったという。
極秘任務だったため乗組員や民間技術者の遺族には行き先が伝えられておらず、「日本から出撃した後に行方不明になった」という事しか分からなかった。1945年に遺族のもとへ戦死公報が届くも、その公報には「任務が重大な国家機密に属するため口外を禁ずる」と書かれ、昭和天皇から見舞金が贈られている。
戦後
当初伊52撃沈はテイラー少佐とゴードン中尉両名の功績とされ、伊52が最初の攻撃で撃沈したのかどうかは不明だった。伊52の残骸が発見(後述)された後に、ゴードン・ワイヤーの音響をジョンズ・ホプキンス大学応用物理研究所の専門家が調査したところ、テイラー少佐が撃沈したと結論付けた。つまり伊52は最初の音響魚雷で撃沈されていた事になる。ちなみにゴートン・ワイヤーが録音したスクリュー音は32km離れた先にいたU-530のものだった。これが本当ならば、伊52の戦没日は日付が変わる前の6月23日となる。しかし多くの資料では6月24日を戦没日としている。
1947年、アメリカ陸軍は海軍作戦部に伊52の残骸の引き揚げを提案。だが水深5200mに沈む伊52を当時の技術でサルベージするのは困難であり拒否されている。
戦後、伊52が時価30億円に及ぶ金塊を抱えて大西洋に沈んでいる事を知ったアメリカのトレジャーハンターたちは、金塊を求めて伊52の残骸を探していた。しかし、当時はまだ伊52の沈没地点は軍事機密として公開されておらず、トレジャーハンターはロリアンまで36時間以内の場所にいるという謎の電文をヒントに捜索を行ったが当然特定出来ず、思いのほか捜索は難航。事態が急展開を迎えたのは1980年代後半にアメリカ軍が機密文書を公開して沈没地点が一般市民にも知れ渡った事だった。アメリカの海洋研究家ポール・ティドウェルは5年以上に渡ってアメリカ、イギリス、ドイツ、日本の資料を読み漁って伊52の沈没地点を推定。
1994年後半、積み荷の金塊を回収するプロジェクトオルカが始動。研究成果を基にティドウェルはワシントン州レドモンドのサウンド・オーシャン・システムズ社と契約を結び、1995年4月12日に捜索隊を乗せた船がブリッジタウンを出港、沈没地点を中心に捜索を始める。しかし2週間が経っても伊52の残骸が見つからず乗組員に苛立ちが募り始める。燃料が尽き始めた5月2日朝、ソナーの画面に小さな反応が映った。ロシアの海洋調査船ユツモルゲオルギア(ちなみに同船は水深5240mに沈むタイタニック号の残骸の撮影にも使われた)を投入し、ついにカーボベルデ西方1200海里の水深5200mに横たわる伊52の残骸を発見、送られてきた映像を見て参加者全員が安堵の表情を浮かべるのだった。
司令塔は無事で艦体番号も確認出来たが一方、艦首は粉砕され、司令塔後方には魚雷によると思われる大きな穴が開いていた。早速伊52を引き揚げて金塊を回収しようとしたころ、日本政府が「沈没船は乗組員にとっての墓である」との見解を示して反対したため、ティドウェルと政府の間で適切な手続きを進めた結果、「引き揚げた金塊を貰う代わりに残骸は日本政府に渡す」という条件で許可が下りた。ティドウェル率いるサルベージチームはまず軍艦旗を回収し、伊52の艦体に張り付ける。次に艦内から金属製の箱を引き揚げてみたものの、中からは金の延べ棒ではなくアヘンが出てきてチームをガッカリさせ、そのまま船外へ投棄された。金以外にも司令塔全体、暗号機器といった残骸を引き揚げ、2000万ドルの費用を投じて洗浄・保存・腐食処理を行ったのち3年間ニューオーリンズで展示、それが終わると呉市に返還された。
1999年、ティドウェルは伊52乗組員の遺族数名と面会。2005年11月か2006年5月を目途に再度伊52の引き揚げを行いたいと表明したが、水深5000mもの深海に沈んでいて莫大な費用が掛かる上、加えて目当ての金塊が見つからなかったせいでティドウェルの資金が尽きてしまい、今なおも実現していない。
2020年、元潜水艦士官で作家のデビッド・W・ジョーダンが伊52の艦歴と残骸の調査を328ページかけてまとめた『オペレーションライジングサン 日本の秘密潜水艦伊52の沈没』を出版した。
関連動画
関連項目
- 0
- 0pt

