神鷹(しんよう)とは、大日本帝國海軍が運用した商船改造空母の1隻である。ドイツの豪華客船シャルンホルストを改装したもので1943年11月15日に就役。ヒ船団の護衛任務に従事した。1944年11月17日、3回目の護衛任務中に東シナ海で敵潜スペードフィッシュから雷撃を受けて戦没。
概要
艦名の神鷹は文字通り「神の鷹」を意味する。他の候補名には「飛隼」があった。
神鷹は実に特異な商船改造空母である。元々は北ドイツロイド汽船の東洋航路貨客船シャルンホルストで、日本へ寄港中に第二次世界大戦が勃発した事で本国に戻れなくなり、長らく神戸港内で放置されていたところ今度は大東亜戦争が勃発。ドイツ政府と交渉した上で帝國海軍が購入、空母改装工事を受けた。このため神鷹の誕生は本来予定に無いものだった。
ドイツ海軍は主力艦へ搭載する前に、新型ワグナー式ボイラーと電気推進系統のターボ・エレクトリックの性能調査を行うべくシャルンホルストを実験船にしていたため、今までに無い最先端の技術が多数盛り込まれていた。ワグナー式ボイラーは確かに高出力だがドイツでさえ手を焼く扱いの難しい機関であり、帝國海軍でも手に余るものと判断され、結局機関を自国のものに換装している。神鷹は帝國海軍唯一のマイヤー船型と水上機母艦神威以来の電気推進を持つ極めて特殊な艦と言えた。
改装するにあたってドイツから図面を入手する時間が無かったため呉海軍工廠で実測を済ませ、建造中止になった大和型戦艦4番艦の資材を流用。船体の上甲板より上の構造物を撤去し、その5m上方に飛行甲板を設置、上甲板と飛行甲板の間を航空機格納庫とした。格納庫を二段式に出来るだけの巨体を有していたが工期短縮のため一段式としている。一連の改装で重心が高くなり復原力も低下してしまったため舷外にバルジを装着したが速力の低下を招いた。搭載機は零戦21機、補用機3機、九六式艦攻6機の計30機。飛鷹型を除くと商船改造空母の中では最大級の船体を誇り、航空機に限れば祥鳳型に匹敵するスペックだった。相次ぐ不調でワグナー式ボイラーを取り外さなければならなかったが、もし機関換装をしなかった場合は艦隊随伴も可能な攻撃型空母となりえるなど、潜在的な性能は高かったと言える。弱点は航続距離の短さ(18ノットで6900海里)。
要目は排水量1万7500トン、全長198.64m、全幅25.6m、飛行甲板全長180m、飛行甲板全幅24.5m、最大速力22ノット、燃料搭載量2771トン、出力2万6000馬力、乗組員834名。武装は12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃10基。外国の商船を空母化したケースは神鷹ただ1隻のみである。
艦歴
シャルンホルスト時代
1934年5月3日、ヤード番号891の仮称でデジマーク社ブレーメン造船所で起工。ドイツ海軍からの要請で船には高温高圧を誇る新型のワグナー式ボイラーと電気推進器が試験的に搭載された。同年12月4日に進水式を迎え、プロイセン軍のゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍から名前を取ってシャルンホルストと命名される。そして1935年4月30日に竣工を果たす。国家社会主義ドイツ労働者党政権下で初めて誕生した豪華客船だった事から竣工式にはヒトラー総統、ゲーリング国家元帥、レーダー海軍大将など重鎮が参列し、各国の報道機関も竣工を記事にして内外問わず注目を集めた。洗礼は通信大臣が行っている。国家の大きな期待を背負って誕生したシャルンホルストは船籍地をブレーメンに定め、姉妹船のポツダムやグナイゼナウとともに北ドイツロイド汽船の極東航路に就役。その美しさから「欧州航路の貴婦人」と呼ばれた他、21ノット(39km/h)の快足を発揮出来たため極東航路最速を誇り、今まで50日を要していたブレーメン・上海間の往来を34日に短縮。熱帯の気候に合わせた空調設備により快適な船旅が約束された。
