宮城県道・福島県道107号赤井畑国見線とは、宮城県の南部にある白石市(しろいしし)と、福島県北部に位置する国見町(くにみまち)を結ぶ県道である。
通行状況
起点~水晶森林道合流地点(約1.5km)
宮城県白石市の南西部、赤井畑の集落内において宮城県道・福島県道46号白石国見線より分岐。ここを起点とする。分岐後しばらくの間は、地方の集落外れによく有る細めの道と言った呈で南下する。しかし400mほどで早くも舗装は途切れ、その先は林道とかわらない未舗装の道となる(ストリートビュー) 。
途中で沢中橋という橋を渡りながら1.1kmほど進むと、福島県の側から石母田峠を越えて来た、水晶森林道と合流する。
水晶森林道合流地点~山崎峠(約3.5km、通行禁止区間)
水晶森林道の終点である合流地点は、小さな広場のようになっている。そしてこの広場から先の、県境である山崎峠までの約3.5kmは、1992年より通年通行止め規制のかけられている区間となる。当然ながらこの区間内は通行する者もほとんどおらず、道は非常に荒れて事実上の廃道となっているが、にもかかわらず「現道」として県道指定されているため、「現役廃道」として一部では知られるに至っている
事実上の廃道区間になってのち500mほど進むと、この県道唯一のトンネル、七里沢隧道(約110m)に行き当たる。しかし隧道内は通路に水が溜まり、天井から一部資材が剥がれ落ちかけているなど、前後の区間と変わらない荒れ様を見せており通行には危険が伴う。トンネルによって小さな尾根を越え、隣の沢筋に抜けると、道は左に急カーブを切って再び南下を始める。
再び南下を開始して以後も、崖崩れ、路肩の崩壊、倒木、路面のヤブ化などは容赦なく連続しており、ここが本当に車道なのか疑わざるを得ない状況が続く。それらを乗り越えつつ進んで行くと、隧道出口より約800mほど進んだあたりで、沢側に三泰鉱山跡への車道を分岐。更に500mほど進んだあたりで、旧道との推定交差地点へと至る。しかし鉱山跡への車道、旧道とも使用されなくなって久しい道であり、特に旧道は単なる山道(人道)だった可能性も高く、そのため交差に気付くことはほぼ不可能と考えられる。
旧道との推定交差地付近から次第に峠へと向かう道になり、坂道やカーブなども目立ち始めるものの、道の荒れ具合は次第に少なくなる。約1.1kmほど進んだあたりで先ほど交差した旧道との最終的な合流地(推定)を通過するが、こちらも痕跡を見つけることはやはり無理なものと思われる。推定合流地から更に400mほど進むと、県境である山崎峠に至り、ここで通行止め区間はようやく終了となる。
山崎峠~藤田集落(約5.7km)
山崎峠は広場のようになっており、眺望こそ利かないものの、休憩などするには丁度良い場所となっている。しかし一時的な貯木場としても使われることがあるらしく、常に支障なく通行できるかは不明である。
この峠までで通行禁止区間は終了となっているため、例えば国見町の中心部からこの峠まで普通乗用車で赴くことも一応出来るようにはなっている。しかし福島県の側もまた、林道と変わらない区間が長く続いているため、自動車などで赴く場合は或る程度、未舗装の道に慣れていることが望ましい。
峠の付近からは、地図によれば行き止まりとなっている林道が2本伸びている。また峠から200mほど進んだ地点で西側に鳥取林道、更に1kmほど先の地点で東側に西畑林道など、当県道とほとんど見かけの変わらない道が幾本か分かれている。西畑林道との分岐から1.5kmほど進むと、東京電力の事故によって出た除染ゴミの仮置き場に至り、ここから再び舗装が始まる(ストリートビュー)。
国見町側の道筋もまた山が深いものの、随所に展望の開ける箇所があり、時には眼下の広々とした景色に目を奪われることとなる。果樹園の跡なども見ながら次第に高度を下げて行くと、舗装の再開地点から約2.9kmほどで東北自動車道を跨ぐ橋へと至り、以後は国見町の中心集落である、藤田の市街地を進むこととなる。
藤田集落~終点(約2.3km)
