韓崎(潜水母艦)単語

カラサキ
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(からさき) (潜水母艦)とは、大日本帝國海軍が運用した潜水母艦である。1904年2月6日ロシア義勇艦隊から鹵獲した輸送エカテリノラフベースとなっている。潜水艦明期を献身的に支え続けたのち1939年4月1日に除籍。終戦後の1947年11月25日呉市へ引き渡されて解体された。

概要

崎の前身はホーソン・レスリー社が建造した貨客エカテリノラフハウスプリットが付いたクリッパー首を持つ。

就役後はロシア義勇艦隊に編入されたが、日露戦争開戦時に日本海軍によって拿捕され、特設工作艦として運用。その後、海軍は入手した潜艇を活かそうと、潜艇乗員の休養設備や旗艦設備を設けられる広大スペースを持っていた崎を、1905年に潜水母艦へ改装。日本海軍初の潜水母艦となって潜隊創設当時から任務に就いていた。

艇5隻各2組の定員80名分の居住区、潜艇用の圧縮空気魚雷、燃料などの供給施設、二次電池充電装置及び修理施設を持つ。同期駒橋(潜水母艦)がいたものの、そちらは1000トン級の小だったため、もっぱら大崎が重宝されたという。日露戦争で得た戦利艦のうち、戦艦群はおおよそ1915年まで、小を転用した潜1930年までに全て除籍される中、崎のみ1939年4月まで海軍籍に残るという異例の長命であった。大東亜戦争開戦時においてもまだ浮いていたが、既に人員・設備ともに撤去されてを待つだけの存在だったため、戦局には寄与していない。

海軍学校卒業して少尉補生になった山本五十六が最初に乗り込んだ艦でもあり、他にも桁外れの秀才だった悌吉、大東亜戦争時に海軍大臣を務めた嶋田太郎海軍大将になった沢幸一など、後の大物を次々に輩出している。

排水量9570トン、全長127.7m、全幅15.2m、出力2300力、最大速力12.6ノット、石炭搭載量900トン、乗員249名。兵装は安式40口径8cm単装1門と山内式47mm単装重速射4門。後の改装8cm1門を追加し、8cm単装も8cmに換装している。日露戦争中は木製の連携機雷投下装置も装備していたとか。

潜水母艦の礎を築いた原初の存在

日露戦争

1896年1月30日ホーソンレスリー社の造所で進した1万トン貨物船をЕкатеринослав(エカテリノラフウクライナドニプロトロウシク州にある都市名)と命名、同年6月工してロシア義勇艦隊へ編入された。

ラジオトクからオデッサに向けて航行中だった1904年2月6日、日露交断絶が起こり、その日のうちに釜山沖大日本帝國海軍巡洋艦済遠によって拿捕される。これが事実日露戦争開戦の合図となった。較的体が新しく、状態も良好で、積載量にも優れていたため、日本軍は自軍に編入する事とし、拿捕した場所が対馬北方だったので、4月17日対馬北端の地名から取って崎丸の仮名を与え、10月まで、日本本土から半島及び朝鮮半島に兵員と物資を輸送する陸軍御用として運用。その後は海軍運送となる。

海軍の管理下に置かれると、海軍学校卒業した少尉補生用の訓練艦に割り当てられる。

11月14日海軍学校で第32期生191名の卒業式が行われ、7番の成績で卒業したある少尉補生が訓練航のため崎丸に乗艦した。彼の名は山本五十六。後に元帥まで上り詰めたエリート新米時代である。時同じくして先輩の第31期生の一部も崎丸に乗艦。これは戦時中につき第31期生の訓練航が出来ず、実務訓練を積ませる的で、成績優秀な士官が選抜されて導官として崎丸に配備されたのだった。崎丸は将来有望な少尉補生たちを乗せて本土近練習に従事。

その頃、連合艦隊力は旅順上封鎖に忙殺されていたが、根拠地の裏長山列には修理施設がく、修理をするには本土まで後退しなければならない実情があった。そこで帝國海軍崎丸に工作設備を搭載して特設工作艦に仕立て上げる。

1904年末に旅順攻略の見通しが立つと、1905年1月から4月末にかけて横須賀海軍で潜水母艦になるための改装工事を実施。日露戦争中に帝國海軍は潜艇を手に入れており、崎丸には潜艇乗員の休養施設や旗艦設備を設けられる十分な内部スペースがあった事から、潜水母艦に抜されたと思われる。