1935年5月3日、ハンブルクを出港して処女航海を開始。シャルンホルストの処女航海は新聞報道され、彼女の就役により新たな寄港地にパルマ・デ・マヨルカ島とナポリが追加。またシャルンホルスト級の就役は1940年に東京オリンピックを控える日本に大きな衝撃を与え、造船技術に水をあけられた日本郵船は新たに新田丸、八幡丸、春日丸の建造に着手するなど世界中に影響と衝撃を及ぼした。
1936年2月3日よりブレーメン=横浜間の極東航路に就く。ハンブルク、ブレーメン、アントワープ、サザンプトン、ゼノア、ポートサイド、スエズ、コロンボ、シンガポール、マニラ、香港、上海、神戸と各地の主要港を経由し、終着点の横浜に寄港。片道約3万kmの道のりを往来する。しかし1937年8月13日に生起した第二次上海事変をきっかけに日華事変が始まり、極東方面に暗雲が立ち込めるようになる。極東から欧州に戻る途上だったシャルンホルストは日本軍機の攻撃で撃沈された中国漁船の船員を発見・救助し、9月26日に寄港した香港で降ろしている。1938年からは寄港先に上海が追加。上海では移民ビザが不要のためドイツとオーストリアから逃げ出してきたユダヤ人の逃走ルートに使用された。
しかし風雲急を告げる情勢は、突如としてシャルンホルストの運命を大きく狂わせてしまうのだった。
1939年7月、シャルンホルストは極東に向かうためハンブルクを出港するが、祖国との今生の別れになってしまった。8月16日に神戸港を出発し、シンガポールと上海を経由して次の寄港地マニラへと向かっていた8月26日、ドイツ本国から「最寄りの中立港に入れ」という緊急通信が入った。欧州では第二次世界大戦の開戦が眼前に迫っており、帰国途中でイギリス軍に拿捕される事を恐れたためだった。通信を受けたシャルンホルストは引き返して9月1日に神戸へと入港。そして9月3日に英仏連合軍がドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発。シンガポール、オーストラリア近海、インド洋、スエズ、地中海など帰路の大半が連合軍の勢力圏下に収まり、帰国が完全に不可能となってしまう。乗組員は中立条約によって国交があったソ連のシベリア鉄道を使って帰国出来たが、給油すらままならなくなったシャルンホルストは神戸で抑留。ドイツ所在の姉妹船とも離れ離れになった。9月8日、日本政府は神戸港に留め置かれているシャルンホルストを購入したいとロイド汽船に打診するが、シャルンホルストの船主はロイド汽船から東京のドイツ大使館へ移っており、ロイド汽船の一存で決められる状況ではなかった。9月19日にはロイター通信が「シャルンホルストが仮装巡洋艦に改装されている」と報じた(誤報)。
神戸抑留から2年が経過した1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。当初帝國海軍は軍用輸送船として運用する予定であり、1942年2月7日に戦後ロイド汽船へ金額(船価の2倍)を支払う約束でシャルンホルストを購入。しかし6月5日に生起したミッドウェー海戦により正規空母4隻を失ったため空母の調達が急務となるが、現在建造中の正規空母は大鳳だけであり、1942年及び1943年中に就役する空母に至っては1隻も無かった。そこで大型商船の空母改装を促進する事とし、1943年7月末までの完成を目指してシャルンホルストの空母化が決定。6月12日に神戸から呉へと回航され、6月30日に第1004号艦の仮称で改装が正式に決まり、7月2日に船主を海軍省へ移譲。艤装や装備については在庫にあるものを流用、足りないものは製造という形を取った(異説として日米開戦に伴って売却され1942年4月の時点で既に空母化が内定していたとも。戦争勝利後はドイツに返還する約束も付随していた)。またシャルンホルストの改装は優秀船舶を多数持ちながらも、空母に関心を払わないドイツ海軍に模範を示す意味合いが含まれていた。
