神鷹単語

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神鷹(しんよう)とは、大日本帝國海軍が運用した商改造空母の1隻である。ドイツシャルンホルスト装したもので1943年11月15日に就役。ヒ船団の護衛任務に従事した。1944年11月17日、3回の護衛任務中に東シナで敵潜スペードフィッシュから撃を受けて戦没。

概要

艦名の神鷹は文字通り「」を意味する。他の補名には「飛」があった。

神鷹は実に特異な商改造空母である。元々は北ドイツロイドの東洋航路貨客シャルンホルストで、日本へ寄港中に第二次世界大戦が勃発した事で本に戻れなくなり、長らく神戸港内で放置されていたところ今度は大東亜戦争が勃発。ドイツ政府と交渉した上で帝國海軍が購入、空母装工事を受けた。このため神鷹の誕生は本来予定にいものだった。

ドイツ海軍艦へ搭載する前に、新ワグナー式ボイラー電気推進系統のターボエレクトリックの性調を行うべくシャルンホルスト実験にしていたため、今までにい最先端の技術が多数盛り込まれていた。ワグナー式ボイラーは確かに高出だがドイツでさえ手を焼く扱いの難しい機関であり、帝國海軍でも手に余るものと判断され、結局機関を自のものに換装している。神鷹は帝國海軍一のマイヤー水上機母艦神威以来の電気推進を持つ極めて特殊な艦と言えた。

装するにあたってドイツから図面を入手する時間がかったため海軍で実測を済ませ、建造中止になった大和戦艦4番艦の資材を流用。体の上甲より上の構造物を撤去し、その5m上方に飛行甲を設置、上甲と飛行甲の間を航空機格納庫とした。格納庫を二段式に出来るだけの巨体を有していたが工期短縮のため一段式としている。一連の装で重心が高くなり復原も低下してしまったため舷外にバルジを装着したが速の低下を招いた。搭載機は零戦21機、補用機3機、九六式艦攻6機の計30機。飛鷹を除くと商改造空母の中では最大級の体を誇り、航空機に限れば祥鳳に匹敵するスペックだった。相次ぐ不調でワグナー式ボイラーを取り外さなければならなかったが、もし機関換装をしなかった場合は艦隊随伴も可な攻撃空母となりえるなど、潜在的な性は高かったと言える。弱点は航続距離の短さ(18ノットで6900里)。

排水量1万7500トン、全長198.64m、全幅25.6m、飛行甲全長180m、飛行甲全幅24.5m、最大速22ノット、燃料搭載量2771トン、出2万6000、乗組員834名。武装は12.7cm連装高4基、25mm三連装機10基。外の商空母化したケースは神鷹ただ1隻のみである。

艦歴

シャルンホルスト時代

1934年5月3日、ヤード番号891の仮称でデジマークブレーメン所で起工。ドイツ海軍からの要請でには高温高圧を誇る新ワグナー式ボイラー電気推進器が試験的に搭載された。同年12月4日進水式を迎え、プロイセン軍のゲルハルト・フォン・シャルンホルスト将軍から名前を取ってシャルンホルストと命名される。そして1935年4月30日工を果たす。国家社会主義ドイツ労働者党政権下で初めて誕生しただった事から工式にはヒトラー総統、ゲーリング国家元帥レーダー海軍大将など重鎮が参列し、各報道機関工を記事にして内外問わず注を集めた。洗礼は通信大臣が行っている。国家の大きな期待を背負って誕生したシャルンホルスト籍地をブレーメンに定め、姉妹のポツダムグナイゼナウとともに北ドイツロイドの極東航路に就役。その美しさから「欧州航路の貴婦人」と呼ばれた他、21ノット(39km/h)の快足を発揮出来たため極東航路最速を誇り、今まで50日を要していたブレーメン上海間の往来を34日に短縮。熱帯の気に合わせた調設備により快適な約束された。

