ロバート・プラント 単語

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ロバートプラント

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ロバート・プラント(ROBERT PLANT)とは、イギリススタッフォードシャー州ウェスト・ブロミッチ生まれのボーカリストロックアーティストである。称は「パーシー」。

概要

フルネームロバートアンソニープラント。

ロックバンドレッド・ツェッペリンリードボーカリストとして特に有名である。彼の驚異的なまでの域を活かしたハイトーンボーカルといわれる歌唱法は幾人もの追従者を生み、今日ロックボーカルスタイルに、エルヴィス・プレスリーに匹敵するを及ぼしている。

彼の登場からもがBaby~♪Baby~♪と唄うようになったとローリング・ストーン誌は評していた。

その若き頃、ラファエロの絵画かギリシャ彫刻を思わせる超絶美貌ぶりと、長い金髪を振り乱して唄うそカリスマ性に溢れた美しい姿から、「ロックの美」「ロック界のアイコン」「70年代セックスシンボル」と称されていた。

つまり旧来のロックフロントマン概念を一変させた、偉大なボーカリストである。

『子鹿のような優しさとバッファローのような荒々しさ』を兼ね備えたパーシー美しい

略歴

1948年8月20日、会事務所を営む両の元に生まれる。

1961年13歳、ロックンロールに魅了され、を伸ばして一人前のロッカーを気どる。学校では優等生であったという。

1963年15歳ロバート・ジョンソントミー・マクレナンなどのブルースに魅了される。
だが両は理解せず、それらを「悪魔音楽」と呼び、プラントからブルースを遠ざけようとする。

1964年16歳公認会計士の見習を勧められるが、ロックスターになることを見て家出
以後イギリス中西バーミンガム周辺の様々なバンドを渡り歩き音楽修行を開始する。

1965年17歳サニーボーイウイリアムス世のバーミンガム演で楽屋にび込んでハーモニカを盗む。
同年、”ザ・クローリングキング・スネイク”を結成。
盟友ジョン・ボーナムと初めて一緒に組むが、バンドはなんら成功をみることなく解散してしまう。

1966年10月18歳プラントの驚異的な域にを付けたCBSレコード契約。加入中のバンド、”リッスン”の名義で一枚、翌年ソロ名義で二枚のシングルを出すが、結果は屈辱的にまで売れず、契約自然消滅してしまった。

1967年、”ザ・バンドオブジョイ”に加入。再びジョン・ボーナムと合流。
バッファロースプリングフィールドなどのアメリカ西海音楽と、ヒッピームーブメントに大いにされる。
バンドレコード契約し、アセテート盤を制作して売り込むが、先見性の不足していたレコード会社によって、悉く無視されてしまう。1968年5月バンドオブジョイは解散。

同年ブリテッシュ・ブルースの生ける伝説アレクシス・コーナーと知り合う。
その作品の中の1曲で、voとハーモニカを担当。ツアー企画されたが計画は一向に進展しなかった。

この頃のプラントは同棲中インドイギリス人の人(後に結婚)モーリン妊娠して身重になってしまい、音楽だけではとても生計が立てられず、道路の舗装現場で労働者たちから「ポップスター」と嘲笑れながら重労働に明け暮れていた。

このまま音楽を続けるか、止めてモーリンとあてのあったカナダに移住するか、あるいは実家に帰って会計士修行に戻るかの苦渋の選択を強いられていた。

不遇な下積み時代が続いたが、ここで突然大きな転機が訪れる。

1968年7月19歳、バンド、”ホブスウィードル”に加入中、プラントの旧友、テーリー・リードからジミー・ペイジに、”ヤードバーズ”のvoにどうかと推薦されたのだ。ジミー・ペイジに会いに彼の自宅に向かう最中、でいきなり老婆に足を踏まれて手打ちされ、その長いを切りなさいと怒られる。その後の波乱に満ちた人生を予見させられる。

同年8月ジョン・ボーナムを呼び込み、”ニューヤードバーズ”を結成。驚くべきことに、最初プラントとボーナムは正規のメンバーではなく、週給制のサポートメンバー扱いであった。

同年9月バンドロンドンジェラード通りにあったスタジオリハーサルを行う(ジョン・ポール・ジョーンズとはこのとき初顔合わせ)。

9月14日デンマークコペンハーゲンを皮切りに、旧ヤードバーズ契約を結んだが、バンド突然空中分解によって行が危ぶまれていた、スカンジナビア・ツアー全10演を事開始する。