橋を渡り、東北本線の踏切を渡りながら1.1kmほど進むと、まもなくJR藤田駅の目前に達する。この駅と当県道の間には、深い歴史的かかわりの有ることが分かっている。
駅前の丁字路を左折し600mほど進むと、間もなく当県道で初めての、信号機のある丁字路交差点に行き当たる。信号機のある交差点を再び左折したのちは、国見町の中心に位置する小さな商店街の風情を楽しみつつ200mほど進むこととなる。次の信号機を右折して300mほど進むと、国見町の役場前にて国道4号線との十字路交差点へと行き当たるが、そこにて当県道も終点を迎える。
※文中の距離は実測ではなく、ネット上の地図サイトで計測したものです。また通行止め区間についての説明は、机上調査などを参考に予想される状況を再構成したものです。そのため正確な現状を反映していない可能性が有ります。どうかご注意下さい。
旧道
あまり知られていないが、当県道にはその前身となった道筋が存在しており、戦前の地図にはその経路が記録されている。
その道筋は、まず現道の東側より沢伝いに南下し、間もなく現道に合流。そののち水晶森林道との合流地点までは現道とほぼ重なって進む。合流地点からは現道を離れ、途中で沢中熊野神社の前を通りながら水晶森林道を900mほど進む。その辺りから進行方向右側の沢を渡り、さらには小さな尾根を登って無名の峠を越え、現道との交差地点に達する。一度交差してから沢筋に至り、しばらく沢に沿って谷底を南下したあと、そこから坂を上るようにして最終的な現道への合流を果たす。
主要データ[1]
道の歴史
江戸時代まで
現在の宮城県と福島県の県境はまた、かつて下紐の関と呼ばれる関門が置かれ、奥州藤原氏と源氏との間で一大決戦が行われるなど、古代からすでに重要な自然境界でもあった。しかし江戸時代には、宮城県側は伊達藩、福島県側は天領(幕府領)と別れたことから、当県道の周辺は、複雑な権利関係の入り混じる特殊な場所となった。
これは日本三大銀山とも呼ばれた半田銀山が近くにあり、それに連なるかのごとき中小鉱山が周辺に多数存在していたこと。北の仙台伊達藩、西の米沢上杉藩といった、外様の雄藩に対抗する根拠地として、幕府が現在の福島県北部を重視していたこととも関係している。幕府は住民からの支持をつなぎとめるために、本来は伊達藩領である現在の白石市南西部の山々へも、天領の住民が立ち入れる特権を与えたが、そのため当県道の一帯は、非常に山深いながら早くから多くの人々の利用する所ともなった。
江戸時代に入ると、現在の白石市南西部から七ヶ宿町の東部にかけては、行政の境を越えて当時の藤田宿(現在の国見町)の経済圏に組み込まれるようになった。またすぐ西側には、出羽の諸大名が参勤交代にも使用した七ヶ宿街道が通っていたが、その道筋には伊達藩の関所が儲けられていた。そのため当県道の前身にあたる道筋は、住民の生活路として、或いは旅人の脇街道として盛んに利用された。
明治~昭和(戦前)
時代が明治に移ると、富国強兵を志向する政府の方針に従い、現在の県道沿いにおいても多数の鉱山が開削され始めた。それらのほとんどはごく小規模なものに過ぎなかったが、中には現在の水晶森林道沿いに存在したと思われる七里沢鉱山、そして三泰鉱山[2]のような、それなりの規模を有するものも見られた。そのため周辺地域は、次第に有望な資源産出地として知られるようになっていった。
この道筋が県道として指定された背景には、これら鉱山との密接な関連が存在したものと考えられる。
それらの中でも特に先述した三泰鉱山(1910年頃に発見)は、のちに都市部からの資本も入ったことで大きく発展した。有望な鉱山として活況を呈しただけではなく、大規模な精錬所を設けて遠方の鉱山の精錬までも引き受けたため、受け入れ口となった藤田駅との間では多数の鉱石運搬車が往復していたとされる。また最盛期には、県道の起点である赤井畑集落にも鉱夫用の宿舎が建てられ、鉱山の敷地には学校や映画館までもが建設されて、この奥深い山懐に一つの新しい街が誕生したかのようだったと伝えられる。
昭和(戦後)~1992年
