冲鷹(ちゅうよう)とは、大日本帝國海軍が運用した商船改造空母である。1940年3月23日に竣工した大型客船新田丸を改造したもので、1942年11月25日に空母改装工事を完了。航空機輸送任務に従事する。1943年12月4日、米潜水艦セイルフィッシュの雷撃で撃沈された。
概要
冲鷹の前身は日本郵船所属の新田丸型貨客船1番船新田丸である。
建造に当たっては「欧州の貴婦人」と呼ばれた北ドイツ・ロイド社の豪華客船シャルンホルスト(後の神鷹)を日本郵船が徹底研究。当時の最高の技術と設計で造られており、内装は豪華の一語に尽きた。社交室、読書室、美容室、理容室、一等食堂、二等食堂等があり、外航客船としては初めて一等客室や二等公室に冷暖房装置を導入。一等客室は全て海に面した外側に配し、二等客室や三等客室のグレードも2万トン級以下の中では最上と評されるなど、これまでの貨客船とは一線を画す豪華さを誇った。開閉式の温水プールまであったのだから驚きである。船内の装飾もこだわっており、国産高級資材を国内の一級建築家及び職人が巧みに使って豪華な和風に仕立て上げられ、その華やかさは世界最高の豪華さと言われたアメリカのクイーン・メリー号に比肩するものだった。一方で設計段階から空母改装を見越して機関には三菱ツェリー式2気筒2段減速装置付きタービンを採用。また浅間丸型客船に用意された昇降機を転用している。
空母への改装は徹底したものであり、二度と元の商船に戻れないほどの魔改造が加えられた。遊歩甲板以上の上構を撤去して格納庫甲板とし、上方5mに飛行甲板とその前後に支柱を設置、上甲板と飛行甲板の間の両舷に外板を張って格納庫にしている。羅針艦橋後方に海図室や作戦室などがあり、その一段下には艦長休憩室、搭乗員室などが配置された。
要目は排水量1万7830トン、全長198m、全幅22.5m、喫水8m、最大速力21ノット、出力2万5200馬力、重油搭載量2250トン。艦載機は艦戦9機、艦攻14機。武装は12.7cm連装機銃8門、2.5cm三連装機銃10丁。
艦歴
新田丸時代
1940年に東京オリンピックが開催される事が決まり、外国人客の増大を見込んだ日本郵船は欧州航路の強化を図るべく、新たに3隻の豪華客船を建造しようと考えた。建造を後押しするかのように1937年には政府が「優秀船舶建造助成施設」という建造費の3分の1を補助する制度が導入され、日本郵船の頭文字NYKを船名に配した新田丸(N)、八幡丸(Y)、春日丸(K)からなる新田丸級貨客船を設計。新田丸の名は東京都の新田神社から取られた。
1937年9月、建造費1200万円を投じて豪華客船の建造ノウハウに富む三菱重工長崎造船所に発注(助成金は約410万円)。1938年5月9日に第750番船の仮称で起工するが、その僅か2ヶ月後の7月15日に日華事変の激化からオリンピック開催権を返上してしまい本来の役割を果たせなくなる。それでも工事は続けられ、1939年5月20日に進水、そして1940年3月23日に竣工を果たした。船主は日本郵船株式会社、船籍港は東京に定められる。本来は欧州路線に就役するはずだったが、既に第二次世界大戦が勃発して戦場と化していたため、やむなく北米航路(桑港線)に就役する。
1940年4月1日に長崎を出港した新田丸は神戸と横浜を経由し、4月5日に東京へ到着。4月6日から14日まで芝浦岸壁で竣工披露が行われ、秩父宮、高松宮、三笠宮、賀陽宮、久爾宮、梨本宮各殿下が来訪。披露航海の時には著名人が招かれた。4月27日から処女航海を開始。神戸、横浜、上海、香港、マニラ、ホノルル、サンフランシスコ、ロサンゼルスを寄港地にして物資と乗客を運んだ。真珠湾攻撃を企図する帝國海軍はハワイの詳細な情報を手に入れるため、ホノルルの領事館に外務省職員森村正の偽名で吉川猛夫予備少尉を赴任させ、新田丸に乗ってオアフ島へ向かった。1941年3月27日午前8時30分、新田丸はホノルル第8番埠頭に着岸して吉川予備少尉を上陸させている。
