エデン・アザール(Eden Hazard, 1991年1月7日 - )とは、ベルギーの元サッカー選手である。
元サッカーベルギー代表。
概要
世界屈指のドリブラーと称され、10代の頃からその才能を高く評価されていた。ベルギー出身ではあるが、フランスのリールでプロデビューを果たしている。もっとも得意とするポジションは左のウイングだが、トップ下や偽の9番でもプレーすることができる。
リールでの最後のシーズンとなった2011-12シーズンには20得点18アシストを記録する大活躍を見せ、昨シーズンに引き続きリーグ・アン最優秀選手賞を受賞。2012年にイングランド・プレミアリーグのチェルシーへ移籍。加入直後から攻撃の核として君臨。2014-15シーズンにはリーグ戦全38試合に出場し14得点を記録してクラブの5シーズンぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献した。2019年に移籍金1億2000万ユーロでレアル・マドリードへ移籍。
2008年にベルギー代表デビュー。ベルギー代表の黄金世代の筆頭格として代表を牽引し、2016年からはキャプテンを任されている。2018 FIFAワールドカップでは、攻撃の中心として活躍しベスト4進出に貢献している。
天才的な才能を持ち、リオネル・メッシ、クリスティアーノ・ロナウドに次ぐスターとして期待されている反面、自己管理ができない怠慢さが何かとクローズアップされ、シーズンオフ明けには太った状態でチームに合流することが多い。チェルシー時代に指導したジョゼ・モウリーニョや同僚だったジョン・オビ・ミケルからは練習嫌いであったことを暴露されている。
ドイツ・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントでプレーするトルガン・アザールは実の弟であり、兄同様ベルギー代表にも選出され、2018 FIFAワールドカップでは兄弟揃って出場している。
レアル・マドリード移籍後は再三に渡る怪我によって輝きをすっかり失ってしまい、2023年10月10日に32歳の若さで現役を引退。
経歴
生い立ち
ベルギーのラ・ルヴィエールで生まれ育ち、父親のティエリと母親のカリーヌは共にベルギーのクラブに所属していた元プロサッカー選手。4人兄弟の長男で、次男のトルガンも含めて全員がサッカー選手となったサッカー一家の出身である。両親がアルジェリア人であったため生まれたときは二重国籍を持っていたが、後に家族全員でベルギー国籍を取得している。
実家から3mほどの距離に練習場があったという恵まれた環境だったこともあり、幼い頃から自然にサッカーを楽しんでいた。4歳から祖父が指導者として携わっているロイヤル・スタッド・ブレーヌという小さなクラブに所属するようになる。サッカーをする姿を見て祖父はすぐに才能に気が付いたらしく、将来プロになれるかもしれないと評していた。少年時代は片時もサッカーボールを離さないほどサッカーにのめり込んでおり、よく家具や家の物を壊していた。
祖父の見立て通り、サッカーの実力はメキメキと上達していき、気が付けば地元でも評判のサッカー選手となっていた。やがてベルギーの名門アンデルレヒトのセレクションを受け、同年代のタレントが集まる中でずば抜けた才能を発揮し他を圧倒しての合格を勝ち取る。しかし、まだ幼かったこともあって入団は実現せず、12歳のときにAFCテュビスに移籍。2005年14歳でフランスのLOSCリール・メトロポールの下部組織に所属する。
リール
フランスでプレーするようになってからその突出した才能はさらに磨かれ、「天才」「神童」といった評価を受けるようになっていた。15歳になるとトップチームの練習に参加。そして、2007年11月25日のASナンシー戦で16歳にしてリーグ・アンの試合に出場し、プロとしてのキャリアをスタートさせる。
