キンチェム(Kincsem)とは、1874年生まれのハンガリーの競走馬。
54戦54勝というダビスタでも難しいような成績を残し、現在でも「ハンガリーの奇跡」と謳われる名牝である。
概要
ハンガリー競馬について
「え? ハンガリー?」と言うなかれ、キンチェムが生まれた当時のハンガリーはハプスブルグ家のオーストリア=ハンガリー二重帝国であり、ヨーロッパ屈指の強国だったのである。優れた繁殖馬がどんどん輸入されていたこともあって、競馬のレベルも競走馬のレベルもそれなりに高かった。キンチェムの両親や祖母、母父はイギリス産馬だし、キンチェムが2歳の時にはハンガリー産のキシュベルという馬が英ダービーを勝っている。
ではオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊した現在ではどうかと言うと、当時の栄華はまるで見る影も無く、パートIII国にすら名を連ねていない有様である。近年ハンガリーの馬が話題になったことと言えばウーヴェルドーズ[1]の活躍ぐらいのものであり、日本語版・英語版Wikipediaのどちらにおいても「ハンガリー調教馬」のカテゴリでヒットするのはキンチェムとウーヴェルドーズの2頭しかいない。
経歴
父Cambuscan(カンバスカン)、母Water Nymph(ウォーターニンフ)、母父Cotswold(コッツウォルド)という血統。まあ、19世紀の馬だから分からなくても当たり前であろう。
一応父は2000ギニー2着・ダービー4着・セントレジャー3着という活躍馬で、母もハンガリーの1000ギニーに勝っているという、まずまずの血統背景を持っている。
「Kincsem」という馬名はハンガリー語で「私の宝」という意味がある。転じて、夫婦間や恋人同士が使うと「あなた」という意味になる。なんというか、実にはんなりする名前ではなかろうか。牝馬らしくて良い。
キンチェムはハンガリーの首都ブダペスト近郊の国立牧場で生まれた。生産者はエルンスコ・フォン・ブラスコヴィッチという20代の若者であった。フォンが付いているのだから貴族である。当時の競走馬生産者は貴族が多かったのだ。
ブラスコヴィッチは1歳馬を毎年何頭かまとめて売ることにしており、キンチェムが1歳になった時も自分の生産した他の6頭とまとめてオークシーという男爵に売ろうとした。ところがこの男爵、キンチェムともう1頭の牝馬を見て「この2頭はいらん」と言い、5頭しか買わなかったのである。この頃のキンチェムはひょろっとして見栄えが悪かったかららしい。やむなく、ブラスコヴィッチはキンチェムを自分所有のまま走らせることにした。
ところが面白いエピソードがある。キンチェムはひょろ馬だった仔馬の頃にロマ(ジプシー)に盗まれた。幸い犯人は捕まったのであるが、その犯人に「もっといい馬がたくさんいたのに、なんであんなひょろ馬を盗んだんだ?」と警察が尋ねると、犯人は「あの馬は見た目では分からない勇気を持っていた。こいつが一番よく見えたんだ」と答えたのだという。この犯人、盗みなんてやらないで馬券をやれば大儲け出来たのでは……。
そのロマの見込み通り、ドイツで出走したデビュー戦を4馬身差で圧勝すると快進撃の幕が上がる。詳細な戦績はWikipediaなどの各種サイトで見てもらうとして、とにかくもうなんというか、勝つわ勝つわの大連勝。2歳時は10戦10勝である。デビューは6月なのでよく見ると連闘が当たり前の物凄いローテーションで走っている上、ドイツ・ハンガリー・オーストリア・チェコと4ヶ国を跨ぎながら10戦全て違う競馬場で勝っている。ちなみに当時の移動は汽車が基本である。
「いやいやいや、すでにおかしいから」と言いたくもなるが、3歳になるとさらに恐るべき戦績が積み上げられる。
ハンガリーの2000ギニーを圧勝した2日後(!)に1000ギニーを勝利すると、中央ヨーロッパの強豪が集結するレースだったオーストリアダービーを大差で楽勝。古馬相手のレースも、初距離であった2400mも3200mもまるで問題にしないという無敵ぶりである。しかもこの年も4ヶ国で走っているのである。あまりの強さに相手が逃げてしまい、単走になったことが2回もある。この頃にはオーストリア=ハンガリー帝国皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世もキンチェムのファンで、いつも競馬場を訪れて応援していたという。
