ミステリという伝言ゲームの果てに
咲いた異形の妖花。――竹本健治ついに奈落の王が召喚された。
「おまえはもう死んでいる」
新本格最凶のカードが、ミステリの
幸福な時代に幕を引く。――大森望
『コズミック 世紀末探偵神話』とは、1996年に刊行された清涼院流水のミステリー(?)小説……もとい大説。
清涼院流水のデビュー作で、JDCシリーズの第1作。第2回メフィスト賞受賞作として講談社ノベルスから刊行され、あまりの凄まじい内容に、発売当時、壮絶な賛否両論を巻き起こした。
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この項目は独自研究と独自史観を元に書かれています。 信じる信じないはあなた次第です。 |
作者の清涼院流水は、綾辻行人、法月綸太郎、我孫子武丸、麻耶雄嵩らを輩出した京都大学推理小説研究会の元会員(在学中に喧嘩別れのような形で脱会していたらしい)で、本作の刊行当時22歳。ノベルス版で710ページという京極夏彦並のレンガ本である本作だが、まずはそのあらすじを紹介しよう。
『今年、1200個の密室で、1200人が殺される。誰にも止めることはできない』――1994年が始まったまさにその瞬間前代未聞の犯罪予告状が、「密室卿」を名のる正体不明の人物によって送りつけられる。
1年間――365日で1200人を殺そうと思えば、1日に最低3人は殺さねばならない。だが、1200年もの間、誰にも解かれることのなかった密室の秘密を知ると豪語する「密室卿」は、それをいともたやすく敢行し、全国で不可解な密室殺人が続発する。現場はきまって密室。被害者はそこで首を斬られて殺され、その背中には、被害者自身の血で『密室』の文字が記されている……。
狙っているのは誰か? そして、狙われている者は? 日本国民1億2000万人余の全員が、被害者にも容疑者にもなりうるという未曾有のスケールを備えた密室連続殺人には、警察、そして名探偵集団・JDC(日本探偵倶楽部)の必死の捜査も通用しない。日本全土は、恐怖のどん底に叩き落とされた。
……同じ頃。海を隔てたイギリスでは、前世紀の悪夢が蘇っていた。かの切り裂きジャックの後継者を自称する者によって引き起こされた連続切り裂き殺人――それは、その猟奇性と不可解性において、日本の密室連続殺人に勝るとも劣らぬものだった。
JDCきっての天才・九十九十九(つくもじゅうく)は、日英両国の怪事件を詳細に検討した結果、1200年間解かれることのなかった密室の秘密と、106年間謎のままだった切り裂き殺人の秘密は、同一の根を有すると看破する。
同一の根――それは、世界の秘密。自らの人生観をも根底から覆しかねない大いなる神秘に、名探偵をも超越したメタ探偵・九十九十九が挑む!講談社BOOK倶楽部から引用
、改行は講談社ノベルス版裏表紙より
これだけ見ても控えめに言って怪文書であり、「本当にミステリーか?」と言わざるを得ない(ちなみにこのあらすじはメフィスト賞投稿時に作者がつけた梗概ほとんどそのままらしい)。1作品の中で1200の密室殺人[1]というスケールの時点でブッ飛んでいるが(なお実際に作中で紹介される密室殺人は19個。710ページのうち最初の300ページはその19の密室殺人の紹介に費やされる)、JDCなる名探偵集団が登場し、それぞれの探偵が必殺技めいた推理法を駆使して事件に挑むという設定も1996年当時からすると相当ブッ飛んでいた。
令和の目から見れば、JDCの設定は「なるほど、特殊能力探偵ものの特殊設定ミステリね」と思えなくもないが、この作品がメフィスト賞を受賞した1996年当時は特殊設定ミステリが今のように一定の地位を得ていなかったのでなおさらである。
しかも中身はもっと突っ込みどころしかなく、本格ミステリらしく「読者への挑戦状」まで入っているが、その真相には当時多くの読者が「なんじゃそりゃあああ!」と本を壁に投げつけた。一応、大量密室殺人には合理的(?)な解決はつくのだが、そのトリック(?)自体はショボいと言われても仕方ない。現代の特殊設定ミステリの基準に照らして、先駆的な特殊設定ミステリとして評価する……のも明らかに無理がある。だって探偵たちの特殊推理法は別に解決に何も関係しないんだもん。
未読の人も「コズミックの犯人は○○」とか「犯人は○○○」とか「犯人は○○○○」とかいう、「んなわけねーだろwwwwww」というネタバレを見たことがあるかもしれないが、そのネタバレが事実かどうかは実際に読んで確かめてみてほしい。事実なので。
