守護(鎌倉時代)とは、中世の武士の職制の一つである守護の鎌倉幕府のそれである。
源頼朝の勢力によって平家勢力があらかた掃討され、源義経、および奥州藤原氏が討伐されていく過程の中でおおよそ全国に鎌倉幕府の統治範囲が広がっていくと同時に、各国に地頭とともに配置されたのがこの守護である。
京都の朝廷との交渉過程で多少権限が抑えられ、のちの室町幕府のそれに比べるとその国の武士を統括はするもののせいぜい各都道府県警のトップといったものであり、領域支配などを行うものではないのが特徴である。
正直室町時代のそれが家産として代々引き継がれる類のものであったのに対し、鎌倉幕府の守護は成立期に当たることもあり、そもそもこれ守護じゃなくて惣追捕使だから…だの、国地頭はあくまでもすぐに廃止された臨時職だし守護が延長線上にあるかどうか正直微妙…だの、西国と違って東国の守護っぽい人たちはあくまでも旧来の権限が安堵されただけで役割もだいぶ違うし…だの、とりわけ鎌倉時代前期において「守護」として一般化できるような存在だったのかは実際異論も多い(蒙古襲来あたりからはさすがにもう問題ないんだろうけど…)。
加えて、室町時代に比べてもさらに実際だれが当時守護についていたのか一次史料から導き出せないことが多く(資料集などで割と穴抜けが多いのはそのためである)、一応系図に代々守護を務めてましたと書かれていることもあるのだがどこまで信用できるのかといった部分も(守護のリスト自体、ウン十年前の佐藤進一によるものがいまだに到達点として機能してるあたり研究の難しさ自体は察されると思う)。
おおよそ鎌倉時代を通してずっと守護の座にいたものについてをまとめる。基準は承久の乱から元寇前後まで。
なお守護は多分いたのだろうが安房、飛騨に関しては資料がなく不明。陸奥、出羽はおそらく未設置。
鎌倉時代おなじみの執権の一族。かつて源頼義に娘を嫁がせた平直方の子孫…というのは吾妻鏡の主張でどうだかという感じなのだが、最近は一応別の系統とはいえ桓武平氏ではあったという見解らしい。
もともとは伊豆の在庁官人という一地方武士に過ぎなかったのだが、それなりに有力だったらしくかつての上司だった縁で頼朝と京都の貴族吉田氏のとパイプ役になるなど、さすがにどこの馬の骨かわからないような存在ではなかったそうな。
その後源頼朝との婚姻、以仁王のあれで受領が源頼政から平氏方に代わり非主流派に、源広綱討伐のために平氏方の伊豆への圧力、などといったもろもろの要素により源平の戦いに盛大にかかわることとなり、あれよあれよという間に鎌倉幕府の重役になってしまった。
なお、元寇に対抗する戦時体制でかなりの守護をゲットしたが、北条氏内でもだれが付くか割合流動的だったのが美濃、紀伊、石見、日向、大隅。執権になるともれなく若狭が。
北条氏の嫡流。上野(安達→)・武蔵・伊豆・駿河・美作(→一族の誰か)・備中・土佐(三浦→)守護。
ただしその嫡流になる道程は結構苦難に満ちており、もともと傍流に位置づけられた北条義時の父親排斥による復活、伊賀氏の支援する政村流を抑えた北条泰時の継承、名越流を宮騒動で排除し何とか地位を確固とさせた北条時頼、といった具合に実のところ相当地盤は不安定である。
さらにその後も蒙古襲来以降の混乱状態でどんどん権力が形式的なものになり、ぶっちゃけこの人たちの最盛期って…とつい真顔になってしまう。
幕府滅亡以降生き残った一門による一大クーデターも失敗して散発的なものになり、最終的には南朝に身を投じることとなった。
北条義時の庶子北条朝時の子孫。母親が比企氏だったために彼らの没落とともに嫡流コースからは除かれ、北陸の比企氏権益と九州の比企党勢力たちを継承した大豪族としてのキャリアをスタートさせた。能登・加賀(→政村)・越後・越中・尾張(中条氏→)・安芸(武田氏→)・肥後(→少弐)・大隅(→北条氏が歴任)守護。
