神鷹(しんよう)とは、大日本帝国海軍に所属した航空母艦の1隻である。ドイツの商船シャルンホルストを購入して空母に改造したもので、1943年12月15日改装完了。ヒ船団の護衛に参加した。3回目の護衛任務で敵潜の雷撃を受け、1944年11月17日に戦没。短命に終わった。
概要
神鷹はその名の通り、神の鷹を意味する。他の候補名に飛隼があった。
神鷹は日本生まれではなく、元々は北ドイツロイド汽船の東洋航路貨客船シャルンホルストであった。日本への来訪時に第二次世界大戦が勃発したため本国へ戻れず抑留されていたが、太平洋戦争時に日本海軍がミッドウェー海戦によって正規空母を失うと、空母不足を解消するためにドイツとの交渉の上購入。空母へと改造された。南方航路を往来する輸送船団の護衛に充てられたが、1944年11月17日に米潜水艦スペードフィッシュの雷撃を受けて沈没した。
搭載機は零戦21機、補用機3機、九六式艦攻6機の計30機。飛鷹型を除く商船改造空母の中では最大級の船体を誇り、航空機に限れば祥鳳型に匹敵するスペックだった。相次ぐ不調でワグナー式ボイラーを取り外さなければならなかったが、もし機関換装をしなかった場合は艦隊随伴も可能な攻撃型空母となりえた。ただし航続距離には不安を抱えていた(18ノットで6900海里)。要目は排水量2万716トン、出力2万6000馬力、最大速力22ノット、燃料2771トン、全長198.64m、全幅25.6m、飛行甲板全長180m、飛行甲板全幅24.5m。外国の商船を空母化したケースは、神鷹ただ1隻のみである。
艦歴
シャルンホルスト時代
1934年5月3日、ヤード番号891の仮称を与えられてデジマーク社ブレーメン造船所で起工。船には高温高圧を誇る新型のワグナー式ボイラーが試験的に搭載された。ドイツ海軍の要請で、主力艦に使用する前に民間客船でテストしようとした訳である。他にも先進的な電気推進機を搭載しており、最新鋭技術の塊と言えた。同年12月4日に進水し、シャルンホルストと命名。そして1935年4月30日に竣工した。ナチス政権下で初めて誕生した豪華客船だった事から竣工式にはヒトラー総統、ゲーリング国家元帥、レーダー海軍大将などの要人が列席し、各国の報道機関も記事にするなど内外問わず注目を集めた。洗礼は通信大臣が行った。多くの人々に祝福されて誕生したシャルンホルストは船籍地をブレーメンとし、船主は北ドイツ・ロイト社となった。同型船にポツダムとグナイゼナウが存在し、その美しさから「欧州航路の貴婦人」と呼ばれた。シャルンホルスト級3隻は極東航路に就役し、21ノット(39km/h)の快足を発揮できたため極東航路最速を誇った。
1935年5月3日から処女航海を開始し、ハンブルクを出発。ブレーメンを経由して横浜に来訪した。シャルンホルスト級の就役は1940年に東京オリンピックを控える日本に大きな衝撃を与え、造船技術に水をあけられた日本郵船は新たに新田丸、八幡丸、春日丸の建造に着手した。1936年2月3日よりブレーメン=横浜間の極東航路に就く。ハンブルク、ブレーメン、アントワープ、サザンプトン、ゼノア、ポートサイド、スエズ、コロンボ、シンガポール、マニラ、香港、上海、神戸と各地の主要港を経由し、終着点の横浜に寄港。片道約3万kmの道のりを往来する。1937年8月13日の第二次上海事変により、支那事変が勃発。たまたま極東から欧州に戻る途上だったシャルンホルストは日本軍機の攻撃で撃沈された中国漁船の船員を救助し、9月26日に香港へ連れ帰った。1938年からは寄港先に上海が加えられた。上海では移民ビザが不必要であり、ドイツとオーストリアから追放したユダヤ人の受け入れ先にする意図があった。
しかし風雲急を告げる情勢は、突如としてシャルンホルストの運命を大きく狂わせてしまうのだった。