1941年8月5日、7回目の航海を終えた新田丸は横浜へ入港。この頃には既に日米関係は修復不能な所まで悪化しており、9月12日、遂に帝國海軍に徴用されて横須賀鎮守府所管となり、海軍省に配属される。横浜港の大桟橋に係留されるとすぐに通信機器を強化する工事が行われたが、その理由は船長にすら明かされなかったという。春日丸と八幡丸が空母改装工事に着手する中、新田丸だけは船内の整備や塗装のみの工事が連日続いたため、臣民の間で「日米首脳会談を行うために温存している」と噂になった。実際これは当たっていた。というのも日本は10月に日米首脳会談の開催を目指しており、新田丸は外交使節団を運ぶ船に指定されていたのである。だが最後通牒であるハルノートを突き付けられたため交渉決裂。代わりに軍隊輸送船として運用され、11月26日に東京を出発して高雄へ落下傘部隊を、次に横浜から高雄へ陸軍部隊を輸送している。開戦直前の12月6日、直卒部隊へ編入。
1941年12月8日に大東亜戦争が勃発し、新田丸もまた未曾有の戦火に呑まれていく事となる。12月12日に横浜を出港した新田丸は呉へと向かい、12月17日に到着して様々な軍需品を満載、12月26日に上海方面へ向けて出発する。上海に物資を届けた後、上海特別陸戦隊を乗船して12月30日に同地を出発、今度は太平洋方面へと向かった。
1942年1月12日、アメリカ軍守備隊を下して占領したウェーキ島(大鳥島)へ到着。運んできた陸戦隊を揚陸し、アメリカ軍捕虜約1200名を収容して上海の収容所へ送る事になったのだが、捕虜の1人が警備兵から何度も銃を奪おうとしてきたため軍令部に報告したところ抹殺命令が下り、九州近海で5名を殺害して水葬。1月18日に横浜へ寄港した際に30名の海軍特別部隊が乗船。彼らはウェーキ島守備隊から密命を受けており、残虐行為を働いた5名の捕虜を航海中に殺害した。1月23日に上海へ到着して捕虜を降ろし、1月28日に直卒部隊から除かれて内地・釜山間の輸送任務に従事し、横須賀入港前の3月17日に徴用解除が発令。5月1日に空母改装工事のため徴用解除となった。
5月27日より呉工廠で改装工事に着手、8月1日には海軍が船体を買い取り、8月20日に「天高く飛び上がる鷹」を意味する冲鷹と命名される。昼夜兼行の突貫工事により豪華絢爛な貴賓室やサロンは無残に破壊されたが、代わりに空母に必要な設備が次々に取り付けられ、客船とは違う威容を誇るようになった。改装着手が最も遅かったため戦訓から対空兵装が強化され、また航空機の発着を容易なものにすべく飛行甲板も予定の長さより約10m延伸した。
大鷹型空母冲鷹
1942年
1942年11月25日に改装工事が完了。初代艦長に石井藝江大佐が着任するとともに横須賀鎮守府に編入。艦首に菊の御紋を取り付け、マストに軍艦旗が掲げられた。翌日冲鷹は母港横須賀に向かうため呉を出発し、11月28日に横須賀工廠へ入渠、ミッドウェー海戦の戦訓で飛行甲板に泡沫式消火装置を装備する。
冲鷹の最大速力は20ノットと低速のため艦隊随伴の攻撃型空母とは成り得なかったが、輸送艦として見ると大変高速だったため、航空機輸送にはおあつらえ向きの性能だった。護衛する駆逐艦の方も快足という事で歓迎したという。通常航空機を輸送船で運ぶにはパーツごとに分解しなければならず、運んだ後は現地で組み立てる手間も付随した。かと言って航空機を飛ばして直接目的地に向かせようとした場合、搭乗員の練度と高度な航法が必要となり、移動中の行方不明や故障で毎回3~5%の機体が失われてしまう。しかし飛行甲板と格納庫を持つ商船改造空母であれば分解の必要は無い上、目的地の近くで発艦させれば稼働状態のまま飛行場への配備が可能という実に合理的だったのだ。こうして冲鷹は姉妹艦大鷹、雲鷹とともに3隻体制で航空機輸送任務に臨む。
12月4日、連合艦隊電令作第405号により龍鳳とともに九九式双発軽爆撃機23機と陸軍部隊203名をトラック諸島まで輸送するよう命じられる。出港は12月11日を予定していたものの主吸水ポンプの故障で遅れたため龍鳳とは別行動となり、翌12日に横須賀を出港。駆逐艦卯月に護衛されながら一路トラックを目指す。サイパン北西でトラックから出発してきた朝雲と時雨に護衛が加わり、卯月は護衛を終了して離脱。そして12月18日にトラック諸島へ到着して春島に航空機を揚陸した。ちなみに龍鳳は道中の八丈島沖で敵潜に雷撃されて損傷・反転しており、輸送に成功したのは冲鷹だけだった。12月22日にトラックを発った冲鷹は朝雲に護衛されながら横須賀への帰路につき、途中で軽巡長良も護衛に加わって12月26日に無事横須賀へと帰投する。
