金田正一(1933年8月1日~2019年10月6日)とは、日本プロ野球において、通算最多勝利記録、通算最多奪三振記録、最多投球回記録、連続無失点記録等を保持し、その実績を挙げればキリがないまさに「レジェンド」である。通称は「カネやん」「球界の天皇」。
現役時代は国鉄、巨人に所属し、弱小球団だった国鉄を長年支え、巨人に移籍してからは巨人のV1からV5に貢献、監督としては74年にロッテオリオンズを日本一に導いた。
なお現役時代に複数の球団に所属しているが、その背番号34は巨人の永久欠番となっている。
また、名球会の創設者でありボスであったが、2009年の「クーデター」で失脚、翌年の社団法人化に反対して退会した。
OB | |
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金田正一 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県 |
生年月日 | 1933年8月1日 |
没年月日 | 2019年10月6日 |
身長 体重 |
184 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
引退 | 1969年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
幼少期は戦後間もなかったことから非常に貧しく、この貧窮により兄弟姉妹3人を亡くしている。
野球を始めたきっかけは14歳の時、近所の喧嘩自慢の少年と激しい喧嘩を繰り広げ、文字通り雨降って地固まったのか、友情が芽生え、その少年に野球をしないか?と誘われた金田は野球を始めることになる。
高校では芝茂夫監督によって投手に抜擢され、コントロールが悪かったことから徹底的に走りこむように指示を受け、金田はそれを忠実に実行、この経験がプロでも生きることになる。
そしてその剛速球と縦に割れるカーブに目を付けた国鉄から高校2年生時にスカウトを受ける。
当初は甲子園を目指していた金田だが、予選敗退が決まると高校を中退して家族を楽させるために50年の8月10日、シーズン途中ながら国鉄に入団、8月23日にプロ初登板を果たすがサヨナラ負けを喫した。
プロ1年目はシーズン途中に入団しながら164と2/3回を投げ、8勝12敗、143奪三振という成績を残すが、同時に127四球というコントロールの悪さも露呈している。
ちなみにこの年の10月6日の試合ではプロ入り初ホームランを記録、17歳2ヵ月での初ホームランは今も最年少記録である。
2年目の51年は早くもエース級の活躍を見せ、記念すべき第一回オールスターゲームにも選出され1戦目と2戦目に登板、また9月5日の阪神戦ではノーヒットノーランを達成している。
この年は350回を投げ22勝21敗、233奪三振と18歳とは思えぬ投げっぷりを見せているが、四球も190を数えており、コントロールはなかなか改善されなかった。
そんなコントロールの悪さが災いしたのか金田は53年、8月9日の巨人戦にてスコア4-4、ランナー1・3塁で迎えた13回の裏の巨人の攻撃、代打の藤本英雄に対しベンチからは敬遠の指示、しかし自信家で一本気な性分の金田はその指示を不服に思い、自慢の剛速球で敬遠をした結果、捕手があらぬ方向に飛んで行ったその球を取れなかったため暴投となってしまい、敬遠サヨナラ暴投という珍記録を作ってしまった。(のちに小林繁も記録する)
しかしこの制球の悪さも、誰も真似できない程の走り込みを続けた結果徐々に改善されていき、57年8月21日の中日戦にてそれは示される。この日金田は中日のエースであり、2年前に0-1でノーヒットノーラン負けを喫した杉下茂と凄まじい投手戦を繰り広げていた。
金田は緩いカーブでカウントを取り、トドメに自慢の剛速球を投げ込むという極端な緩急術により中日打線を翻弄し、一人のランナーも許さない。
杉下もランナーこそ出していたが要所はきっちり抑え、お互いスコアボードに「0」を並べていた。