同年10月バンドはこの勢いのまま突き進みオリンピックスタジオで、僅か9日間、計36時間という驚異的なスピードファーストアルバムの収録を行った。

25日、サリー大学でのライヴのおり、バンドは名称を”レッド・ツェッペリン”へとめる。

同年バンドアメリカツアーを開始するとく間に爆発的な人気を得て、そのライヴの凄まじさは伝説となった。

つい数ヶ前まで道路工事の現場で働いていたというのに、今全が足元に屈している現実プラントは混乱したという。

その後のプラントとバンドの驚くべき成功物語ロック伝説となった。

レッド・ツェッペリン解散後

1980年9月25日ジョン・ボーナムが就寝中に事故死。

同年11月、残された3人のメンバーたちは、バンドの将来を話し合うためジャージに集まった。その後ロンドンピーター・グラントとのミーティングが行われ、解散が決定される。同年12月4日、正式に解散表明が発せられ、レッド・ツェッペリンは、その12年間に及ぶ活動を終えた。

プラントは過去との決別を決意し、長いを切り整えてイメージを一新。残されたメンバーたちの中でも、最もく立ち直ってソロ活動を開始した。

また、その音楽性からはハードロック色は陰を潜め、シングルレコードの発売、プロモーションビデオTV出演など、ZEP時代の禁じ手を次々と繰り出していく。

1981年3月、地元の音楽仲間たちと即席バンド”ハ二ー・ドリッパーズ”を結成。肩ならしとして地元の小さなクラブをまわってギグを行う。

1982年6月スワンソングレーベルから初のソロアルバム11時の肖像』を発表。UKチャート最高2位、USチャート最高5位の好成績を記録する。1983年7月、自身のレーベルエス・パランザ」よりセカンドアルバムプリンシプル・オブ・モーメンツ』を発表。

以降90年代までに発表した各ソロアルバム全てが米国トップ5入りし、5枚のアルバムプラチナディスクゴールドディスク認定された。

1984年3月アトランテック・レコード社の社長、アーメットアーティガンの監修の元で、ジミー・ペイジジェフ・ベックナイルロジャースらと、ハニードリッパーズの名義でR&B名曲レコーディング。このミニアルバム『ヴォリュームワン』は同年11月に発売、好セールスを記録する。

1988年からは過去との折り合いをつけ、自身のライヴではZEP解散以来、長く封印を続けていたZEPナンバーを解禁。アルバム『ナウ・アンド・ゼン』ではジミー・ペイジゲスト参加。曲調にZEP時代の雰囲気が、やや戻ることになる。ファッションも、ふわりとした長ベストという、かつてのプラントの装いを彷彿するものに変った。

1994年MTVから人気番組アンプラグドへの出演を依頼され、ジミー・ペイジを誘いセッションを行う。番組はMTV史上最高視聴率を記録し、94年から96年にかけて行われた、実質レッド・ツェッペリンの再結成ともいる”ジミー・ペイジ&ロバート・プラント(ペイジ・プラント)”のUSツアーでは米国音楽レコードを塗り替える快挙を達成。もしもレッド・ツェッペリン復活すれば、いつでもシーントップに復帰出来るということを明してみせる。

だが、1998年2枚アルバムを発表した後、次のアルバムレコーディング中に、プラントはスタジオにペイジと残りのメンバーを残したまま何時までも現われず、ペイジ・プラントはワールドツアーの残り、日本オーストラリア演もキャンセルして解散。

理由はプラントの、ZEPナンバーを多く演奏することに何の刺も感じない。ファンとのふれあいを感じられないスタジアムや大きな会場でコンサートを続けることにも疲れたという不満からだった。相方のペイジがあくまでも巨大な会場でのライヴ希望し、ZEPナンバーを重視したこととは正反対の姿勢であった。

2001年パーマネントなバンド、”ロバート・プラント&ストレンジ・センセイション”を結成。

2007年10月ブルーラス界のディーヴァ、アリソンクラウスとのコラボレーションアルバムレイジング・サンド』を発表。このアルバム米国100万枚以上を売上げ、USチャート最高2位記録する大ヒットとなった。グラミー賞のアルバムオブ・イヤーズを受賞。

