カルロ・アンチェロッティ(Carlo Ancelotti, 1959年6月10日 - )とは、イタリア出身の元サッカー選手、現サッカー指導者である。愛称は「カルレット」。
レアル・マドリード監督。元サッカーイタリア代表。
現役時代のポジションはMF。179cm80kg。利き足は右足。
概要
イタリアのレッジョ・エミリア県レッジョーロ出身。史上7人しかいない選手・監督の両方でUEFAチャンピオンズリーグ(CL)優勝を経験した人物であり、史上最多となる4度のCL制覇を達成した監督であり、史上初の欧州5大リーグ全てでリーグ優勝を経験した監督でもある。
現役時代はASローマやACミランで活躍し、1980年代後半から1990年代前半にかけてのアリーゴ・サッキ監督率いる「グランデ・ミラン」の一員として数々のタイトル獲得に貢献している。イタリア代表として二度FIFAワールドカップ(1986年、1990年)に出場。選手時代のプレースタイルは、センターハーフとしてプレッシングサッカーの肝となり、攻守の繋ぎ役を担っていた。ハードなプレースタイルから「タイガー」と呼ばれていた。
引退後に指導者に転身し、古巣であるミランでスクデット獲得とCL優勝2回を達成。その後、チェルシー、パリ・サンジェルマン、レアル・マドリード、バイエルン・ミュンヘンといった各国のビッグクラブの監督を歴任している。指導者としては、初期の頃は恩師であるサッキのやり方を踏襲していたが、ミランの監督に就任してからはスター選手の扱いに長けた監督となり、選手との対話や関係を良好に保つことを重視するスタイルとなっている。
現役時代の経歴
クラブ
1976年に当時はセリエCに在籍していたパルマACでプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。プロ2年目となった1977-78シーズンに出場機会を増やすようになり、1978-79シーズンは中心選手としてセリエB昇格に貢献する。
1979年にセリエAのASローマへ引き抜かれる。リーグ戦2試合目のペスカーラ戦でセリエA初ゴールを決め、その後レギュラーに定着。当時、ローマはニルス・リードホルム監督のもとで黄金時代に突入しており、加入1年目でコパ・イタリア優勝。そして、1982-83シーズンは、パウロ・ロベルト・ファルカンやブルーノ・コンティらを擁したチームの一員として、クラブ史上初となるスクデット獲得に貢献。翌年のチャンピオンズカップではチームは決勝まで進むが、怪我のためにリヴァプールとの決勝を欠場。その後はチームのキャプテンを務め、8シーズン在籍し公式戦227試合17得点という成績を残し、2014年にチームの殿堂入りを果たしている。
1987-88シーズンにセリエAの名門ACミランへ移籍。このときローマが放出を渋ったことから移籍期限終了間際にミランは当時としては大金であった移籍金5億円を支払っている。ここでその後のサッカー人生で大きな影響を受けるアリーゴ・サッキ監督と出会い、サッカー界に革命をもたらしたチームの一員として移籍1年目でスクデットを獲得。1988-89シーズンのUEFAチャンピオンズカップ準決勝のレアル・マドリード戦では先制ゴールを決め、チームを5-0での勝利に導いたことでミランの優勝に貢献。オランダトリオを擁したミランでは縁の下の力持ちといった役割だったが、サッキ監督のプレッシングサッカーを体現する存在として活躍し、1989年には来日してトヨタカップ優勝に貢献。1989-90シーズンのチャンピオンズカップでも主力として連覇に貢献。「グランデ・ミラン」と呼ばれたミランの黄金期到来に尽力した。1991-92シーズンになると、若いデメトリオ・アルベルティーニが台頭したことで控えに回ることが多くなり、この年のスクデットを置き土産に33歳で現役を引退。ホームでの最後の試合となったヴェローナ戦では2ゴールを決めている。
イタリア代表
イタリア代表には、ローマでの活躍が認められ1981年にデビュー。しかし、定着することができず、スクデットを獲得したローマのチームメイトが多く選出された1982 FIFAワールドカップのメンバーからは落選。その後、しばらくの間代表から遠ざかるが、1986年におよそ2年ぶりに代表へ復帰すると、1986 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。しかし、結局出場機会は訪れなかった。