そのような経緯から独立心が強く、執権一門への対抗心から摂家将軍サイドに着くも宮騒動、さらには二月騒動で穏健派以外処分されてしまった挙句、九州での影響力をほとんど失った。
とはいえ何やかんや高い地位には居続けたのだが、最後の最後で足利尊氏の蜂起のどさくさに赤松に…
北条義時の庶子北条重時の子孫。名越とは同母で、比企氏の持っていた信濃の権益を継承することとなり、地理的近さから逆に幕府中央での高官というキャリアをスタートさせた。信濃守護。
特に一門である赤橋家が北条家ナンバーツーとなり、特に騒動も起こさず屋台骨となる。足利尊氏の正室がここの出身のため、地味に足利家に血が入っている(もっともあそこ正室北条氏ばっかりなんだけど)。
赤橋だけでなく、傍流の普恩寺や塩田も高位についているくらいなので、本当に幕内での地位がうかがえる。
北条義時の庶子北条政村の子孫で、一人だけ名前そのままでお馴染みの家。もともとは比企氏に代わって北条義時の正室になった伊賀氏の息子だったが、泰時との跡目争いは政子などの介入もあって伊賀氏騒動でご破算となり、有力一門として続いていった。加賀(名越→)・和泉守護
…がやっぱりあれだったのか、嘉元の乱で排除されそうになる。しかし結果は失敗し、北条氏滅亡の時までともに道を歩んでいくことに。
北条義時の庶子北条実泰の子孫。政村と同じく伊賀氏の出。初代が伊賀氏騒動の後に盛大にやらかしたにもかかわらず、何やかんや学問の家として幕府高官に収まっているよくわからない家。伊勢・志摩・豊前・肥後守護。
安達との関係が深く(名越失脚後九州を任されたのも割とそれがある)、霜月騒動で安達が失脚して結構危なかったりする…のだが割とあちこち重要なポジションを任されている。…というかぶっちゃけ押し付けられており、15代執権の経緯などを調べると真顔になるかもしれない。
北条義時の末子北条有時の子孫。。庶子もいいとこなので元からそこまで重用されていなかったことに加え、初代が病弱ですぐリタイアしてしまったのでいまいちその後もパッとしない一門。讃岐守護。
本当にパッとしないので特に書くこともない。
北条義時以下得宗家の嫡流ではなく、義時の弟・北条時房の子孫。もともと源頼家譜代と化していた各家傍流のひとりではあったのだが、彼の失脚後も何かと重用され京都と鎌倉を行き来する有力一門と化した。遠江・佐渡守護。
なお同じ系統に佐介流もいるが、いろいろあった結果こっちが嫡流になった。
ご存知承久の乱以降の出先機関。京都の治安維持だの周辺の騒動の採決だのあたりの御家人の監督だの、何かと忙しいが北条氏にとっては重要なステップアップのためのキャリアコースである。山城・摂津(探題北方が兼務)・丹波(探題南方が兼務)・播磨(探題北方が兼務)。
しかし結構身内同士でのきな臭い政争にも巻き込まれているのでそこまで安泰な地位ではなかった模様。最終的に何度か討幕軍をはねのけたが、足利に…
元寇が終わった後、再度の元寇に備えて北条氏に任せた長門の守護にいろいろ権限を拡張していたら、研究上探題とまで呼ばれるようになってしまった。長門・周防守護。
それなりに重要なのに、任せると基本帰ってこれない、土着した人間にはポストが回ってこないので定期的に派遣しなければならない、と六波羅と違ってなかなかアレなポスト。最後は六波羅にも鎮西探題にも救援に間に合わないまま確固撃破されてしまった。
元寇が終わった後備えとして九州の御家人のてっぺんに作られた機関。運営は探題である北条氏と、大友氏、少弐氏の3者によって行われていた。肥前守護。
基本的には長門探題と同じで結構アレなポスト。最後は菊池などを抑えていたら、よりにもよって大友と少弐にヒャッハーされて滅亡。
ご存知次の将軍。上総・三河守護
北関東に勢力を広げていた義国流源氏の嫡流で、在地で頑張っていた新田に対して在京活動をおもにしていた。保元の乱の直後平清盛、源義朝に次ぐ第三勢力と なっていたが平治の乱前の早くに亡くなってしまった。源頼朝の蜂起に早くに駆け付け、受領を任されるなど文様として重用され、北条氏との縁戚関係も深く源氏のトップ2に収まった。