そして9回表の国鉄の攻撃、ワンアウトから連打で1・2塁とチャンスを作ると、6番の鵜飼勝美が杉下からセンター前に落ちるタイムリーヒットを放ち、1-0とする、そして9回裏、ここまで一人のランナーも許していない金田は先頭打者の酒井敏明を空振り三振に打ち取るが、この時のハーフスイングの判定を巡って中日の天知俊一監督が45分に渡る抗議を展開、金田は「自分に対する嫌がらせなのか!」とカッカしてはいたが、その怒りを良い方向に持っていくのが金田という投手でもあり、試合が再開されると「残り6球で終わらせる」とチームメイトに宣言、実際は7球を要したが、牧野茂と太田文高を三振に打ち取り、見事に完全試合を達成、捕手によれば最後の球が一番速かったとのこと。
57年は353回を投げ28勝16敗、防御率1.63、306奪三振で初の最多勝、最優秀防御率を獲得し沢村賞にも輝いたほか、四球も93とコントロールも大幅に良化している。
58年、金田は4月5日の巨人戦にて現在は誰もが知るスーパースターと対決する。
この日はこの年日本中から注目を浴びていたのちの「ミスター」こと長嶋茂雄のデビュー戦であり、金田は先発として登板、日本中のだれもが注目した対決の結果は1回、4回、7回、9回のすべてで金田が長嶋を三振に打ち取るという結果に終わったが、金田が長嶋に投じた19球の内12球がカーブであり、金田は長嶋の鋭いスイングに並々ならぬものを感じ取ったためか、終始「打たせない」投球に徹しており、それを裏付けるかのように長嶋も試合後「カーブが凄い」ということはあっても「ストレートが凄い」とは言わなかった。ちなみに金田はこの年こそ打率.179、被安打5、被本塁打1と長嶋を抑え込んだが、以後は巨人に移籍するまで長嶋のカモになっている。
この年金田は6月5日の阪神戦にて史上8人目となる200勝を達成、ちなみにこの時まだ24歳である。
また6月12日の巨人戦では「開幕から51試合目で20勝を達成」というスピード記録を作り、この間に64と1/3回連続無失点記録を樹立、そして19日の大洋戦にて年間10完封勝利の記録を成し遂げ、これを11まで伸ばした。(のちに小山正明が更新)
この年は自己最高成績となる31勝、防御率1.30を記録し、2年連続で最多勝、最優秀防御率、沢村賞に輝いた。
その後も順調に勝ち星を積み重ね、61年には20勝を挙げ、この年唯一となる国鉄のAクラス入りに貢献、62年には9月2日の巨人戦にて9回8奪三振で当時の世界記録であったウォルター・ジョンソンの3508奪三振に並び、その3日後の9月5日の同じく巨人戦、2回2アウトで6番の坂崎一彦から空振り三振を奪い3509奪三振の世界記録を樹立、試合も3-2で完投勝利を飾った。(現在はノーラン・ライアンらが更新)
63年は春先から好調で、4月27日から5月26日の間に全試合完投(内完封4つ)で8連勝を記録、6月22日にはリリーフで勝利を挙げ、それまでの最多勝利記録であった別所毅彦の310勝に並ぶ。
そして6月30日の広島戦、5回裏代打で登場した金田は打席では凡退するが、マウンドでは1点も許さずに9回まで投げ切り、ついに日本記録となる311勝を達成した。
64年の暮れ、金田はB級10年選手の権利(今で言うFA権だと思ってください)を行使して巨人に移籍、念のため言っておくが金に目がくらんだわけではなく、62年から国鉄の経営に関与していたサンケイが気に入らず、結果的に国鉄がスワローズを手放してしまったため、国鉄が好きだった金田はスワローズを出ていくことを決意したのだ。
巨人では国鉄時代同様に、誰よりも多くの練習量をこなして長嶋茂雄や王貞治を驚かせ(監督の川上哲治は金田の練習姿勢を高く評価していた)、65年は開幕投手に選ばれると見事完投勝利を挙げるが、これまで故障に無縁だった金田の肘が痛み出し5月末には戦線を離脱、復帰後は3試合連続完封勝利を挙げるなど貫録を見せ巨人の優勝に貢献、日本シリーズでは第1戦、第3戦の勝利投手となり初の日本一を経験したが、この年は11勝6敗、防御率1.84という成績に終わり、最優秀防御率こそ獲得したものの15年連続20勝及び300イニングは果たせなかった。
その後も巨人の躍進に貢献し続け、69年10月10日の中日戦にて金田は通算400勝を達成、この年限りで引退した。
引退後はタレントとしてお茶の間の人気者となっていたが、オーナーの重光武雄の強い希望(金田からの売り込みがあったとも言われている)もあり、1973年のシーズンよりロッテオリオンズの監督を務めることとなった。就任当初は周囲から「あんな自分勝手な男が監督なんてできるのか?」という声も上がっていたが、金田は前年5位となったチームの投手陣を走り込み重視のトレーニングで鍛え上げ、見事Aクラスとなる3位に浮上、またこの年のロッテはパ・リーグ最少失点を記録し、防御率トップ10には3人の選手(成田文男・八木沢壮六・木樽正明)がランクイン、特に成田は21勝で最多勝にも輝いている。シーズンオフには、日拓ホームフライヤーズから実弟・金田留広をトレードで獲得した。