1935年5月3日ハンブルクを出港して処女を開始。シャルンホルスト処女新聞報道され、彼女の就役により新たな寄港地にパルマ・デ・マヨルカナポリが追加。またシャルンホルスト級の就役は1940年東京オリンピックを控える日本に大きな衝撃を与え、造技術にをあけられた日本郵船は新たに新田丸、八幡丸、春日丸の建造に着手するなど世界中に衝撃を及ぼした。

1936年2月3日よりブレーメン横浜間の極東航路に就く。ハンブルクブレーメンアンワープサザントンゼノア、ポートサイドスエズ、コロンボ、シンガポール、マニラ香港上海神戸と各地の要港を経由し、終着点の横浜に寄港。片約3万kmののりを往来する。しかし1937年8月13日に生起した第二次上海事変をきっかけに日事変が始まり、極東方面に暗が立ち込めるようになる。極東から欧州に戻る途上だったシャルンホルスト日本軍機の攻撃で撃沈された中国員を発見・救助し、9月26日に寄港した香港で降ろしている。1938年からは寄港先に上海が追加。上海では移民ビザが不要のためドイツオーストリアから逃げ出してきたユダヤ人の逃走ルートに使用された。

しかし風雲急を告げる情勢は、突如としてシャルンホルスト運命を大きく狂わせてしまうのだった。

1939年7月シャルンホルストは極東に向かうためハンブルクを出港するが、祖国との今生の別れになってしまった。8月16日神戸港を出発し、シンガポール上海を経由して次の寄港地マニラへと向かっていた8月26日ドイツから「最寄りの中立港に入れ」という緊急通信が入った。欧州では第二次世界大戦の開戦が眼前に迫っており、帰途中でイギリス軍に拿捕される事を恐れたためだった。通信を受けたシャルンホルストは引き返して9月1日神戸へと入港。そして9月3日に英連合軍がドイツ宣戦布告して第二次世界大戦が勃発。シンガポールオーストラリアインド洋、スエズ、地中海など帰路の大半が連合軍の勢圏下に収まり、帰全に不可能となってしまう。乗組員は中立条約によって交があったソ連シベリア鉄道を使って帰出来たが、給油すらままならなくなったシャルンホルスト神戸で抑留。ドイツ所在姉妹とも離れ離れになった。9月8日日本政府神戸港に留め置かれているシャルンホルストを購入したいとロイドに打診するが、シャルンホルストロイドから東京ドイツ大使館へ移っており、ロイドの一存で決められる状況ではなかった。9月19日にはロイター通信が「シャルンホルスト仮装巡洋艦装されている」と報じた(誤報)。


神戸抑留から2年が経過した1941年12月8日大東亜戦争が勃発。当初帝國海軍は軍用輸送として運用する予定であり、1942年2月7日戦後ロイド額(価の2倍)を支払う約束シャルンホルストを購入。しかし6月5日に生起したミッドウェー海戦により正規空母4隻を失ったため空母の調達が急務となるが、現在建造中の正規空母大鳳だけであり、1942年及び1943年中に就役する空母に至っては1隻もかった。そこで大空母装を促進する事とし、1943年7月末までの完成してシャルンホルスト空母化が決定。6月12日神戸からへと回航され、6月30日に第1004号艦の仮称で装が正式に決まり、7月2日海軍省へ移譲。装や装備については在庫にあるものを流用、足りないものは製造という形を取った(異説として日開戦に伴って売却され1942年4月の時点で既に空母化が内定していたとも。戦争勝利後はドイツに返還する約束も付随していた)。またシャルンホルスト装は優秀船舶を多数持ちながらも、空母に関心を払わないドイツ海軍に模範を示す意味合いが含まれていた。

1942年9月21日冲鷹が出渠したばかりのドックに入渠。建造中止で解体された大和4番艦(紀伊)の資材を流用して装が始まった。大鷹に準じた改造が施されたが、産の商と違って図面が存在しなかったため難航。幸いな事に新田貨客シャルンホルスト研究して建造された言わば和製シャルンホルストだったため新田と設計が酷似しており、現場で採寸しながら図面を書き直した。客室にあった皇室がれる照宮成子内王に献上されたという。シャルンホルスト体は意外と大きく、大きさだけなら中飛龍に匹敵し、艦内も予想以上に広々としていたため関係者が困惑したという。