太平洋戦争が敗戦によって終結すると、傷ついた国土を復興させる必要から、失われた海外領土に変わって国内に資源が求められ始めた。当時の宮城県はその状況に応じ、県内における鉱山地帯を開発する方針を決定した。実際のところは不明であるものの、現在の「赤井畑国見線」が県道として指定された、これが直接の原因であった可能性は高いと考えられる。
認定された時期が比較的遅かったこともあり、県道として実際にどの程度の整備がされたのかについては、不明な部分も多い。とは言え現在の車道のほとんどは、七里沢隧道なども含め、恐らくこの時期に整備された可能性が高いものと推定される。
しかしこの地で最大の三泰鉱山でさえ、遅くとも1948年ごろまでには閉山していた可能性が高く、また周辺の中小鉱山も、埋蔵量などの問題から同時期にはほとんど(または全て)が廃鉱となっていた。加えて1960年代ごろを境に、次第に海外産の安価な原料が出回るようになり、国内での資源採掘にこだわる必要性は薄れていった。
そのため皮肉なことに、採掘地帯として行政からも有望視され、整備が始められたころ、沿線は既に衰退へと向かうより他無い状態となっていた。そして鉱山再開の可能性が無くなると、沿線の大部分はもともと人家すらない山中だったことから、幹線道路でありながら地元の住民以外は誰も知らない道筋へと、次第に陥らざるを得なかった。
1970年代になると、廃鉱となっていた三泰、七里沢の両鉱山に残されていた有毒物質が川に流れ、下流の養魚場の魚が全滅する大規模な鉱害事件が何度も起きるようになった(国会会議録検索システム)。そのため1982年には対策工事が行われたが、これが三泰鉱山に四輪車が入ったらしい最後の記録となった。
県道そのものについても、1990年代の初めまでは、かろうじてオフロード車なら走行出来たようだったものの、1992年には通年通行止め区間が設定され、車両の進入そのものが禁止される状況となった。
現在
2018年現在ではその道筋は完全に荒れており、特に通行止め区間については、徒歩による通行さえ困難な状態となっている。管理している宮城県、福島県のいずれも、沿線のほとんどの区間に人家も無く、極めて通行量の少ないこの県道について「当面修復する予定は無い」としており、隣接する宮城県道・福島県道白石国見線を迂回路として利用するように呼び掛けている。
主な出来事
1887年(M.20) | 現在の国道113号、小原新道~二井宿峠間の車道化完成。 | |||
1897年(M.30) | 地図上で人道表記 | ◆ | ||
1900年(M.33) | 9 | 5 | 東北本線、藤田駅開業 | |
1908年(M.41) | 地図上で人道表記 | |||
(このころ三泰鉱山発見か?) | ||||
1912年(M.45) | 3 | 30 | 地図上で人道表記 | |
1926年(T.15) | 8 | 30 | 地図上で人道表記 | |
1934年(S. 9) | 11 | 三泰鉱山が高森平吉氏(大阪市)の経営に。青化精錬所(月50t)を建設。 | ||
1935年(S.10) | 11 | 30 | 地図上の表記が車道の可能性のあるものに。七里沢隧道が初出。 | ◆ |
1936年(S.11) | 9 | 25 | 現在の国道113号、県道指定される | |
1937年(S.12) | 三泰鉱山が松本氏(東京市)の経営に。のちに新鉱脈が発見される | |||
1939年(S.14) | 11 | 三泰鉱山が東北鉱山株式会社の経営に。 | ||
1940年(S.15) | 5 | 11 | 三泰鉱山に小原小学校天拝分教場が開校(1944年4月1日閉校) | |
1941年(S.16) | 6 | 三泰鉱山に優先浮遊選鉱場(日200t)が完成。 | ||
1943年(S.18) | (このころ三泰鉱山が閉山か?) | |||
1945年(S.20) | 1 | 15 | 福島県道藤田赤井畑線の認定。県道化の初出。[3] | |
1947年(S.22) | 11 | 13 | アメリカ軍による航空写真撮影。 | ◆ |