1942年9月21日、冲鷹が出渠したばかりの乾ドックに入渠。建造中止で解体された大和型4番艦(紀伊)の資材を流用して改装が始まった。大鷹型に準じた改造が施されたが、国産の商船と違って図面が存在しなかったため難航。幸いな事に新田丸型貨客船はシャルンホルストを徹底研究して建造された言わば和製シャルンホルストだったため新田丸型と設計が酷似しており、現場で採寸しながら図面を書き直した。客室にあった鏡は皇室へ嫁がれる照宮成子内親王に献上されたという。シャルンホルストの船体は意外と大きく、大きさだけなら中型の飛龍に匹敵し、艦内も予想以上に広々としていたため関係者が困惑したという。
日独同盟が生んだ特異な商船改造空母
1943年
1943年10月7日、公試のため呉を出発して徳山で操舵公試を実施するが、翌日操舵公試中に主管が破裂する事故に見舞われ、呉に戻って修理を受ける。10月30日より公試を再開。11月1日に行われた全力公試では21.97ノットを記録した。現存している神鷹の写真はこの日に撮影されたと言われる。11月15日に改装工事を完了して海軍に引き渡されたが公試は続行。11月18日から終末公試が始まったが、2日後に再び主管が破裂する事故が発生し呉工廠で修理したのち、12月8日に終末公試をやり直して今度こそ完了。12月14日に発せられた艦本機密第141057番電で「機関を除く主要性能は良好、機関は不適につき適宜換装を要する」と報告された。
12月15日にようやく竣工扱いとなり軍艦神鷹と命名。舞鶴鎮守府警備艦に編入されて艤装員事務所を撤去、艦長には石井芸江大佐が着任する。書類上では大鷹型に分類されていたので奇しくもシャルンホルスト級に対抗して建造された八幡丸(雲鷹)や春日丸(大鷹)と肩を並べる事になった。
12月20日、大海指第313号により海上護衛総隊へ編入。軍令部は大鷹、雲鷹、海鷹、そして神鷹からなる4隻の特設空母を「航空基地の数が少なく、基地の相互距離も離れている横須賀・小笠原・サイパン方面での運用」を考えていたが、一応編入されたとはいえすぐに海上護衛任務へ投じられるような状況ではなかった。1942年4月10日の海上護衛隊創設以来、護衛艦艇の不足は常に付きまとった頭の痛い問題で、これに伴って空母自身の安全確保が出来ない懸念が神鷹の太平洋方面投入を躊躇させたのである。また空母搭乗員の練度も低く対潜任務はおろか自衛すらもままならない。空母用の護衛艦艇は割けないし、対潜掃討任務も満足に行えないから正直お荷物でしかないというのが海上護衛総隊側の率直な感想だったようで、参謀の江口英二大佐は「特設空母4隻の海上護衛司令部部隊配属は、余り歓迎出来ないというのが真相だった」と回想している。とはいえ満足出来る性能ではないにせよ特設空母4隻を海上護衛に回した海軍中央部の判断は、これまでの補給線軽視の姿勢からは想像出来ないほどの思い切った転換だった。
神鷹の場合、ひとまず改装工事が完了したものの機関の不調が多く低速だったため、とりあえず連合艦隊の指揮下に置いて航空機輸送任務への投入が決まり、飛行甲板に陸軍の百式司令部偵察機十数機を搭載するべく左舷中央に固定デリックを装備した。しかしドイツ製の最新式機関ワグナー式ボイラーと電気推進系統のターボエレクトリックが故障を頻発させ、帝國海軍を悩ませる。12月23日から30日まで因島造船所で整備を受けるも効果は無く、12月31日に呉へ戻って来た際に海軍側は機関の換装を決意したという。
