ロバート・プラント(ROBERT PLANT)とは、イギリスのスタッフォードシャー州ウェスト・ブロミッチ生まれのボーカリスト、ロックアーティストである。愛称は「パーシー」。
ロックバンド、レッド・ツェッペリンのリード・ボーカリストとして特に有名である。彼の驚異的なまでの声域を活かしたハイトーンボーカルといわれる歌唱法は幾人もの追従者を生み、今日のロックボーカルのスタイルに、エルヴィス・プレスリーに匹敵する影響力を及ぼしている。
彼の登場から誰もがBaby~♪Baby~♪と唄うようになったとローリング・ストーン誌は評していた。
その若き頃、ラファエロの絵画かギリシャ彫刻を思わせる超絶美貌ぶりと、長い金髪を振り乱して唄うそのカリスマ性に溢れた美しい姿から、「ロックの美神」「ロック界のアイコン」「70年代のセックスシンボル」と称されていた。
つまり旧来のロックのフロントマンの概念を一変させた、偉大なボーカリストである。
『子鹿のような優しさとバッファローのような荒々しさ』を兼ね備えたパーシーの美しい歌声。
1961年13歳、ロックンロールに魅了され、髪を伸ばして一人前のロッカーを気どる。学校では優等生であったという。
1963年15歳、ロバート・ジョンソン、トミー・マクレナンなどのブルースに魅了される。
だが両親は理解せず、それらを「悪魔の音楽」と呼び、プラントからブルースを遠ざけようとする。
1964年16歳、公認会計士の見習を勧められるが、ロックスターになることを夢見て家出。
以後イギリス中西部バーミンガム周辺の様々な無名バンドを渡り歩き音楽修行を開始する。
1965年17歳、サニー・ボーイ・ウイリアムスⅡ世のバーミンガム公演で楽屋に忍び込んでハーモニカを盗む。
同年、”ザ・クローリング・キング・スネイク”を結成。
盟友ジョン・ボーナムと初めて一緒に組むが、バンドはなんら成功をみることなく解散してしまう。
1966年10月18歳、プラントの驚異的な声域に目を付けたCBSレコードと契約。加入中のバンド、”リッスン”の名義で一枚、翌年ソロ名義で二枚のシングルを出すが、結果は屈辱的にまで売れず、契約も自然消滅してしまった。
1967年、”ザ・バンド・オブ・ジョイ”に加入。再びジョン・ボーナムと合流。
バッファロー・スプリング・フィールドなどのアメリカ西海岸の音楽と、ヒッピームーブメントに大いに影響される。
バンドはレコード契約を目指し、アセテート盤を制作して売り込むが、先見性の不足していたレコード会社によって、悉く無視されてしまう。1968年5月バンド・オブ・ジョイは解散。
同年ブリテッシュ・ブルースの生ける伝説、アレクシス・コーナーと知り合う。
その作品の中の1曲で、voとハーモニカを担当。ツアーも企画されたが計画は一向に進展しなかった。
この頃のプラントは同棲中のインド系イギリス人の恋人(後に結婚)モーリンが妊娠して身重になってしまい、音楽だけではとても生計が立てられず、道路の舗装現場で労働者たちから「ポップスター」と嘲笑れながら重労働に明け暮れていた。
このまま音楽を続けるか、止めてモーリンとあてのあったカナダに移住するか、あるいは実家に帰って会計士の修行に戻るかの苦渋の選択を強いられていた。
不遇な下積み時代が続いたが、ここで突然大きな転機が訪れる。
1968年7月19歳、無名バンド、”ホブストウィードル”に加入中、プラントの旧友、テーリー・リードからジミー・ペイジに、”ヤードバーズ”のvoにどうかと推薦されたのだ。ジミー・ペイジに会いに彼の自宅に向かう最中、道でいきなり老婆に足を踏まれて頬を平手打ちされ、その長い髪を切りなさいと怒られる。その後の波乱に満ちた人生を予見させられる。
同年8月、ジョン・ボーナムを呼び込み、”ニューヤードバーズ”を結成。驚くべきことに、最初プラントとボーナムは正規のメンバーではなく、週給制のサポートメンバー扱いであった。
同年9月、バンドはロンドンのジェラード通りにあったスタジオでリハーサルを行う(ジョン・ポール・ジョーンズとはこのとき初顔合わせ)。
9月14日、デンマークのコペンハーゲンを皮切りに、旧ヤードバーズが契約を結んだが、バンドの突然の空中分解によって興行が危ぶまれていた、スカンジナビア・ツアー全10公演を無事開始する。
同年10月、バンドはこの勢いのまま突き進みオリンピックスタジオで、僅か9日間、計36時間という驚異的なスピードでファーストアルバムの収録を行った。
