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昭和天皇(しょうわてんのう、1901年4月29日 - 1989年1月7日)とは、日本の第124代天皇である。
御称号(幼少時の呼び名)は迪宮(みちのみや)、諱(本名)は裕仁(ひろひと)、お印(シンボルマーク)は若竹(わかたけ)。
※ 経歴や逸話等について詳しく調べたい方はwikipediaを参照することをお勧めします。
概要
宝算87、在位年数は62年と2週間と、神話上の天皇を除けば、歴代天皇の中で最も長寿であり、最も在位期間が長い。
さまざまな地域へ訪れており、皇太子時代や戦前も含め、47都道府県だけでなく樺太庁や日本領台湾も訪問している。
天皇である一方、生物学者でもあった。
海洋生物や植物の研究を戦前から行い、新種のヒドロ虫を発見し、研究成果を著書としてまとめている。
イソギンチャクやウミウシやアメフラシなどを食べたことがあるそうだが生涯にわたりフグを食べたことがない。
また、自然を愛し、「雑草という植物はない」の言葉は有名である。
経歴
戦前
1901年(明治34年)4月29日、明治天皇の皇太子だった嘉仁親王(後の大正天皇)と節子妃(後の貞明皇后)の第一皇子として誕生。後に4人兄弟の長男となる。
1912年(明治45年・大正元年)7月30日、明治天皇崩御に伴い大正天皇が即位し、自身も皇太子となる。
1918年(大正7年)1月14日、良子女王(後の香淳皇后)が妃として内定し、1924年(大正13年)1月26日に結婚。
その後、2男5女の皇子女を授かる。
1921年(大正10年)、3月3日 - 9月3日、戦艦香取でイギリス・フランス・ベルギー・オランダ・イタリアのヨーロッパ5カ国を歴訪。
同年11月25日、大正天皇の病状悪化に伴い、天皇の公務を代行するべく摂政に就任。摂政宮(せっしょうみや)と称した。
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇の崩御に伴い、天皇に即位。同時に陸海軍の大元帥(統帥者)となる。
しかし、政党政治の不全が顕著になり、議会の統制を受けない軍部が政治に台頭すると、次第に政軍関係が破綻。
帝國政府は昭和天皇を「現人神」として神格化したうえで軍国主義を主張し、臣民を統制するようになった。
大日本帝国憲法において、天皇は広範な権限を有する「天皇大権」が明記されていたが、実際の天皇の立場は「臣下が決議したことを拒むことはできない」立憲君主であった。
昭和天皇自身も、皇太子時代にイギリスの立憲政治を見て以来「立憲政治を強く守らねば」と言う強い考えがあったため、どのような内容であっても内閣の閣議決定を覆せなかった。
また軍部も、昭和天皇を平気で欺くようになり、戦況についても都合の悪いものについては秘匿し、昭和天皇の戦線不拡大の意を汲むことなく無視し続けた。
その結果、満州における関東軍および陸軍の独断行動(現地司令官が天皇の許可なく勝手に部隊を動かす)によって成された満州国の建国や支那事変(後に日中戦争へ発展)を、事後追認する形となってしまい、大日本帝國の国際的な孤立を深めることになった。
さらには、1941年(昭和16年)、東條英機率いる東條内閣の閣議決定により、アメリカやイギリス等の連合国を相手にする大東亜戦争(太平洋戦争)へ発展してしまう。
しかし、昭和天皇自らが率先して事に対処しようとした事案がある。
1936年(昭和11年)、皇道派(天皇が直接政治を執って国家改造を目指そうとする考え)の陸軍将校によるクーデター「ニ・ニ六事件」が発生。
対応を躊躇する陸軍に激怒し、「朕自ら近衛師団(天皇直属の部隊)を率いて鎮圧に行う」と、強硬な態度を示している。
その結果、昭和天皇の意を汲んだ陸軍は反乱軍に対して徹底した鎮圧を行っている。
戦時中は、地方へ疎開することなく、東京の宮城(現在の皇居)で公務を執り続けた。
戦争自体には反対の立場であったとされ、軍部の原爆の研究や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させている。