1939年7月、シャルンホルストは極東に向かうためハンブルクを出港。これが祖国との今生の別れになってしまった。8月16日、神戸港を出発。シンガポールと上海を経由し、次の寄港地マニラへ向かっていた8月26日、ドイツ本国から「最寄の中立港に入れ」という緊急通信が入った。欧州では第二次世界大戦の開戦が眼前に迫っており、帰国途中でイギリス軍に拿捕される事を恐れたためとされる。このためシャルンホルストは一旦神戸港へ引き返し、9月1日に入港した。そして9月3日に英仏連合軍はドイツに対し宣戦布告、第二次世界大戦の勃発によって完全に帰国が不可能になり、給油すらままならないシャルンホルストは神戸港に抑留される事になる。乗組員は中立条約によって国交があったソ連を通じて何とか本国へと戻った。ちなみに姉妹船ポツダムとグナイゼナウはドイツに所在し、離れ離れになった。9月8日、日本政府は神戸港に留め置かれているシャルンホルストを購入したいとロイド汽船に打診。しかしシャルンホルストの船主はロイド汽船から東京のドイツ大使館へ移っており、ロイド汽船の一存で決められる状況ではなかった。9月19日、ロイター通信は「シャルンホルストが仮装巡洋艦に改装されている」と報じたが、これは誤りだった。
しばらく浮いているだけの日々が続いていたが、1941年12月8日に大東亜戦争が勃発。当初は軍用輸送船としてドイツ政府から購入する予定であり、1942年2月7日に戦後ロイド汽船へ金額(船価の2倍)を支払う約束でシャルンホルストを購入。しかし、6月5日に生起したミッドウェー海戦により正規空母4隻を失った帝國海軍は空母の調達が急務となるが建造中の正規空母は大鳳だけであり、1942年及び1943年中に就役する空母に至っては1隻も無かった。そこで大型商船の空母改装を促進する決断を下し、シャルンホルストも1943年中に空母化する事に。6月12日に神戸から呉へと回航され、6月30日に第1004号艦として空母への改装が正式に決まった。7月2日、船主を海軍省へ移し、正式に買い取り成立。異説として、日米開戦に伴って売却され1942年4月の時点で既に空母化が内定していたとするものがある。また戦争勝利後はドイツに返還する約束も付随していたとか。完成時期未定ながら、空母改装予定艦に指定され、艤装や装備については在庫のあるものを流用。足りないものは製造という形を取った。
シャルンホルストの改装は、優秀船舶を多数持ちながらも空母に関心を払わないドイツ海軍に模範を示す意味合いが含まれていたとする。
ともあれ1942年9月21日、冲鷹が出渠したばかりの乾ドックに入渠。建造中止で解体された大和型4番艦(紀伊)の資材を流用して呉工廠で改装が始まった。大鷹型に準じた改造が施されたが、国産の商船と違って図面が存在しなかった事から難航。一応、新田丸型客船と設計が酷似していたので、現場で採寸しながら図面を書き直した。格納庫を二段式にする予定だったが、これを泣く泣く中止。工期優先のため、簡略化が徹底された。客室にあった鏡は、皇室へ嫁がれる照宮成子内親王に献上されたという。シャルンホルストの船体は意外と大きく、大きさだけなら飛龍に匹敵した。艦内も予想外に広々としていて、関係者を困惑させた。復元力が不足していたので、外舷にバルジを装備。多量の液体を入れて喫水の増加を図った。
1943年10月7日、公試のため呉を出発して徳山で操舵公試を実施。ところが翌8日、操舵公試中に主管が破裂する事故に見舞われ、呉に戻って修理を受ける。10月30日より公試を再開し、11月1日に改装工事を完了。同日中に行われた全力公試では21.97ノットを記録した。現存している写真はこの日に撮られたとされている。11月15日に海軍への引き渡し式が行われたが、公試は続けられた。11月18日に終末公試を実施し、翌19日からは航空兵装と電探の公試を実施。しかし11月20日に主管がまた破裂する事故が発生し、呉で再度修理を受けた。12月8日に終末公試をやり直し、翌9日に呉へ入港。12月14日に発せられた艦本機密第141057番電で「機関を除く主要性能は良好、機関は不適につき適宜換装を要する」と報告された。
大鷹型航空母艦神鷹
1943年
1943年12月15日竣工。舞鶴鎮守府警備艦に編入され、艤装員事務所は撤去された。書類上では大鷹型に分類されており、奇しくもシャルンホルスト級に対抗して建造された新田丸(雲鷹)や春日丸(大鷹)と肩を並べて戦う事になった。艦長には石井芸江大佐が着任し、軍艦神鷹と命名。神鷹は水上機母艦神威に次ぐ帝國海軍2隻目の電気推進艦で、マイヤー型船型を持つ唯一の日本艦となった。改装工事が完了したものの、機関の不調が多かったため、とりあえず航空機輸送に限定して任務に就かせる事にした。