74年、前年から施行された前後期制の元、前期は当初首位を走っていたが、5月末に阪急に逆転されそのまま前期は阪急が優勝する。しかし後期はスタート直後に阪急が失速し、金田留広の9連勝の活躍などもあり終始首位をキープし見事優勝、プレーオフでも阪急に三連勝を決め、この年巨人のV10を阻止した中日と日本シリーズで対決する。
第一戦は1点リードの9回に村田兆治が高木守道にサヨナラ二塁打を許し4-5で敗北、第二戦は5回までで0-5という苦しい展開だったが、山崎裕之、有藤通世のホームランなどで逆転し、6人の投手で中日の反撃を許さず8-5で勝利、第三戦はまたもや5回までに5点を取られ、打線も8回に1点差まで詰め寄ったものの、結局4-5で敗北、第四戦は3点先制後の6回に中日に追いつかれるが、その裏にさらに3点を追加して勝ち越し、そのまま逃げ切って6-3で勝利、第五戦は木樽正明が見事な投球で中日打線を完封し2-0で勝利、第六戦も村田兆治が10回3失点で完投し3-2で勝利し、ロッテは見事に日本一を達成した。
75年は日本一になって前年と違って開幕からピリッとせず、4月21日には金田自身が心臓発作を起こし休養、その後復帰するが前期は最下位となり、後期も山口高志が加入した阪急に追いつけず2位(総合で4位)に終わった。
76年は村田兆治が最優秀防御率を獲得する活躍を見せるもチームは前後期ともに3位、77年は有藤通世が首位打者を、新たに獲得した外国人のレオン・リーが本塁打・打点王を獲得する大活躍で後期優勝を決めるが、プレーオフでは阪急に敗退したため日本シリーズには出場できなかった。
そして78年、春先金田はチームのベテラン投手である八木沢壮六に「お前はもう限界」と強制的に引退させようとしたことで選手の反発を買ってしまい、それが影響したのかロッテは前期の終盤に15連敗を記録し5位に転落、後期もなかなか勝ち上がれず8月には「金田更迭」の見出しが躍りで、ついに9月30日、金田は辞表を出しロッテの監督を退任した。
その後は解説者・タレント・名球会などで活動していたが、90年に再びロッテの監督に就任。
しかし6月23日の西武戦では格の無い投手園川一美のボーク判定を巡って球審に激しく抗議し、退場を宣告されると頭に血が上ったのか球審を蹴っ飛ばしてしまい、この行動がきっかけで一か月の出場停止と100万円の罰金が科せられ、チームもこの年5位に終わった。ドラフト会議では亜細亜大学の小池秀郎の指名権を8球団競合の末に勝ち取るが、結局拒否されてしまった。
翌91年も6月から最下位に停滞、また近鉄戦ではまたしても格の無い園川の内角攻めに激高したジム・トレーバーにキックをかます事件を起こしている。(愛甲猛によればこのときトレーバーはロッテの宿舎に殴り込みを考えたらしい)
結局この年は平井光親の首位打者以外明るい話題もなく最下位に終わり、この年で監督を退任した。
退任後は解説者として活動。度々「ワシは現役時代180キロ、200キロ出してた」などの真偽のよく分からない発言をし、その上で「今の160キロで騒ぐ選手は凄くはない」とネタにしつつも、何だかんだで現代の選手達を評価するコメントを出す(そして「ワシの方が凄かった」と自らを持ち上げる)ことが多かった。一説にはメディアにネタを提供するためのコメントと言われているが…
2019年10月6日死去。86歳没。死の直前まで元気な姿を見せることが多かった中での突然の死として受け止められ、驚きの声も多く上がった。
最大の武器はストレートと縦に割れるカーブであり、そのストレートは現在でも一番速いストレートの候補としてよく挙げられ、「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治は金田のストレートこそが最も速かったと語っている。
球速については当時の球界のレベルがあまり高くなかったことからせいぜい140キロ程度という意見から150キロは出ていたという意見までさまざまである。本人は180キロ出たというが本当かな?