日独同盟が生んだ特異な商船改造空母

1943年

1943年10月7日試のためを出発して徳山で操試を実施するが、翌日操試中に管が破裂する事故に見舞われ、に戻って修理を受ける。10月30日より試を再開。11月1日に行われた全試では21.97ノットを記録した。現存している神鷹の写真はこの日に撮されたと言われる。11月15日装工事を了して海軍に引き渡されたが試は続行。11月18日から終末試が始まったが、2日後に再び管が破裂する事故が発生し修理したのち、12月8日終末試をやり直して今度こそ了。12月14日に発せられた艦本機密第141057番電で「機関を除く要性は良好、機関は不適につき適宜換装を要する」と報告された。

12月15日にようやく工扱いとなり軍艦神鷹と命名。舞鶴鎮守府警備艦に編入されて装員事務所を撤去、艦長には石井芸江大佐が着任する。書類上では大鷹に分類されていたので奇しくもシャルンホルスト級に対抗して建造された八幡丸(雲鷹)や春日丸(大鷹)と肩を並べる事になった。

12月20日、大313号により上護衛総隊へ編入。軍部は大鷹雲鷹海鷹、そして神鷹からなる4隻の特設空母を「航空基地の数が少なく、基地の相互距離も離れている横須賀小笠原サイパン方面での運用」を考えていたが、一応編入されたとはいえすぐに上護衛任務へ投じられるような状況ではなかった。1942年4月10日上護衛隊創設以来、護衛艦艇の不足は常に付きまとった頭の痛い問題で、これに伴って空母自身の安全確保が出来ない懸念が神鷹の太平洋方面投入をさせたのである。また空母搭乗員の練度も低く対潜任務はおろか自衛すらもままならない。空母用の護衛艦艇は割けないし、対潜掃討任務も満足に行えないから正直お荷物でしかないというのが上護衛総隊側の率直な感想だったようで、参謀の江口英二大佐は「特設空母4隻の上護衛部隊配属は、余り歓迎出来ないというのが相だった」と回想している。とはいえ満足出来る性ではないにせよ特設空母4隻を上護衛に回した海軍中央部の判断は、これまでの補給線軽視の姿勢からは想像出来ないほどの思い切った転換だった。

神鷹の場合、ひとまず装工事が了したものの機関の不調が多く低速だったため、とりあえず連合艦隊揮下に置いて航空機輸送任務への投入が決まり、飛行甲陸軍百式司令部偵察機十数機を搭載するべく左舷中央に固定デリックを装備した。しかしドイツ製の最新式機関ワグナー式ボイラー電気推進系統のターボエレクトリックが故障を頻発させ、帝國海軍を悩ませる。12月23日から30日まで因所で整備を受けるも効果はく、12月31日へ戻って来た際に海軍側は機関の換装を決意したという。

1944年

機関に四苦八苦しながらも1944年1月8日午前8時30分、同じく商改造空母である海鷹とともに南西方面へ届ける航空機を積載してを出港。護衛には駆逐艦、薄、電が付いた。ところが不安視されていた缶が当然のように故障してしまい翌日佐伯湾へ退避。修理の見込みが立たなかったため1月12日13時海鷹駆逐艦2隻は出発、神鷹は薄に付き添われてへ引き返した。次に連合艦隊駆逐艦と玉波を護衛にした輸送任務を命じるが、1月19日に徳山沖で行われた試験航の結果が芳しくなく、結局輸送は中止。

