U-198とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年11月3日竣工。通商破壊で連合軍商船11隻(5万9690トン)撃沈の戦果を挙げた。1944年8月12日、セイシェル諸島近海にて、敵艦から爆雷攻撃を受けて沈没。
概要
IXD2型とは、今までのIXA~C型とは全く異なる船体を持った、遠距離航洋タイプのUボートである。全長が11mほど延伸され、排水量も500トンほど増加、IXC型より快速を発揮出来たが、操縦性に若干難があったとされる。このような設計変更は南大西洋やインド洋での運用を想定していたためである。
まず最初にIXD1型が建造されるも、生産性を高める目的で搭載した魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に変更し、新たにMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載、これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。10ノットで最大約5万4000kmの航続距離があるため理論上は無補給で地球一周が可能。また、補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを実現。
IXD2型は合計30隻が就役。いずれもAGヴェーザー社ブレーメン造船所が建造を担当した。
諸元は排水量1616トン、全長87.58m、全高10.2m、喫水5.35m、出力9000馬力、最大潜航深度100m、急速潜航秒時35秒、最大速力20.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名または64名、燃料搭載量441トン。武装は53.3cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)、10.5cm甲板砲1門、3.7cm甲板砲1門、2cm対空砲1門。電探装備としてFuMO 30レーダーを持つ。
艦歴
1940年11月4日、ドイツ海軍はIXD2型6隻(U-195からU-200まで)をヴェーザー社のブレーメン造船所へ発注、1941年8月1日、資材調達完了に伴い、ヤード番号1044が刻まれた竜骨を設置して起工、1942年6月15日進水、そして11月3日に無事竣工を果たした。初代艦長にヴェルナー・ハルトマン少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へと部署。バルト海にて4ヶ月間の慣熟訓練を行う。
ハルトマン少佐は、スペイン内戦の時から戦い続け、U-37時代に19隻撃沈の戦果を挙げ、騎士十字章を授与された、ひげ面の豪快なベテラン艦長であった。しかし士官と乗組員との間に不和があり、士気は極端に低かったと言われている。
1回目の戦闘航海
1943年3月9日、ハルトマン艦長指揮のもとキールを出撃、バルト海を横断したのち、3月11日にノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して燃料補給を行い、翌12日に同地を発って第一次戦闘航海を開始。ノルウェー西岸、次いでアイスランド・フェロー諸島間の、イギリス軍が敷く警戒網の僅かな〝隙間〟を慎重に通り抜け、北大西洋へと進出する。
3月20日、アイスランド南方にて哨戒中と思われる敵巡視船団を発見・観察を行う。3月26日にBdU(Uボート司令部)はU-198、U-181、U-196の3隻に対し、ケープタウン及びモザンビーク海峡方面での通商破壊を命令。航続距離が長大なIXD2型には無補給でインド洋まで長駆出来る強みがあるのだ。4月1日よりボルドーに本拠を置く第12潜水隊群へ転属。
4月5日18時10分、カーボベルデ諸島北東を航行中、イギリス空軍第204飛行隊のショートサンダーランド飛行艇に襲撃される。サンダーランドは巨人の如き体躯を誇る大型飛行艇で、「Uボートの天敵」「空の指輪の幽鬼」と恐れられる難敵。すぐさま8発の爆弾が投下され、うち1発が艦尾部分に命中するも、幸い、不発だったため跳ね返っただけで済む。20時40分に同一機より4発の爆弾が投下されたが被害無し。何とか巨人の追跡から逃げ切った。