1944年
機関に四苦八苦しながらも1944年1月8日午前8時30分、同じく商船改造空母である海鷹とともに南西方面へ届ける航空機を積載して呉を出港。護衛には駆逐艦響、薄雲、電が付いた。ところが不安視されていた主缶が当然のように故障してしまい翌日佐伯湾へ退避。修理の見込みが立たなかったため1月12日13時に海鷹と駆逐艦2隻は出発、神鷹は薄雲に付き添われて呉へ引き返した。次に連合艦隊は駆逐艦薄雲と玉波を護衛にした輸送任務を命じるが、1月19日に徳山沖で行われた試験航海の結果が芳しくなく、結局輸送は中止。
1月21日午前11時に徳山を発った神鷹は同日17時20分に呉へ帰港。広海軍工廠で陸上実験用に使われていた大型ロ号艦本式2基と、使い勝手の悪いワグナー式を換装する工事を受ける。だが完成後に機関を換装する事は容易な事ではなく、飛行甲板や格納庫等を突貫工事でこじ開け、ワグナー式を取り出してロ号艦本を挿入するという強引な方法で換装しなければならなかった。これに伴って復元性が悪化したため両舷にバルジを付けた結果、水中抵抗の増加を招いて最大速力が22ノット程度に低下している。2月11日に修理と工事を完了。呉方面での単独訓練を命じられ、2月13日午前8時に広島湾へ向けて呉を出港、2月18日より訓練を開始した。
緊張下の中でも乗組員は約8時間の睡眠を取る事が出来、呉在泊中は半舷上陸が認められ、また日曜日には遊戯やラジオの視聴といった娯楽も許可されているなど適切な勤務体制が出来ていた。艦内ではラムネの製造が可能で、腐敗の恐れがあるとして持ち込み禁止となっている甘味(まんじゅう等)の代わりになると思われたが、50本に1本の割合で蛆虫や不純物が混ざっていたため衛生上の問題で全て廃棄されてしまった。
5月23日から31日にかけて呉海軍工廠で入渠整備。出渠後、実戦投入に向けた準備が始まり、6月6日に呉工廠長が工事の情況を視察し、6月9日に弾薬類を積載。6月14日23時11分、海上護衛隊からマニラへ航空機を緊急輸送するよう命じられ、6月15日より作戦準備第二作業を開始。艦載機の着艦に使用する制動索の実験、宇佐航空隊との発着艦訓練、砲熕公試、マリアナ沖海戦の戦訓から25mm単装機銃12門の追加工事、機関公試などを行う。6月27日午前9時に呉を出港して佐伯湾にて爆弾と基地物件を積載。6月29日から7月5日にかけて第931航空隊の九七式艦攻14機を使って伊予灘で発着艦訓練に従事。並行して操艦訓練、砲煩公試、接艦訓練を行った。7月7日に呉へ寄港して出撃準備のための諸物資を詰め込む。
1回目の護衛任務
出撃準備を整えた神鷹はヒ69船団の護衛に加わるべく、7月9日午後12時25分に呉を出港、広島湾で輸送用の零戦5機と雷電8機を積載し、同日17時55分に岩国へ寄港。翌日出港して瀬戸内海を西進しながら対空射撃教練を行い、対潜哨戒部隊である第931航空隊の九七式艦攻14機を収容。15時に関門海峡の入り口である部崎に到着して仮泊する。そして7月11日午前6時55分、ヒ96船団の集結地となっている六連島沖に到着して合流。7月7日にサイパン島を失陥して以来、ヒ船団は南方産資源の輸送のみならずフィリピン方面への増援輸送も受け持つようになった。