1988年にドイツで開催されたEURO88に出場。1990年に地元開催となった1990 FIFAワールドカップのメンバーにも選出され控えという立場だったが、3位決定戦のイングランド戦にはスタメンで出場し、3位入賞に貢献している。
指導者としての経歴
キャリアスタート期
現役引退後の1992年に、イタリア代表の監督に就任したアリーゴ・サッキからの要請を受けてイタリア代表のアシスタントコーチに就任。1994 FIFAワールドカップにも帯同し、ミラン時代の恩師であるサッキからプレッシングサッカーのノウハウや守備戦術の構築を学び、後の監督業の礎を築いている。
1995年にセリエBのレッジャーナの監督に就任し、監督としてのキャリアをスタートさせる。前年にセリエAから降格したことで主力が流出したため乏しい戦力だったが、サッキ仕込みの4-4-2をベースとしたソリッドなチームを作り、セリエBで3位という成績を残し、1シーズンでのセリエA昇格を果たす。初監督として順調なスタートを切るが、シーズン終了後に退任している。
パルマ
1996年、解任されたネヴィオ・スカラの後任としてパルマACの監督に就任。就任早々、チームの象徴的な存在であったジャンフランコ・ゾラとの確執が表面化し、ゾラを放出。さらに、18歳のジャンルイジ・ブッフォンを正GKに固定し、ファビオ・カンナヴァーロ、リリアン・テュラムという若手を守備の中心に抜擢。若い彼らは期待に応え、世界でも屈指といわれた強固な守備ユニットを構成する。2トップにも若いエルナン・クレスポとエンリコ・キエーザを軸に抜擢するチーム改革をおこなう。こうしてパルマはゾーナルな守備組織を売りにしたソリッドなチームに生まれ変わり、大躍進を遂げる。ユヴェントス、インテルと激しいスクデット争いを繰り広げるが、最終的に勝ち点わずか2差でユヴェントスがスクデットを獲得する。それでも、若い戦力を抜擢しシーズンわずか26失点という安定したチームを作り上げたアンチェロッティの手腕は高く評価された。
1997-98シーズンも前年度と同じく4-4-2のソリッドな守備をベースにしたチームを作るが、攻撃のパターンが単調であることが露呈されたことでユヴェントス、インテルに引き離され、5位に終わる。シーズン終了後、退任する。
ユヴェントス
1998-99シーズン途中に成績不振を理由に解任されたマルチェロ・リッピの後任としてユヴェントスの監督に就任。しかし、エースのアレッサンドロ・デル・ピエロはシーズンを棒に振るほどの大怪我を負い、ジネディーヌ・ジダンら主力の多くもワールドカップの疲労によって本来の力を出し切れず、深刻な得点力不足に陥ってしまう。冬にティエリ・アンリを獲得するが、不慣れな左ウイングで起用したことで力を発揮することができず、チームは3連覇を逃し、6位という不本意な成績に終わる。このときのアンリの起用法について後に「キャリアで最大の汚点」と振り返っている。
ユーヴェで2年目となった1999-00シーズンは、怪我明けのデル・ピエロのコンディションがなかなか回復しなかったこともあり、中盤の形をフランス代表の形に変え、ジダン中心のチームを作る方針転換をおこなう。これまでは師匠であるサッキの哲学を踏襲した10番タイプを必要としないソリッドなチームを作っていたが、それまでの考え方を根本的に見直し、1人の天才プレイヤーを中心にするチーム作りを推し進める。結果、チームの立て直しに成功し最終節を首位で迎えるが、最終節でペルージャを相手にまさかの敗戦を喫し、アルベルト・ザッケローニ率いるミランの逆転優勝を許してしまう。
2000-01シーズンも引き続きジダンを中心としたチーム作りをおこない、新戦力のダビド・トレゼゲがフィットしたこともあって優勝争いに加わるが、フランチェスコ・トッティ、ガブリエル・バティストゥータを擁したASローマが立ちはだかる。勝てば首位奪取となるシーズン後半戦のローマとの天王山では2点をリードしながら中田英寿の1ゴールを含む活躍によって引き分けに持ち込まれる。結局そのままローマに逃げ切られ、またしても2位に終わる。シーズン終了後、就任3年間で全くタイトルを獲得できなかったことを理由に解任となる。パルマ時代も含めて三度も2位に終わったことで一部メディアからは「シルバーコレクター」と揶揄される。
ミラン