4月16日、マダガスカル方面に移動中のU-198、U-181、U-178、U-196は南大西洋の海上交通を調査するべく、BdUに指定された航路を通るよう命じられる。しかし思いのほか敵船がいなかったようで、5月7日にケープタウン・セントヘレナ間の特定航路に船舶の往来が無い事を報告した。程なくしてU-198は目的地のインド洋西部に侵入。近隣には連合軍の重要な補給港であるモザンビークとダーバンがあり、北アフリカ戦線やイタリア方面へ向かう兵力を乗せた船舶がうようよしていた。
5月17日13時、ダーバン北方にて、ダーバン発ブエノスアイレス行きのLMD-17船団6隻を発見し、14時12分、1万2000トン級の大型船2隻に向けて魚雷2本を使った雷撃を2回実施、4分35秒後に沈没音を聴き取ったものの、誤って船団内へと入り込んでしまい戦果を直接確認出来なかった。ハルトマン艦長は2隻撃沈を確信、しかし実際は、英蒸気貨物船ノースムーア(4392トン)を撃沈したのみで、船長、船員11名、砲手1名が死亡した。直ちに対潜トロール船2隻と対潜哨戒機1機が反撃に転じ、爆雷55発の投下を受けるも損害なく離脱に成功している。
逃げたU-198を捕捉するべく連合軍は厳重な索敵網を展開。5月18日の日中は、海岸から最大50海里の範囲にかけて海上及び空中からの索敵が激化。翌19日20時58分、第262飛行隊所属のPBYカタリナ飛行艇から5発の投弾を受けるが全て回避、反撃の対空砲火でカタリナのエンジン1基を損傷させて撃退した。追っ手を振り払った後はモザンビーク海峡南方を遊弋。
5月29日19時37分、ダーバン東方約450海里にて、一般貨物9000トンを積載して単独航行中の英蒸気船ホープターン(5231トン)はU-198から雷撃を受け、船体後部に2本とも命中、7~8分程度で沈没していった。攻撃後、浮上したU-198は二等航海士を捕虜にして収容。それ以外の生存者は英商船ニルヴァーナに救助されている。
5月31日に小型船団を発見して10時間の追跡を行う。しかし、日没前にコルベット艦の攻撃を受けて潜航退避を強いられ、19時43分にはカタリナが襲い掛かってきたので水上砲撃で追い払ったのち、更なる航空哨戒から逃れるべく急速潜航。やむを得ず船団を見逃した。
インド洋で通商破壊中のUボート戦隊を支援するべく、独補給船シャルロッテ・シュリーマンがダーバン東方の補給地点に向けてシンガポールを出発、6月1日、U-198を含む6隻に補給を受けるよう指示が下る。
6月5日午前6時27分に汽船のマストを発見して追跡開始。午前7時50分、ダーバン北東にて、ダーバン行きの貨物トラックを載せた英商船ドゥムラ(2304トン)に魚雷2本を発射、2本とも命中させて船首を裂くが、沈没に至らなかったため、午前8時に船体中央部へ魚雷を撃ち込むと大爆発を起こして轟沈。7分後、浮上したU-198は救命ボートに近づいて尋問を行い、機関長を捕虜にして海域を立ち去る。
6月6日13時18分、ダーバン東方約200海里沖でジグザグ運動中だったリバティ船ウィリアムキング(7176トン)はU-198の雷撃を受け、2本のうち1本が左舷第3船倉に命中、その際の爆発で大きな破孔が生じるとともに船員3名が死亡し、機関部、第3船倉、中央部が火災に見舞われる。もはや助からないと悟った船員たちは救命ボート2隻と筏2隻を降ろして船を放棄。14時4分にトドメの魚雷が右舷に命中すると巨大な火柱が築かれ、約10分後に船尾より沈没。積み荷のドラム缶入り燃料油1万8000バレルもろとも海底に葬った。
6月7日、U-198が2隻撃沈の成功を収めた事により、BdUはU-178、U-181、U-196に作戦範囲の拡大を命じ、より大規模かつ広範囲な通商破壊を展開。
6月22日にダーバン南東でシャルロッテ・シュリーマンと合流。周囲にはU-177、U-178、U-181、U-196、U-197の姿がある。シャルロッテは補給用のモーターボートを持っていたが、荒れた海では使用できず、各々が持つゴムボートを使って、細々と食糧を運び込むしかなく、作業が完了するまでに予想以上の時間を要した。各Uボートが横付けしている間、他のUボートは敵水上艦及び敵機の出現に備え、周辺海域を巡回する警戒任務に就く。燃料と清水を補給中、これまでに得た捕虜をシャルロッテに移乗した。翌23日、補給作業完了後、最新の海上交通情報に基づき、U-198はダーバン沖の北半分を作戦海域に定められ、各々自身に割り振られた作戦海域を目指して散開していく。