1月21日午前11時に徳山を発った神鷹は同日17時20分にへ帰港。広海軍陸上実験用に使われていた大ロ号艦本式2基と、使い勝手の悪いワグナー式を換装する工事を受ける。だが完成後に機関を換装する事は容易な事ではなく、飛行甲格納庫等を突貫工事でこじ開け、ワグナー式を取り出してロ号艦本を挿入するという強引な方法で換装しなければならなかった。これに伴って復元性が悪化したため両舷にバルジを付けた結果、水中抵抗の増加を招いて最大速が22ノット程度に低下している。2月11日修理と工事を了。方面での単独訓練を命じられ、2月13日午前8時広島湾へ向けてを出港、2月18日より訓練を開始した。

下の中でも乗組員は約8時間の睡眠を取る事が出来、在泊中は半舷上陸が認められ、また日曜日には遊戯ラジオの視聴といった娯楽も許可されているなど適切な勤務体制が出来ていた。艦内ではラムネの製造が可で、腐敗の恐れがあるとして持ち込み禁止となっている甘味(まんじゅう等)の代わりになると思われたが、50本に1本の割合で蛆虫や不純物が混ざっていたため衛生上の問題で全て棄されてしまった。

5月23日から31日にかけて海軍で入渠整備。出渠後、実戦投入に向けた準備が始まり、6月6日長が工事の情況を視察し、6月9日弾薬類を積載。6月14日23時11分、上護衛隊からマニラ航空機を緊急輸送するよう命じられ、6月15日より作戦準備第二作業を開始。艦載機の着艦に使用する制動索の実験航空隊との発着艦訓練、試、マリアナ沖海戦の戦訓から25mm単装機12門の追加工事、機関試などを行う。6月27日午前9時を出港して佐伯湾にて爆弾と基地物件を積載。6月29日から7月5日にかけて第931航空隊の九七式艦攻14機を使って伊予で発着艦訓練に従事。並行して操艦訓練、試、接艦訓練を行った。7月7日へ寄港して出撃準備のための諸物資を詰め込む。

1回目の護衛任務

出撃準備を整えた神鷹はヒ69団の護衛に加わるべく、7月9日午後12時25分にを出港、広島湾で輸送用の零戦5機と雷電8機を積載し、同日17時55分に岩国へ寄港。翌日出港して瀬戸内海を西進しながら対射撃教練を行い、対潜部隊である第931航空隊の九七式艦攻14機を収容。15時関門海峡の入り口である部崎に到着して仮泊する。そして7月11日午前6時55分、ヒ96団の集結地となっている六連に到着して合流。7月7日サイパンを失陥して以来、ヒ船団南方産資の輸送のみならずフィリピン方面への増援輸送も受け持つようになった。

7月13日16時20分、輸送14隻からなるヒ69団とともに六連を出港。護衛艦艇は練習巡洋艦香椎海防艦千振、佐渡、第7号、第17号、そして神鷹の計6隻だった。団には大鷹海鷹も加入しており、3隻合わせて零戦95機、雷電10機、月光9機、彗星5機、山5機を輸送していたが、対潜哨戒機を持っていたのは神鷹だけで他2隻は護衛戦となりえなかった。しかし空母が参加するという事実団関係者に心理的なプラス効果を与えた。7月16日15時12分、5里先で浅沈している敵潜水艦を発見し、九七式艦攻と海防艦佐渡との共同攻撃により敵潜撃沈を報じた(該当艦し)。翌日午前11時30分にも九七式艦攻が敵潜を発見して第13号海防艦と協同撃沈している(該当艦し)。7月17日19時45分、高雄の左営泊地にて一時停泊。

7月18日午前2時25分、闇に紛れて左営を出発するも、間もなく潜水艦ロックタイルフィッシュ、ソーフィッシュからなるウルフパックに捕捉されてしまう。午前6時、浮上中のロックが2TL戦時標準タンカーはりま丸掛けて魚雷4本を発射。この撃は不成功に終わったが、次にソーフィッシュが9本の魚雷を発射し、機関不調で団から脱落していたはりま丸に1本が命中して高雄へ退避。午前10時50分には対潜掃討中の第17号海防艦タイルフィッシュ撃で大破させられて高雄に後退。2隻の艦が脱落したものの何とかウルフパックを振り切り、ヒ69団は7月20日20時11分にマニラへ寄港。7月22日海鷹大鷹が積み荷を降ろしている横で神鷹も輸送用飛行機を揚陸した。現地で団の再編制が行われ、マニラへの輸送任務を終えた大鷹はヒ68団に加わって内地帰投、海鷹もマモ団護衛のためマニラにて留まる事になり、ヒ69団に同行する空母は神鷹のみとなった。新たに第13号と第19号海防艦が護衛に加入。