2007年12月、アーメットアーティガンの追悼記念コンサートに、ジミー・ペイジジョン・ポール・ジョーンズジェイソン・ボーナムらとレッド・ツェッペリンで出演。全盛期を彷彿とさせる圧倒的なライヴパフォーマンスを行う。
このイベント世界話題となり、1万8000枚のチケット購入に2000万人が応募、推定1億人を巻き込んだチケットの大争奪戦が起こったといわれている。

この頃ワールドツアーが行われることが待ち望まれていたが、プラントは今後のZEP再結成について、
なんら具体的な計画を明かさず、ジミー・ペイジプラントは9月までクラウスとのツアーがあるとして、
性があることを述べていたが、プラントの再結成反対の意向は強く立ち消えとなった。

2009年7月音楽による英国への貢献が讃えられ大英帝国勲章(CBE 官)に叙勲。

2019年現在プラントは自身のバンド「セイビング・グレイス」と共に現役で活動中。

プラントの音楽的見解

ハードロックヘヴィメタル嫌い』

プラントの凄まじい絶叫的な歌唱法は、今日HR/HMシンボルとなっているが、インタビューレッド・ツェッペリン音楽性をハード・ロックの範疇だと評されると、バンドが様々なスタイル音楽演奏していることなどを理由に否定する。また、ヘヴィメタル呼ばわりされることも嫌悪していた。プラントのZEP以前とZEP解散後の音楽性を鑑みるに、HR的な音楽性はジミー・ペイジが持ち込んだヤードバーズ音楽性を引き継いで開いたもので、ブルースR&Bをこよなくするプラントの本来の嗜好とは大きく異なるものなのかもしれない。「ハードロックを聴くと耳から血が出る」とも近年述べ、ジミー・ペイジジョン・ポール・ジョーンズのようにレッド・ツェッペリンのような音楽を演ることはないことをアピールした。

セックスシンボルについて』

こう呼ばれることを嫌う理由のひとつは、同様にセックスシンボルと呼ばれた、ドアーズジムモリソンをプラントが嫌悪していたことが原因だったのかもしれない。モリソンについては偉大なアーティストであることを認めているが、彼のSEXアピールにまみれたステージについては、おぞましくて吐き気がしたと述べている。音楽にはSEXなどよりもれることが多いとする。だがZEPにもセクシー恋愛を歌った楽曲は数多くプラントはセックスマシンのように言われていた。事実プラントの女性関係は奔放で自分の妻がプラントの虜になってしまったと苦笑する友人も居る。

度重なる災難と悲劇

プラントはポピュラーミュージック史上でも稀に見る巨大な成功を手にしたアーティストであるが反面、数多の悲劇的な不幸にさらされたことでも知られている。

1970年2月自動車事故に遭い重症を負う。プラントはこの頃、両から全に絶縁されていたため、ジミー・ペイジが身元引受人となり自宅に引き取って面倒をみる。同エジバラ演が中止となった。

1973年1月2日ジョン・ボーナムシェフィールドライヴ会場に向かう途中でが故障。仕方なくプラントとボーナムはの降りしきる寒の中を彷徨い、ヒッチハイクでを乗り継いで会場に遅れて到着した。この出来事が前年から痛め気味であった、プラントの喉に深刻なダメージを及ぼすこととなる。この日のライヴプラントのソロも含めた全キャリアを通しても最悪のヴォーカルとなり、インフルエンザにも感染したことで高熱を発し、次回とその次の演が延期され、ツアーはしばらく中止となった。この後も度々喉頭炎に苦しめられることとなり、73年USツアー後に喉の手術を行うが、75年ヨーロッパツアー開始後に、またしてもインフルエンザボーカルコンディションの悪化に苦しめられた。

1975年8月ギリシャロード家族旅行中に、プラントの運転する事故を起こした。プラントの妻モーリンは頭蓋を折る重症プラントも肩と両脚を複雑骨折する重症を被った。この大怪ライヴ活動は77年になるまで不可能となる。『プレゼンス』はそんな状況下で車椅子姿のプラントが懸命に歌い収録したアルバムである。

