北号作戦(きた/ほくごうさくせん)とは、大東亜戦争末期に行われた帝國海軍の輸送作戦である。作戦は成功し、しかも絶望的な状況を覆しての成功だったためキスカ島撤退作戦と並ぶ奇跡の作戦と呼ばれる。
概要
背景
大東亜戦争も末期に入った1945年初頭、日本本土と南方資源地帯との連絡は途絶しかけていた。道中のフィリピンはアメリカ軍の侵攻を受け、主要な航路には多数の潜水艦と航空機が跋扈。強行輸送を図った輸送船団は半壊するか壊滅的打撃を受けた。おかげで日本本土に資源や重油が届かなくなり、艦船の出撃にも支障が出るようになった。わずかに残っていた燃料は陸海軍が取り合って喧嘩する始末。きたるべき本土決戦に備え、せめて航空機の燃料だけは確保しなければならない。もはや一刻の猶予も無かった。
そこで最終手段として、当時シンガポールに取り残されていた伊勢型戦艦「伊勢」「日向」を使った強行輸送……北号作戦が採用された。輸送艦ではなく軍艦なので搭載量は期待できなかったが、それでも武装した軍艦ならばと一縷の望みを賭けた。上層部も成功率の低さを想定しており、半数が帰ってこれば大成功とされた。
作戦準備
作戦の全指揮は第四航空戦隊司令の松田千秋少将に一任された。必ず作戦を完遂するという意味を込めて、参加部隊は「完部隊」と命名された。1945年2月5日より物資の詰め込みが始まり、伊勢に航空機用ガソリン100キロリットルとドラム缶5200本分、ゴム850トン、錫900トン、水銀10トン、亜鉛32トン、タングステン47トンを積載。日向には航空機用ガソリン100キロリットルとドラム缶4994本分、普通揮発油ドラム缶326本、ゴム518トン、錫820トン、タングステン47トン、水銀32トン、砂糖200トンを積載した。500~600名で二日かけて物資を積み込んだ。この2隻は航空戦艦に改装されており、航空機の無い格納庫は格好の倉庫になった。航空燃料を満載したドラム缶の上に生ゴムを重ね、申し訳程度の防御にした。
護衛を務める巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜、初霜、霞にもありったけの物資が詰め込まれた。甲板上にまでドラム缶が敷き詰められ、初霜の艦長は「機関銃一発でも戦艦が吹っ飛ぶ。この恐怖は想像するだけで恐ろしくなります」と漏らした。「どこかに一発当たれば、たちまち部隊が誘爆するかもしれない」とも言われており、いかにこの作戦で無謀で危ないものかを物語っている。現実世界のオワタ式と言えよう。実際、先立って行われたヒ86船団の運行や南号作戦は米機動部隊に蹂躙されて惨澹たる結果に終わっている。とてもじゃないが、失敗が目に見えてるような作戦であった。孤立したシンガポールから日本本土に帰れる可能性があるとして、便乗を望む声が上がったが、あまりにも危険すぎるので全員拒否されている。
2月9日、物資の搬入が完了。敵が支配する呪われた海に漕ぎ出す日がやってきた。
北号作戦
1945年2月10日、完部隊はシンガポールを出港。燃料を少しでも節約するために速力を16ノットに抑え、連合軍の目を欺くために針路を偽装し、リンガエン湾に突入するかのような動きを見せた。当然ながら航空支援は無い。しかし連合軍は暗号解析で完部隊の意図を看破し、さっそく刺客を派遣してきた。
出港直後に英潜水艦タンタロスと米潜水艦ブラックフィンに発見され、上空には触接機が張り付くという今にも攻撃を受けそうな状況に陥った。2月11日午後、グレートナッツ島西方でタンタロスを哨戒中の零式水上偵察機が発見。爆弾を投下し、完部隊は回避運動を取った。翌12日午後、敵潜水艦4隻(うち3隻は浮上航行中)を発見。大淀から零式水上偵察機1機が発進し、警戒に当たった。2月13日午前0時、日向のレーダーが水上の艦影を探知。潜水艦と判断され、艦隊は一斉回頭を行った。午前2時頃、カムラン湾東80海里を航行している時にも霞が水上目標を探知。再び緊急回頭を行っている。