しかも困ったことに、本作はギャグではない。単なるおふざけなら笑って済ませればいいが、少なくとも作者はどう考えてもこれを大真面目に書いている。さらに困ったことには(たとえば東野圭吾の『名探偵の掟』のような)批評的なパロディでもない。どこまでも大真面目に「すごい名探偵たちがすごい事件を解決する(少なくとも作者的には)真面目なミステリ」として書かれているのだ。
ギャグや批評であれば、どんなにふざけた内容、ブッ飛んだ内容であっても、読者も「ギャグだから」と割り切って、あるいはその内容の裏に隠された批評的な意図を汲み取るという形で受け入れることができる。しかし本作は書き方があくまで大真面目であるが故に、読者も大真面目に付き合わざるを得ないのだ。
結果、本作はとてつもない賛否両論を巻き起こし、日本の本格ミステリ業界を文字通り震撼させた。
この一冊が新本格業界に巻き起こした旋風はすさまじく、刊行前から話題騒然。この数ヶ月は寄るとさわると清涼院流水の話題で、オレの場合、すでに百時間以上は確実に費やしてるね。先週の鮎川哲也賞授賞パーティのあとなんか、笠井潔、北村薫、山口雅也、有栖川有栖、綾辻行人、我孫子武丸、法月綸太郎、芦辺拓、二階堂黎人、京極夏彦、麻耶雄嵩、倉知淳、篠田真由美、貫井徳郎etc.の錚々たる作家陣が全員『コズミック』を読了し、喧々諤々の大議論を夜通し戦わせていたくらい。
いまんとこ賛否両論まっぷたつで、カモノハシ説あり(ミステリ進化の袋小路)、ドラッグ説あり(読んでいるとトリップする)、新本格のインディペンデンス・デイ説あり(壮大な無駄と愉快なバカバカしさ)、ウイルス説あり(感染すると危険)、X Japan武道館公演説あり(自分の世界に没入)、全面否定から全面肯定(はさすがに少ないけど)まで議論百出。
大森が帯の文句に「新本格最凶のカードがミステリの幸福な時代に幕を引く」と書いたのはもちろん冗談のつもりなんですが、「ほんまや。こんなもんが流行ったらなに書いてええんかわからんわ」とぼやく某新本格作家もいて、「清涼院流水」の登場に真剣に危機感を抱く声も少なくない。
現代の読者だと、「ただの新人のトンデモ作品がそこまで騒がれることある? 話盛ってない?」と思うかもしれない。
実際、これがもし講談社ノベルスから出たのではなく、メフィスト賞受賞作でもなく、それこそたとえばどこかのライトノベルレーベルあたりから出た作品であったなら、ミステリ業界からは華麗にスルーされて一部の好事家が伝説の怪作として語り継ぐだけの作品であっただろう。しかし、本作は第2回メフィスト賞受賞作として講談社ノベルスから出てしまったのである。このへんは後世からでは――特にメフィスト賞のイメージが固まってしまった現代からだと、少し歴史の流れを踏まえないと理解し辛いかもしれない。
1987年に綾辻行人が『十角館の殺人』でデビューして以来、講談社ノベルスというレーベルはいわゆる「新本格」の総本山であった。その講談社ノベルスの雑誌として「メフィスト」が「小説現代」臨時増刊として創刊されたのが1994年。その年に京極夏彦が『姑獲鳥の夏』の原稿を講談社に持ち込み、華々しいデビューを飾る。
この京極の登場を受けて「メフィスト」が原稿を募集したところ、森博嗣の『冷たい密室と博士たち』が送られてきたため、「メフィスト賞」が創設され第1回受賞作として『すべてがFになる』が刊行されたのが1996年4月のこと。そして、同じ原稿募集に「1200年密室伝説」のタイトルで応募された本作が『コズミック 世紀末探偵神話』のタイトルで、第2回メフィスト賞受賞作として刊行されたのが同年の9月のことだった。
綾辻行人、有栖川有栖、法月綸太郎、我孫子武丸、麻耶雄嵩といった新本格初期の主要な作家陣はみな、従来の新人賞を経ず無冠の新人としてデビューし、若い読者の熱狂的な支持を得ていた。そうした流れの中、「新本格の最終兵器」として京極夏彦が登場し、ついに総本山・講談社ノベルスが新人賞を創設。その第1回受賞作家が森博嗣である。京極と森はたちまち大ベストセラー作家となり、特に京極夏彦はとてつもない売れ方をして、新本格ムーブメントがいよいよ商業的にも大きなブームとなった矢先。まさに「新本格」がめちゃくちゃ盛り上がっていた時期に、本作がその総本山である講談社ノベルスから出た――という事実の衝撃は、おそらく令和の現代から想像する以上に大きかった。