2008-09シーズンにリールの監督に就任したリュディ・ガルシアから才能を評価され、信頼を掴みレギュラーに定着。2008年9月20日のオセール戦でプロとしての記念すべき初ゴールを決める。シーズン開幕前にチームは多くの主力選手を売却していたこともあり、ガルシア監督は若手を積極的に起用し育てていたが、アザールはその中心として期待以上の活躍を見せ、30試合4得点という成績を残し、リーグ・アン若手最優秀選手賞を受賞する。
2009-10シーズンになると、左ウイングだけでなく中央でも起用されるようになり、プレーの幅を広げている。すっかりスタメンにも定着し、出場時間も大幅に増える。予選を勝ち抜き、UEFAヨーロッパリーグのピッチにも立つ。公式戦通算で10ゴールを記録したこの年、史上初となる2年連続でのリーグ・アン若手最優秀選手賞を受賞し、当時のアザールのプレーを見たジネディーヌ・ジダンは「未来のクラック」と称賛している。
2010-11シーズンは、チームのエースとして期待されながら開幕当初はスランプに陥ってしまい、最初の2カ月ほどスタメンを外されてしまう。しかし、秋以降にかけて本来のフォームを取り戻すと、チームの調子も上向くようになる。この年リーグ・アンの得点王に輝いたムサ・ソウ、ジェルビーニョと共に2年連続でリーグ最多得点を記録した攻撃的なスタイルを前面に出すチームの中心として活躍。8得点10アシストという成績を残し、リールにとって57年ぶりとなる3度目のリーグ優勝とクープ・ドゥ・フランス優勝の二冠をもたらすと、自身もリーグ・アン年間最優秀選手賞を受賞する。
すでに各国のビッグクラブから狙われる存在となっていたが、2011-12シーズンもリールに残留。このシーズンから背番号を26から「10」に変更。初めての出場となったUEFAチャンピオンズリーグでも、チームはグループリーグで敗れたものの、インパクトを残す。リーグ・アンでは得点力が飛躍的にアップし、38試合に出場し20得点18アシストを記録。ゴール数はリーグ3位、アシスト数はリーグ1位という成績だった。これによって2年連続でリーグ・アン年間最優秀選手賞を受賞。また、2011年のヨーロッパでプレーする最優秀若手選手に贈られるブラヴォー賞も受賞。
チェルシー
2012年6月4日数々のビッグクラブへの移籍が噂された中、前年度のCL優勝チームであるイングランド・プレミアリーグのチェルシーFCへの移籍が発表される。移籍金は3200万ポンド(約39億円)。背番号は「17」。
2012-13シーズン開幕戦からスタメンで起用されると、早速チームの攻撃の中心となり、開幕から3試合連続でMOMに選出される鮮烈なプレミアリーグデビューとなった。独特なプレミアリーグのリズムにも問題なく順応し、新たなチームの顔となる。チームは不振に陥り、CLではグループリーグ敗退、11月に監督交代が起きていた。2013年1月23日のEFLカップのスウォンジー・シティ戦で遅延行為をしたボールボーイを蹴って退場になり、3試合の出場停止処分を受ける。もっともこのボールボーイはスウォンジーの幹部の息子で、試合前にツイッターで遅延行為を予告していた。
2013-14シーズンからジョゼ・モウリーニョ監督が就任するが、引き続き攻撃の切り札として重用される。チームは無冠に終わったが、個人としては35試合に出場して14得点を記録し、前年を上回る成績を残す。CLでは、初の決勝進出を果たすが、準々決勝のパリ・サンジェルマンとの2nd legで負傷を負って前半で交代となってしまい、準決勝のアウェイの1st legを欠場することとなる。2ng legで復帰するが、アトレティコ・マドリードの堅守の前に抑え込まれ、チームもベスト4で姿を消すことになる。
モウリーニョ体制2年目となった2014-15シーズンは、フアン・マタが移籍したことにより背番号「10」を受け継いでいる。司令塔にセスク・ファブレガス、CFにジエゴ・コスタが加入したことで、自身の能力をフルに活かせるようになり、プレミアリーグ首位を走るチームを牽引する。堅守速攻をベースにするチームにあって、アザールのドリブルはカウンターの切り札となっていた。CLでは、ベスト16で敗退となったが、リーグで38試合14得点を記録。チェルシーの5年ぶり5度目のプレミアリーグ優勝をもたらし、バークレイスプレミアリーグ年間最優秀選手賞、PFA年間最優秀選手賞、FWA年間最優秀選手賞の個人タイトルを総なめにする。
