マニカト(Manikato)とは、1975年生まれのオーストラリア産の競走馬である。
オーストラリア競馬をその疾走で変えてみせた、孤高のスプリントキング。
主な勝鞍
1978年:ブルーダイヤモンドS、ゴールデンスリッパーS、アスコットヴェールS、マールボロC、コーフィールドギニー
1979年:ウィリアムリードS、CFオーアS、VATCフューチュリティステークス、ジョージライダーS、ロスマンズ10000、マールボロC(G1)、フリーウェイS(G2)
1980年:VATCフューチュリティステークス(G1)、ジョージライダーS(G1)、ウィリアムリードS(G2)、CFオーアS(G2)
1981年:VATCフューチュリティステークス(G1)、ウィリアムリードS(G2)、CFオーアS(G2)
1982年:ウィリアムリードS(G2)、カンタベリーS(G2)、フリーウェイS(G2)、メムジーS(G2)、AJモイアS(G2)
1983年:VATCフューチュリティステークス(G1)、ウィリアムリードS(G2)
※太字のレースはオーストラリアでグループ制が導入後の格付け、グループ制導入前のレースは現在の格に合わせ色付け
……後述するけど、凄い勝鞍だ。
父はステイヤー血統として鳴らしたフェアウェイがファロスの全弟であることを示すが如き快速血統として一世を風靡したブルーピーターの末裔、16戦11勝の名馬マニヒ、母マルカト、母父はナスルーラ系のナチュラルビッドという血統。
母の第三子として生を受けた彼は、母に踏んづけられて負傷するという事故をなんとか乗り越えアデレードでのセリに出されたが、兄である調教師のボンの代理人として来場し、7000ドルまでなら出すから買ってくるように、と言付かっていたボブ・ホイステッド氏が「痩せて頭でっかちだし、これに7000ドルは高くないか?」と訝しんでしまうような馬で人気もなく、予算の半額である3500ドルで購買されてボン師の管理馬となり、知己のオーナーが所有することとなった。
さて、見た目も欠点だらけであったが彼の一番の問題は気性であった。オーストラリアでは一部の超良血で生まれた瞬間種牡馬入り不可避など大きな理由でもなければその問題解決には去勢を使う。マニカトは前述した血統にはあまり強調材料はなかったため当然の権利のごとくスパーンと行かれてしまった。チビで痩せぎすだったので成長を促す目的もあったらしい。
その甲斐もあって体高は16.3ハンド(165.6cm)と平均的サイズに育ったが、気性は治っておらず、特に人間への敵愾心・猜疑心の強さは尋常なものではなかったとか。
彼が心を開いたのは4つ上の同厩馬スキャマンダ、そして厩舎のマスコットであったポニーに対してのみであったという。
人間に対して心を閉ざしがちでなかなか調教も進まず、更に背中を負傷したりもあってデビューとなったのはオーストラリアとしてはやや遅めな1977/78シーズンの1月であった。
しかし競走に下ろすと気の荒さは闘争心へと転化し、持って生まれたスピードもあってあっという間に3戦2勝し、ヴィクトリア州の2歳スプリント戦で最上位格のブルーダイヤモンドS(現在はG1、オーストラリアは当時グループ制導入なし)に伏兵格として参戦。残り400で先頭に立ち押し切る強い勝ち方で重賞初制覇を遂げた。
続いて出走したのはオーストラリア最大の2歳戦ゴールデンスリッパーS。逃げようとした馬のハナを叩いて先頭に立つとそのまま逃げ切る強い競馬でさらなるビッグタイトルを獲得した。
しかし続くサイアーズプロデュースSでは初の1400(ここまでは全て1200以下)、そして重馬場に脚が取られるという二重の不利があって力尽き5着敗退。ここで6戦4勝とし2歳シーズンを終えた。
当初の期待値からするとブルーダイヤモンドSとゴールデンスリッパーSの両取りを成し遂げ、2歳獲得賞金ランク2位となったのは望外であっただろう。
3歳となる78/79シーズン前に兄ボン師の急逝後後を継いだ弟ボブ師に管理調教師は変わったが、対古馬となったマールボロCを含めて連勝し、初のマイル戦となるコーフィールドギニーに挑む。ここでは3番手にいたところに2歳時からのライバル・カラマンに蓋をされて絶体絶命となってしまうが、残り150mで馬群をぶち破って飛び出すとカラマンに2馬身差つけ圧勝と言ってもいい勝ち方を見せた。
しかしこの代償は大きく、主戦騎手であったウィレッツ騎手が騎乗停止を食らう。人間嫌いのマニカトにとって新たな騎手を配すというのはリスクが大きく、陣営は猛抗議するものの「降着ねぇんだから納得しろや」ということか、騎乗停止の裁定は覆らなかった。
その懸念通り次走は2着に敗れてしまった。軽度の熱発で体調も良くなかったのが一番だが、ここで一旦立て直しのために休養することとなった。