だが、靖国神社や伊勢神宮等へ戦勝祈願と戦果の奉告を熱心に行っており、御前会議等の場で軍の戦略に対して意見や警告を発している等、当時の昭和天皇の言動については、現在も賛否両論である。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲を受け、8日後の18日に都内の被災地を視察している。
同年5月26日の空襲では宮城が爆撃を受け、明治宮殿が焼失。
翌27日、焼け跡を見回った際、同行した警衛局長のお詫びに対し、消火活動にあたって殉職した、警視庁の特別消防隊19名を気遣うお言葉をかけている。
連合軍に追い詰められた1945年(昭和20年)8月8日、内閣は連合国による「ポツダム宣言」を受諾するか否かを決めかねていた。
8月10日未明、御前会議にて首相の鈴木貫太郎が、昭和天皇に判断を求めたところ、受諾する意志を表明したため、8月14日に受諾。これが「終戦の聖断」である。
8月15日、昭和天皇の肉声で国民に受諾を発表する玉音放送を行い、大東亜戦争が終結した。
8月14日 - 8月15日に、戦争継続を唱える陸軍省幕僚と近衛師団参謀が近衛歩兵第二連隊を率いて宮城を占拠し、玉音盤を略奪しようとした「宮城事件」が発生しているが、この時には「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べたという。
なお、終戦時には総額37億5千万円(現在の金額で約7912億円)もの資産を有していた。
戦後
終戦直後の1945年(昭和20年)9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館を訪れ、GHQ総司令官ダグラス・マッカーサーと会見。
この時、マッカーサーと並んで撮影された写真が、2日後の29日に各社新聞に掲載された。
昭和天皇が正装のモーニングを着用した直立不動の姿勢であるのに対して、マッカーサーは略装軍服でリラックスした姿勢で撮影されているというもの。
それまで昭和天皇を現人神として崇めてきた国民にとって、衝撃的な写真であった(GHQは昭和天皇の現人神としてのイメージを崩す狙いがあった)。
1946年(昭和21年)1月1日、年頭詔書「新日本建設に関する詔書」を渙発。
その中で、自らの神格化を否定する内容があったため、詔書の題名が長いこともあり、マスコミ等から「人間宣言」と呼ばれた。
1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行された。
GHQの草案を基に制定された日本国憲法において、天皇の地位が「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、国政への介入が大幅に制限されることになった。
この年に沖縄を長期間に亘ってアメリカに貸与し、安全保障に加えてもらうことを希望するメッセージを出している。沖縄を日本固有の領土とはっきりさせる意図があった。沖縄には皇太子時代に一度訪問したことがあるが天皇としては訪れることができなかった。崩御される直前まで沖縄訪問に強い意欲を示されていたという。
その後は、戦前の大礼服や軍服を纏った現人神のイメージを一新。
モーニングや背広を着用し、国民と触れ合う機会を増やして人間らしいソフトな面を強調するようになり、国内外の親善活動や生物学者としての活動を活発化させる等、従来の天皇像を変えていくことになる。
終戦後の惨状を目の当たりにし、自身はどうすればよいのかを悩み、退位することも頭に浮かんだとのことだった。
だが、戦争で疲弊した国民を慰めて、復興のために立ち上がらせる勇気を与えることが、自身の責任であるとの考えに至り、1946年(昭和21年)2月19日の横浜への巡幸を皮切りに、1954年(昭和29年)まで、公務の間を縫って戦災地復興視察のため全国各地を巡幸。多くの国民へ積極的にお声をかけて励ました。
1949年(昭和24年)の九州への行幸では、戦災で両親を失った少女とのやりとりで大粒の涙を流し、皇居に戻った後に短歌を詠んでいる。