7月13日16時20分、輸送船14隻からなるヒ69船団とともに六連を出港。護衛艦艇は練習巡洋艦香椎、海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、そして神鷹の計6隻だった。船団には大鷹と海鷹も加入しており、3隻合わせて零戦95機、雷電10機、月光9機、彗星5機、天山5機を輸送していたが、対潜哨戒機を持っていたのは神鷹だけで他2隻は護衛戦力となりえなかった。しかし空母が参加するという事実は船団関係者に心理的なプラス効果を与えた。7月16日15時12分、5海里先で浅沈している敵潜水艦を発見し、九七式艦攻と海防艦佐渡との共同攻撃により敵潜撃沈を報じた(該当艦無し)。翌日午前11時30分にも九七式艦攻が敵潜を発見して第13号海防艦と協同撃沈している(該当艦無し)。7月17日19時45分、高雄の左営泊地にて一時停泊。
7月18日午前2時25分、闇夜に紛れて左営を出発するも、間もなく米潜水艦ロック、タイルフィッシュ、ソーフィッシュからなるウルフパックに捕捉されてしまう。午前6時、浮上中のロックが2TL戦時標準型タンカーはりま丸目掛けて魚雷4本を発射。この雷撃は不成功に終わったが、次にソーフィッシュが9本の魚雷を発射し、機関不調で船団から脱落していたはりま丸に1本が命中して高雄へ退避。午前10時50分には対潜掃討中の第17号海防艦がタイルフィッシュの雷撃で大破させられて高雄に後退。2隻の艦船が脱落したものの何とかウルフパックを振り切り、ヒ69船団は7月20日20時11分にマニラへ寄港。7月22日、海鷹と大鷹が積み荷を降ろしている横で神鷹も輸送用飛行機を揚陸した。現地で船団の再編制が行われ、マニラへの輸送任務を終えた大鷹はヒ68船団に加わって内地帰投、海鷹もマモ船団護衛のためマニラにて留まる事になり、ヒ69船団に同行する空母は神鷹のみとなった。新たに第13号と第19号海防艦が護衛に加入。
7月25日午前5時45分、ヒ69船団を護衛してマニラを出発。7月27日、プロペラに触れて寺西政雄一等整備兵が戦死したため水葬。哨戒中の九七式艦攻1機が海面に不時着水してしまうも搭乗員は無事救助されている。南方海域は米潜水艦が跳梁跋扈していたが幸い敵襲は無く、7月31日17時36分に最終目的地のシンガポールへ到着。輸送船への被害皆無で見事護衛任務を完遂させた。船団の出港準備が整うまで日本本土向けの燃料や南方産資源を満載し、飛行甲板では海軍映画が上映されたという。編制変更で今度はシンガポールから内地に向かうヒ70船団(中身はヒ69船団のまま)を護衛する。新たな護衛戦力として内地帰投を命じられていた駆逐艦霜月が加わった。
8月4日21時、ヒ70船団を護衛してセレター軍港を出発。伴走者は練習巡洋艦香椎、駆逐艦霜月、海防艦佐渡、千振、第13号及び第19号海防艦であった。神鷹には霜月がボディーガードとして付き添う。太陽が昇ってからは積極的に哨戒機を飛ばして前路を警戒。乗組員は昼夜問わず見張りに立ち、灼熱の太陽に13時間以上身を焼かれながらも不眠不休で戦い続け、甲板上に青畳を敷いて臨時の仮眠所にするなど涙ぐましい努力を重ねた。内地で修理を受けるべくマニラから出港してきた軽巡洋艦北上(中破)が途中で船団に加入し、一緒に本土への帰還を目指す。8月12日午前8時15分、沖縄西方で九七式艦攻が敵潜水艦らしき艦影を2回発見して爆雷を投下。続いて佐渡と第13号海防艦も爆雷を投下し、神鷹は敵潜撃沈を報じる(該当艦無し)。この爆雷攻撃で佐渡が船団から大きく離れてしまったため単独で高雄に向かうよう命じられて離脱。此度の航海は至って平穏で一度も雷撃を受けなかった。
8月14日18時20分、ヒ70船団は有川湾に到着。見事船団の往来を成功へと導いてみせた。8月16日16時に呉へ回航された神鷹は艦載機を揚陸し、翌日より工廠に入渠して船体及び機関の整備と機銃の増備が行われた。疲労でよろよろになっていた乗組員には上陸が許可されて各々のんびりと羽を伸ばした他、飛行甲板では陸軍部隊と合同演芸会を開いて協調性を磨き、製造した2万7000本のラムネを酒保で販売するなど平和な一時が流れる。マニラで別れた大鷹が8月18日に撃沈されてしまったため対潜掃討を専門とする第31戦隊に転属。真夏の太陽が照り付ける中、8月18日から9月2日にかけて毎日30分間の遊泳を実施。帰艦した後は水浴も許可されている。