2001-02シーズン途中に、成績不振で低迷する古巣ACミランの監督に就任。難しい状況で指揮を執ることになったが、見事にチームの立て直しに成功し4位でシーズンを終えCL出場権を獲得。UEFAカップでもベスト4進出を果たしている。
2002-03シーズンはラツィオからアレッサンドロ・ネスタが加入したことで最終ラインがさらに強固なものとなり、リバウドやクラレンス・セードルフといったタレントが加わったことで前年までの守備的なサッカーからアタッカー陣の個の力を引き出すためにパスワークで崩すスタイルへと転換していく。その象徴だったのがレジスタ(中盤の底)の位置にアンドレア・ピルロを置いたシステムだった。ピルロの両脇をジェンナーロ・ガットゥーゾやマッシモ・アンブロジーニといった守備力に長けた選手でプロテクトした中盤の形は「ピルロシステム」とも呼ばれ、ピルロがゲームメイクの中心となることでイタリアでは珍しい華麗なパスサッカーを展開。これまでの退屈なサッカーをする監督という評価が覆されるようになる。まず、コッパ・イタリアを優勝し監督キャリア初タイトルを獲得すると、CL決勝ではユヴェントスとの同国対決をPK戦の末に制し、ミランに8シーズンぶりのビッグイヤーをもたらす。個の結果、選手と監督両方でCL優勝を達成した史上4人目の人物となった。
2003-04シーズンは、この年からフロント入りしたレオナルドの尽力によってブラジル代表のカフーとカカが加入。特に、将来の投資と見られていた当時21歳のカカは驚くべき適応を見せる。アンチェロッティは早い段階でトップ下のポジションをマヌエル・ルイ・コスタからカカに代え、攻撃の中心に添える決断を下す。パオロ・マルディーニ、ネスタ、カフーで形成したバックラインは世界最高レベルの鉄壁の守備を誇り、ピルロ、セードルフ、カカを擁した中盤は常に優勢を保ち、アンドリュー・シェフチェンコは24ゴールを記録し得点王を獲得。結果、ミランに5シーズンぶりのスクデットをもたらす。
2004-05シーズンはリーグ戦は2位に終わるが、CLでは2シーズンぶりに決勝に進出する。トルコのイスタンブールで開催されたリヴァプールとの決勝は、主将マルディーニのゴールで幸先よく先制すると、前半だけで3点をリードする。ところが、後半やったことのなかった3バックに変更したリヴァプールの戦略に対応できず、わずか6分間で立て続けに3点を失い、同点に追いつかれてしまう。最後はPK戦で敗れ、後にイスタンブールの奇跡と呼ばれる歴史に残る大逆転負けを喫してしまう。アンチェロッティはこの悪夢から1年間はこの試合の映像を見ないようにするほどのショックを受けたらしい。
2005-06シーズンは、シェフチェンコが2年連続得点王となる19ゴール、ジラルディーノが17ゴール、カカが14ゴール、ベテランのインザーギが12ゴールと攻撃陣が揃って結果を残しリーグ最多となる85得点を記録するが、ネスタ、マルディーニ、スタムら守備の中心となる選手が怪我がちだったこともあって安定感を欠き、リーグでは3位に終わる。前年の雪辱に燃えたCLも準決勝でロナウジーニョを擁したFCバルセロナに敗れ、シーズン無冠となる。
2006-07シーズンは、前年に発覚したカルチョスキャンダルの影響によって勝ち点8を剥奪された状態でシーズンをスタートさせることになる。加えて、エースストライカーのシェフチェンコが移籍。代役を期待されたジラルディーノの深刻なスランプもあって得点力不足に悩まされる。しかし、冬に加入したロナウドが期待通りの活躍を見せたことでセリエAは4位で終え、CL出場権獲得という最低限のノルマをクリアする。一方、規定によってロナウドを起用することができないCLでは、カカの力を最大限に引き出すために中盤を分厚くしたクリスマスツリー型と呼ばれる4-3-2-1を採用。よりゴールに近い位置でプレーできるようになったカカは大車輪の活躍を見せ、CL10ゴールを記録。前評判を覆して決勝に進出。決勝は2年前の悪夢を味わったリヴァプールと再び対戦することになるが、シーズンの大半を怪我で棒に振ったインザーギが大舞台で2ゴールを挙げる殊勲の活躍を見せ、自身二度目となるCL優勝を達成。
2007-08シーズンは、カカが孤軍奮闘し続けるが、衰えが隠せなくなったベテラン勢が軒並みシーズンフル稼働ができず、早々と優勝争いから脱落してしまう。2007年12月のFIFAクラブワールドカップでは、カカの活躍によって優勝し、1月にデビューしたブラジルの新星アレシャンド・パトが後半戦だけで9ゴールを決めたが、最終的に5位に終わり、就任以来初めてCL出場権を逃すことになる。