同月25日、サリー大学でのライヴのおり、バンドは名称を”レッド・ツェッペリン”へと改める。
同年バンドがアメリカツアーを開始すると瞬く間に爆発的な人気を得て、そのライヴの凄まじさは伝説となった。
つい数ヶ月前まで道路工事の現場で働いていたというのに、今全米が足元に屈している現実にプラントは混乱したという。
その後のプラントとバンドの驚くべき成功物語はロックの伝説となった。
同年11月、残された3人のメンバーたちは、バンドの将来を話し合うためジャージー島に集まった。その後ロンドンでピーター・グラントとのミーティングが行われ、解散が決定される。同年12月4日、正式に解散表明が発せられ、レッド・ツェッペリンは、その12年間に及ぶ活動を終えた。
プラントは過去との決別を決意し、長い髪を切り整えてイメージを一新。残されたメンバーたちの中でも、最も早く立ち直ってソロ活動を開始した。
また、その音楽性からはハードロック色は陰を潜め、シングルレコードの発売、プロモーションビデオ、TV出演など、ZEP時代の禁じ手を次々と繰り出していく。
1981年3月、地元の音楽仲間たちと即席バンド”ハ二ー・ドリッパーズ”を結成。肩ならしとして地元の小さなクラブをまわってギグを行う。
1982年6月、スワン・ソング・レーベルから初のソロアルバム『11時の肖像』を発表。UKチャート最高2位、USチャート最高5位の好成績を記録する。1983年7月、自身のレーベル「エス・パランザ」よりセカンドアルバム『プリンシプル・オブ・モーメンツ』を発表。
以降90年代までに発表した各ソロアルバム全てが米国でトップ5入りし、5枚のアルバムがプラチナディスクとゴールドディスクに認定された。
1984年3月、アトランテック・レコード社の社長、アーメット・アーティガンの監修の元で、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベック、ナイル・ロジャースらと、ハニードリッパーズの名義でR&Bの名曲をレコーディング。このミニアルバム『ヴォリュームワン』は同年11月に発売、好セールスを記録する。
1988年からは過去との折り合いをつけ、自身のライヴではZEP解散以来、長く封印を続けていたZEPナンバーを解禁。アルバム『ナウ・アンド・ゼン』ではジミー・ペイジがゲスト参加。曲調にZEP時代の雰囲気が、やや戻ることになる。ファッションも、ふわりとした長髪に花柄ベストという、かつてのプラントの装いを彷彿するものに変った。
1994年、MTVから人気番組アンプラグドへの出演を依頼され、ジミー・ペイジを誘いセッションを行う。番組はMTV史上最高視聴率を記録し、94年から96年にかけて行われた、実質レッド・ツェッペリンの再結成ともいる”ジミー・ペイジ&ロバート・プラント(ペイジ・プラント)”のUSツアーでは米国の音楽興行レコードを塗り替える快挙を達成。もしもレッド・ツェッペリンが復活すれば、いつでもシーンのトップに復帰出来るということを証明してみせる。
だが、1998年2枚目のアルバムを発表した後、次のアルバムのレコーディング中に、プラントはスタジオにペイジと残りのメンバーを残したまま何時までも現われず、ペイジ・プラントはワールドツアーの残り、日本・オーストラリア公演もキャンセルして解散。
理由はプラントの、ZEPナンバーを多く演奏することに何の刺激も感じない。ファンとのふれあいを感じられないスタジアムや大きな会場でコンサートを続けることにも疲れたという不満からだった。相方のペイジがあくまでも巨大な会場でのライヴを希望し、ZEPナンバーを重視したこととは正反対の姿勢であった。
2001年、パーマネントなバンド、”ロバート・プラント&ストレンジ・センセイション”を結成。
2007年10月、ブルーグラス界のディーヴァ、アリソン・クラウスとのコラボレーション・アルバム『レイジング・サンド』を発表。このアルバムは米国で100万枚以上を売上げ、USチャート最高2位を記録する大ヒットとなった。グラミー賞のアルバム・オブ・イヤーズを受賞。
2007年12月、アーメット・アーティガンの追悼記念コンサートに、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジェイソン・ボーナムらとレッド・ツェッペリンで出演。全盛期を彷彿とさせる圧倒的なライヴパフォーマンスを行う。