2回目の護衛任務
次の護衛任務に臨むべく9月5日に呉を出港。試運転をしながら佐伯湾を経由して伊予灘で訓練を行い、9月7日に門司へ回航されてシンガポール行きのヒ75船団と合流する。
9月8日、輸送船10隻からなるヒ75船団を護衛して門司を出撃。今回の護衛兵力は海防艦干珠、満珠、三宅、駆逐艦卯月、夕月であった。浅瀬で敵潜の待ち伏せがしにくく、また味方の援護が受けやすい大陸側の航路を選択し、中国大陸に沿って南下する。9月11日午前9時、東シナ海中部でヒ75船団の前路哨戒をしていた九七式艦攻が敵潜水艦を発見、直ちに駆逐艦卯月が派遣されて爆雷40発を投下し、撃沈を報告(該当艦無し)。夕刻、日没に伴って上空を哨戒していた九七式艦攻が続々と神鷹の飛行甲板に着艦。しかし、そのうちの1機が飛行甲板へ着艦した際にブレーキが利かず、やむなくそのまま飛び立とうとしたが今度はスピード不足で機首が上がらず海面へ不時着水してしまう。海防艦三宅が救助に向かい、回収用の左舷カッターを降ろす。海が荒れていて救助作業は困難を極めるも無事全員救助に成功した。9月12日朝、西貢丸、駆逐艦夕月、海防艦干珠が中国大陸側に向けて一時離脱し、17時30分には浅間丸がヒ75船団を離脱して基隆へ向かい、代わりに陸軍徴用船瑞穂丸が加入するはずだったが合流に失敗した。
攻撃を受ける事無く9月13日14時に高雄へ寄港、燃料補給を受ける。ここで一旦別行動を取っていた夕月のグループと合流し、船団の再編成により黒潮丸、大邦丸、富士山丸が加入し、第18号海防艦、水雷艇鵯、第28号掃海艇が護衛に加わった。
規模を大きくしたヒ75船団は9月14日16時30分に高雄を出港するが、今回の旅路は何かと不幸が相次いだ。まず出港直後にあまと丸が機関不調を訴えて脱落(5日後に合流)し、19時には雄鳳丸にエンジントラブルが発生するも何とか落伍を防ぐ。9月16日14時より天候が悪化して大雨による視界不良に陥り、23時30分、西沙諸島沖で海防艦干珠が操舵ミスでせりあ丸に衝突。乗組員1名が死亡したものの航海に支障は無かった。9月17日午前10時、マニラに向かう特設巡洋艦西貢丸、秋津洲、駆逐艦卯月、夕月が船団より離脱していったが、そちらのグループは米潜水艦フラッシャーの襲撃を受けて西貢丸が撃沈されている。9月18日午前10時40分、海防艦倉橋がヒ75船団の護衛に参加。9月19日から神鷹、黒潮丸、日栄丸、富士山丸、大邦丸が次々にエンジントラブルあるいは舵の故障に見舞われ、船団の隊形維持すら困難になるほど非常に脆弱な状態を晒け出した。翌20日になって各艦トラブルを抱えており、17時に第18号海防艦が護衛に加わるも、夕方から再び天候が悪化し始めて自然の猛威に翻弄される。
トラブル続発の割に敵襲が無かったため、9月22日13時にホースバーグ灯台を通過して東航路に入り、そして16時にシンガポールへ入港した。9月25日に神鷹は燃料の積載と物資の積み下ろしを行い、その間に搭載機によるマラッカ海峡やペナン沖の対潜掃討を実施したが戦果は無かった。
10月2日17時、タンカー9隻からなるヒ76船団を護衛して出港。護衛艦艇は神鷹、海防艦三宅、倉橋、干珠、満珠、第28号、水雷艇鵯で、神鷹を除くと海防艦と水雷艇だけになってしまった。出港直後にあまと丸がエンジントラブル、大邦丸に舵故障が発生してシンガポールに引き返す。10月8日午前2時11分、東シナ海にて米潜ベクーナが魚雷4本を発射し、2本が船団の最後尾を走っていた君川丸の右舷に命中して損傷、水雷艇鵯と第28号海防艦を伴ってマニラに退避した。三宅に対潜掃討命令が下るが闇夜のため視界が悪く、敵潜との接触を失って取り逃がしている。敵潜水艦の目を欺くためヒ76船団は一旦西沙諸島の西方への偽装航路を取った。この日、九七式艦攻の1機が神鷹への着艦に失敗して不時着。機体こそ投棄しなければならなかったが幸運にも爆発事故には至らず搭乗員も打撲程度で済んでいる。