1943年
1943年1月2日15時30分、朝雲を伴走者にして横須賀を出港し、1月8日にトラック基地へと到着。連合艦隊電令作第118号に従って現地で艦爆16機と零戦24機を積載。1月10日にトラックを出発してカビエン方面へと向かった。1月12日午前7時6分、カビエン沖200海里の地点で駆逐艦秋風と合流して基地物件と人員を託送し、翌日午前7時28分に100海里先から航空機を洋上発進させてカビエン基地に着陸させたが、1機のみ搭乗員の発熱で発進出来ず、1月14日に帰投した際にトラック基地へ戻している。
新たな輸送航空機を受領するため即日トラックを出港、浦波を護衛に引き連れながら横須賀を目指し、1月20日に入港。2月1日、二代目艦長に加藤興四郎大佐が着任する。2月7日、浦波とともに横須賀を出港し、2月12日にトラック諸島へと到着するが、アリューシャン方面における連合軍の不穏な動きを鑑み在トラックの戦力を引き上げさせる事となり、第3戦隊の指揮を受けて2月15日にトラックを出発、2月20日に横須賀へ帰投した。しかし冲鷹の任務に変更は無く、2月28日に横須賀を発ってトラックへ舞い戻っている。3月8日、駆逐艦夕暮と萩風を指揮しながらトラックを出発、3月13日に横須賀へ帰投して人員輸送を行った。3月21日発令の連合艦隊電令作第512号で冲鷹は大鷹の指揮下に入る。
4月4日、ラバウル行きの陸軍第14飛行団第68戦隊三式戦闘機20機をトラックに輸送すべく大鷹、駆逐艦響、黒潮、親潮とともに横須賀を出港。今までは何事もなく輸送任務を成功させてきたが、この航海でいよいよ冲鷹にも災厄が降りかかる事になる。4月8日夜、サイパン沖で米潜水艦ハドックに捕捉され、位置情報通報によりタニイが応援に駆け付ける。タニイは距離800mから大鷹目掛けて魚雷を発射するが早爆して失敗、しかし命中させたと誤認したタニイは次に冲鷹を狙って魚雷6本を発射するが、これも早爆して失敗。翌10日、敵潜を振り切って無事トラックへと逃げ込めた。大切に持ってきた三式戦を揚陸した後、すぐさま横須賀への帰投を命じられ、4月16日に出港。道中でサイパンに寄港しながら4月21日に横須賀へ帰投した。休む間もなく4月25日に横須賀を発ち、4月30日にトラックへ入港して航空機を揚陸。5月8日、内地帰投する戦艦大和、空母雲鷹、駆逐艦潮、五月雨、夕暮、長波とともに出港し、本州近海で呉に向かう大和と別れ、5月13日に横須賀に到着。5月24日に雲鷹と一緒に横須賀を出発し、5月30日にトラック基地へ到着して航空機を揚陸した。
6月5日に雲鷹とともにトラックを出港。道中の6月8日23時16分、敵潜スカルピンは縦隊の最後尾を航行していた冲鷹に狙って4本の魚雷を発射するが、全て外れて難を逃れた。翌9日横須賀へ帰投。6月16日、トラックに進出する有力な艦隊に加わって横須賀を出港。月齢が増大する日は敵機襲来の可能性が高く、対空警戒を厳にしながらトラック諸島を目指していたが、敵は空ではなく海の中から襲ってきた。6月21日午前2時40分、オロール島の西水道で米潜スピアフィッシュは空母を狙って4本の魚雷を発射。しかし艦隊の速力を見誤っていたため全て外れ、同日中にトラックへ入港。便乗していた航空関係者は退艦して別の船に移乗した。6月28日、雲鷹とともにトラックを出発し、7月2日に横須賀へ戻った。
ソロモン諸島を巡る戦いは激化の一途を辿り、航空機輸送任務は永遠に続くかに思えた。7月10日、第552及び第802航空隊の関係者、マーシャル諸島やソロモン諸島に送る重火器を乗せて駆逐艦若月の護衛を受けながら横須賀を出港。翌11日午前11時6分、翔鶴や瑞鶴と合流して伴走する。しかし暗号解析により冲鷹の動きを読んだアメリカ軍は米潜ティノサとポーギーを送り込み、7月15日、距離3500mからティノサが4本の魚雷を発射してきたが全て回避に成功し、翌日トラックへ入港。7月19日にトラックを出発、7月24日に横須賀へ帰投して8月9日から18日まで入渠整備を受ける。