7月6日18時58分、ポンタ・ザヴォラ灯台南方13海里を、6ノットでジグザグ運動しながら単独航行中のギリシャ商船ハイドラオス(4476トン)を発見、19時59分にU-198が発射した魚雷1本が左舷船橋下に命中、次いで20時15分にトドメの魚雷を右舷船尾側に撃ち込み、約15分後、船体は1550トンの一般貨物を抱えたまま海中へと没した。まず一等航海士が乗った救命ボートに横付けし、船名、イギリス軍の砲手が乗船しているかどうか、どうしてギリシャ人がイギリスのために働いているのかを尋ね、次にゲオルギオス・リヴァダス船長を艦内に連行して同様の質問をした後、船舶書類、身分証明書、682エジプトポンドが入った金庫を押収。尋問が終わると生存者は全員解放された。ちなみにハイドラオスは撃沈前日にU-178からも雷撃を受けていた様子。
7月7日午前5時55分、サヴォラ岬東方約40海里で水平線上に立つマストヘッドを発見。一度は潜航したものの、午前7時24分に浮上し、護衛無しの英蒸気商船リアナ(4742トン)に対して水上砲撃を開始、147発中32発を命中させた後、午前8時10分にトドメの魚雷を発射して撃沈。救命ボートに乗ったジョセフ・クロスウェイト船長を捕虜とする。
7月11日、南アフリカ空軍第22飛行隊のベンチュラ爆撃機がU-198を発見。爆雷5発が投下されたものの全て外れて難を逃れる。しかしその後の数日間は何度も敵機がすっ飛んできて、そのたびに急速潜航を余儀なくされる。
8月1日15時16分、BC-2船団を発見して追跡を開始、18時24分にハルトマン艦長は船団最大の船を狙って魚雷2本を発射、しかしこれは外れてしまう。18時52分に最後の魚雷を使って再度雷撃、4分10秒後、オランダ蒸気商船マンカリハット(8457トン)に命中し、機関室、ボイラー室、第3船倉が浸水したため、船員は船を放棄して脱出。マンカリハットは沈む気配を見せなかったので、近くの港に引き入れようとコルベット艦フリージアが曳航、船員も戻ってきて復旧作業を行い、8月3日にはコルベット艦プルデントが応援に来て排水ポンプを提供する。ところが翌朝タグボートに曳航を引き継いだ直後、突然力尽きたようにマンカリハットが沈没して結局失われた。
魚雷を使い果たしたU-198は帰路に就く。
8月10日、相次ぐXIV型の喪失を受け、BdUはU-847を臨時の潜水タンカーに指定、日本占領下ペナン基地に向かう各Uボートに給油を行うよう命じるとともに、U-198には赤道上でU-847と合流して余剰燃料を譲渡すべしと命令、その途上でペナン行きのU-533と西アフリカ沖で会同、エニグマの新しい暗号表を受領するが、その時にU-533がクランクシャフトのベアリングに不具合を抱えている事が判明したので、ハルトマン艦長の厚意でベアリングの予備部品を譲渡している。
合流予定だったU-847は航空攻撃を受けて8月27日にサルガッソ海で沈没。8月31日、代わりとしてU-161に対する給油が命じられた。9月4日と5日、南大西洋の真ん中にて、ブラジル北東方面に向かうU-161と合流し余った燃料を送油。
9月12日、ハルトマン艦長はBdUに「U-214と合流して二等機関士を交代してはどうか?」と提案。これにはU-214が向かう作戦海域の敵哨戒状況を伝える目的があった。この提案は受け入れられ、9月14日、護衛空母クロアタンの攻撃を振り切って来たU-214と合流、予定通り二等機関士の交換が行われている。その甲斐あってかU-214はパナマのコロン沖に機雷を敷設して無事生還した。
そして9月24日にボルト―へ入港。その際ハルトマン艦長は潜望鏡に7枚の沈没ペナントを掲げ、司令塔の前面には「西へ進軍せよ!」の文字とポセイドンの三叉槍が貼られていたという。199日間の戦闘航海で7隻(3万6778トン)撃沈の華々しい戦果を挙げたが、乗組員と士官の不和により14名の乗組員が休暇を拒否され、通常は60日の海上勤務で授与されるUボート記章も僅かな人数にしか渡されなかった。
次の出撃まで
1943年12月10日、ボルドーを出港してラ・パリスに回航。U-198にはペナン行きが命じられ、6ヶ月の哨戒に必要な物資を積載、ビスケー湾を通ってボルドーに帰投するが、前部魚雷発射管に大きな亀裂が生じ、艦首全体が裂ける致命的な損傷が発覚したためドック入りを強いられる。あまりの損傷の大きさに破壊工作を疑われたほどだった。修理には2ヶ月を要するとされ、出撃不能になったU-198に代わりU-177がペナンに向けて出発していった。
1944年1月21日にU-177の元当直士官ブルクハルト・ホイジンガー・フォン・ヴァルデック少佐が二代目艦長に就任。ハルトマン少佐は地中海方面の司令官に栄転した。3月23日、ヴァルテック艦長指揮のもとボルドーを出港、3月25日に再びラ・パリスへ移動して、ペナン行きの準備を済ませる。