…のだがちょくちょく怪しい行動をとっており、一部の学者からはアヤシイアヤシイ言われている。また鎌倉幕府の体制の中で、次第に源氏のUTSUWA扱いされていったらしい。(ぶっちゃけ幕府作ったのが遡及されてる感もある)。
最終的には、幕府滅亡の最大のターニングポイントとなる。
二人いてややこしい足利義氏の庶子の長氏流の方。元寇のとき越前守護を任されたのだが、霜月騒動に盛大に巻き込まれて当主か息子が死ぬという事態に陥ったうえ解任された。
相模を代表する在庁官人で桓武平氏…ということになっているが、今昔物語に源氏に仕えて出てくるその先祖っぽい人を、あれ勝手に先祖っぽいって言ってるだけだから普通に在地豪族だ、いや普通に先祖でしょ、と現在進行形で殴り合ってる。相模(→不設置)・土佐(→北条氏)・讃岐(→北条氏)守護。
傍流の和田も切り捨て、代表的な北条氏の姻族となり相模の権益をがっつり確保する…のだが、北条氏との距離感で割と混乱があり、宮騒動の後テメーは許さねーと宝治合戦でデストロイされた。
乱後は守護ではなくなったものの、姻戚関係から唯一北条側に着いた佐原氏によって引き継がれ、南北朝でまさかの逆転をすることに。
なかなかレアな山陰流藤原氏。上野(→北条氏)・肥後(→北条)守護。
なんだか頼朝の名無し家人から出世したみたいな扱いになっているが、比企氏の娘婿かつ普通にすさまじいレベルの婚姻ネットワークのかなめになっている人脈っぷりの家で、宇都宮と並んで武士の在京・在地活動の研究対象にされている。
比企対北条の争いでは痴情のもつれもあって比企から足を洗い北条に。アンチ三浦の流れから、三浦が捨てられた後は北条氏の代表的な姻族となる。そのため霜月騒動での立場は教科書のように北条氏に対する従来御家人…というわけではなく、あくまでも幕内の政権構想を巡る対立だったというのが最近の扱い。とはいえ御内人との対立でデストロイされた、というのは事実。
という感じでいったん失脚したのだが復活…したはしたのだがそのまま北条氏と一緒に滅んだ。
同族である上総氏と肩を並べる頼朝のじいの片割れみたいな語られ方をするが、ぶっちゃけ向こうが大規模領主と化していたのに対して、割と源平のおかげで武士団形成できたレベルっぽい。があっちが粛清された結果、足利と分担であとを引き受けることに。
とはいえ鎌倉で活躍していた傍流の秀胤が宝治合戦でまとめてデストロイされたことからあまり中央ではぱっとせず、さらに元寇のせいで家が割れて結構めんどくさいことになってた。
そこを最終的に足利に利用されるが、なんやかんや無事だった…無事だったはずなんだよなあ…
ご存知秀郷流藤原氏のドン、な下野の大豪族。下野・播磨(→元寇で北条氏に)守護。
嫁の寒河尼が頼朝の乳母だった関係もあり源平のころ鎌倉側に。常陸で蜂起した志田義広をディフェンスしたり、熊谷相手にウチには人がいっぱいいる自慢したり。
二月騒動に何かしら巻き込まれた感もあるが、初期幕府を構成していた大規模豪族の典型なのに全くの無傷というすごい家。それは建武政権でも変わらなかったはずなのに、中先代のせいで以降踏んだり蹴ったりの日々に…
秀郷流藤原氏で、小山と結城に挟まれた三兄弟の真ん中。淡路守護。
鎌倉時代ほぼダメージなしで淡路守護を続けることができ、順調すぎて逆にとくに語ることがない。
討幕への協力、その後の足利軍参加までは順調だったはずの人。
尊氏九州に逃げちゃってやばいじゃん、って南朝についてからもう一度北朝に戻ったせいで一族がバラバラになった挙句、関東の足利さんちの壮大な家族喧嘩の犠牲に。
まさかの粟田関白藤原道兼の子孫を称しており、逆になんでそうなったんだと突っ込まれてる人。小田や小山に行った寒河尼は兄弟。伊予・たまに筑後守護。