12月20日、大海指第313号により海上護衛総隊へ編入。しかしドイツ製の最新式機関ワグナー式ボイラーと電気推進系統のターボエレクトリックが足を引っ張った。この機関は試験的に導入されたもので、技術大国ドイツでも故障に手を焼く問題児であった。機関後進国の日本にそんなじゃじゃ馬が扱えるはずが無く、頻発する故障に頭を悩ませた。このため翌21日に呉を出港し、12月23日から30日まで因島造船所に入渠。いきなり整備を受けている。12月31日に呉へと戻ってきたが、この時に海軍側は機関の換装を決意したという。
1944年
年が変わって1944年1月8日、空母海鷹とともに南西方面へ輸送する航空機を搭載して出港。駆逐艦3隻の護衛を受けて航行していたが、不安視されていた主缶が故障し、翌日に佐伯へ帰投する羽目に。次に連合艦隊は駆逐艦薄雲と玉波を護衛とした輸送任務を命じたが、1月19日に徳山沖で行われた試験航海の結果が芳しくなく、結局実行されなかった。1月21日午前11時に徳山を発ち、17時20分に呉へ戻ってきた神鷹は、広海軍工廠にあった陸上実験用の大型ロ号艦本式2基と、性能は高いものの使い勝手が悪かったドイツ製ボイラーを換装する工事を受ける事に。飛行甲板や格納庫等を突貫工事でこじ開け、ロ号艦本を挿入。復元性が悪化したため両舷にバルジを付けた結果、水中抵抗の増加を招いて最大速力が22ノット程度に低下した。2月21日、修理と工事を完了。呉方面での単独訓練を命じられた。
5月23日から31日にかけて呉海軍工廠で入渠整備。出渠後、実戦投入に向けた準備が始まり、6月9日に弾薬類を搭載。6月15日、63機のB-29が北九州を初空襲し、呉鎮守府管区にも警戒警報が発令された。強い緊張の中、作戦準備第二作業を開始。6月17日には艦載機の着艦に使用する制動索の実験を実施、6月20日に爆弾を積載した。マリアナ沖海戦の戦訓により対空能力の強化が求められ、6月23日に25mm単装機銃12門を追加。6月26日午前8時に呉を出港し、19時27分まで機関の公試を実施。翌27日午前9時に呉を発って佐伯湾へ移動し、爆弾と基地物件を積載。6月29日から7月5日にかけて第931航空隊の九七式艦攻14機を使って伊予灘で発着艦訓練に従事。並行して操艦訓練と砲煩公試と接艦訓練を行った。7月6日に広島湾へ戻り、翌日呉に寄港して出撃準備のための諸物資を詰め込んだ。
出撃準備を整えた神鷹はシンガポール行きのヒ69船団の護衛任務を命じられ、7月9日午後12時25分に呉を出港。広島湾にて輸送用の零戦5機と雷電8機を積載し、同日中に岩国へ回航。7月10日、岩国を出港して西進しながら対空射撃教練を実施し、九七式艦攻12機を収容。関門海峡の入り口である部崎に到着して仮泊した。7月11日午前4時30分、部崎を出港。午前6時55分にヒ69船団の集結地となっている六連島沖に到着した。7月7日にサイパン島を失陥して以来、ヒ船団は南方産資源の輸送のみならずフィリピン方面への増援輸送も受け持つようになった。
1回目の護衛任務
7月13日16時20分、輸送船14隻からなるヒ69船団とともに六連を出港。護衛艦艇は練習巡洋艦香椎、海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、そして神鷹の計6隻だった。船団には大鷹と海鷹も加入しており、3隻合わせて零戦95機、雷電10機、月光9機、彗星5機、天山5機を輸送。ただし海鷹と大鷹はルソン島向けの航空機を満載していたため、神鷹だけが対潜用の九七式艦攻14機を搭載。船団の哨戒と対潜を担った。