結局3歳時は17戦17勝であったが、これで驚いていてはいけない。4歳時は4月の始動戦から5月末までの間になんと9連勝。「おい! 走り過ぎやろ!」と思うが、この9連勝の後は西ヨーロッパ、すなわち競馬の本場であるイギリス・フランスへと乗り込むのである。飛行機なんて無い時代のイギリス遠征であるから、列車どころか船にも乗ったわけである。
イギリスのグッドウッドカップ。「ハンガリーの奇跡来る!」のニュースはイギリスでも大きな話題となった。ところが、地元の最有力馬であった前年の勝ち馬ハンプトンを始めとする有力馬の大半がこのレースを回避してしまう。ハンガリーの馬に負けたりしたら自分の馬の評価がガタ落ちするから、という理由らしいが……。
ハンプトンに次ぐ有力馬と思われたヴェルヌイユも前日の負傷で回避となり、僅か3頭立てで行われたこのレース、キンチェムは3番人気の低評価をあざ笑うかのように楽勝。「競馬はイギリスがナンバーワン」と思っていたイギリス競馬界の鼻を叩き折った。
次走はフランスのドーヴィル大賞に出走。芝2400mで行われたこのレースも2番人気を覆して優勝し、フランス競馬界を呆然とさせた。
競馬先進国にその力を見せ付けたキンチェムはドイツのバーデン大賞に凱旋出走。ところがここで生涯唯一、1着同着の際どいレースに持ち込まれてしまう。鞍上のマイケル・マドン騎手が酔っ払って騎乗したのが主要因で、こんな奴は首にしろと思うのだが、このマドン騎手はキンチェムのほとんどのレースに騎乗しているのであった。
同着の場合は再レースの決まりであった。再レースは野良犬に絡まれるというアクシデントに見舞われたが、犬を振り払うとあっという間に追いついて5馬身(6馬身とも)ちぎり捨てた。
結局4歳時も無敗で15戦15勝であった。この年は6ヶ国で走った。
5歳になったキンチェムは現役を続行。「いやいや、もう引退しろよ」とハンガリーの馬たちは思ったであろう。
この年は流石に色々やることが無くなったのか、5日間で3レースに使って3連勝とか、バーデン大賞とカンツァ・ディーユを3連覇したりとか、168ポンド(約76.2kg)背負って楽勝したりとかしている。139ポンド(約63kg)が凄まじく軽く見えるレベルである。なんかもう、周りがしらけてしまっているのがありありと分かるような……。
しかし最後のカンツァ・ディーユというレースを10馬身差で勝った後、キンチェムは同厩舎の馬と喧嘩して怪我をし、引退することになった。ハンガリー周辺の競馬関係者は泣いて喧嘩相手の馬に感謝したであろう。
通算成績は54戦54勝。ゲームでも出走すら無茶な部類に入るであろう。ちなみに現在の競馬の連勝記録はプエルトリコのカマレロが持つ56連勝だが、この馬は無敗ではない(77戦73勝)上に、プエルトリコ以外では走ったことも無い。7ヶ国を渡り歩いて生涯無敗だったキンチェムの記録は、現在でも不滅である。
10馬身以上ちぎったレースが15回、相手が逃げて単走になったレースが6回。勝ったレースは947mから21ハロン(約4224m)。当時の中央ヨーロッパの競馬のレベルがイギリスに比べてやや低かったのは事実だが、その圧倒的な強さは明らかに時代や地方を超越していた。
当時は、遠征といえば汽車に乗り、何日も揺られて行くのが当たり前だった。人間だって辛いような旅に繊細なサラブレッドが耐えなければならないのだから、飛行機や馬運車でほんの数時間という遠征で済む現在のサラブレッドに比べれば随分と不利だった筈だ。汽車を降りたらすぐレースだったようだから尚更である。もっとも、キンチェムは汽車の旅を好んだらしく、汽車が見えただけで喜んでいたという。
キンチェムは飲み慣れたものしか口にしなかったので、遠征にはいつも大量の飼料と水を持っていったのだが、4歳のバーデン大賞では持っていった水が尽きて水を飲まなくなってしまった。困り果てていたところ、バーデン大賞が行われるバーデンバーデン競馬場の近くにある井戸の水をキンチェムが飲むことができ、危機を脱したのだという。以来その井戸は「キンチェムの井戸」と呼ばれた(現在は泉が枯れているらしい)。このエピソードからも遠征がそう簡単な話ではなかったことが窺い知れるだろう。
そういう過酷な遠征をこなせた一番の理由はキンチェムのタフさ、精神的な強さだろうが、今に残るエピソードからは、周囲の人間たちの愛情もまた理由の一つではないかと思える。