1948年(S.23) | 3 | 31 | 三泰鉱山鉱業特設電話所の廃止。(閉山のためか?) | ◆ |
1950年(S.25) | 宮城県県土総合開発計画が策定される。 | |||
1953年(S.28) | 現在の七里沢隧道が開通。 | ◆ | ||
1958年(S.33) | 3 | 31 | 赤井畑国見線が県道として路線認定。 | |
1982年(S.57) | 三泰、七里沢鉱山跡において鉱害防止工事が行われる。 | |||
1992年(H. 4) | 12 | 落石の恐れのため白石市七里沢~山崎間が通行止め指定される。 | ◆ |
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関連エピソード
旧道のうち、水晶森林道と重なる区間に鎮座する 沢中熊野神社 には 山祇の碑(やまがみのひ)、通称 [わらびの碑] と呼ばれる石碑が立てられている。これは江戸時代に起きた天明の大飢饉の際、この地域の人々が蕨の根を掘って食べ、辛うじて飢え死にを免れた故事に由来する。飢饉を生き延びた人々が、それから丁度七回忌となる年をきっかけとして、山の神への感謝と、亡くなった人々への供養の気持ちを込めて建立したものである。
この[沢中熊野神社]には、かつて旧暦9月19日の祭日の前夜、氏子の代表者が2~3人で御堂にこもる習わしが有った。そのお籠りの最中、真夜中になると何故か尋常ではない眠気が襲ってくるものの、うっかり眠ってしまおうものなら、何処からかざんぎり頭の童子が3人現れ、身体を痺れさせるなどの悪さをするのだった。そのためお籠りの時はいつも、決して眠らないようにして朝を迎えたということである。(現在このお籠りは行われていない。)
起点から600mほどの場所にある沢中橋。この橋は スッツク滝 と呼ばれる小さな滝の、ほとんど真上ともいう場所に架けられている。この滝の渕には、[刀の主]と呼ばれる何ものかが棲んでいるということである。
その昔、小原の塩倉集落に住んでいた或る老婆が、藤田の宿場まで栗を売りに行った。遅くなったその帰り道、山中を進んで行くと、突然なにものかに『煙草の火を貸してくれ』と声をかけられ、大いに驚いたということである。
明治の始め頃、赤井畑集落に住む狩人が、山中で前方から美しい女性がやって来るのを見かけた。こんな所でと驚きつつも見とれているうちに、そのまま何事も無くすれ違ってしまった。しかしあまりに美しかったことからつい振り向くと、たった今、自分の横をすれ違った女性の姿がもうどこにも見えなかった。そのため、あの女性はきっと山の神だったのだろうと畏れを覚え、山神の碑を建立して祀ったということである。
かつて宮城県の白石市南西部、および七ヶ宿町の東部は、県境を越えた福島県の小坂郵便局(現在の岩代小坂簡易郵便局)が郵便物の集配業務を受け持っていた。そのため現代風に言うところのアルバイトで配達を請け負った或る児童が、たびたび小坂峠(山崎峠の西隣)を越え、徒歩でこの地域の配達をしていたいう。その際に、時には現在の赤井畑国見線にあたる道筋も利用することも有ったと思われる。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
脚注
- *主要データ:2016年5月27日現在
- *三泰鉱山:読みは「みつやす」。資料によっては「三安」鉱山とも書かれています。開山、閉山年度とも正確には不明ですが、閉山の時期は1943年か48年の前後と考えられます。
- *県道化:正確にはこれ以前の時期に、国見町内の国道4号の旧道から藤田駅までの区間が県道指定されています。
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 険道
- 広島県道204号安登停車場線
- 東京都道318号環状七号線
- 福島県道391号広野小高線
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