7月16日15時12分、浅沈している敵潜水艦を発見し、対潜哨戒用の九七式艦攻を発進。海防艦佐渡との共同攻撃により敵潜撃沈を報じた。翌17日19時45分、経由地の高雄へ寄港。7月18日午前2時25分に出港するも、間もなく米潜水艦ロック、タイルフィッシュ、ソーフィッシュからなるウルフパックに捕捉されてしまう。まず最初に機関不調で落伍した2TL戦時標準型タンカーはりま丸が標的にされ、午前10時50分に対潜掃討中の第17号海防艦がタイルフィッシュの雷撃で大破し、高雄に回航された。敵潜の包囲網を突破したヒ69船団は、7月20日21時にマニラへ入港。7月22日、海鷹と大鷹が積み荷を降ろしている横で神鷹も輸送用飛行機を揚陸した。現地で船団の再編制が行われ、マニラへの輸送任務を終えた大鷹はヒ68船団に加わって内地帰投する事になり、海鷹もマモ船団護衛のためマニラに留まる事になった。したがって、ヒ69船団を守る空母は神鷹ただ1隻のみとなった。2隻の空母が抜けた代わりに第13号と第19号海防艦が護衛に加わった。
7月25日午前5時30分、ヒ69船団を護衛してマニラを出港。南方海域は米潜水艦が跳梁跋扈する魔の海域だったが、敵襲を受ける事無く7月31日17時45分に最終目的地のシンガポールへ到着。輸送船への被害皆無で護衛任務を完遂させた。船団の出港準備が整うまで、現地で日本へ持ち帰るための重油や南方産資源を積み込んだ。ヒ69船団は若干の編制変更を行い、ヒ70船団に改名。
8月4日21時、ヒ70船団を護衛して出港。伴走者は練習巡洋艦香椎、駆逐艦霜月、海防艦佐渡、千振、第13号及び第19号海防艦であった。道中でマニラから出港してきた軽巡洋艦北上(中破)が船団に加入し、本土への帰還を目指す。8月12日、神鷹は敵潜撃沈を報じる(該当艦無し)。8月15日14時30分、ヒ70船団は門司に到着。見事初任務と往復を成功させた。8月16日に呉へと回航された神鷹は翌17日より呉工廠に入渠。船体と機関を整備するとともに機銃の増備が行われた。入渠中の8月18日に大鷹が撃沈されてしまったため、対潜掃討を専門とする第31戦隊に転属。8月31日に爆弾の搭載が行われた。
9月5日に呉を出港し、試運転をしながら佐伯湾を経由して伊予灘で訓練に従事。9月7日、門司に回航され、出発を待つヒ75船団と合流した。
2回目の護衛任務
9月8日、ヒ75船団とともに門司を出港。海防艦干珠、満珠、三宅、駆逐艦卯月、夕月とともに輸送船10隻からなる船団を護衛し、中国大陸に沿って南下を開始する。9月12日夕刻、浅間丸がヒ75船団より離脱して基隆に向かい、代わりに陸軍徴用船瑞穂丸が加入するはずだったが、合流に失敗した。9月13日、高雄に寄港。船団の再編成により黒潮丸、大邦丸、富士山丸が加入し、第18号海防艦、水雷艇鵯、第28号掃海艇が護衛に加わった。規模を大きくしたヒ75船団は9月14日に出港。しかし神鷹、干珠、輸送船7隻が相次いで機関の不調を訴えたり、せりあ丸と干珠と富士山丸が衝突事故を起こすなどトラブルが続出する。9月17日、マニラに向かう特設巡洋艦西貢丸、秋津洲、駆逐艦卯月、夕月が船団より離脱。幸い敵襲だけは無く、9月22日16時にシンガポールへ到着。9月25日、神鷹は燃料の積載と物資の積み下ろしを行った。停泊中も九七式艦攻を発進させて周囲の対潜哨戒を行ったが、戦果は無かった。
10月2日17時、タンカー9隻からなるヒ76船団を護衛して出港。しかし10月8日未明、米潜ベクーナの雷撃を受けて君川丸が被雷損傷。水雷艇鵯と第28号海防艦を伴ってマニラに向かった。沖縄を狙った十・十空襲から逃れるため、10月11日に海南島三亜港へ避難。脅威が去った10月16日午前4時25分に出発したが、今度は台湾沖航空戦が生起。付近に米機動部隊が存在して危険と判断し、反転して楡林に避難。米機動部隊によるマニラ空襲もあり、10月18日まで待機する。捷一号作戦によりブルネイに進出していた栗田艦隊からの命令で、海防艦倉橋、第28号、日栄丸、良栄丸は海南島に待機。残りは本土を目指して出港した。しかし米機動部隊は既にフィリピン近海や南シナ海にまで侵入しており、10月21日に台湾海峡南でB-24の触接を受ける。攻撃を避けるべく、翌22日に神鷹はヒ76船団から分離して単独先行。かろうじて虎口から脱出し、10月24日に佐伯湾に入港。航空機と隊員を乗せ、翌25日に出発。呉へと回航された。一日遅れてヒ76船団も無事門司へ到着した。