2008-09シーズンはフロント主導でロナウジーニョ、デイヴィッド・ベッカムというビッグネームが加入し、うまくチームマネージメントをこなしていくが、司令塔のピルロが怪我で離脱した時期にチームは機能性を失って失速。この頃にはフロントとの間にも溝ができており、すっかり主力に定着したパトの活躍などのプラス面は評価されず、無冠に終わった責任を押し付けられる格好で退任する。それでも、ミランで8年間の長期政権を築き、スクデット1回とCL2回のタイトルをもたらした功績に対してミラニスタは賛辞を送り、シルビオ・ベルルスコーニ会長ら首脳陣に批判の矛先が向けられた。
チェルシー
2009年より、イングランド・プレミアリーグのチェルシーFCの監督に就任し、現役時代も含めたキャリア初の海外での挑戦を始める。就任早々にコミュティーシールドを制し初タイトルを獲得すると、ジョゼ・モウリーニョ前監督とは違う選手の個性を重視した攻撃型のサッカーで勝ち点を稼いでいく。特にマンチェスター・ユナイテッド、リヴァプール、アーセナルといったライバルチームとの直接対決で6戦全勝を達成。ディディエ・ドログバが29ゴール、フランク・ランパードが22ゴールと攻撃陣が爆発しプレミアリーグ記録となる102ゴールを記録。優勝争いは最終節まで縺れたが、見事チェルシーに4シーズンぶりとなるプレミアリーグ優勝をもたらす。さらに、FAカップでも連覇を達成しており、プレミアリーグ初挑戦にしてシーズン二冠という結果を残す。
2010-11シーズンもシーズン序盤は好調で連覇へ期待を抱かせるが、主力の怪我や不調が重なった中盤戦に失速。1月に巻き返しの切り札としてリヴァプールからフェルナンド・トーレスを獲得するが、トーレスがなかなかチームにフィットすることができず、最適解を見出すことに手間取ってしまう。シーズン終盤戦に巻き返すが、首位を独走していたマンチェスター・ユナイテッドに追いつくことはできず。CLでもベスト8でユナイテッドに敗れ、無冠に終わる。シーズン終了後、ロマン・アブラモビッチ会長の意向によって解任となる。
パリ・サンジェルマン
半年ほどフリーの期間が続くが、2011年12月30日にミラン時代に同僚だったレオナルドSDに誘われてフランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンFCの監督に就任。カタール資本による巨額の投資がされ生まれ変わったチームの指揮を執るが、勝ち点3ポイント届かず、2011-12シーズンはモンペリエに優勝をさらわれる。
2012-13シーズンにチームは前年以上の巨額のマネーを投下し、古巣のミランからズラタン・イブラヒモビッチとチアゴ・シウバを獲得。持ち前のスター選手をコントロール人心掌握術によってチームは開幕から圧倒的な強さを見せていく。CLでは、ベスト8でバルセロナを相手に惜しくも敗れるが、リーグでは大型補強の目玉だったイブラヒモビッチが30ゴールという荒稼ぎで得点王となり、19シーズンぶりとなるリーグ・アン優勝をもたらす。
レアル・マドリード
2013年6月15日、スペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードの監督に就任。クラブ史上最高額でガレス・ベイルが加入したことから前線に右からベイル、カリム・ベンゼマ、クリスティアーノ・ロナウドのBBCトリオを並べたフォーメーションを採用。GKは好調を維持するディエゴ・ロペスをリーグ戦、チームの象徴であるイケル・カシージャスをCLに起用する分業制としていた。さらに、後のジダン政権にも影響を与えた司令塔のルカ・モドリッチとトニ・クロースをビルドアップ時にサイドバックの後方のエリアに落ちさせる戦術を採用。さらにはアンヘル・ディ・マリアをインサイドハーフで起用することで前線の守備意識の低さという弱点を補完する。リーガでは混戦の末に優勝を逃したが、コパ・デル・レイで優勝しスペインでの最初のタイトルを獲得。CLでは準決勝でジョゼップ・グアルディオラ監督率いるバイエルン・ミュンヘンを圧倒的な強さで粉砕すると、アトレティコ・マドリードとのマドリード・ダービーとなった決勝も制し、レアル・マドリードに記念すべき10度目のビッグイヤー(ラ・デシマ)を達成。自身もボブ・ペイズリーと並ぶ史上最多の3度目のCL優勝となった。