しかしその全盛期のストレートは受けていた国鉄の捕手・根来広光が「命がけだった」と語るほどの威力を持っており、根来は時にノーサインで投げ込んで来る金田の球を受け続けた結果、指は腫れ、骨も変形してしまったという。
カーブは「2階から落ちてくる」と言われ、長嶋茂雄は初対戦時カーブに全くバットを当てられなかった。
基本的に上記の2つで打者を抑えていたが、年を重ねてからはスローカーブやスローボールを用いて相手を幻惑する技巧派のような投球を見せるなど決して力だけでねじ伏せていたわけではない面も見せている。
暗黒国鉄の投手だったこともあり、298敗という敗戦数も日本記録であり、また「責任イニング前に勝ち越したら先発を救援して勝利」というパターンも多かった。その性格なども相まってか「先発勝利が多くない、先発から勝ち星を盗んでいた」とも指摘されることもある。しかし、当時の国鉄は「金田でなければ勝てない、リードを守れない」という苦しい台所事情にあったのもまた事実で、先発・救援双方で圧倒的な勝利数があることは当時の国鉄を支えた投手であることを物語るに他ならないものである。「勝ち星を盗んだ」というのも実際には勝ち投手の権利を持った投手をロングリリーフして交代完了する、今ならばセーブが記録されているであろうシチュエーションの方が多い。
また、打撃にも定評があり、史上最年少本塁打の他、投手として出場した試合で打った本塁打36本はNPB歴代1位(NPBで通算48本塁打を打った大谷翔平は投手としての登板時にはほとんど打席に立っていない)。当時の国鉄では下手な野手より打撃が期待できたため、登板のない日は代打で出ることもしばしばで、代打でも2本の本塁打を打っている。代打出場後そのままマウンドに立ち勝利したこともある。
金田の突出した能力については、セイバーメトリクスに基づく分析も出ている。FIP(守備から独立した投球内容=野手の能力に影響されない能力)をベースにしたキャリア通算RAR(すぐに獲得可能=リーグ平均以下の控えレベル投手に比べて失点を幾つ減らせたか)は954.4となり、NPB通算300勝を達成している他のレジェンド投手に対して150点以上の差をつけている。またキャリア通算WAR(すぐに獲得可能な投手と比較して勝利数を幾つ上積みできたか)は133.5であり、国鉄時代の15シーズンに限れば124.2(1シーズン平均8.2)である。当時の国鉄は「万年最下位」のイメージほどには最下位になっていないのだが、各シーズンごとの金田のWAR分の白星を差し引くと最下位が定位置となり、金田の功績の大きさを示すものとなる。
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https://twitter.com/deltagraphs/status/1180844891057688576
金田の投手生活を支えていたのは自分の経験と知識を基に作り上げた理論であり、この理論は単なる精神論や根性論ではなく、コンディション、トレーニング、食事に関する理論を根深く掘り下げたものであり、現代のスポーツ医学に繋がるものとなっており、金田自身も誇りに思っていたほどである(ちなみに古田敦也は2003年の時にこの理論を聞いた時はたいそう驚いていた)。
まず、一番大事にしたのは自分の利き腕である左腕や左肩を大切にすることであった。
自分の子供を抱くときにすら、絶対に左手で抱くことはなかったほどコンディションに関しては徹底している。更にオフでの休養も重視していたが、父を亡くした時のオフはあまり休養できず3年近く響いたとも話している。
「下半身で野球をやっている人はピンチを招いても力まない。下半身の弱い人はピンチになるとだめになる」という経験を基に下半身強化を重視した理論(いわゆる「走れ走れ理論」)を採用している。現役時代も走り込みを重視し、長嶋茂雄や村山実も金田の練習量に驚いたという逸話がある。監督時代にも主力投手を中心にその選手に合わせたベストタイムを設定した走り込みの課題を課しており、、回数を決めて全力で走らせていた(もちろん、ベストタイムに行かなかったらもう一回である)。ただし、フォームが出来上がっていない選手、身体が出来上がっていない若手選手、走り込みで逆に調子を崩しそうな選手には金田はあまり走り込みを課していなかった。