それはつまり、「新本格」の総本山であった講談社ノベルスの編集部、いわゆる「文三」が本作に「ミステリとして出版に値する」というお墨付きを与えたということだった――少なくとも当時の読者・関係者はそう受け取った――からである(たとえば評論家の千街晶之は1997年刊の『ニューウェイヴ・ミステリ読本』で、「こういう作品が書かれてしまったこと自体はしょうがないとして、これを出版しようと思った出版社と推薦した連中は何を考えているんだ」という趣旨の批判をしている)。
当時はまだそういう、「新人が商業出版で本を出すには先輩作家や編集者の厳しい目をパスしていなければならない」というような素朴な文壇信仰のようなものが読者や評論家の間にも残っていたのだ。ベテランになればどんなヒドいもの書いても何も言われなかったけど。余談だが、00年代前半ぐらいに山田悠介とかケータイ小説がバカ売れしたことに書評家とかがわりと本気で怒ったり嘆いたりしていたのも、そうした信仰の名残である。
そもそもメフィスト賞は実のところミステリ専門の新人賞ではなかったわけだが、『姑獲鳥の夏』『すべてがFになる』とくれば読者が期待するのは当然新本格系のミステリであり、当時はみんなメフィスト賞を本格ミステリの新人賞だと思っていたのである。その上で、京極夏彦と森博嗣の次に掴まされたのが本作だったのだから、当時の読者もたまったものではなかっただろう。
メフィスト賞はトンデモ作品が出てくる尖ったイロモノ新人賞――というイメージは、主に本作から『六枚のとんかつ』『Jの神話』『記憶の果て』『歪んだ創世記』と続いた第2~6回のラインナップが形成したものなので、このへんはそのイメージが定着した現代からだと伝わりにくい話である。
というわけで賛否両論と書いたが、当時の新本格作家やミステリ評論家、またミステリマニアからの評価はほとんどが全力の「否」だった。「日本で一番バッシングされたミステリー」というのは過言でもなんでもなく、日本のミステリー史上本作ほど叩かれた作品はないと断言できる。
当時はもうミステリマニアの前で迂闊に「清涼院流水が好きです」とでも言うものなら、その場で石もて追われかねないぐらいの空気があった。今でも「好きな作家は清涼院流水です」「好きなミステリは『コズミック』です」というミステリ作家志望者がいれば「大丈夫かコイツ?」という警戒心を抱くミステリマニアは少なからずいると思われる。
単に出来の悪い作品なら冷ややかに黙殺されて終わりであるはずだが、本作には黙殺で済ませられない、当時のミステリ作家、評論家、マニアの神経を逆なでするものが存在したのは間違いない。
そこまでの空気になってしまったのには、マニア層からの拒否反応に対して、本作が当時の若い読者に非常にウケたという事実が大きい。実際、清涼院流水は「20代でサラリーマンの生涯年収ぐらいは稼いだ」らしい(『清涼院流水の小説作法』より)。本作の誇大妄想的なスケール感と破天荒さ、従来の小説の文法からの自由さが若い読者層に刺さったことは今の目から見ると充分に理解できることなのだが、従来の本格ミステリの価値観からすると到底認めがたい作品を支持する若い読者が大量に現れたという事実が、また新本格系の作家やマニアを苛立たせた。
もともと新本格を「かっこいい名探偵が活躍するキャラクター小説」として読む読者は当時から多かったのだが、当時の新本格系の作家やミステリマニアは、そういった読者層に対して戸惑ったり違和感を表明したり、はっきりと不快感を示す者も珍しくなかった(島田荘司みたいに肯定的(?)に捉える人もいたけど)。そんな中に登場した本作はまさにその極致のような存在であり、本作がウケたことで「新本格」を「本格ミステリ」以外の価値観で読む読者がめちゃくちゃ多くいたという事実が可視化されたことは、当時の本格ミステリ作家やマニアたちには生理的に認めがたかったのである。
そもそも「新本格」は、申し訳程度の密室トリックやアリバイ崩しがついただけの社会派ミステリーやトラベルミステリーがノベルスで量産され、マニアが満足できるミステリが少ない当時のミステリー界に対して起きた異議申し立てであり、古典的な「謎解きの面白さ」の復興運動だった。少なくとも作家サイドは「自分たちの読みたい本格ミステリがないから書く」という意識だったし、それが若い読者の支持を受けたのは「謎解きの面白さ」が支持されたのだと理解していたはずだ。
