藤沢秀行は、日本の棋士、書道家。ニコニコニュースの題字を書いたことがある。
2009年5月8日逝去。
名誉棋聖 藤沢秀行さんご逝去-ニコニコニュース
本名は保(たもつ)だが、のちに秀行(ひでゆき)と改名し、周囲からは「しゅうこう」先生と呼ばれている。てか、むしろ呼ばせていた。本因坊家からクレームが入ったが、その時だけ「ひでゆきです」と答えていたらしい。
1977年の棋聖戦から6連覇を成し遂げ、名誉棋聖の称号を得る。その他、第一回首相杯や旧名人戦など、1960年代から引退の1998年まで、常にトップ棋士として囲碁界に君臨し続けた。王座タイトル3連覇をした時、66歳。これはタイトル獲得者の最年長記録である。
棋風は厚み派。厚みの働きを最も知る人物の一人。「序盤50手までなら日本一」といわれる布石感覚、異常感覚と呼ばれる鋭い着眼点が武器。メディアに「豪放磊落」「丸太んぼうを振り回す碁」と表現され、囲碁界を大いに盛り上げた。だが一流のトップ棋士からは「囲碁に関しては常識的な手を打つ」とも。中央を重視する棋風が評価されにくい世だったからだろうか。
また、かの有名なオリオン布石は藤沢が打ち出したらしい。ポカも多いらしく、「一年を4勝で暮らす男」「棋聖戦男」とも。
体調がすぐれない晩年も休まず対局。 「私が本当に強くなったのは、五十を過ぎてからと思う。体力の衰えた現在でも、昭和三十八、九年当時の私には勝つはずである」
酒の話は後述するとして、大変な酒乱であった。40代の頃から酒が抜けなくなったのを感じ、禁酒をするようになるが、棋戦が終わるやいなやこれまた派手に飲む。こんな生活を長年続けていたので当然体が壊れてしまい、食べ物を受け付けなくなる。その為、晩年は点滴治療で胃を休め、ゆっくり酒を抜いていったようだ。まさに決死の覚悟で対局に臨む。
1998年引退。引退碁を行う。引退碁を行うのは本因坊秀哉以来の出来事である。対局は3局行われ、日本は高尾九段、海を越えて韓国からは韓国初の9段でありタイトル王・曽薫鉉、中国からは七小龍と呼び名の高い常昊が氏の為に駆けつけた。
晩年の介護状況については、市場の本に詳しく載っている。幸運だったのは、胃ガンの手術を行ったのがこれまた名医で、本来は全摘出だった胃を少しだけ残してくれた点。これにより食事が可能となった。また、もともとの生命力が強かったらしく、宣告された余命の倍も生きながらえる事ができた。
書道が趣味であり、よく個展を開いた。借金返済の足しにしたというのがもっぱらの評判。病院で書いた最後の書「強烈な努力」や、彼の造語「屈屈伸」が有名。よく扇子などのサインには、同じく造語の「無悟」の字を書いたという。弟子にもよく書道をしろと言っていたようで、高尾先生も展示会に一筆出したりしている。
なお「屈屈伸(くつくつしん)」は、ぐっと我慢しておもいっきり伸びろという意味。「無悟(むご)」 悟の字と碁を掛け、芸は永遠に悟る事ができないという意図がある。
2009年、永眠。
最後の言葉は高尾九段に対してで、「このバカ」であった。
その日、大きな雷が落ちたかと思えば、直後に見事な虹が掛かった。NHKのインタビューでは、大竹英雄先生は「最後まで彼らしい」、妻のモトさんも「彼らしく派手だ」と著書で述べている。
先生の手が、人差し指と小指の長さが一緒な事に初めて気がつきました。
(人差し指がかなり短かった)やはり、”強烈な努力”をされていたのですね。たかお日記より
特筆すべきは後輩育成である。
門下には、のちに本因坊タイトルを獲得した高尾紳路九段を初め、実子の藤澤一就八段、元NHK杯の三村智保九段など現在のトップ棋士の名前が並ぶ。孫娘の藤沢里奈初段は女流棋士枠にて最年少プロ(2010年に11歳6カ月で入段)として活躍。