頂点を極めた前年と対照的に、2015-16シーズンは開幕後もなかなか調子が上がらず、不調のチームの戦犯としてサポーターから批判を受ける。さらに、自身に守備での貢献を求めるモウリーニョ監督との確執も頻繁に取り沙汰されるようになる(本人は否定)。ようやくシーズン初ゴールを決めたのが2016年1月と長らくノーゴールが続き、これまでのキャリアでもっとも苦しんだシーズンとなった。終盤にようやく調子を取り戻したが、最終的に31試合4得点に終わり、チームもまさかの二桁順位で終了する。
アントニオ・コンテ監督が就任し、3-4-2-1のシステムが採用されるようになった2016-17シーズンは、優勝した2014-15シーズンの時のプレーレベルを取り戻す。コンテ監督からは、左のシャドーの位置を主戦場としながらこれまでよりも自由を与えられ、ジエゴ・コスタ、ウィリアンとポジションチェンジをおこないながら流動的な攻撃を繰り出すようになる。2017年2月3日のアーセナルFC戦では、カウンターから1人でドリブルで持ち込んでゴールを決める離れ業を見せる。得点数は16得点とプレミアリーグでの自己最高記録を更新し、自身2度目となるプレミアリーグ優勝に貢献する。
2017-18シーズンになると、ジエゴ・コスタがコンテ監督との確執によってチームから干されてしまい、3トップの中央で起用される機会が増える。主力の調子が軒並み上がらない中で孤軍奮闘していたが、2018年3月4日にマンチェスター・シティに敗れた試合後、コンテ監督の戦術を公に批判するなど、両者の確執が表面化するようになる。不満を募らせながらシーズンを戦い切ったが、チームはCL出場権を逃し、不本意なシーズンとなった。
CL出場を逃したことで、オフシーズンには頻繁にレアル・マドリードへの移籍が取り沙汰されるが、2018-19シーズンもチェルシーに残留。第5節のカーディフ・シティ戦ではハットトリックの活躍を見せる。マウリツィオ・サッリ新監督のもと、チームは前半戦快進撃を見せるが、後半戦になって失速。自身の起用法も強豪相手には偽の9番として起用され、それ以外は左WGで起用とイレギュラーなものとなる。それでも、16ゴール12アシストと加入以来最高といえる数字を残し、翌シーズンのCL出場権をもたらす。
レアル・マドリード
2019年6月7日憧れのクラブであったスペイン・ラ・リーガのレアル・マドリードへの移籍が発表される。移籍金は1億2000万ユーロであり、この年のチームの目玉選手として大きな期待が寄せられる。背番号はラウール・ゴンザレスやクリスティアーノ・ロナウドが付けていた「7」となった。
2019-20シーズン開幕前の練習で太ももを負傷したことにより、開幕に間に合わず出遅れてしまう。復帰後も本来のプレー水準を考えると物足りない出来となっていた。さらに、2019年11月26日のCL・PSG戦において、同じベルギー代表のトーマス・ムニエからのタックルを受け、足首を骨折。2が月ほど戦線を離脱。さらに復帰して2試合目となる2020年2月22日のレバンテUD戦で右腓骨の亀裂骨折を負い、手術を受けるためにまたも長期離脱を余儀なくされる。新型コロナウィルスによる中断を挟んだため、シーズン中に復帰はできたが、トップフォームを取り戻せず、リーガ優勝を飾ったチームの中でベンチに座ることが多くなっていた。シーズン後には「疑いなくキャリアで最悪のシーズン」と振り返っている。