しかし清涼院流水の登場で、「実は新本格の若い読者も大半は『謎解きの面白さ』を支持したわけではなく、別に本格ミステリに興味なんてなかったのでは?」という疑念が噴出し、「若い世代がこれを支持するということは、これからの本格ミステリはこういう方向に向かうことになるのか?」という未来予測が生じた。
この事実と未来予測はまさしく「新本格」のアイデンティティクライシスだったわけで、「新本格最凶のカードが、ミステリの幸福な時代に幕を引く。」という大森望のオビ推薦(?)文は的を射ていたと言える。
ちなみに大森望はこの推薦文のせいでしばらくの間2ちゃんねる等で「大森がオビを書いた本は絶対買わない」とかよく言われていた。本人曰く「頼まれたから書いただけなのに」とのことだが、推薦文を頼まれて講談社の宇山日出臣から送られてきた原稿を読んで爆笑し、「どうだった?」と訊いてきた宇山に「10万部売れる本です」と返したそうなので、この作品が世に出てしまった責任の一端は間違いなくあると思う。
もちろん当時から『コズミック』を「これはこれで」と面白がっているミステリファンもそれなりにはいたのだが、「将来の本格ミステリはこういうのが中心になるのでは」と言われたら「さすがにそれはちょっと……」と思う人が大半だったと思われる。
そしてゼロ年代前半になると、実際に西尾維新を筆頭に清涼院流水の影響を受けた(と見なされた)作家たちが講談社ノベルスから登場し、それまでの「本格ミステリ」の枠から明らかにはみ出した作品を次々と発表していった(笠井潔の言うところの「脱格系」)。新本格の中核である講談社ノベルスが雑誌『ファウスト』を立ち上げるなどこの流れをどんどん推進していく状況に、従来の新本格業界はわりと阿鼻叫喚の様相を呈していた。2002年に出た新本格のガイドブック『本格ミステリ・クロニクル300』には名だたる新本格作家がエッセイを寄せているが、本格ミステリの未来に対して悲観的なエッセイが結構目につくあたりからも当時の空気が伺える。
リアリティゼロでキャラは薄っぺらく全体に冗長。ミステリが玩具にされている。大人の読者たちの目にはそんなふうにしか映らない本作を、しかし十代の若い読者たちは積極的に支持した。水と油のように分離する読者層。見切るのは簡単だが、旧世紀のオジサン読者として自分の方が置き去りにされる可能性もある。少なくとも、舞城王太郎や佐藤友哉、西尾維新、北山猛邦といった、新世紀を担う若い書き手たちの登場の布石として、流水大説にも歴史的意義があったことは、認めなくてはならないだろう。(市川)
ファンの裾野が広がって拡散が起きているせいもあろうが、本格ミステリは私が想像していた以上に自由に読まれるらしい。それは刺激的な発見だとも言える。快か不快かを問われたら「ちょっと気持ちよくない」と本音を答えざるを得ないものの、「不快」と答えるのは留保して、本格が新しい可能性(そんなものが必要かどうかも不明だが)に向かって動いているのなら、耐えられるかぎり見守ろう。
結局、『ファウスト』系作家たちの大半は狭義の本格ミステリからは離れていったわけだが、本作が本格ミステリ界に残した爪痕は大きく、2006年の東野圭吾『容疑者Xの献身』を巡る本格論争も、清涼院流水一派が巻き起こした騒動が業界に与えたフラストレーションの噴出だったとみることもできる。
そして清涼院流水の作風は、その後の若手作家たちにも直接ないし間接的に大きな影響を及ぼしている。本作のような作品が商業出版物として登場し、多くの読者の支持を得たという事実は、「小説はここまで自由でいいんだ」という意識を若い作家志望者たちに与えた。その代表格が前述した西尾維新であり、強烈なキャラクターや言葉遊びへのこだわりは紛れもなく清涼院流水の直系にある。
現代でもここまで破天荒な作品はそうそうないが、たとえばJDCのメンバーのような何人ものアクの強い名探偵が登場して推理合戦を繰り広げる、といった作品は珍しくなくなったし、ライトノベル的なキャラクター造形の本格ミステリはもはや本格ミステリ界の主流と言ってもいい。本作以外にも、流水作品の試み――たとえば『19ボックス』の「収録短編を読む順番によって物語が変わる短編集」というコンセプトは、後に全く同じことを直木賞作家の道尾秀介が『N』でやっていたりする。
現代の特殊設定ミステリのような、漫画的・アニメ的な設定の導入やライトノベル的なキャラクター造形を本格ミステリに導入した最初期の作例として、歴史的意義は(たぶん)大きい。