2回目の戦闘航海
1944年4月20日、ペナンにいるモンスーン戦隊と合流するべくラ・パリスを出撃。U-198には、道中でU-188と合流し、ジークフリート・リュッデン艦長にエニグマの新しい暗号表を渡す任務も帯びていた。ビスケー湾を南西方向に抜け、オルテガル岬をかすめるようにして北大西洋へ進出すると、マデイラ諸島北西沖で変針して中部大西洋を南下していく。
5月5日、BdUは帰国の途に就いているU-66と合流して燃料補給を行うよう指示。しかしU-66とU-198からの連絡が途絶えたため、5月23日に2隻とも航空攻撃で失われたと判断するも、後にU-198が位置情報を報告し、5月29日に行方不明報告を取り消す一幕があった。ちなみにU-198は無線機の故障でU-66に対する補給命令を受信していなかったという。一方、U-66からの連絡は無いままで(5月6日にカーボベルデ諸島西方で撃沈)、U-198には引き続きペナンへ向かうよう指示している。
6月9日に貨物船を発見するも16ノットの高速で走っていたため振り切られる。
6月16日20時、ケープ・コロンバイン西北西約25海里の地点で、木材を輸送中の南アフリカ蒸気商船コロンバイン(3268トン)を雷撃し、左舷機関室後方に1本が命中、船員たちは大時化の海に救命ボート4隻を降ろして船を放棄した。8分後にトドメの魚雷が撃ち込まれ、積み荷の木材に燃え移ってから2分以内に沈没。アーネ・レイダー・シメンセン船長以下22名が死亡している。19時25分にはU-860が発した「航空攻撃を受けている」旨の短い信号を受信した。
6月20日頃に喜望峰沖を通過してインド洋に進出。ペナンへ向かう前にモザンビーク海峡やマダガスカル南東で通商破壊を行う。
7月6日、ダーバン東方を航行中、南アフリカを拠点とするベンチュラ爆撃機に襲撃されるも、対空砲火で損傷を与え、爆弾の投下が出来なくなった敵機はそのまま退却。続いて2機目のベンチュラが潜航中のU-198に爆雷を投下。すると破壊されたゴムボート数隻が海面に浮かび上がった。これを撃沈の証拠と勘違いしたベンチュラは、勝利を確信して飛び去り、U-198は燃料タンク1つが破損する軽微な損傷だけで済む。
7月15日、イニャンバネ南東のモザンビーク海峡にて、単独航行中の英商船ディレクター(5107トン)に魚雷1本を命中させて撃沈。死亡した1名を除く全船員が海上へ脱出し、ポルトガルのスループ船ゴンサルベス・ザルコに救助された。
8月6日午前0時59分、DKA-21船団から分離して、単独航行中の英商船エンパイア・シティ(7295トン)をモシンボア沖で雷撃して撃沈。積み荷の石炭8403トンと船員2名が海の藻屑と化した。生き残った48名は救命ボートでポルトガル領東アフリカのペカウィに上陸。続いて翌7日にダルエスサラーム東方320km沖で護衛無しの英商船エンパイア・デイ(7242トン)を雷撃により撃沈。一等航海士ロバート・コートニー・セルフが捕虜として連行された。
U-198はエンパイア・シティとエンパイア・デイの撃沈をBdUに報告。だが、この通信を連合軍に傍受されてしまい、正確な位置を特定した敵は哨戒機と水上艦を派遣、海と空から同時に捜索を行う。8月10日に護衛空母シャー所属のTBFアヴェンジャー雷撃機に発見されるも、攻撃を受ける前に急速潜航が間に合った。間もなくU-198が目撃された海域にフリケード艦が出現。捜索を行ったがU-198は見つからなかった。
最期
1944年8月12日朝、再びシャーより飛来したアヴェンジャーがU-198を発見、対するU-198は浮上したまま対空射撃で応戦し、約20分後に潜航退避していった。それから数時間後、第265及び第259飛行隊所属のカタリナに発見され、護衛空母シャー、フリケード艦7隻、スループ艦2隻からなる対潜掃討部隊が出撃。インドのスループ艦ゴダヴァリとイギリスのフリケード艦フィンドホーン、パレットがU-198を発見、本隊に位置情報を通報するとともに、午後からフィンドホーンが対潜迫撃砲ヘッジホッグを発射、すると2回の弱い水中爆発音と1回の強い水中爆発音が聞こえてきた。
本隊到着後、U-198が潜航した地点を取り囲むかのように布陣していたが、海面に残骸と油膜が広がっている点以外は何ら反応を得られなかったため、翌13日朝に包囲を解いて撤退した。乗組員66名全員死亡(エンパイア・デイの一等航海士も含む)。
関連項目
- 1
- 0pt