3ヶ月休んだ後に復帰すると2000m戦を視野に徐々に距離を伸ばす方針を取り、1200-1400-1800のレースを連勝。大目標のオーストラリアンCに挑むがここは後に古馬中長距離戦線の主役となるがまだ穴人気であった同世代のダルシファイに敗れ2着惜敗。しかし他の上位人気に推された有力馬は負かしたため2000m戦のローズヒルギニーに挑むが距離の壁か4着に敗れ、この後マイル以上の距離に挑むことはなかった。
その後は1400m戦のジョージライダーSでコースレコードを更新する快走で6馬身差つけて圧勝。短距離戦で並ぶものなしと証明してみせたが、ドンカスターマイルでは3歳としては当時最も重いハンデである57.5キロを課された上、当時のナショナルレコードとなるタイムを叩き出す超ハイペースに逃げ先行タイプだったために巻き込まれてしまい3着に敗れてしまう。このレースの負担が大きかったか再び休養に入り、シーズン終わりも近い7月に復帰。ロスマンズ10000(現ドゥーンベン10000、1350m)を58キロという3歳馬としては当時破格のハンデを見込まれたがそれを跳ね返し勝利。12戦8勝として3歳を終えた。
3歳で58キロを背負って勝ったのはオーストラリア競馬史上二頭目、さらにこの勝利で通算獲得賞金が50万ドルを越え、3歳時に達成したのは史上初の快挙となった。それらの大活躍が評価され、短距離路線専業ながら年度代表馬に選出されたのだった。
79/80シーズンはオーストラリア競馬にもグループ制が導入され、4歳初戦となったのはフリーウェイS(G2)。ここは重馬場を克服し快勝したものの、マールボロC(G1)では斤量重馬場に加え、レース後にウイルス性疾患を患っていたことが判明するなど体調不良まで重なって12着とキャリア最大の大敗を喫してしまう、いやーなスタートとなった。
4ヶ月の病欠を経て1月に復帰。G1二つを含む4連勝を飾る。ジョージライダーS(G1)では前年のレコードを更に0.3秒更新しての圧勝であった。しかし次戦となったザ・ギャラクシー(G2)では60.5キロを背負ったのが祟ったか8着に敗れた。と思われたが実際は斤量よりも重度の肺出血と軽度の心臓発作を起こし循環器系に大きなダメージを負ったことが主因であり、よくゴールできたなという状態であった。この大ダメージのため戦線離脱となった。
この頃にアメリカからトレード要請があり、アメリカでは肺出血防止薬に対する規制が緩く、重度の肺出血を負った彼には良いかもしれない…と陣営が売却に動きかけたが、気性が悪すぎる彼にとって環境の激変は良くないだろう、例え現役続行不能としてもオーストラリア残留がベストという結論になり、この話は流れた。4歳時は7戦5勝であった。
5歳の復帰戦は80/81シーズンも半分が過ぎた1月のレース。そこからは肺出血が再発することもなく怒涛の3連勝を飾ったが、今度は腱を痛めて休養と散々な終わりであった。
腱のダメージで休養中にボブ師とウィレッツ騎手で諍いが起きて一旦決裂し、ヒギンズ騎手に乗り代わって81/82シーズンを始動することとなった。そうして始動した後、クイーンエリザベスC(1600m)でサートリストラムの初年度産駒最強馬・ソヴリンレッドとの激闘の末勝利するなど4戦2勝を挙げたが、再び腱の故障が再発し休養に入ることとなった。
この休養中にウィレッツ騎手と和解し、復帰戦で4年連続出走かつ4連覇を達成したウィリアムリードS(G2)から再び主戦騎手として手綱を執ることとなった。
しかし、ここまで勝ち続けたことで包囲網が厳しくなったことや、5歳時に痛めた腱の故障が度々再発するようになり連勝し続けられないようになっていった。それでもあまり惨敗しないのがこの馬の凄まじいところであるが。6歳時は8戦4勝。周囲からは腱の故障が度々再発することなどから引退を勧められることも増えたが、陣営はその声に耳を貸さず7歳になっても現役続行となった。
82/83シーズン、7歳となった彼のとりあえずの目標は、オーストラリア競馬史上初の100万ドルホースとなることであった。短距離G2を連勝し一気に王手をかけたものの、4連覇したウィリアムリードSを開催しているムーニーバレー競馬場がここをホームにする彼の100万ドルホース達成のため、アシストしようと1着賞金を積み増ししたジョンFフィーハンS(G2、1600m)でマイルが長く3着に敗れたのがケチのつきはじめか、その次走では得意の1200でも6着と久々に完敗。賞金を積み損ね続けてしまった。
しかしその次走のAJモイアS(G2、1000m)でついに勝利し、オーストラリア競馬史上2番目の100万ドルホースとなった。あれ?