帝國海軍は、前々から津軽海峡バルチック艦隊が通るかもしれないと考えており、函館拠点にする津軽海峡防備隊を発足させるとともに、防御機雷による航路閉塞を検討していた。4月19日津軽海峡防衛部を設置して宮直記大佐官に据え、警備艦豊橋武蔵仮装巡洋艦香港丸、日本丸が揮下に入った。大本営からの直接の示で崎丸は4月27日より部所属となり、第3、第4潜艇隊の母艦兼警備艦になる。5月より函館渠で連携機雷投下装置(木製の投下台を尾楼甲両側に設けただけの簡便なもの)を搭載。仮にバルチック艦隊が津軽海峡を突破しようとした時は、西から東へ流れる潮流を利用して崎丸による機雷敷設を行い、艦隊の速度を遅らせるという構想だった。

5月27日から翌28日にかけて行われた日本海戦に崎丸は直接参加せず、津軽海峡の警備任務に従事していた。8月1日に第1潜艇隊母艦所属の潜水母艦として就役。帝國海軍初の潜水母艦となった。ただし当時は潜水母艦の組みがかったので運送艦扱いだったとか。

1905年9月5日日露戦争は終結。厳しい戦いを勝利と言える形で終わらせた日本は、10月23日横浜東京湾凱旋観艦式を挙行し、崎丸も参列している。

戦間期

1906年3月8日母艦に類別され、正規の軍艦となったため艦名をに変更。帝國海軍に正式に入籍した。軍艦の格を備えた事で艦首には菊花紋章が添えられている。

1907年6月26日根岸湾で行われた連合艦隊演習の最中、第1潜艇隊の第2潜艇と第5潜艇が衝突事故を起こし、その経緯を旗艦の崎が報告書にまとめている。1908年5月1日より横須賀で探二極電鑰を新設する工事を受け、11月18日神戸で行われた大演習観艦式において伴艦を務める栄誉にあずかった。

1910年4月15日午前10時45分、山口県で半潜航訓練を行っていた第六潜艇が事故を起こし、着底してしまう。歴山丸の見り員は潜艇の異常に気付かず、救難作業の初動は大幅に遅れた。17時頃になって、ようやく佐薙一逸一等兵曹が在泊の崎に乗艦中の第九艇長太田少佐に打電、上級部たる雷団経由で、潜水母豊橋に届いたのは21時2分の事だった。

異常が分かると在泊の艦艇に遭難が通達され、崎は救難作業の目的で出動した。沈没から29時間45分後、崎所属の潜夫が深17mの海底に沈む第六潜艇を発見、アンカーを取り付けたブイを撃ち込んで印を作り、捜索に参加中の他艦艇を呼び寄せた。体は4月17日に引き揚げられた。既に乗員14名はガソリンガスの中死を遂げており、手旗信号で周囲の艦艇に状況を知らせたのち、遺体を回収して残骸とともに海軍へ移送している。ちなみに亡くなった佐久間勉艇長は崎の分隊長として勤務した事があり、遺書には当時崎の艦長だった中野直枝中佐に宛てた文面もあった。

1912年8月28日母艦の類別が止されたため二等海防艦に類別変更される。1913年6月17日軍港に停泊していた崎は左舷器の定期を受けるも、突然胴部2ヵ所に裂が走る破損事故が発生し、工にて2~3週間の修理を行った。

1914年、退役する豊橋に変わって新たな潜水母艦駒が就役。一緒に潜艇の母艦任務を遂行するが、駒1100トン程度の大きさしかないのに対し、崎は1万トン級の巨体を誇っていたので、潜水母艦としての利便性及び性は圧倒的に崎が上だったという。1915年12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に参列し、第2艦隊第4戦隊の列にした。

1916年12月20日、潜水母力を向上させるための改装訓が下り、1917年4月16日よりにて後部デリックの撤去、課電表室新設、発電機換装、爆発事故沈没した巡洋戦艦から引き揚げた大4個の搭載等を行って性を底上げし、潜艇5隻に対する補給力を獲得した。

1920年4月1日、一度は止された母艦の類別が復活して再び母艦籍となる。12月1日に第1艦隊第1潜戦隊へ部署。1921年3月24日で食器室を新設し、翌年3月27日清浄器の新設工事を行う。

1922年4月12日裕仁王訪欧の返礼としてイギリス皇太子エドワード8世が巡洋戦艦レナウンに乗艦して来日。崎は御召艦である巡洋戦艦レナウンと供奉艦軽巡ダーバンのホストシップを務める大任を担った。12月1日に第2艦隊第2潜戦隊へ転属。日本海軍初の水上機母艦若宮ともども特務艦した。