当時の作家・評論家・マニアなどからは、清涼院流水は「愉快犯的なジャンルの破壊者」「悪質なテロリスト」みたいに思われていた節があるが(たとえば前述の『本格ミステリ・クロニクル300』内では、西尾維新『クビキリサイクル』のレビュー(執筆者:大森滋樹)内で「札束を燃やす男」とか言われている)、少なくとも令和の目で読む限り、本作は「本格ミステリ」というジャンルに対する悪意から書かれた作品ではなく、「誰も見たことがない、世界で一番すごいミステリを書きたい」という若さゆえの誇大妄想的情熱の(いささか奇矯な形をした)産物と評した方が公平な見方だろう。その迸りすぎた情熱と妄想こそが若い読者に刺さったのだし、強い影響を受けた後進の作家たちを生み出したのは間違いない。単なる悪意に人を動かす力はないのだ。その情熱と妄想の形があまりにも異形すぎて、当時の本格ミステリ界隈の神経を逆なでしたのは事実であるが。
今と違ってまだまだ漫画・アニメ的なものが市民権を得ておらず、一般文芸とライトノベルの間にも高い壁が存在した当時、「本格ミステリをキャラクター小説として読む」読者に対する忌避感、ある種のエリート主義的な価値観が界隈の総意、空気として存在したのは間違いない。そんな状況の中、最初に清涼院流水という特大の劇薬が投入されたことで、その後の界隈にある種の免疫がつき、現代の若手作家たちの本格ミステリが受け入れられる土台となった……という見方もできなくもない。
そして、従来の本格ミステリの価値観から逸脱する清涼院流水とその一派が大きな支持を集めたことは、本格ミステリ界に「俺たちの好きだった『本格ミステリの面白さ』って何だったんだ?」という問い直しを促した。ゼロ年代半ばに新本格第一世代の作家たちがスタンダードな本格への原点回帰を志向したのも、前述の『容疑者Xの献身』の評価をめぐる本格論争も、そうした問い直しの形として捉えることもできる。
後継のような作品が多数出て、漫画・アニメ的な設定やキャラクターが本格ミステリに登場するのが当たり前になった現代に初めて本作を読んだ場合、何が当時のミステリ作家やマニアの神経をそこまで逆なでしたのか、ピンとこない読者もいるだろう。本作はある意味、読者の「本格ミステリ観」を炙り出す鏡と言えるのかもしれない。
ゼロ年代ぐらいには新本格系のミステリを読む人にはある意味基本図書だった本作だが、現代では評判しか聞いたことのない人も多いだろう。何事も読んでみないとわからないことはあるので、一度本作を体験してみるのもいいかもしれない。壁に本を投げることになっても本稿筆者は責任を負いかねますが。
なお、「要するに作者に普通のミステリを書く力がなかっただけでしょ?」と思っている人には、『19ボックス』(講談社ノベルス版のみ)収録の短編「木村間の犯罪×Ⅱ」をオススメしておく。流水大説を冷ややかに見ているミステリマニアからも傑作と評価されている逸品である。……が、文庫版『Wドライブ院』では設定だけ踏襲した別の話に改稿されてしまった。書こうと思えば普通の傑作ミステリも書けたのに、清涼院流水はそういう普通の傑作ミステリには興味がなかったのだろう……。
第2作(本作の1年前を描いた前日譚)『ジョーカー 旧約探偵神話』とともに、2000年に講談社文庫で文庫化されたが、その際に『コズミック 流』『コズミック 水』と分冊された。
さらに『ジョーカー 清』『ジョーカー 涼』に分冊された『ジョーカー』とともに、
という順番で通読することで見えてくる仕掛けがある……らしい。
そして、この文庫版のタイトルの意味するところ――すなわち「清涼in流水」を理解した人は、おめでとう、立派な流水大説罹患者です。
ゼロ年代半ばに「ファウスト」の刊行が止まり、流水のデビュー10周年企画のいくつかがポシャって以降、流水を中心とした「ファウスト系」と呼ばれた一派は勢いを失っていき、本作も講談社ノベルス版、講談社文庫版ともほどなく品切れとなり、長いこと古書か電子書籍でしか読めない状態が続いていた。
2024年8月、星海社FICTIONSから新装版が刊行。新装版解説は蔓葉信博(講談社文庫版の大森望の解説も再録)。字組の都合かページ数は講談社ノベルス版より増えて864ページ、お値段は2980円(税抜)である。講談社ノベルス版(1500円)の倍のお値段やん。
翌9月には第2作『ジョーカー 旧約探偵神話』も同じく星海社FICTIONSから復刊された。こっちは928ページで3080円(税抜)。愛蔵版か何か?