2020-21シーズンも開幕前のチーム合宿にぽっこり出たお腹のまま姿を見せ、調整不足を露呈。しかも、またもや怪我で離脱し、2シーズン目もスタートから躓いてしまう。10月27日のCLボルシア・メンヘングラッドバッハでシーズン初出場を果たすと、10月31日のラ・リーガ第8節SDウエスカ戦ではスタメンで起用され、前半40分に先制ゴールを決める。ようやく復活の兆しが見えたと思われたが、11月7日に新型コロナウィルスに感染してしまう。さらに11月29日のアラベス戦でまたも負傷。その後も復帰したかと思えばすぐに負傷して離脱を繰り返し、前年と同じくプレーできない期間のほうが長くなっていた。2021年5月5日のCL準決勝、チェルシーとの2nd legでスタメンに起用されるが不発に終わり、敗戦が決まった試合後に古巣のチェルシーの選手と笑顔で談笑している姿がメディアやファンからの批判を集める。
2021-22シーズンにカルロ・アンチェロッティが新監督に就任するが、相変わらず怪我の多さから周囲を納得させられるパフォーマンスは見せられず、若いヴィニシウスの台頭もあって控えに回ることが多くなる。2022年3月には右足腓骨のプレートを除去する手術をおこない戦線を離脱。結局、またもや何も残さないままシーズンが終わり、リーグ戦でのゴール数はまさかの0得点となった。
2022-23シーズンは移籍後最高のコンディションで開幕を迎えたと言われたが、もはやベンチに座っているのが当たり前となり、カリム・ベンゼマが負傷離脱したにも関わらず、ラ・リーガでは9月14日のマジョルカ戦を最後に出場機会なしともはやアンチェロッティの構想外となっていた。結局シーズンを通して出場機会が増えることはなく、大きな怪我が無かったにも関わらずリーグ戦での出場はわずか6試合、出場時間は194分という散々なものとなった。
戦力外の扱いにも関わらず、本人はチームへの残留を希望していたが、シーズン終了後に2023年6月いっぱいで契約を解除することが発表される。
退団後、どのクラブへの移籍も実現せず無所属の状態が続いていたが、2023年10月10日に現役引退を表明。
ベルギー代表
2007年にU-17ベルギー代表として、自国開催となったUEFA U-17欧州選手権2007に出場。チームのエースとしてベスト4進出を果たす。2007 FIFA U-17ワールドカップにも出場するが、チームは1勝もできずにグループリーグ敗退で終わっている。
2008年11月19日ルクセンブルクとの親善試合において、17歳にしてベルギー代表にデビューする。当初はU-19代表と掛け持ちという形だったが、徐々にフル代表に定着するようになったことで2009年からはフル代表一本でプレーするようになる。もっとも、この頃のベルギー代表はちょうど低迷期に差し掛かっており、2010年南アフリカW杯とEUEO2012は共に予選で敗退。自身は2011年10月7日のEURO2012予選カザフスタン戦で代表初ゴールを決めている。
2012年にマルク・ヴィルモッツ監督が就任すると、ケヴィン・デ・ブライネ、ロメロ・ルカク、ティボ・クルトワといった黄金世代と呼ばれる同世代の若手中心にチームが編成され、その中の中心選手となる。タレント軍団へと変貌したベルギーは、ブラジルW杯欧州予選グループAを首位で通過し、チームの若きエースとして3大会ぶりとなるワールドカップ出場をもたらす。
2014年6月にブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップに背番号「10」を背負って出場し、トップレベルでの国際大会デビューを果たす。グループリーグを首位で通過し、自身は第2戦のロシア戦でMOMに選ばれるなど順調なスタートを切り、ラウンド16でもアメリカとの延長戦にもつれこんだ死闘を制してベスト8進出。しかし、準々決勝ではアルゼンチンの老獪な守備の前に何もさせてもらえず、後半30分に交代となる。チームも完封負けを喫し、準々決勝で敗退となる。
ワールドカップ後にスタートしたEURO2016予選では、総得点24得点という圧倒的な破壊力を見せた攻撃陣の中心として活躍。特に、2015年9月と10月の終盤の4試合では4試合連続でゴールを決めており、グループBを首位で通過し、4大会ぶりとなるEURO本大会出場を勝ち取る。