1947年(昭和22年)6月23日、第1回国会(特別会)の開会式に出席。この時の勅語にて、一人称に初めて「私(わたくし)」を使用した。それまで、歴代の天皇は公の場での一人称に「朕」を使うことが伝統であった。
1950年(昭和25年)7月13日、第8回国会(臨時会)の開会式に出席した際には、従来の「勅語」から「お言葉」に改める。
1948年(昭和23年)1月2日より、国民が皇居にて新年(1月2日)と天皇誕生日の祝賀の意を表する、一般参賀を実施。最初は参賀に来た国民が、皇居内に設けられた名簿に記帳するのみであったが、その後は天皇自らが民衆の前に姿を見せ、手を振って応えるようになる。数年後には、香淳皇后や成人になった皇族も参加している。
しかし、1969年(昭和44年)1月2日、竣工したばかりの長和殿のベランダで行われた一般参賀にて、アナーキストによって、昭和天皇がパチンコ玉で狙撃される(幸い怪我はされなかった)という、「昭和天皇パチンコ狙撃事件」が起こってしまう。
そのため、翌年以降はベランダに特殊強化ガラスが入れられるようになった。
しかし、ガラス越しでの一般参賀を嘆いた昭和天皇は、1983年(昭和57年)より、マイクによって民衆にお言葉を述べられるようになった。
1971年(昭和46年)、香淳皇后と共にイギリス・オランダなどヨーロッパ各国を歴訪。
1975年(昭和50年)、香淳皇后と共にアメリカ合衆国を訪問。
帰国後の同年10月31日、香淳皇后と共に歴代天皇初の正式な記者会見が行われた。
この時、記者から「どういう風なテレビ番組を観ておられるのか?」と言う旨の質問を受け、「放送会社の競争がはだはだ激しいので、今どういう風な番組を観ているかという事には答えられません」と、ジョークを交えて回答を避けた。
1984年(昭和59年)、皇居内でのNHKのテレビ取材を受け入れ、宮内庁職員の職務や自身の公務風景を撮影させた。同年5月20日に「NHK特集 皇居」としてテレビ放送された。
1987年(昭和62年)4月29日、自身の誕生日の祝宴を体調不良により、途中で席を外した。
以降、体調不良が顕著となり、同年9月19日には吐血するに至ったため、9月22日に歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。病名は慢性膵臓炎であった。
その後も容体は悪化し、1988年(昭和63年)9月18日の深夜に大量吐血される。以降、公の場に姿を見せることはなくなり、日本各地で「自粛ムード」が広がった。
1989年(昭和64年)1月7日、午前4時過ぎに危篤状態へ陥り、午前6時33分崩御。
死因は十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺癌)であった。
前年9月から、宮内庁・侍医団らは、昭和天皇が癌であることを把握していたが、本人には伝えられなかった。
同年(平成元年)1月31日に今上天皇が、在位中の元号から採り、「昭和天皇」と追号した。
同年2月24日、大喪儀・大喪の礼が行われ、東京都八王子市にある武蔵野陵へ埋葬された。
関連動画
戦前
終戦直後の巡幸
戦後
崩御・大喪の礼
その他
太陽【THE SUN】
終戦前後の時期の昭和天皇にスポットを当てた海外の映画。2005年公開。日本では2006年に公開。
監督はアレクサンドル・ソクーロフ、昭和天皇を演じたのはイッセー尾形。
関連動画
終戦のエンペラー
終戦後の占領政策を円滑に進めるべく、昭和天皇の訴追を回避する方策を探った海外の映画。2012年公開。日本では2013年に公開。
監督はピーター・ウェーバー、原作は岡本嗣郎、昭和天皇を演じたのは片岡孝太郎。
関連動画
関連項目
123代 | 124代 | 125代 |
大正天皇(たいしょうてんのう) 1912~1926 |
昭和天皇(しょうわてんのう) 1926~1989 |
上皇明仁(じょうこうあきひと) 1989~2019 |
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