7月25日午前5時45分、ヒ69団を護衛してマニラを出発。7月27日プロペラに触れて寺西政雄一等整備兵が戦死したため水葬中の九七式艦攻1機が面に不時着してしまうも搭乗員は事救助されている。南方域は潜水艦跳梁跋扈していたが幸い敵襲はく、7月31日17時36分に最終的地のシンガポールへ到着。輸送への被害皆無で見事護衛任務を遂させた。団の出港準備が整うまで日本本土向けの燃料や南方産資を満載し、飛行甲では海軍映画が上映されたという。編制変更で今度はシンガポールから内地に向かうヒ70団(中身はヒ69団のまま)を護衛する。新たな護衛戦として内地帰投を命じられていた駆逐艦霜月が加わった。

8月4日21時、ヒ70団を護衛してセレター軍港を出発。伴走者は練習巡洋艦香椎駆逐艦霜月海防艦佐渡、千振、第13号及び第19号海防艦であった。神鷹には霜月がボディーガードとして付き添う。太陽が昇ってからは積極的に哨戒機を飛ばして前路を警。乗組員は問わず見りに立ち、灼熱の太陽に13時間以上身を焼かれながらも不眠不休で戦い続け、甲上にを敷いて臨時の仮眠所にするなどぐましい努を重ねた。内地で修理を受けるべくマニラから出港してきた軽巡洋艦北上(中破)が途中で団に加入し、一緒に本土への帰還をす。8月12日午前8時15分、沖縄西方で九七式艦攻が敵潜水艦らしき艦を2回発見して爆を投下。続いて佐渡と第13号海防艦も爆を投下し、神鷹は敵潜撃沈を報じる(該当艦し)。この爆攻撃で佐渡団から大きく離れてしまったため単独で高雄に向かうよう命じられて離脱。度の航は至って穏で一度も撃を受けなかった。

8月14日18時20分、ヒ70団は有湾に到着。見事団の往来を成功へと導いてみせた。8月16日16時へ回航された神鷹は艦載機を揚陸し、翌日より工に入渠して体及び機関の整備と機の増備が行われた。疲労でよろよろになっていた乗組員には上陸が許可されて各々のんびりと羽を伸ばした他、飛行甲では陸軍部隊合同演芸会を開いて協調性を磨き、製造した2万7000本のラムネ保で販売するなど平和な一時が流れる。マニラで別れた大鷹8月18日に撃沈されてしまったため対潜掃討を専門とする第31戦隊に転属。太陽が照り付ける中、8月18日から9月2日にかけて毎日30分間の遊泳を実施。帰艦した後は浴も許可されている。