2014-15シーズンもBBCトリオが開幕から好調を維持し、サッカー史上3番目の記録となる22連勝を記録するなど好調を維持するが、後半戦になると失速。リオネル・メッシ、ネイマール、ルイス・スアレスのMSNトリオを擁したバルセロナに引き離され、またもリーガのタイトルを逃す。CLでは準決勝で古巣でもあるユヴェントスに敗れ、史上初のCL連覇の目標が潰えてしまう。クラブワールドカップこそ優勝したものの、主要タイトル無冠に終わる。このシーズンの失速はフロント主導でシャビ・アロンソとディ・マリアを放出した影響が大きく、選手たちからも続投が求められたが、最後はフロレンティーノ・ペレス会長の独断によってシーズン終了後に解任となる。
バイエルン・ミュンヘン
1年間の充電期間を経て、2016-17シーズンよりペップ・グアルディオラの後任としてドイツ・ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンの監督に就任。基本的にはグアルディオラのポゼッションスタイルを踏襲しながら、グアルディオラのような斬新的な配置転換やフォーメーションは廃止し、守備のバランスを意識したチーム作りを推し進める。エースのロベルト・レバンドフスキが30ゴールを決める大活躍を見せたことでリーグ5連覇を独走状態で達成。しかし、CLではベスト8でかつてアシスタントを務めたジダン率いるレアル・マドリードの前に延長戦で敗れる。DFBポカールでもボルシア・ドルトムントに敗れ、タイトルはリーグのみとなった。
2017-18シーズンになると、自身がリクエストしたハメス・ロドリゲスの獲得が実現するが、一部の主力との確執が表面化したことでチームを掌握できなくなり、不安定な戦いが続く。そして、CLグループステージ第2節でパリ・サンジェルマンに完敗すると、直後の2017年9月28日に成績不振を理由に解任となる。自身の監督キャリアにおいて初めてとなるシーズン途中での退任劇となった。
ナポリ
2018-19シーズンからはイタリア・セリエAのSSCナポリの監督に就任し、10年ぶりに母国イタリアで指揮を執ることになる。マウリツィオ・サッリ前監督のスタイルを踏襲しながら、フォーメーションを中盤をフラットにした4-4-2とし攻守のバランスをとるというバイエルン時代と同じようなアプローチをおこなう。死の組に入ったCLでは奮闘したものの惜しくも3位でグループステージ敗退となる。それでもホームでのリヴァプール戦では、欧州を席巻していたユルゲン・クロップ監督の戦術を攻略して完勝するなど手腕を発揮している。セリエAでは絶対王者ユヴェントスに喰らいつくも、最後は独走を許し2位に終わる。
2019-20シーズンは悲願のスクデット獲得に向けてチームは大型補強を敢行。開幕前は優勝候補に挙げる声も多かった。しかし蓋を開けてみると、チームの象徴だったマレク・ハムシクが退団した影響もあってチームはまとまらず、勝ち切れない試合が続く。2019年11月5日のCLレッドブル・ザルツブルク戦後に成績不振に激怒したアウレリオ・デ・ラウレンティス会長がチームに緊急合宿を命じたものの、一部の主力選手が拒否して帰宅するという騒動が起きる。これを機にフロントと対立するようになり、チームの混乱の責任を負わされる形で12月10日に解任となる。ちなみに後任となったのはミラン時代の教え子だったガットゥーゾだった。
エヴァートン
ナポリを解任となったわずか10日後の2019年12月21日にイングランド・プレミアリーグのエヴァートンFCの監督に就任。降格圏に転落した最悪なチーム状態で指揮を執ることになるが、ドミニク・キャルバート=ルーウィンをエースとして抜擢し、トム・デイヴィスら若手を積極的に起用することでチームの立て直しを図る。キャルバート=ルーウィンは13ゴールを決め、降格という最悪の結末は回避できたものの、遅れを取り戻すことができず12位に終わる。
2020-21シーズンは、教え子であるハメス・ロドリゲスやアランの獲得が実現し、キャルバート=ルーウィンが絶好調だったこともあって50年ぶりとなる開幕4連勝を達成。一時は首位に立つも、主力の負傷や新型コロナウィルス感染の影響もあって次第に失速。リヴァプールとのマージー・サイド・ダービーでは敵地アンフィールドで25年ぶりに勝利したが、チームは浮上することなく10位という結果に終わる。