ポストを読み込み中です
https://twitter.com/seikaisha/status/1821099617691561999
未読で御用とお急ぎでなく、お財布と心に余裕のある方は、この一時代を築いた伝説を体験してみてはいかがだろうか。重ねて言うが壁に本を投げることになっても本稿筆者は責任を負いかねますが。
略称はJDCであり、作中では基本的にこの略称が使われる。簡潔に述べると日本政府公認の探偵集団。
このほかにも様々な推理方法を持った探偵が登場する。なお、上記を見ると「探偵たちはこれら超能力じみた推理方法を上手い事駆使することで真相を辿るんだな?」と思われるだろうが、全くそんなことはない。
本作は「JDCシリーズ」としてシリーズ化され、講談社ノベルスで本作を含め4作品7冊(講談社文庫版は『コズミック』2冊・『ジョーカー』2冊・『カーニバル』5冊・『彩紋家事件』3冊の計12冊)が出ている。
1997年から1999年にかけて刊行された3作目の『カーニバル』3冊で地球規模の事件をやってしまったためこれ以上インフレのしようがなくなり一旦一区切りとなったあと、2004年に『彩紋家事件』が前後編で刊行。あと一作、「双子連続消去事件」が書かれる予定とされているが、今のところ出る気配はない。
『カーニバル・デイ 新人類の記念日』の1019ページは、講談社ノベルス史上最も厚い本の記録として現在も残っている。なお最も薄い本の記録も清涼院流水の『秘密屋 赤』『秘密屋 白』の134ページ。
ちなみに復刊版の『ジョーカー』も星海社FICTIONS史上最も厚い本になったらしい。そらそうよ。
ちなみに第2作『ジョーカー 旧約探偵神話』のカバー下部にある英題が「JORKER」になっているのは、装幀を担当した辰巳四郎のスペルミス。文庫版や漫画版、そして現行のノベルス版の電子書籍版では正しいスペルの「JOKER」になっている。
掲示板
3 ななしのよっしん
2024/08/21(水) 01:03:24 ID: MSH05/yP3Y
新装版出たんかい
コズミックゼロで「もう本作以前の作品は読まないでください……」とか書いてた癖に話が違うぞ
嫌がらせとして買って読み直したろ
しかし当時を生きてないからコメントするのも野暮だし、なんなら記事中で編集
これが評価された事を以て『「実は新本格の読者も大半は『謎解きの面白さ』を支持したわけではなく、別に本格ミステリに興味なんてなかったのでは?」という疑念が噴出』するってのは、
記事中で文三の影響力や当時の空気を解説してくれてるけれども、やっぱり想像つかん世界だなぁ
読者は別腹で楽しんでるんじゃないの?って語る人とか当時おらんかったんかな?
4 ななしのよっしん
2024/08/21(水) 01:06:28 ID: MSH05/yP3Y
>>3
変なとこで切れちゃった
「記事中でも編集者の独自研究って書いてあるから実際の空気感とは齟齬があるのかもしれないけど」って書き足そうとしてた
連投すまんな
5 ななしのよっしん
2024/11/05(火) 22:59:06 ID: NPDBi9enOG
ノベルス版や新装版で清涼in流水の読み方をする場合
コズミックの密室19までよんでその後ジョーカーを読めばいいのかな?
有識者の方いらっしゃいましたらご教示ください
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 00:00
最終更新:2025/12/06(土) 00:00
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