2回目の護衛任務

次の護衛任務に臨むべく9月5日を出港。試運転をしながら佐伯湾を経由して伊予で訓練を行い、9月7日に門へ回航されてシンガポール行きのヒ75団と合流する。

9月8日、輸送10隻からなるヒ75団を護衛して門を出撃。今回の護衛兵海防艦干珠、満珠、三宅駆逐艦卯月夕月であった。浅瀬で敵潜の待ちせがしにくく、また味方の援護が受けやすい大陸側の航路を選択し、中国大陸に沿って南下する。9月11日午前9時、東シナ中部でヒ75団の前路をしていた九七式艦攻が敵潜水艦を発見、直ちに駆逐艦卯月派遣されて爆40発を投下し、撃沈を報告(該当艦し)。夕刻、日没に伴って上していた九七式艦攻が続々と神鷹の飛行甲に着艦。しかし、そのうちの1機が飛行甲へ着艦した際にブレーキが利かず、やむなくそのまま飛び立とうとしたが今度はスピード不足で機首が上がらず面へ不時着してしまう。海防艦三宅が救助に向かい、回収用の左舷カッターを降ろす。が荒れていて救助作業は困難を極めるも全員救助に成功した。9月12日、西貢丸、駆逐艦夕月海防艦干珠が中国大陸側に向けて一時離脱し、17時30分には浅間丸がヒ75団を離脱して基へ向かい、代わりに陸軍徴用瑞穂丸が加入するはずだったが合流に失敗した

攻撃を受ける事9月13日14時高雄へ寄港、燃料補給を受ける。ここで一旦別行動を取っていた夕月グループと合流し、団の再編成により黒潮丸、大邦丸、富士山丸が加入し、第18号海防艦艇鵯、第28号掃海艇が護衛に加わった。

規模を大きくしたヒ75団は9月14日16時30分に高雄を出港するが、今回の路は何かと不幸が相次いだ。まず出港直後にあまと丸が機関不調を訴えて脱落(5日後に合流)し、19時には雄丸にエンジントラブルが発生するも何とか落を防ぐ。9月16日14時よりが悪化して大雨による視界不良に陥り、23時30分、西沙諸島海防艦干珠が操ミスでせりあ丸に衝突。乗組員1名が死亡したものの航に支障はかった。9月17日午前10時、マニラに向かう特設巡洋艦西貢丸、秋津洲駆逐艦卯月夕月団より離脱していったが、そちらのグループ潜水艦フラッシャーの襲撃を受けて西貢丸が撃沈されている。9月18日午前10時40分、海防艦がヒ75団の護衛に参加。9月19日から神鷹、黒潮丸、日栄丸、富士山丸、大邦丸が次々にエンジントラブルあるいはの故障に見舞われ、団の隊形維持すら困難なるほど非常に脆弱な状態をけ出した。翌20日になって各艦トラブルを抱えており、17時に第18号海防艦が護衛に加わるも、夕方から再びが悪化し始めて自然の猛威に翻弄される。

トラブル続発の割に敵襲がかったため、9月22日13時ホースバー灯台を通過して東航路に入り、そして16時シンガポールへ入港した。9月25日に神鷹は燃料の積載と物資の積み下ろしを行い、その間に搭載機によるマラッカ峡やペナンの対潜掃討を実施したが戦果はかった。

10月2日17時、タンカー9隻からなるヒ76団を護衛して出港。護衛艦艇は神鷹、海防艦三宅、倉、干珠、満珠、第28号艇鵯で、神鷹を除くと海防艦艇だけになってしまった。出港直後にあまと丸がエンジントラブル、大邦丸に故障が発生してシンガポールに引き返す。10月8日午前2時11分、東シナにて潜ベクーナ魚雷4本を発射し、2本が団の最後尾を走っていた君丸の右舷に命中して損傷、艇鵯と第28号海防艦を伴ってマニラに退避した。三宅に対潜掃討命が下るが闇のため視界が悪く、敵潜との接触を失って取り逃がしている。敵潜水艦を欺くためヒ76団は一旦西沙諸島西方への偽装航路を取った。この日、九七式艦攻の1機が神鷹への着艦に失敗して不時着。機体こそ投棄しなければならなかったが幸運にも爆発事故には至らず搭乗員も打撲程度で済んでいる。

10月10日機動部隊による沖縄襲(十・十空襲)が発生したため、巻き添えを避けるべく翌11日15時海南島三亜港へ避難。状況が善されるまで待機を命じられる。10月16日午前4時25分にヒ76団は出発。季節によりが荒れ、各艦とも押し寄せる横波に翻弄される中、13時にたらかん丸の首から漏している事が発覚し、三亜へ引き返している。間もなく台湾沖航空戦が生起し、また10月17日午前4時20分には機動部隊フィリピンを攻撃しているとの情報が入ったため、同日深夜海南島の楡へ避難。マニラ襲もあって同にて待機する。リンガ泊地に進出中の栗田健男中将はタンカー確保のためヒ76団に海防艦、第28号、日栄丸、良栄丸の4隻を供出するよう命じ、これらの艦海南島に待機させる事となった。10月18日17時30分、ヒ76団はようやく出発して海南島を後にする。翌日午後、対潜中の九七式艦攻1機が行方不明となる。