囲碁に関しては厳しいようで、藤澤一就先生は囲碁を覚えるときは怒られながら覚えたと語る。 同様に高尾先生も常に叱られていたようで、本因坊タイトルを獲得した際に「今日くらいは褒めてくれるかな」と報告に向かうと「勝ち碁でなにモタモタやってんだ」と、やっぱり叱られたとか。
ただ、
秀行塾(藤沢学校)と呼ばれる研究会には、多数の棋士が顔を出している。藤沢門下という枠を超えた集まりで、メインメンバーとしてはNHK杯でおなじみ結城聡九段、愛弟子高尾紳路九段、依田紀基九段など。昭和30年代には、呉清源門下で後の名誉天元のリンちゃん林海峰が顔を出していたりしている。
この塾の事は著書・野垂れ死ににいくつかのエピソードが載っている。
要約すると、来る者拒まず、去るもの追わず、無料で指導、ただし激辛でボロクソに言います、という具合のようだ。また指導後の飲み会もそれまた派手にやっていたようである。
中国・北京には「中国囲碁界の恩人」として中国囲碁出版社内に藤沢秀行記念室が設けられた。80年代に日本の若手棋士を連れて中国に遠征を行い、日中間の囲碁発展に影響を与えた為である。遠征メンバーは依田先生、入段直後の高尾先生、院生の一就先生など、27名。これに常昊などの中国棋士が影響を受けた。
さらに韓国の曽薫鉉も秀行塾メンバーの一人。「瀬越憲作を精神の師、藤沢秀行を盤上の師」と語る。88年に秀行がソウルを訪れた際には、彼の体を気遣い、毎日お粥をとどけたという。
結城聡先生は一時解雇になったが、のちのち結城が教えを求める形で復帰。
瀬越憲作九段
「トップ級の碁打ちを大別すると、天才型と努力型がある。~中略~
秀行はどれにも属さず、勝負師である」(天才型と呼ばれる事もある)
かっこよく言うと、無頼派・豪放磊落(ごうほうらいらく)。俗っぽく言うと、超ファンキー。
将棋界の加藤一二三さんが天然ネタ要因だとしたらこっちはシャレじゃすまないギリギリアウト勝負だコノヤロー。
有名なのだと
94 : 名無しさん@恐縮です 2009/05/08(金) 11:08:15 ID:giu865HW0 [1/1回発言]
以後も将棋もわからない俺にドラゴンボールでたとえて教えてくれ111 : 名無しさん@恐縮です: 2009/05/08(金) 11:29:38 ID:vg8pbPA/O [1/1回発言]
>>94 まんま亀仙人131 : 名無しさん@恐縮です: 2009/05/08(金) 12:07:13 ID:oxuGbZWN0 [1/1回発言]
囲碁棋士・名誉毀損の藤沢秀行さんにみえた
女房は最大の宿敵。かつ最強の援軍
著書・野垂れ死により
wikipediaから有名なトコだけ抜粋。あとは著書とか読めばいいと思うよ。
ソース:毎日新聞
http://mainichi.jp/feature/news/20120412dde012040043000c.html
http://mainichi.jp/feature/news/20120405dde012040059000c.html
後は市場の本とウィキペディアを始めとするネット上の情報から。
「大丈夫。死ぬまで生きる」
病院側が進めた延命治療を断り、強引な退院を繰り返した秀行先生を支えた妻・藤沢モトさん著。
伝説系のトンデモ話から秀行先生の最後まで余す事なく入ってます。
妻のサイドから見た秀行先生の図なので、後半は介護面の話も多い。
両方おもろいで。文庫版。
今回はもうこれで、さっさと終わりにして 早く生まれ変わりたいねえ生まれ変わったら、また碁打ちになる 今度は失敗しないほら、いっぱいやっちゃったからねえさあ、そろそろ次に行こう
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最終更新:2025/01/03(金) 17:00
最終更新:2025/01/03(金) 16:00
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