このため、野村克也からは「走るだけでピッチングがうまくなるのか?」という疑問を持たれたものの村田兆治からは「夏場になっても疲れが溜まらない。まるで高校時代に戻ったみたいに体が軽かった」と金田の理論を肯定しており、金田もその当時のロッテの故障者が少なかったことに誇りを持っていた。ちなみに「走れ走れ理論=走り込みだけをしていればいい」という風潮になった時には江本孟紀が「金田の理論を曲解している(要約)」というコメントを述べ、選手に合わせた走り込みをする重要性を説いている。
なお、この走れ走れ理論は2010年代以降は主にダルビッシュ有が異説を唱えるなど決して完全に受け入れられている理論で無くなっているものの、松坂大輔がプロデビュー後の練習メニューを知った時はテレビで金田は「走り込みが足りない」と切り捨てた。後に松坂の成績が悪化しており、西武も金田の指摘に従ったのかしばらくの間は下半身中心のトレーニングを行ったという逸話もある。
過度な筋トレ重視には体のバランスが崩れるため、反対の意思を示しているが、投手の球数制限には批判的な立場であった。理由としては「行為中に止めたら辛いからダメ」という下ネタ交じりの持論を展開し、聞き役の江本孟紀も肯定していた。
「良いものを食べること」「体が資本」を信条としており、基本的には自分で市場で買い、自分で作り(ただし、調理の部分は時間が掛かるため大まかな仕込みは専任の調理人を雇っていた)、それをだいたい3日(しかも、3日分の食料の費用はだいたいサラリーマンの月収分)で食べきるほどであった。更に水は当時は高価で貴重であったミネラルウォーターを飲んでいた(母親の「旅先では水に気をつけろ。腹を空かせるな」という金言が基である)。
国鉄時代はキャンプ地の近くに貸家を用意してほぼ毎日「散歩→市場で買い物→練習→食事」という生活をしていた。巨人時代は貸家はダメだったものの専用の部屋を用意してもらい、国鉄時代とあまり変わらぬ生活を送っていた。当時のキャンプの食事は巨人といえどもレベルが低かったらしく、金田の美味い食事を知った王、長嶋をはじめとした巨人の選手は毎晩御馳走になったというエピソードもある。そのため、キャンプでの費用はかなり膨れ上がったものの金田の「体が資本」という考えを押し通したこと、川上監督も黙認してくれたこと。最後は結果としてチームの士気向上となったため大きな問題にはならなかった。
ロッテの監督時代においても食事の質と量の向上を常としており、実際に球団に交渉していた程である。
当時は珍しかったキムチチゲやサムゲタンなど韓国料理を振舞っており、チームメイトからも大好評であった(特にサムゲタンは豊田泰光、キムチチゲは土井正三、高田繁が気に入り、金田からレシピを教えてもらったほどである)。何
また、試合日や練習日、オフによって食事の方法も変えており、例としては走り込みをする朝は消化の良いオートミールを食べるという柔軟な食事を行っていた。
通算:20年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 防御率 |
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NPB | 944 | 569 | 365 | 82 | 400 | 298 | -- | -- | .573 | 5526.2 | 1808 | 4490 | 2.34 |
通算:8年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1011 | 471 | 468 | 72 | .502 | Aクラス4回、Bクラス4回 |
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最終更新:2024/11/09(土) 09:00
最終更新:2024/11/09(土) 08:00
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