地方出身の京武者の代表例として取り上げられることが多いが、そのため人脈が広かったせいでか鎌倉時代は仲良かった相手がことごとくポシャるとかいう歩く死亡フラグになっていた。地方豪族出身で幕府中央の高官にいたとかいう結構貴重なサンプル。とはいえ南北朝で南朝に着いたこともあり守護職を失うことに。
伊予の方に土着した子孫は長宗我部にやられたあれである。本拠の下野の方は、最後は浅野長政の私怨でひっそりと滅亡し、復活できそうで復活できないようでやっぱり復活できなかった。
宇都宮や寒河尼と同族な八田さん。なぜか源義朝の落胤説がある。常陸守護。
もともといた常陸源氏の佐竹を頼朝がボコった結果、苗字を変えて常陸をシめることになった。傍流の宍戸と交代で職に当たっていたようだ。
が、南北朝の時北畠と組んで関東を代表する南朝勢力になった結果、以降佐竹の地位が逆転。その結果戦国時代の東の不死鳥な某アイドルにつながっていくことに。
ご存知義光流の甲斐源氏のドン。甲斐・安芸(→名越)守護…ということだが、甲斐は実はあんまり証拠がない。
源平の時同盟軍だか第三勢力だかよくわからないポジションで頼朝と共闘していたが、まあそんな連中居られても困るって感じで執拗な甲斐源氏いじめを受ける。最終的に梶原景時が蜂起したどさくさに傍流の石和がサクッとクーデターを起こして、将軍の下に着く御家人ということで生き延びた。
初期から勢力があった安芸に承久の乱以降本格的に進出することになり、元寇を期に土着した。一方甲斐は幕府中枢とかかわりが強かった傍流が継承し、南北朝の結果安芸守護家によって再統一された…ということになっている。
甲斐源氏の中ではどちらかといえば穏健派でほぼほぼ無傷なのだが、在京活動を任されていた嫡流から傍流に代わってというなにかしらがあった後武田と同じく御家人ということで生き延びた。
源頼家政権では比企のラインで引き立てられた政権スタッフと化すが、政権自体はあっけなくポシャリ、承久の乱の時得た阿波に進出する。
最終的に足利方に着くのだが、信濃にリターンにした嫡流はともかく、その後阿波を任せた家が細川との殴り合いで没落して行方不明になり、三好をはじめとした自称子孫ばかりになってしまった。
お馴染み宇田源氏の佐々木四兄弟のうち、承久の乱で生き残った長男の子孫。近江守護。
所謂六角氏なのだが、分家の京極とか隠岐とか塩冶に若干押され気味ではある。
承久の乱の時幕府側についたので生き残っているのだが、守護にあったということ以外いまいち記録に残っておらずパッとしない。
揚北衆の新発田氏などはここの傍流である。
厳密にいえば当時はまだ佐々木な、四兄弟にカウントされていない5男の子孫。隠岐守護。
山陰海運の利権もあってかなり富を蓄えていた。が、守護をやっていた佐々木の中では討幕の最幕府方と一緒に滅ぼされることに。
ちなみに子孫は京極の下で相変わらず隠岐守護代になっているが尼子が…
ぶっちゃけここに関しては鎌倉時代より南北朝の方が有名なのだが、さすがに痴情のもつれは文学的表現で、普通に政争で失脚したっぽい。
その後も山名とは殴ったり殴られたりの関係だが、最終的に京極の下でそれなりの地位に就くことに。が、尼子が…
武蔵七党のうち横山党の出身で、小田氏の養子に入った感じの人。尾張(→名越)守護。
幕府の中では北条氏とは仲良くしつつもある程度距離を置いた、そこそこ独立した勢力だった人。同族の小野氏が承久の乱でポシャったのを引き継いで守護に。
尾張と三河で隣同士なこともあり、足利とは結構ツーカーで室町時代に入っても幕府の近臣を務めていた。
しかし日野家切り捨ての巻き添えを盛大にくらい、最終的には織田対今川の巻き添えで…
北陸が勢力圏な利仁流藤原氏に、秀郷流藤原氏から養子に入った感じの人(西行の甥)。もともとは御家人兼一条家の荘官というポジション。越前守護。
三左衛門事件などでマークされた挙句、一条家ラインで召集された承久の乱で敗者として切り捨てられるが、息子が鎌倉側だったので生き延び、どちらかといえば六波羅で重要なポジションに着く(…はいいけど最後どうなったか不明)。