レアル・マドリード復帰
2021年6月1日、スペイン・ラ・リーガのレアル・マドリードの監督に6年ぶりに復帰することが電撃的に発表される。ジダン前監督が作ったチームの土台を壊さず、すぐにチームを掌握。堅守をベースにしながらカウンターで仕留めるシンプルなスタイルのチームを作っていく。守備ではイタリア人監督らしい細かい戦術を構築しながら、攻撃は選手の個人技に任せ、選手の個の力を最大限に発揮させる自らの得意分野と選手たちの個人戦術の高さという相性の良さがプラスになっていく。特に若いヴィニシウスの才能を開花させることに成功し、ベンゼマと共に攻撃の切り札として活躍。バルセロナ、アトレティコというライバルの躓きもあって首位を独走する。ラ・リーガ第29節のエル・クラシコでは自らの戦術ミスが災いとなってバルセロナに0-4で完敗し、一時は監督の立場が危うくなるほどの批判を受けるが、そのまま前回の就任時には達成できなかったラ・リーガ制覇を成し遂げ、史上初の5大リーグ制覇を達成。CLでは前評判はさほど高くなかったものの、決勝ラウンドではPSG、チェルシー、マンチェスター・シティという強豪との戦いをベンゼマの大活躍もあって全て逆転で勝ち抜くというドラマティックな展開を演出。決勝でもリヴァプールを破り、史上最多となる通算4回目のCL優勝を果たした監督となる。
2022-23シーズンの前半戦はベンゼマの負傷離脱もあって攻撃力が低下するが、ロドリゴやフェデリコ・バルベルデの起用によってやりくりをする。しかし、ワールドカップによって主力の多くが怪我やコンディション不良に悩まされるようになった後半戦は取りこぼしが増え、ラ・リーガでは一時はバルセロナに勝ち点10以上を離され、優勝を許してしまう。CLでは決勝ラウンドに入ってリヴァプール、チェルシーといった強豪を打倒したものの、準決勝ではマンチェスター・シティの前に何もさせてもらえずに完敗。コパ・デル・レイで9シーズンぶりとなる優勝を果たし、シーズン無冠は回避する。
エースのベンゼマが退団した2023-24シーズンだったが、新加入のジュード・ベリンガムを攻撃の要に据える采配でストライカー不足の窮地を乗り切ってみせる。また、兼ねてよりブラジル代表監督就任の噂が浮上していたが、選手や首脳陣とも良好な関係を築き、安定したチーム運営が評価され、2023年12月29日に2026年6月まで2年間の契約延長に合意したことが発表される。その後も守備陣に長期離脱者が続出する窮地が訪れるが、大胆なコンバートや控え選手のモチベーションを維持させていたことでこれも乗り切ってしまい、ラ・リーガでは大躍進を遂げたFCジローナを振り切り、宿敵バルサとのエル・クラシコはシーズンダブルを達成。安定した戦いぶりでリーガ優勝を果たす。CLでも安定した戦いで勝ち上がり、ベスト8では前回王者マンチェスター・シティを相手に敗色濃厚に追い込まれながらも驚異的な粘りでPK戦まで持ち込み、しぶとく勝ち上がる。ベスト4でもバイエルン・ミュンヘン相手に苦戦するも、伏兵ホセルの起用が当たりまたも勝負強さを見せる。決勝ではボルシア・ドルトムントに前半劣勢に立たされるも、修正を施した後半に息を吹き返したことで2ゴールを奪って勝利し、自身の最多優勝記録を更新する5度目のビッグイヤー獲得を果たす。卓越したチームマネージメント力が際立ったシーズンとなった。
2024-25シーズンはキリアン・エムバペが加入したものの、そのために前線のベストな構成を見出せず、加えてダニ・カルバハルを筆頭に中心選手の相次ぐ負傷にも悩まされ、苦戦を強いられる。
監督としての成績
個人タイトル
- ザ・ベストFIFA男子監督(2024年)
- UEFA年間最優秀監督 / ヨハン・クライフ賞:3回(2003年、2022年、2024年)
- セリエA年間最優秀監督賞(2021年、2024年)
- リーグ・アン年間最優秀監督賞(2012-13)
関連動画
著書
関連項目
- サッカー
- サッカー選手
- イタリア
- サッカーイタリア代表
- ASローマ
- ACミラン
- パルマAC
- ユヴェントス
- チェルシーFC
- パリ・サンジェルマン
- レアル・マドリード
- バイエルン・ミュンヘン
- SSCナポリ
- エヴァートンFC
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