10月10日、米機動部隊による沖縄空襲(十・十空襲)が発生したため、巻き添えを避けるべく翌11日15時に海南島三亜港へ避難。状況が改善されるまで待機を命じられる。10月16日午前4時25分にヒ76船団は出発。季節風により海が荒れ、各艦とも押し寄せる横波に翻弄される中、13時にたらかん丸の船首から漏水している事が発覚し、三亜へ引き返している。間もなく台湾沖航空戦が生起し、また10月17日午前4時20分には米機動部隊がフィリピンを攻撃しているとの情報が入ったため、同日深夜に海南島の楡林へ避難。マニラ空襲もあって同島にて待機する。リンガ泊地に進出中の栗田健男中将はタンカー確保のためヒ76船団に海防艦倉橋、第28号、日栄丸、良栄丸の4隻を供出するよう命じ、これらの艦船は海南島に待機させる事となった。10月18日17時30分、ヒ76船団はようやく出発して海南島を後にする。翌日午後、対潜哨戒中の九七式艦攻1機が行方不明となる。
10月21日16時、台湾海峡南方でB-24の触接を受け、大規模な空襲が予想されたためヒ76船団は分散。輸送船は馬公へ避難し、神鷹は単独で日本本土を目指して10月24日に佐伯湾に到着。第931航空隊の九七式艦攻11機を返還して10月25日に呉へと回航された。輸送船団も無事門司へ到着して事なきを得ている。10月27日から30日にかけて燃料、食糧、弾薬を補給し、11月1日に三号と四号主給水ポンプを修理。訓令により軽質油タンクの防御強化が施された。11月7日、呉を出港してフィリピン方面から戻ってきた隼鷹を出迎えた。
3回目の護衛任務
総力を挙げたレイテ沖海戦は敗北に終わったものの、地上での戦いはこれから始まろうとしていた。11月9日、ルソン島へ送る主力二個師団を乗せたヒ81船団の護衛を命じられ、佐伯基地から飛来した九七式艦攻14機が着艦。神鷹にも南方各地に赴任する便乗者約1200名が乗艦している。伊万里にて出港を待つヒ81船団と合流。二個師団が分乗する9000トン級輸送船5隻と、シンガポールまで重油を取りに行く1万トン級タンカー5隻の計10隻から編制されており、神鷹、駆逐艦樫、海防艦対馬、択捉、昭南、久米、大東、第9号、第61号が護衛する。しかしヒ81船団の出港は暗号解析によりアメリカ軍に把握され、2個ウルフパックが黄海に送り込まれた。
11月14日午前7時に六連沖を出港。船団は三列縦隊を組んで速力12ノットで航行し、神鷹は後方から九七式艦攻を盛んに発進させて前後左右の対潜哨戒を行う。艦上からは便乗者に二人六班体制で見張りを手伝って貰い厳重な監視を実施。玄界灘から五島列島西方を抜けて対馬沖を航行中、待ち伏せしていると思われる米戦艦の通信が多数傍受されたため、この日は長崎県宇久島で仮泊して危険な夜の航海を避けた。
11月15日午前6時20分、宇久島を抜錨。しかし対馬海峡を通過した時に敵潜に発見され、午前11時56分に白瀬灯台沖で米潜クイーンフィッシュが4本の魚雷を発射。左列中央にいた陸軍空母あきつ丸に2本が命中し、15mほどの水柱が高々と築かれ、誘爆により艦後部が爆砕。僅か3分で左側に転覆・沈没してしまった。神鷹艦内では戦闘配置を告げるラッパが鳴り響き、爆雷を装備した27機の九七式艦攻が発進。隊列から離脱した海防艦があちこちに爆雷を投下するなど緊迫した状況になったが、これ以上の攻撃は無かったため隊列を組み直す。日没以降は艦内哨戒第二配備となった。東シナ海は敵潜の巣窟と化している情報が入ったため、ヒ81船団は北方に針路を変えて済州島方面へと向かい、巨文島泊地へ避難。