村上源氏の一門とされる常陸房昌明の子孫…らしい。苗字が同じ三善の嫡流や源頼政の子孫とややこしい。但馬守護。
討幕の際には千種軍に加わって戦死した結果、建武政権でも守護になっている(…はいいけど最後どうなったか不明)。
政所でおなじみ大江広元の子孫の嫡流。丹後・備後守護。
結構いた分家のみなさんがことごとく宝治合戦で失脚したので(毛利など)、三善や二階堂と違って唯一高官を務める系統。ちなみに鎌倉の方と六波羅の方で二つに分かれており、こっちは六波羅の方。
武蔵七党のうち横山党のひとつ。とは言ったものの愛甲氏と同じく相模に進出した家系である。因幡守護。
横山党のほとんどとおなじく嫡流が和田合戦で壊滅したのに対し西遷した一門が生き残った…というもの。
ぶっちゃけ因幡守護は、幕末に討幕側に着いた関係で記録に残った海老名維則しか伝わっておらず、実際のところどうだかといった感じである。
もともとは秀郷流藤原氏の武藤氏…なのだが初代が養子でありもともとの家は不明。太宰少弐なので少弐になった。筑前・豊前(→北条氏)・肥前(→北条氏)・肥後(→安達)・対馬・壱岐?守護。
源平でもともと平氏方についていたが許されてきた九州に送られた。梶原とは助けられたり嫁だったりと何かと縁があり、大友や島津ほどではないが比企党だった可能性も。
元寇の大活躍で大きく勢力を伸ばすが、霜月騒動の時岩門合戦とかいう兄弟同士の殴り合いをはじめやらかす。その後も大友と一緒に鎮西探題を支えるが、最後の最後に裏切った。ここから足利についたまではよかったのに…とりあえず一色と今川絶対許さねえ!
そんなこんなで渋川や大内に幅を利かされることに。西の不死鳥。
頼朝の御落胤説があるけど、秀郷流の近藤氏と波多野氏の間に生まれて中原に養子に入った感じの人。豊後・ときどき筑前守護。
少弐、島津と同じく九州を任される大抜擢だが、比企つながりで北陸の名越とも結構親交が深い。他の2人と同じく元寇で本格的に進出し、土着することに。その後も少弐と一緒に鎮西探題を支えるが、最後の最後に裏切った。しかしその後の運命は少弐と大きく異なっていく…が…
頼朝の御落胤説があるけど、普通に比企氏から来た安達盛長の嫁が、前夫の惟宗氏との間に産んだ子(文書も残ってるし…)。薩摩・大隅(→北条氏)・日向(→北条氏)。
他の二人と同じく九州を任される大抜擢…なのだが比企氏つながりで名越のサポートに越前・若狭守護だったことも(この子孫が若狭島津氏となぜか播磨にいることでおなじみ越前島津氏)。
明治まで南九州にいることでおなじみだが、現地入りしたのはやっぱり元寇の時。南北朝のころからなんかややこしいことになっていく。
掲示板
4 ななしのよっしん
2016/07/09(土) 22:31:34 ID: 45AhOyuvkC
鎌倉時代の守護というと末期における北条一門の寡占状態とかひどいよね。大体65%が北条とか、もう水野忠邦が可愛く見えるレベル(まあ守護自体の権限はそれ程ないけど)
5 ななしのよっしん
2017/06/05(月) 08:51:27 ID: Uoplk6qHZn
>>源頼朝の勢力によって平氏勢力があらかた掃討され、
平氏ではなく平家でしょ?
6 ななしのよっしん
2017/07/22(土) 04:07:58 ID: CcSugcXVNL
極楽寺流の異様な強さは六波羅勤めで朝廷相手に磨かれた重時の政治力が必要だったのと重時の娘が時頼の正室になったことで母系でもつながったことだよな…。
逆に名越流は朝時の夜這いエピソードとか見るにどうにもアレな感じ
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最終更新:2025/12/06(土) 15:00
最終更新:2025/12/06(土) 15:00
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