1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。マグニチュード7クラス変地異が都を襲った。この時、崎は裏長山列にて連合艦隊演習に参加中であった。15時以降、奇跡的に生き残った船橋送信所から送られてきた緊急信5通を受信して、都壊滅を知った連合艦隊は速やかな内地帰投の必要性を感じ、翌2日14時に緊急出港準備を下。まず身軽な駆逐艦16時頃より逐次出発していった。

9月6日連合艦隊特第3号崎は戦艦陸奥比叡霧島、第12駆逐隊とともに品川へ向かうよう示され、釜山にて食糧と医療品を満載、救援物資をすぐさま品川に輸送した。9月10日からは地区の救難任務に参加。また横浜方面の災者の中で関西方面への避難を希望する者を、軽巡天龍支援に来た米国アジア艦隊の駆逐艦等とともに、9月22日まで横浜から清水に輸送する任に就き、合計1万3094名を運んだ。

1924年4月1日、防護巡洋艦戸とともに第2艦隊第2潜戦隊を編成するも、後輩とも言うべき潜水母艦長が就役した事で9月8日に長と交代、同日発された内220号により海軍学校の訓練艦となり、潜学校長揮下に置かれて係留される。12月1日に潜水母艦へ類別変更。この頃に47mm単装重速射2門を降ろして代わりに8cm1門を装備した。

1925年3月1日、舞の新校舎へ移動する機関学校生徒や、職員とその家族255名を乗艦させて江田島を出発。舞まで送り届けた。

1926年12月25日大正天皇が崩御。これに伴って1927年2月2日崎は大喪儀に参加する陸海軍学校及び海軍機関学校生徒120名を江田島で収容し、神戸にて更に機関学校生徒45名を収容して、2月7日午前に品川湾へ到着した。1928年12月4日横浜で挙行された御大礼特別観艦式に第一番列外にして参列。今回が観艦式最後の参加となった。その後、崎艦内で赤痢が蔓延し、三つ子に隔離されて消毒を受けている。


工から30年以上が経過していた事もあり1930年に老朽化を理由に実用任務を解除。一応人員こそ配置されていたが、外洋航する事はもうかった。1931年3月31日に入渠して室給加熱器の換装工事を受ける。1932年1月9日軍港にて勅諭下賜50年記念式典が行われ、午前8時から日まで崎は満艦飾となって港内にりを添えた。

大きい体を持っていたからか、次第に大化していく潜水艦にもある程度ついていけたようで、1935年頃、排水量1635トン大四潜水艦伊61と伊62に補給している時の写真が現代に残されている。

1936年2月19日崎に搭載されていた汽艇の処分が認許。12月22日、艦内にいる人員は少数の保管及び保安要員のみとなり、弾薬兵器類も全て返納している事から、崎に対する敬礼は特務艦に準じるものとなった。要するに軍艦としての扱いはされなくなった訳である。

1937年8月工事中で乗艦出来ない軽巡洋艦(当時)最上乗組員のため、内を居住区代わりに開放。ロシア義勇艦隊時代からある大理石の浴槽が乗組員を癒やした。そのなのか、最上の艦長、副長、計長、機関長が崎の同配置と兼業になっている。また、この頃になると常備排水量が1万500トン→6269トンに減じており、除籍に向けて艦内より多くの設備が撤去されていた事がえる。人員配置も1937年を最後に行われていない。

解体

1939年4月1日除籍。それから1年後の1940年4月1日第9号に改名された。同年9月頃、工員用宿泊施設として使用する計画もあったが、結局中止となった。新水母大鯨剣崎空母改装化が決まった事で、一時は潜水母艦不足に陥り、旧式のが投入される事態となったものの、さすがに崎はオンボロ過ぎて再投入すら検討されなかった。

1941年12月8日大東亜戦争開戦をで迎える。戦争中はずっと係留され、呉鎮守府の居住用ハルクとして運用、1945年3月19日6月22日7月24日と28日の軍港襲や、度重なる機雷投下や敵艦上機襲来を生き延びて終戦まで浮き続けた。戦火を免れた後の1947年11月17日呉市ポンツーンとして引き渡す許可が下り、11月25日に移管された。

一部資料では「1942年に解体された」としているが、終戦時に倉北東で砲艦千早や旧式駆逐艦楢と係留されていた事が判明しており、これは誤りである。

ちなみに、崎の名は風早給油艦2番艦や、針尾給油艦3番艦の補名となっていたものの、いずれも建造中止となっている。そして現在に至るまで崎を襲名した艦は存在しない。

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