このイベントは世界各国で話題となり、1万8000枚のチケット購入に2000万人が応募、推定1億人を巻き込んだチケットの大争奪戦が起こったといわれている。
この頃ワールド・ツアーが行われることが待ち望まれていたが、プラントは今後のZEP再結成について、
なんら具体的な計画を明かさず、ジミー・ペイジもプラントは9月までクラウスとのツアーがあるとして、
可能性があることを述べていたが、プラントの再結成反対の意向は強く立ち消えとなった。
2009年7月、音楽による英国への貢献が讃えられ大英帝国勲章(CBE 司令官)に叙勲。
2019年現在、プラントは自身のバンド「セイビング・グレイス」と共に現役で活動中。
プラントの凄まじい絶叫的な歌唱法は、今日のHR/HMのシンボルとなっているが、インタビューでレッド・ツェッペリンの音楽性をハード・ロックの範疇だと評されると、バンドが様々なスタイルの音楽を演奏していることなどを理由に否定する。また、ヘヴィメタル呼ばわりされることも嫌悪していた。プラントのZEP以前とZEP解散後の音楽性を鑑みるに、HR的な音楽性はジミー・ペイジが持ち込んだヤードバーズの音楽性を引き継いで花開いたもので、ブルースやR&Bをこよなく愛するプラントの本来の嗜好とは大きく異なるものなのかもしれない。「ハードロックを聴くと耳から血が出る」とも近年述べ、ジミー・ペイジやジョン・ポール・ジョーンズのようにレッド・ツェッペリンのような音楽を演ることはないことをアピールした。
こう呼ばれることを嫌う理由のひとつは、同様にセックス・シンボルと呼ばれた、ドアーズのジム・モリソンをプラントが嫌悪していたことが原因だったのかもしれない。モリソンについては偉大なアーティストであることを認めているが、彼のSEXアピールにまみれたステージについては、おぞましくて吐き気がしたと述べている。音楽にはSEXなどよりも語れることが多いと主張する。だがZEPにもセクシーな恋愛を歌った楽曲は数多くプラントはセックスマシンのように言われていた。事実、プラントの女性関係は奔放で自分の妻がプラントの虜になってしまったと苦笑する友人も居る。
プラントはポピュラーミュージック史上でも稀に見る巨大な成功を手にしたアーティストであるが反面、数多の悲劇的な不幸にさらされたことでも知られている。
1970年2月、自動車事故に遭い重症を負う。プラントはこの頃、両親から完全に絶縁されていたため、ジミー・ペイジが身元引受人となり自宅に引き取って面倒をみる。同月のエジンバラ公演が中止となった。
1973年1月2日、ジョン・ボーナムの車でシェフィールドのライヴ会場に向かう途中で車が故障。仕方なくプラントとボーナムは雨の降りしきる寒空の中を彷徨い、ヒッチハイクで車を乗り継いで会場に遅れて到着した。この出来事が前年から痛め気味であった、プラントの喉に深刻なダメージを及ぼすこととなる。この日のライヴはプラントのソロも含めた全キャリアを通しても最悪のヴォーカルとなり、インフルエンザにも感染したことで高熱を発し、次回とその次の公演が延期され、ツアーはしばらく中止となった。この後も度々喉頭炎に苦しめられることとなり、73年USツアー後に喉の手術を行うが、75年ヨーロッパツアー開始後に、またしてもインフルエンザに罹りボーカルコンディションの悪化に苦しめられた。
1975年8月ギリシャのロードス島へ家族で旅行中に、プラントの運転する車が事故を起こした。プラントの妻モーリンは頭蓋骨を折る重症、プラントも肩と両脚を複雑骨折する重症を被った。この大怪我でライヴ活動は77年になるまで不可能となる。『プレゼンス』はそんな状況下で車椅子姿のプラントが懸命に歌い収録したアルバムである。
1977年のアメリカツアーは史上空前規模の興行であり、ハリウッドさえもを超えたといわれたが、ジミー・ペイジとジョン・ボーナムの行き過ぎた乱行と麻薬の乱用でバンドは病んでおり、かつてのレッド・ツェッペリンが魅せた神がかったような演奏は困難となっていた。バンドを監督すべきピーター・グラントも自身の離婚問題や麻薬の乱用で精神を病んでおり、バンドには金の力に引き寄せられたならず者同然の者たちが入り込み頻繁にトラブルを起こすことになる。特にツアーマネージャーのリチャード・コールが連れてきてバンドの警備主任に抜擢されたジョン・ビンドンは、映画にギャング役で出演する俳優業の傍ら、実はロンドン暗黒街で顔を利かせる本物の犯罪者であった。喧嘩では相手の睾丸を噛み千切ったという。バンドを解雇されたあとは、知人をナイフで滅多刺しにして殺し容疑者として追われたが1993年癌で死亡した。サイコパスだったといわれている。リチャード・コールもこのツアーの後首になり、トルコの空港で暴れテロ容疑で逮捕され2年間刑務所に入れられた。プラントはこの連中を心底嫌悪していた。