11月17日午前8時、巨文島泊地を出発して上海方面へ向かうとともに九七式艦攻による対潜哨戒を開始。午後12時15分に1機のB-29が出現し、船団に向けて爆弾を投下してきたため神鷹の対空射撃と九七式艦攻で追い払う。しかしB-29が放った位置情報が米潜を適切な攻撃位置へと導く事となる。空から睨みを利かせている間はさすがの米潜も手出しが出来なかったが、哨戒機が飛ばせなくなる日没が目前に迫ってきたため、17時45分に「総員配置に就け」の艦内放送が流されてにわかに慌ただしくなる。18時、九七式艦攻全機を収容。空からの援護は全く受けられなくなった。その直後の18時12分、哨戒機がいなくなるのを待ちかねていたかのように米潜ピクーダが雷撃を行い、左舷前方の陸軍徴用船摩耶山丸が撃沈された。3000名以上の兵士が犠牲になったという。20時2分、海防艦択捉が摩耶山丸の生存者を救助しようとするが、あまりにも数が多かったため支援を要請し、昭南が駆け付けた。20時40分に昭南が敵潜水艦を探知して大東とともに爆雷30発を投下している。
そして次は神鷹の番だった。
獄炎に包まれた最期
1944年11月17日23時、ヒ81船団は神鷹に右45度方向に怪しい影があると報告し、神鷹は樫に掃討を命令。しかしその7分後、済州島西方で米潜水艦スペードフィッシュが右舷後方3700mから雷撃。6本もの雷跡を発見した見張り員がすぐさま絶叫、総員戦闘配置の号令が下るも、直後にズーンという天地を裂くような轟音が響いた。6本中4本が右舷に命中し、1本目は艦尾に直撃し積載していた航空燃料に誘爆、2本目はディーゼル発電機を破壊して艦内電力を喪失させ、3本目は輸送中の戦車を火の塊に変え、あっと言う間に艦の後部が猛火に包まれて航行不能に陥る。艦内では電力を喪失した影響で暗闇に呑まれ、消火ポンプの作動さえも不可能であった。
生き残った者は懐中電灯を片手に飛行甲板まで避難。既に10度ほど右舷へ傾斜しているせいか九七式艦攻数機が海へと滑り落ち、飛行甲板下の機銃座は炎に包まれ、あちこちで弾薬が誘爆を起こしている。貪欲なる炎は前部にある20万リットルを内包したガソリンタンクをも呑み込もうとし、もしここが誘爆すれば乗組員や便乗者全員が助からないだろう。被雷から10分後に総員退艦が発せられて次々に海へと飛び込む。「天皇陛下万歳!」「神鷹万歳!」の声が何処からか聞こえてくる。やがて段々と傾斜が激しくなって甲板上に立っていられなくなり、被雷から30分後、右へ傾きながら艦首を上にして沈没していった。波間に漂う生存者たちに更なる災難が襲い掛かる。11月の東シナ海は極寒とは言わずとも命を奪いかねないほど冷たく、また浮上した米潜水艦が生存者に向けて機銃掃射を仕掛けてきたため次々に命を落としていった。海に広がった重油に引火して周囲を炎に嘗め尽くされた事も生存者減少と一因となっている。駆逐艦樫と海防艦昭南が下手人を探して爆雷を投下。
11月18日午前2時20分、第61号海防艦が神鷹の沈没地点を探すよう命じられ、午前3時15分には対馬が爆雷15発を投下し、午前4時26分に燃料や破片が浮いているのを発見して撃沈を報告した。地獄のような漂流を経て駆逐艦樫と海防艦久米が救助に現れ、樫は42名、久米は19名を救助。彼らは上海の海軍病院に収容された。
石井艦長以下1100名が戦死、生存者は僅か60名だったという。1945年1月10日、除籍。
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