2016年6月にフランスで開催されたUEFA EURO2016に出場。初戦のイタリア戦では、イタリアの守備陣の前に決定的な仕事ができず、完敗。黒星スタートとなるが、第2戦のアイルランド戦では、本調子ではなかったものの3得点目をアシストし、勝利に貢献。第3戦のスウェーデン戦ではMOMに選ばれる。ラウンド16のハンガリー戦でようやく本来のキレ味を取り戻すと、勝負を決定づける1ゴール1アシストでチームを勝利に導き、2試合連続でMOMに選出される。ところが、準々決勝のウェールズ戦は思い出の地であるリールが会場となったが、イタリア戦と同じように5バックで守る相手を前に沈黙させられてしまい、敗北。大会全体を通して物足りなさの残るパフォーマンスとなった。
2016年9月からロベルト・マルティネス監督が就任し、正式にベルギー代表のキャプテンを任されることになる。11月9日のオランダとの親善試合では、弟のトルガン・アザールが代表デビューを果たしたことで、初めて兄弟での共演が実現する。ロシアW杯欧州予選では、9勝1分という驚異的な強さを見せ、2017年9月3日のギリシャ戦に勝利したことでヨーロッパで一番最初にワールドカップ出場を決める。自身も予選では6ゴールを決めており、キャプテンとして最初のミッションを成し遂げる。
自身2度目の出場となった2018 FIFAワールドカップでは、若かった前回よりも成熟した姿を見せる。ちなみに、弟のトルガンもメンバーに入ったため、兄弟揃ってのW杯出場となった。第2戦のチュニジア戦では、先制ゴールを含む2ゴールの活躍を見せ、MOMに選ばれると共に連勝でグループリーグ突破を決める。第3戦のイングランド戦は温存されたが、チームはグループリーグ3連勝で首位通過を果たす。ラウンド16では、日本を相手に2点のビハインドを背負う予想外の展開となるが、後半29分に左からのクロスでマルアン・フェライニの同点ゴールをアシストし、デ・ブライネと共に攻撃陣を牽引し逆転劇を演出する。準々決勝では、強豪ブラジルを圧倒しての勝利に貢献。また、この試合では10度のドリブル突破を仕掛け、ドリブル成功率100%を記録している。準決勝でフランスに敗れたが、3位決定戦のイングランド戦では、後半37分にダメ押しの2点目を決め、ベルギーを1986年大会を上回る過去最高成績となる3位に導き、魅力のあるチームとして世界中から高く評価された大会となった。3度のMOMに選ばれたアザールは、大会のシルバーボールにも選ばれる。
2019年3月25日に開催されたEURO2020予選キプロス戦に出場し、ベルギー代表100試合目の出場を果たす。さらに前半10分に先制ゴールを決め、弟のトルガンも絶妙なパスで追加点をアシストしている。チームは10試合で40得点という驚異的な破壊力を見せ、10戦全勝という成績で2大会連続となるEURO2020本大会出場を決めている。
2021年6月開催のEURO2020では、レアル・マドリードでの負傷の多さと不振から出場が危ぶまれていたが、無事メンバー入りを果たす。調整の遅れから最初の2試合は途中出場となり、グループステージ第3節のフィンランド戦で初スタメンとなる。ラウンド16のポルトガル戦では全盛期を思わせるキレのある動きを見せていたが、試合終盤にまたもハムストリングを負傷。準々決勝のイタリア戦は欠場となり、再起を図るはずだったEUROでも期待を裏切る結果となった。
2022年11月に開催された2022 FIFAワールドカップでは、レアル・マドリードで戦力外同然の立場となっていたが、引き続きキャプテンとして出場。しかし、スタメンで出場したカナダ戦、クロアチア戦では試合勘の無さを露呈し、低調なプレーに終始してしまう。第3戦のモロッコ戦ではついにスタメンを外され、最後の数分のみしか出場機会は与えられず、チームもグループリーグ敗退となる。大会後、ベルギー代表からの引退を表明する。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2007-08 | リール | リーグ・アン | 4 | 0 | |