1977年6月3日タンパ・スタジアムで7万人の観客を集めた公演が行われたが、途中で猛烈な雷雨が降り出し開始から僅か3曲でライヴは中止となる。このことで場内は騒然となり、暴動鎮圧用の装備に身を固めた警官隊が介入。100名を越えるファンと17名の警察官が負傷した。脱出の際メンバーたちも暴動に巻き込まれ、リムジンの窓を割られるなどの被害に遭った。翌日に追加公演が設定されたが、だがタンパ市長からは今後タンパからの永久立ち入り禁止処分を宣告され、バンドは当地を立ち去ることになった。タンパ・スタジアムは73年にバンドが初めて単独アーティストとしての動員記録を塗り替え、ギネス・ブックに認定された栄光の会場であった。
1977年7月23日オークランド公演で、ZEP側警備スタッフと米国最大の大手プロモータであったビル・グレアム(故人)側警備スタッフとの間で激しい乱闘が起った。
次いでグラントの幼い息子がした機材への悪戯を、頭を叩いて注意したグレアムの警備スタッフの一人に、そこにライヴの休憩中で偶然居合わせてしまったジョン・ボーナムが、その光景を目撃し、急所蹴りを放って倒すという事件が発生。ボーナムはその後何事もなかったかのように演奏に戻ったという。さらにライヴ終了後にこの事態を知らされたピーター・グラントが、その警備員を監禁の末、凄惨な報復攻撃を行い重傷を負わせるという、ロック史上最悪ともいえる暴行事件が巻き起こる。
さらに翌日の同会場での公演の後、ボーナムとグラント、ツアー・マネージャーのリチャード・コール、警備主任のジョン・ビンドンが、テロ対策部隊のスワットによって逮捕されるという、さらなる深刻な事態に発展した。またホテルがスワットに包囲されたとき、不穏な空気を察知したジョン・ポール・ジョーンズは、家族を連れ出して車で密かにカルフォルニアから脱出。ジョーンズとは連絡不能となる。
舞台裏で一連の騒乱が起こっていた際、プラントはなんら知らず関与もしていなかったが、プロモーターに翌日のライヴが無事に行えたことを感謝するコメントを発し、争いが平和裏に解決されることを信じていた。だが、仲間たちの逮捕によって完全に裏切られたプラントは深く傷つく。プロモーターが翌日のライヴの開催を承知した理由は、単に中止にすれば、スタジアムを埋め尽くす数万人のファンが暴動を起こすと怖れただけのことであった。グラントと同様に敵対者に対しては、決して情け容赦はしないことで怖れられていた、このユダヤ系プロモーター、ビル・グレアムは、銃で武装した25名からなる男たちを次回の公演地に送り込み、徹底的な報復をする計画まで立てていた。
この乱闘事件のそもそもの始まりは、ZEP側の証言によれば、会場の長いスローブを登るグラントに声をかけたグレアム側の警備員から、ロバート・プラントの脚の悪さについて侮辱されたと感じたビンドンが、その警備員を即座に殴り倒し、救援に来た両方のスタッフの間で、砂を詰めたグローブやパイプ椅子で殴りあう集団戦になったことが切っ掛けであったという。その後両者の間で険悪な空気の漂うなか連鎖的に暴力渦が巻き起こったのだった。
プラントにとってのさらなる悲劇の追い討ちは、次のライヴ開催地ニューオリンズのホテルに到着直後に、実はオークランドでの一連の混乱のさなか、5歳になる我が子カラックが、ポリオウィルスの感染症で緊急入院していたことが伝えられたことである。二時間後、妻から次の電話を受けたプラントはカラックが死んだことを伝えられる。我が子を失い悲嘆したプラントが再び音楽活動の再開を決意するには長い時間を要することとなった。
急上昇ワード改
最終更新:2024/05/03(金) 17:00
最終更新:2024/05/03(金) 17:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。