10月27日から30日にかけて燃料、食糧、弾薬を補給。訓令により軽質油タンクの防御強化が施された。11月1日に三号と四号主給水ポンプを修理。11月7日、呉を出港し、フィリピン方面から戻ってきた隼鷹の援護を実施した。
3回目の護衛任務
11月9日、神鷹はルソン島へ増援を送るヒ81船団の護衛を命じられ、佐伯基地から飛来した14機の九七式艦攻が神鷹に着艦した。続いて伊万里に回航し、ヒ81船団と合流。南方各地に赴任する便乗者が乗り込み、総勢約1200名が神鷹に乗艦していた。護衛対象の9000トン級輸送船5隻には、窮地のフィリピンへ送る主力二個師団が分乗。
11月14日午前7時に六連を出港。三列縦隊となり、速力12ノットで航行。玄界灘から五島列島の西方に出た。神鷹は船団の後方につき、九七式艦攻を盛んに発進させて前後左右に対潜哨戒を行った。便乗者の手を借り、二人六班体制で見張りをしてもらった。対馬沖を航行中、待ち伏せしていると思われる米戦艦の通信が多数傍受されたため、この日は長崎県宇久島で仮泊し、危険な夜の航海を避けた。しかしこの時点で既にレイテ沖海戦に敗北し、制海権の大半は連合軍に奪取されていた。それを証明するかのように対馬海峡を通過した時に米潜水艦に捕捉される。さらに翌15日正午、白瀬灯台沖で米潜クイーンフィッシュの雷撃で陸軍空母あきつ丸が被雷沈没。神鷹艦内に戦闘配置を告げるラッパが鳴り響き、慌しくなる。隊列から離れた海防艦が動き回り、必死に爆雷を投射していたが効果不明。一度崩れた隊列を整え、日没以降は艦内哨戒第二配備となった。厳重な警戒のもと、ヒ81船団は漆黒の海をゆく。これを皮切りに悲劇の幕が開いた。
東シナ海は敵潜水艦の巣窟と化している情報が入ったため、船団は針路を変更して済州島方面へと向かい、巨文島泊地へ避難。神鷹から矢継ぎ早に九七式艦攻が発進し、磁探機を使って敵潜捕捉に務めた。恐怖の夜は明け、翌16日午前8時に出発した。だが、敵の魔手は船団を掴んで離さない。いつものように九七式艦攻を発進させ、対潜哨戒を実施する神鷹。だが哨戒機を飛ばせなくなる日没を狙って、暗殺者が動き出した。11月17日18時12分、米潜ピクーダの襲撃により左舷前方の陸軍徴用船摩耶山丸が撃沈された。雷跡を発見した時にはもう手遅れだった。
そして次は神鷹の番だった。
最期
1944年11月17日23時7分、済州島西方で米潜水艦スペードフィッシュが右舷後方3700mから雷撃。10本の雷跡を発見した見張り員が絶叫し、総員戦闘配置の号令が下る。その直後にズーンという天地を裂くような轟音が響いた。10本中4本が命中し、積載していた航空燃料に引火。あっと言う間に艦の後部が猛火に包まれてしまう。真夜中にも関わらず、周囲の船団を赤々と照らした。艦内の電力は消失し、暗闇に飲まれた。生き残った者は懐中電灯を手にし、飛行甲板へと上った。既に10度ほど傾斜しており、九七式艦攻が何機か滑落していった。踊る火の手は、前部にある20万リットルを内包したガソリンタンクにまで及ぼうとしていた。飛行甲板の下にある機銃座も炎に包まれ、あちこちで弾薬に引火している。まさに地獄絵図だった。乗組員や便乗者は、隙を見て海へと飛び込む。「天皇陛下万歳!」「神鷹万歳!」の声が何処からか聞こえてくる。
やがて神鷹にも最期の時が来た。被雷から30分、右へ傾きながら艦首を上にして沈没していった。「さよなら、神鷹!」と叫ぶ声が聞こえる。周囲では味方の艦が爆雷を投射している。しかし浮上してきた敵潜水艦は海上の生存者に向けて発砲し、その数を減らした。殺戮劇から生き残った者には、11月の極寒が襲い掛かった。凍死したり、溺死する者が続出し、犠牲者が拡大。海に広がった重油に引火し、炎が周囲を嘗め尽くした事も生存者を激減させる要因となった。地獄のような漂流を経て、ついに駆逐艦樫と海防艦久米が救助に現れた。樫は42名、久米は19名を救助したとされる。彼らは上海の海軍病院に収容された。
石井艦長以下1100名が戦死、生存者は僅か60名だったという。1945年1月10日、除籍。
関連項目
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