実はこのAJモイアSの直前に行われたオーストラリア春の中距離最強馬決定戦・コックスプレートでキングストンタウンがファーラップらすら達成出来なかった三連覇を達成してひと足お先に100万ドルホースとなったのであった。とはいえ当時短距離路線はコックスプレートやメルボルンCといった中長距離路線と比べたら賞金は低かったので、十二分に偉大な記録であった。
100万ドルホース達成後は2戦して振るわなかったものの、休養後出走した1月、南半球では秋シーズンへの始動戦となるウィリアムリードSでは5連覇を達成。前人未到となる同一重賞競走5連覇を達成した。
その後はフューチュリティSで出走機会5回中4勝目を飾るなど活躍したが、名牝エマンシペーションに屈したジョージライダーSを最後にまたも脚部不安が再発し休養に入ることとなった。7歳時は11戦5勝であった。ここで引退したという説が根強いものの、セン馬は引退しても復帰が模索されることもしばしばあるので本当に引退だったかは断言は出来ないが、彼が競馬場に帰ることはこの後なかった。
7歳にもなると、気性の問題は改善する馬と余計ひどくなる馬の二択になることが多いが、彼は後者であった。前述の通り先輩のスキャマンダとポニーにしか心を開かず、スキャマンダは7歳時にはとっくに引退していたが、5つ下のラヴアショウに心を開いたため彼が孤独になることはなかった。
しかし、そのポニーが病を発し厩舎を去った。彼はポニーがいなくなり、自分は厩舎に取り残されたと知るや延々4時間にわたって嘶き、ボブ師が様子を見に来ると襲いかかってくる始末であった。ポニーは動物病院に向かったまま厩舎に帰らず、彼の人間嫌いは更に高まりストレスが溜まる一方となっていった。
それも良くなかったのか、腱の問題に端を発する脚部不安は悪化の一途を辿っていった。なんとかしたいと当時最高レベルの治療が施されたものの芳しくなく、ついには鎮痛剤すら効かないほどの激烈な痛みが襲った。
その痛みは激しい闘争心を持つマニカトの心をも完全に砕き、立ち上がることを許さなかった。立ち上がれないサラブレッドの運命は一つ。安楽死しか残されていなかった。1984年2月13日、安楽死執行。まだ8歳の若さであった。
通算成績は47戦29勝。18敗しているが2着8回、3着5回、4着5着が1回ずつと掲示板を外したのは僅か3回、それも7歳時以外はウイルス性疾患や重度の肺出血など明確な理由のあるものであり、負けたレースも斤量や不利を背負いながら圧倒的なスピードと類まれな闘争心で大きく負けなかったことがわかる。
彼の亡骸は5連覇を達成したウィリアムリードSが開催されたムーニーバレー競馬場のゴール板の正面に埋葬され、その一帯はマニカトガーデンと命名され今も残っている。
そして彼が2勝したムーニーバレーのレースであったフリーウェイSは現在マニカトSとなり、オーストラリア競馬春のスプリント戦で重要な位置を占めるG1として今も施行されている。
また、オーストラリア競馬殿堂が設立された際も初年度こそ殿堂入りを逃したが2年目には殿堂入りを果たした。
マニカトに先行して60年代にはヴェイン(ブラックキャビアが彼の3×4のクロスを持つ、伝説的快速馬)などがおり、短距離馬の地位はそんな低くはなかったものの、マニカトの常軌を逸した大活躍とそれに熱狂したファンの熱量の増加・短距離戦線への注目度アップにより大きく短距離路線の未来が拓けた、というのは間違いない事実である。
グレード制導入直後は短距離戦でG1になったレースは少なく、マニカトが勝ったG1認定されたレースはフューチュリティS(3回)とジョージライダーSのみで、G2やそれ以下のレースが大半であったが現在ではかなりのレースがG1となっている。
例えば自身の名を冠したマニカトS、5連覇を達成したウィリアムリードSは現在G1に認定されている。マニカトの大活躍により短距離レースに注目が集まり、レベルが上ってレート平均が上がりG1になっていった。