9月7日、姉妹艦大鷹や浦風、風雲、五月雨に護衛されて横須賀を出発し、9月11日にトラックへ入港。9月21日、姉妹艦大鷹と護衛の駆逐艦3隻とともにトラック島を出発。横須賀へ向かった。9月24日、父島沖で大鷹が米潜水艦カブリラの襲撃を受け、被雷。航行不能に陥った。冲鷹は一旦海域から離れたが、駆逐艦が爆雷制圧を終えた4時間後に舞い戻ってきた。曳航索を渡し、慣れない作業を経て夕刻に曳航開始。速力最微速で大鷹を引っ張り、少しずつ前進し始めた。敵潜水艦の襲撃を警戒して乗組員は一睡もせず、8ノットの速力で横須賀を目指した。第27号掃海艇が合流し、援護を開始。哨戒機が敵潜を発見し、第33号掃海艇が対潜掃討に急派されるなど緊張の一幕もあった。辛くも26日に横須賀まで連れ帰り、横須賀海軍工廠が手配した曳船に引き渡した。今や日本近海も安全とは言えない状態となっていた。
10月4日、駆逐艦島風等に護衛されて横須賀を出港。同月10日にトラック島に到着したが、今度は冲鷹がその標的にされた。10月16日、トラック島の北北西にて米潜水艦ミンゴの雷撃を受ける。次いでサイパンの北方でフライングフィッシュの雷撃を受けたが、いずれも命中しなかった。10月20日に横須賀へ無事に到着したが、米潜水艦の出現率が飛躍的に高まっていた。
最期
1943年11月30日、ソロモンやニューギニア方面から後退してきた第一航空戦隊の整備員、主計科員、医務科員の転勤交代員、民間の映画関係者533名を乗せた。また撃沈された米潜スカルピンの捕虜20名も分乗していた。彼らを乗せてトラック島を出発。瑞鳳、重巡摩耶、姉妹艦雲鷹、駆逐艦漣、曙、朧、浦風とともに横須賀を目指した。しかし暗号解析で船団の動きを把握していたアメリカ軍は潜水艦3隻を道中に配置して待ち伏せてきた。
外洋に出ると対潜警戒の陣形に変え、速力20ノットで之字運動を実施。まず最初にスケートが雲鷹に雷撃を仕掛けたが失敗。12月2日にガネルが父島近海で攻撃を仕掛けたが、これも失敗。しかし翌3日早朝にセイルフィッシュがレーダーで船団を捕捉し、追跡を受ける。この時、季節はずれの台風が北東に進んでおり、海上は大荒れだった。それでも到着時間と予定を遵守するため、船団は台風の中を突っ切る航路を取った。暴風雨の影響で船団は18ノットに速力を落とした。激しい風雨によって船団もセイルフィッシュも互いを視認できなかったが、セイルフィッシュにはレーダーがあった。
12月3日深夜、セイルフィッシュは八丈島東方約330kmの地点で4本の魚雷を発射。日付が変わった翌4日午前0時、左舷前部艦橋下に魚雷1本が直撃。火災が発生したが、この時は機関が無事であり自力航行か可能だった。しかし速力低下を招き、船団から落伍。船団の指揮を執る摩耶は浦風に冲鷹の救援を命じ、他の艦には現場海域からの離脱を命じた。4ノットの速力で北上する冲鷹だったが、セイルフィッシュの追跡はまだ続いていた。午前4時50分、新たに魚雷3本を発射。午前5時頃、機関室に命中し、機関科要員が全滅。艦内電話も不通となり、ついに航行不能に陥った。対空機銃で敵を威嚇したが、荒波の中で足が止まった空母は最早風前の灯火だった。艦長の大倉大佐は脱出に備えてイカダを作るよう命じ、各分隊は浮力のあるものを集めて即席のイカダを作った。夜が明けると、少し視界が晴れた。しかも水平線には救援に来た駆逐艦曙の姿があった。乗組員が安堵したのも束の間、午前8時40分にトドメの魚雷が発射され、艦橋下に直撃。力尽きた冲鷹は艦首から急速に沈み、わずか6分間で逆立ちするように沈没した。艦長と便乗者を含む3000名以上が戦死し、荒天だった事もあって助かったのは約170名程度だった。アメリカ軍捕虜も20名中19名が死亡し、生き残ったのはジョージ・ロセック機関兵曹だけだった。味方の雷撃で死ぬとは何という皮肉か。彼はどさくさに紛れて飛行甲板に脱出し、海面に飛び込んだ。数名の日本人と4時間漂流したのち浦風に救助され、横須賀に連行された。目隠しと捕縛をされたうえで大船収容所に収監され、そこで雲鷹に分乗していた同僚と再会した。
便乗者のうち、最も多く死亡したのが第一航空戦隊の整備員であった。彼らは精鋭だったゆえに損失も大きく、機動部隊再建の際に支障があったという。
関連項目
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