10月21日16時台湾南方B-24の触接を受け、大規模な襲が予想されたためヒ76団は分散。輸送へ避難し、神鷹は単独で日本本土をして10月24日佐伯湾に到着。第931航空隊の九七式艦攻11機を返還して10月25日へと回航された。輸送団も事門へ到着して事なきを得ている。10月27日から30日にかけて燃料、食糧、弾薬を補給し、11月1日に三号と四号ポンプを修理。訓により軽質油タンクの防御強化が施された。11月7日を出港してフィリピン方面から戻ってきた隼鷹を出迎えた。

3回目の護衛任務

を挙げたレイテ沖海戦敗北に終わったものの、地上での戦いはこれから始まろうとしていた。11月9日、ルソンへ送る二個師団を乗せたヒ81団の護衛を命じられ、佐伯基地から飛来した九七式艦攻14機が着艦。神鷹にも南方各地に赴任する便乗者約1200名が乗艦している。万里にて出港を待つヒ81団と合流。二個師団が分乗する9000トン級輸送5隻と、シンガポールまで重油を取りに行く1万トン級タンカー5隻の計10隻から編制されており、神鷹、駆逐艦樫、海防艦対馬、択捉、昭南、久米、大東、第9号、第61号が護衛する。しかしヒ81団の出港は暗号解析によりアメリカ軍把握され、2個ウルフパックがに送り込まれた。

11月14日午前7時に六連を出港。団は三列縦隊を組んで速12ノットで航行し、神鷹は後方から九七式艦攻を盛んに発進させて前後左右の対潜を行う。艦上からは便乗者に二人六班体制で見りを手伝って貰い厳重な監視を実施。玄界から五島列島西方を抜けて対馬を航行中、待ちせしていると思われる戦艦の通信が多数傍受されたため、この日は長崎県で仮泊して危険なの航を避けた。

11月15日午前6時20分、を抜錨。しかし対馬峡を通過した時に敵潜に発見され、午前11時56分に白瀬灯台クイーンフィッシュが4本の魚雷を発射。左列中央にいた陸軍空母あきつ丸に2本が命中し、15mほどの柱が高々と築かれ、誘爆により艦後部が爆砕。僅か3分で左側に転覆・沈没してしまった。神鷹艦内では戦闘配置を告げるラッパが鳴りき、爆を装備した27機の九七式艦攻が発進。隊列から離脱した海防艦があちこちに爆を投下するなど緊迫した状況になったが、これ以上の攻撃はかったため隊列を組み直す。日没以降は艦内第二配備となった。東シナは敵潜の巣窟と化している情報が入ったため、ヒ81団は北方に針路を変えて済州島方面へと向かい、巨文泊地へ避難。

11月17日午前8時、巨文泊地を出発して上海方面へ向かうとともに九七式艦攻による対潜を開始。午後12時15分に1機のB-29が出現し、団に向けて爆弾を投下してきたため神鷹の対射撃と九七式艦攻で追い払う。しかしB-29が放った位置情報潜を適切な攻撃位置へと導く事となる。から睨みを利かせている間はさすがの潜も手出しが出来なかったが、哨戒機が飛ばせなくなる日没が前に迫ってきたため、17時45分に「総員配置に就け」の艦内放送が流されてにわかに慌ただしくなる。18時、九七式艦攻全機を収容。からの援護は全く受けられなくなった。その直後の18時12分、哨戒機がいなくなるのを待ちかねていたかのようにピクーダが撃を行い、左舷前方の陸軍徴用摩耶山丸が撃沈された。3000名以上の兵士が犠牲になったという。20時2分、海防艦択捉が摩耶山丸の生存者を救助しようとするが、あまりにも数が多かったため支援を要請し、昭南が駆け付けた。20時40分に昭南が敵潜水艦を探知して大東とともに爆30発を投下している。