マニカトが勝ったレースを現在の格で換算するとG1だけでも20勝以上にもなるのが何よりの証拠。そのくらいオーストラリアの短距離路線はどの開催団体も重視するものに育ったのだ。
現在では世界最高額のスプリント戦ジ・エベレストが開催されているくらいであり、短距離馬に対する注目の高さやレベルにおいて、オーストラリアの追随を許す国・地域はない。肩を並べる実力馬が多い地域として香港があるが、香港は生産を行っておらず輸入馬ばかりであり、サイレントウィットネスやゴールデンシックスティ、セイクリッドキングダムなど短距離を走る馬はほぼオーストラリア産であるため実質オーストラリア競馬みたいなところはある。
ところでジ・エベレストはいつG1に認定されますか?え?無理?そんなあ。
そしてその流れの先に、ショワジールによるロイヤルアスコット席巻があり、世界最強ともいわれたブラックキャビアの海外遠征も含めた無敗の競走馬生があり、今もオーストラリア血統は一大勢力として世界をスピードで席巻している。2020年代もネイチャーストリップらが活躍中。
セン馬であったが故に彼の遺伝子は残らなかったが、その生き様に感動したオーストラリアの競馬ファンの熱が後輩の道を大きく拓き、オーストラリアを世界一の短距離馬王国としたのは彼の残した遺産でありミームであった…というと、ロマンが感じられるんじゃなかろうか。
とまあ、オーストラリアの競馬ファンでは知らないほうが珍しいマニカトではあるが、日本での知名度はかなり低かった。一応2018年に日本からオーストラリアに移籍していたブレイブスマッシュがマニカトSを制しており、そのときに名前を調べた人が多少いたかどうか…という程度である。ゲームでもそれは同様で、キンチェムやら果てはエクリプスにも乗れるギャロップレーサーシリーズですら未登場であった。オーストラリア競馬のマイナーさよ…
しかしそれを覆す作品が登場した。ウイニングポスト9 2022である。ついにTTGの時代スタートまでに遡ってしまったこのゲーム、オーストラリア馬も結構充実しており、キングストンタウンやソヴリンレッド・ガーナーズレーン兄弟、エマンシペーションが出る以上1975年生まれのマニカトが出ないわけがなかった。
「空飛ぶスプリントキング」の二つ名を携えて登場したこの馬、まあメッチャクチャ強い。特に序盤戦は日本のスプリント~マイル路線の馬では能力が足りず、イージーやノーマルならともかく高難易度では全く太刀打ちが出来ない。
なんせエディットなしでスピード76、サブパラ合計85である。サブパラ合計はスピードで互角のブラックキャビアやロードカナロアより高い。ヤバいですね☆
終いに成長型が覚醒なので8歳まで走っても競走寿命が尽きないまま王座に君臨する。まあ8歳の春が過ぎた頃には史実再現で休養に入って自動引退してくれるが。
芝質適性は重たい芝に向く設定なので、イギリスなど欧州のレースに出てきた場合まず負ける。このゲーム、オーストラリアのレースがそんなに充実していないため春と秋にしかレースがG1しかないので、6月~9月には欧州のレースに普通にいる。ついでに香港のレースにも出張ってくるので、系統樹立や経営安定の定石である香港荒らしの難易度をガッツリ上げてくる。
相手に遠征デバフがある時をうまく突いていきたいところではあるが、スプリント戦なら能力差で捻られることが多いだろう。
じゃあかなり芝質が軽く設定されているオーストラリアでなら勝てる…かというとそう甘くなく、マニカトのホームなので遠征デバフが皆無である。そのため初戦でぶつかるとデバフが入って普通に負けてしまう。前哨戦が使えないジ・エベレストに出てこられた場合、DLC込なら適正距離外でも距離が短い場合特に何の影響もないのを利用して、軽い芝が得意で能力の高いシアトルスルーやアリダーあたりをぶつければ勝てるかもしれないが、DLCなしだとまず実在馬では勝てない。まだ爆発力を稼げない中での自家生産で凄いのが出てようやく勝負になるだろう。