1977年アメリカツアーは史上空前規模の行であり、ハリウッドさえもをえたといわれたが、ジミー・ペイジジョン・ボーナムの行き過ぎた乱行と麻薬の乱用でバンドは病んでおり、かつてのレッド・ツェッペリンが魅せたがかったような演奏困難となっていた。バンド監督すべきピーター・グラントも自身の離婚問題や麻薬の乱用で精を病んでおり、バンドにはに引き寄せられたならず者同然の者たちが入り込み頻繁にトラブルを起こすことになる。特にツアーマネージャーリチャードコールが連れてきてバンドの警備主任に抜されたジョン・ビンドンは、映画ギャング役で出演する俳優業の傍ら、実はロンドンで顔を利かせる本物の犯罪者であった。喧嘩では相手の睾丸を噛み千切ったという。バンド解雇されたあとは、知人をナイフで滅多刺しにして殺し容疑者として追われたが1993年死亡した。サイコパスだったといわれている。リチャードコールもこのツアーの後首になり、トルコ空港で暴れテロ容疑で逮捕され2年間刑務所に入れられた。プラントはこの連中を心底嫌悪していた。

1977年6月3日タンパ・スタジアムで7万人の観客を集めた演が行われたが、途中で猛が降り出し開始から僅か3曲でライヴは中止となる。このことで場内は騒然となり、暴動鎮圧用の装備に身を固めた警官隊が介入。100名を越えるファンと17名の警察官が負傷した。脱出の際メンバーたちも暴動に巻き込まれ、リムジンを割られるなどの被害に遭った。翌日に追加演が設定されたが、だがタンパ市長からは今後タンパからの永久立ち入り禁止処分を宣告され、バンドは当地を立ち去ることになった。タンパ・スタジアムは73年にバンドが初めて単独アーティストとしての動員記録を塗り替え、ギネスブック認定された栄の会場であった。

最大の悲劇

1977年7月23日オークランド演で、ZEP側警備スタッフ米国最大の大手プロモータであったビルグレアム(故人)側警備スタッフとの間でしい乱闘が起った。

次いでグラントの幼い息子がした機材への悪戯を、頭をいて注意したグレアムの警備スタッフの一人に、そこにライヴ休憩中で偶然居合わせてしまったジョン・ボーナムが、その撃し、急所蹴りを放って倒すという事件が発生。ボーナムはその後何事もなかったかのように演奏に戻ったという。さらにライヴ終了後にこの事態を知らされたピーター・グラントが、その警備員を監禁の末、凄惨な報復攻撃を行い重傷を負わせるという、ロック史上最悪ともいえる暴行事件が巻き起こる。

さらに翌日の同会場での演の後、ボーナムとグラント、ツアーマネージャーリチャードコール、警備主任ジョン・ビンドンが、テロ対策部隊のスワットによって逮捕されるという、さらなる深刻な事態に発展した。またホテルがスワットに包囲されたとき、不穏な空気を察知したジョン・ポール・ジョーンズは、家族を連れ出してで密かにカルフォルニアから脱出。ジョーンズとは連絡不能となる。

舞台裏で一連の騒乱が起こっていた際、プラントはなんら知らず関与もしていなかったが、プロモーターに翌日のライヴ事に行えたことを感謝するコメントを発し、争いが平和裏に解決されることを信じていた。だが、仲間たちの逮捕によって全に裏切られたプラントは深く傷つく。プロモーターが翌日のライヴの開催を承知した理由は、単に中止にすれば、スタジアムを埋め尽くす数万人のファン暴動を起こすと怖れただけのことであった。グラントと同様に敵対者に対しては、決して情け容赦はしないことで怖れられていた、このユダヤプロモーター、ビルグレアムは、で武装した25名からなる男たちを次回の演地に送り込み、底的な報復をする計画まで立てていた。

この乱闘事件のそもそもの始まりは、ZEP側の言によれば、会場の長いスローブを登るグラントにをかけたグレアム側の警備員から、ロバート・プラントの脚の悪さについて侮辱されたと感じたビンドンが、その警備員を即座に殴り倒し、救援に来た両方のスタッフの間で、を詰めたグローブやパイプ椅子で殴りあう集団戦になったことが切っ掛けであったという。その後両者の間で険悪な空気の漂うなか連鎖的に暴力渦が巻き起こったのだった。

プラントにとってのさらなる悲劇の追い討ちは、次のライヴ開催地ニューリンズのホテルに到着直後に、実はオークランドでの一連の混乱のさなか、5歳になるが子カラックが、ポリオウィルス感染症で緊急入院していたことが伝えられたことである。二時間後、妻から次の電話を受けたプラントはカラックが死んだことを伝えられる。が子を失い悲嘆したプラントが再び音楽活動の再開を決意するには長い時間を要することとなった。

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