そして次は神鷹の番だった。

獄炎に包まれた最期

1944年11月17日23時、ヒ81団は神鷹に右45度方向に怪しいがあると報告し、神鷹は樫に掃討を命。しかしその7分後、済州島西方潜水艦スペードフィッシュが右舷後方3700mから撃。6本もの跡を発見した見り員がすぐさま絶叫、総員戦闘配置の号が下るも、直後にズーンという地を裂くような音がいた。6本中4本が右舷に命中し、1本は艦尾に直撃し積載していた航空燃料に誘爆、2本ディーゼル発電機を破壊して艦内電を喪失させ、3本は輸送中の戦車を火の塊に変え、あっと言う間に艦の後部が猛火に包まれて航行不能に陥る。艦内では電を喪失したで暗闇にまれ、消火ポンプの作動さえも不可能であった。

生き残った者は懐中電灯を片手に飛行甲まで避難。既に10度ほど右舷へ傾斜しているせいか九七式艦攻数機がへと滑り落ち、飛行甲下の機座は炎に包まれ、あちこちで弾薬誘爆を起こしている。貪欲なる炎は前部にある20万リットルを内包したガソリンタンクをもみ込もうとし、もしここが誘爆すれば乗組員や便乗者全員が助からないだろう。被から10分後に総員退艦が発せられて次々にへと飛び込む。「天皇陛下万歳!」「神鷹万歳!」のが何処からか聞こえてくる。やがて段々と傾斜がしくなって甲上に立っていられなくなり、被から30分後、右へ傾きながら艦首を上にして沈没していった。波間に漂う生存者たちに更なる災難が襲い掛かる。11月の東シナ極寒とは言わずとも命を奪いかねないほど冷たく、また浮上した潜水艦生存者に向けて機掃射を仕掛けてきたため次々に命を落としていった。に広がった重油に引火して周囲を炎にめ尽くされた事も生存者減少と一因となっている。駆逐艦樫と海防艦昭南が下手人を探して爆を投下。

11月18日午前2時20分、第61号海防艦が神鷹の沈没地点を探すよう命じられ、午前3時15分には対馬が爆15発を投下し、午前4時26分に燃料や破片が浮いているのを発見して撃沈を報告した。地獄のような漂流を経て駆逐艦樫と海防艦久米が救助に現れ、樫は42名、久米は19名を救助。彼らは上海海軍病院に収容された。

石井艦長以下1100名が戦死、生存者は僅か60名だったという。1945年1月10日、除籍。

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神鷹

1 ななしのよっしん
2016/03/15(火) 19:22:07 ID: fuaqtlUNVQ
またお前か
いい加減ユーザー名変えろ
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2 ななしのよっしん
2016/05/26(木) 08:09:45 ID: lkgQ9gMd7q
概要概要じゃないんだよなぁ
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3 ひろポン
2016/07/22(金) 02:26:37 ID: yRmOp3m075
もし艦これに出すんだったら、デザインは是非とも島田フミカネにやってもらいたい。
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4 ななしのよっしん
2018/09/12(水) 00:04:27 ID: 2onLak4qFb
>>3 しばふニキになりましたね
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5 ななしのよっしん
2019/01/18(金) 22:09:38 ID: 85UkvJ6UF+
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6 ななしのよっしん
2019/09/24(火) 15:15:34 ID: N4y7VuFqJn
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7 ななしのよっしん
2020/06/29(月) 12:50:08 ID: FyGIxdsg2y
引用元を明記しないと全部創作転載ってことになりかねないと思うのだけど。
まぁ、ニコ百に記事の信憑性をめるべきではないのかもしれないけどね。
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