スプリント戦では理不尽の塊だが、マイル戦に出てきた場合は若干勝ちやすい。スタミナがかなり低いのを柔軟性で補っているため、残り100くらいでマイラーに比べて伸びが鈍ることがままあるためである。ただスピードや適性負けしてると普通に勝っていくこともあるので絶対ではない。
斯様に熟練プレイヤーでも駒不足が大きな理由ではあるが苦戦する強い馬であるため、ウマ娘効果もあってプレイヤーが増えたこともあってプレイヤーからの話題を呼び、「なんか知らんけどマニカトってのがクソ強くてワロタ」などと言及される機会が増え、ちょっと知名度が上がっている。
ちなみにジョンヘンリーなんかもタマを持ったまま所有できるのでセン馬の運命変えてやるぜ!という需要も満たせるのがこのゲームであるが、残念なことに生まれる時期が良くないので、ゲーム開始時すでに現役のアメリカの伝説的セン馬フォアゴーやレース名に名を残したエンシェントタイトルらと同様に種牡馬入りさせることは出来ない。DLCの譲り受けにも名前はなく、海外牧場最短設立をしても1977年には2歳のためすでにタマを取られているためである。血統表を見る限りフェアウェイが多すぎて爆発力は稼げないので種牡馬入りさせても難しいところではあるが…
しかし2023年3月30日発売の最新作ウイニングポスト10では、最古のスタートが1973年に遡ったことでついに所有・種牡馬入りが可能に。
とくに本作では現役可能期間が9歳まで伸びているため、史実で叶わなかった9歳で走るマニカトの姿も見ることができる。
まあそんな走らせると系統樹立の邪魔になったりするのでプレイスタイルによってはさっさと引退も視野に入るだろうか。
Manihi 1964 栗毛 |
Matrice 1951 栗毛 |
Masthead | Blue Peter |
Schiaparelli | |||
La Patrice | St.Magnus | ||
La Joconde | |||
Beauteous 1959 栗毛 |
Newtown Wonder | Fair Trial | |
Clarapple | |||
Maderson | Brueghel | ||
Creusa | |||
Markato 1968 黒鹿毛 FNo.8-f |
Natural Bid 1957 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Queen of Clubs | Roman | ||
Black Queen | |||
Fortunes Orbit 1960 黒鹿毛 |
*ヴイゴー | Vilmorin | |
Thomasina | |||
Probity | Fair Trial | ||
Grace Dalrymple |
クロス:Fair Trial 4×4(12.50%)、Fairway = Pharos = Fair Isle 5×5×5×5×5×5(18.75%)
なかった。つべにはちょっとだけある。
掲示板
5 ななしのよっしん
2023/04/20(木) 22:05:13 ID: 2I0I+s5r9q
ウイポ動画見てると1200で2着と9馬身差とかつけてて笑っちゃうんすよね。短距離の着差か、これが…?
6 ななしのよっしん
2024/02/18(日) 08:50:12 ID: Sc/0jwaMxG
7 ななしのよっしん
2024/04/23(火) 21:59:40 ID: jx8VoubEu1
なんというか色々とサンデーサイレンスの前世にも思えてくるような逸話だらけだな
その活躍でオーストラリアを世界屈指のスプリント大国にした功績はかなり大きいと思う
自分で所有したマニカトはなんというか負ける気が全くしない
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/09(土) 01:00
最終更新:2024/11/09(土) 00:00
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