2008-09 | リール | リーグ・アン | 30 | 4 | |
2009-10 | リール | リーグ・アン | 37 | 5 | |
2010-11 | リール | リーグ・アン | 38 | 7 | |
2011-12 | リール | リーグ・アン | 38 | 20 | |
2012-13 | チェルシー | プレミアリーグ | 34 | 9 | |
2013-14 | チェルシー | プレミアリーグ | 35 | 14 | |
2014-15 | チェルシー | プレミアリーグ | 38 | 14 | |
2015-16 | チェルシー | プレミアリーグ | 31 | 4 | |
2016-17 | チェルシー | プレミアリーグ | 36 | 16 | |
2017-18 | チェルシー | プレミアリーグ | 34 | 12 | |
2018-19 | チェルシー | プレミアリーグ | 37 | 16 | |
2019-20 | レアル・マドリード | ラ・リーガ | 16 | 1 | |
2020-21 | レアル・マドリード | ラ・リーガ | 14 | 3 | |
2021-22 | レアル・マドリード | ラ・リーガ | 18 | 0 | |
2022-23 | レアル・マドリード | ラ・リーガ | 6 | 0 |
プレースタイル
世界でもトップクラスのドリブラーであり、スピードもテクニックもトップレベルであるが、ネイマールのように高等技術を使って相手を抜いたり、身体能力を前面に出すタイプではない。彼が得意とするのはスピードの緩急を使って相手を抜き去る「剥がす」ドリブルである。DFとの駆け引きや状況判断能力が高く、相手の先手を取るよりも、後出しで勝負するタイプのドリブラーと言える。そのため、ドリブル成功率そのものはネイマールよりも高い数値を残している。
ベースとなる能力は、緩急の部分で必要となる圧倒的な加速力と相手に寄せられても簡単にボールを失わないための身体の使い方である。インテリジェンスが高いため、ドリブラーにありがちな無駄なボールの持ち過ぎという問題も少なく、ポゼッション型のチームでもカウンター型のチームでも力を発揮できる。
また、ラストパスの精度も高く、プレミアリーグで3度の二桁アシストを記録するなど、ゴール前でのプレーアイディアを豊富に持っている。ドリブルで相手を引き付けてラストパスというのは得意なパターンの1つ。毎年の得点数からも分かるように、フィニッシャーとしての能力も高く、強引に自分で打つことも選択肢に入っており、DFやGKのタイミングを外したシュートを得意としている。
一方、守備の切り替えが遅く、守備での献身さを求められると能力を発揮できなくなる。また、フィジカルコンタクトそのものは強くないため、DFに密着された場面では手詰まりになることがある。
人物・エピソード
- 少年時代のアイドルはジネディーヌ・ジダンであり、彼の代名詞であるルーレットをできるようになるまでずっと練習していた。
- 幼少期に柔道をやっていた時期があり、プレミアリーグでプレーするにあたりそのときの経験が役に立ったと語っている。
- 脇腹にかたかなで「ジャンニス」と息子の名前が刻まれたタトゥーがある。
- アニメ「NARTO」が好きらしく、チェルシー時代のインタビューでいつか日本語を習得したいと語ったことがある。
- チェルシー時代のチームメイトであるジョン・オビ・ミケルからは練習嫌いであることを暴露されており、「彼は一生懸命トレーニングすることを好んではいなかった。僕たちが練習している間、僕たちが引き上げるのをただ立って待っていたんだ。でも、日曜日になるといつでもマン・オブ・ザ・マッチだ。信じられなかったね」と語っている。
関連動画
関連項目
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