特に厩務員だったフランキーは普段はだらしない男だったらしいが、キンチェムのこととなると非常に献身的に世話をしたと伝わる。キンチェムも彼を信頼し、彼がいないと決して汽車には乗り込まず、彼が眠ると自分の馬服をフランキーに掛けてやったのだという。
なおフランキーは元々姓を持っていなかったが、従軍した時に「フランキー・キンチェム」を名乗ると生涯その名前で通し、墓碑にもその名が刻まれた。
また、馬主のブラスコヴィッチはキンチェムが勝つと頭絡に花を飾るのを決まりとしていた。ところが、あるレースでブラスコヴィッチがなかなかやって来ないと、キンチェムは鞍を外させようとしなかったという。これなども生産者でもあった馬主と心が通い合っていたことが伺えるエピソードであろう。
また、キンチェムは猫が親友だったようで、いつも一緒に列車で旅をしていた。ところが、フランスで船から降りた後、この猫が行方不明になってしまう。キンチェムは悲しい声で2時間も鳴き続けて汽車に乗ろうとしなかった。しかし、猫が船の中から出てくると、何事も無かったように汽車に乗り込んだのだという。
何だか、汽車の中でキンチェムと猫、フランキー厩務員、場合によっては馬主と調教師が楽しげに笑っているのが想像出来るような気がする。そうでなければ旅から旅への遠征続きなど出来なかっただろうとも思われる。
さて、キンチェムは繁殖入りして5頭の産駒を送り出す。独ダービー馬を出すなど競走成績も優秀だったが、特に3頭の娘たちが牝系を繋いでハンガリーやドイツで活躍馬を輩出。牝系は中央ヨーロッパや東欧を中心に大きく広がり、その子孫は第二次世界大戦の戦禍を乗り越えて現在でも残っている。1974年の英オークス馬ポリガミーはキンチェムの13代子孫である。
2012年には、そのポリガミーの1歳下の全妹ワンオーヴァーパーから更に下ること4代目に登場したモンジュー産駒のキャメロットが英国で二冠を達成。キンチェムから数えるとなんと17代目、キンチェムの没後125年目のことである。サラブレッドの血統ロマンここに極まれり。この先も楽しみだ。
キンチェムは1887年、13歳の誕生日に死亡。死を報じる新聞の紙面は黒い枠に囲まれ、各地で半旗が掲げられたという。管理したロバート・ヘスプ師も後を追うように39日後に亡くなっている。
ハンガリーでは現在でも国民的英雄であり、旅行者がハンガリーでキンチェムの話をすると優遇してくれるという話もある。ブダペスト競馬場はキンチェムの生誕100周年を記念してキンチェムパーク競馬場と改名されており、他にも本馬の等身大像が建つキンチェム公園など、ハンガリー国内にはキンチェムの名を冠する施設が多く存在する。2007年にハンガリーで発見された小惑星161975番にも本馬の名が付けられている。
ハンガリーの誇りであり、帝国の栄光の象徴でもあった名牝キンチェム。伝説の名馬と言うに相応しい存在でありながら、暖かなエピソードにも包まれた彼女は、人と馬がまだまだ切り離せない間柄であった19世紀を象徴する馬だったのかもしれない。
血統表
Cambuscan 1861 栗毛 |
Newminster 1848 鹿毛 |
Touchstone | Camel |
Banter | |||
Beeswing | Doctor Syntax | ||
Ardrossan Mare | |||
The Arrow 1850 鹿毛 |
Slane | Royal Oak | |
Orville Mare | |||
Southdown | Defence | ||
Feltona | |||
Water Nymph 1860 栗毛 FNo.4-o |
Cotswold 1853 鹿毛 |
Newcourt | Sir Hercules |
Sylph | |||
Aurora | Pantaloon | ||
Lady | |||
The Mermaid 1853 鹿毛 |
Melbourne | Humphrey Clinker | |
Cervantes Mare | |||
Seaweed | Slane | ||
Seakale |
クロス:Slane 3×4(18.75%)、Camel 4×5(9.375%)、Whalebone 5×5×5(9.375%)
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関連項目
脚注
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