そして2月13日午前11時、ついに空襲を受ける。B-24とB-25、それらを護衛するP-51合計88機が出現し、真っ直ぐに向かってくる。もはやこれまでと思われたが、ちょうど目の前でスコールが発生していた。完部隊はスコールに隠れることで奇跡的に助かった。敵機はレーダーを持っていたが、連合軍の潜水艦がいる海域では同士討ちを防ぐためレーダー爆撃が禁じられており、完部隊を捕捉していながら手出しできなかった。燃料が少なくなると敵機は引き揚げていった。午後には米潜水艦ブロワーから6本の魚雷が放たれたが、伊勢の艦橋後部で煙草を吸っていた非番の下士官が偶然雷跡を発見し、ぎりぎり回避に成功。1発だけ艦尾に命中したが、なんと不発だった。30分後に米潜バーガルが大淀に向けて6本の魚雷を発射。1発が直撃コースだったが、伊勢の高角砲で破壊。16時、米潜バショウを発見した日向が先手を打って主砲を発射。突然主砲を撃ち込まれたバショウは慌てて逃げ出した。
2月14日午前10時、シンガポールに向かっていた駆逐艦野風と神風が合流。一時的に護衛へ加わった。台湾海峡入り口で地上レーダーと水中聴音機が敵艦の集団を捕捉したとの情報が入り、一時は香港へ避難する事も検討された。しかし入港すれば空襲の格好の的になると判断、航行を続けた。11時30分、香港近海でB-24とB-25の一個連隊が南南東より出現。しかし雲に阻まれて攻撃に失敗。敵の空襲圏を突破した事で、以降は敵機の出現が無くなった。夕刻、大淀の水偵が前路哨戒。夜間に陣形を変えて台湾海峡へ突入した。知らず知らずのうちに伊勢が機雷源に突っ込みかける危機に見舞われたが、操舵手の新米中尉のミスで予定のコースより早く転舵したため難を逃れた。翌15日夜、馬祖島で仮泊。伴走者の駆逐艦に燃料補給を行った。ここで神風と野風が外れ、代わりに完部隊の度胸に感動して護衛を申し出た駆逐艦蓮と汐風が護衛についた。出発後、中国大陸に沿って進撃。荒天に紛れての航行だったため、旧式艦の蓮と汐風は追随できず、脱落してしまった。苦難の果てに黄海を突破。この辺りまで来ると、味方が睨みを利かせている事もあって敵襲は止まった。この頃、アメリカ軍はフィリピンと硫黄島の攻略に忙殺されており、東シナ海に艦隊が全く存在しなかったのである。この隙を突く形で完部隊は最も危険な海域を突破。2月19日夕方、関門海峡に到達。
そして2月20日午前10時、1隻も欠けることなく呉軍港に到着。15隻の潜水艦の追跡を振り切り、見事完遂させてみせたのである。まさかの大成功に軍上層部は狂喜乱舞し、乗組員は互いに抱き合って帰還を祝した。
結果
完部隊が運んだ燃料は中型タンカー1隻程度であったが、最後に日本へ届けられた資源として大変重宝された。運んだ航空燃料は、B-29の迎撃に向かう日本軍機に充てられた。また伊勢や日向が持っていた燃料は沖縄へ向かう戦艦大和の燃料に転用された。入港後、日向では乗組員に休暇が許可され、束の間の休息を楽しんだ。連合艦隊最後の成功にして、奇跡のバーゲンセールとなった北号作戦はこうして幕を下ろした。奇跡の連続だったが、どれか1つでも欠けていれば失敗していたであろう。この事が、いかに北号作戦が困難なものだったかを如実に語っている。なろう系やギャグ漫画の話ではなく、実際にあった事なのだから現実とは恐ろしいものである……。
軍艦を輸送艦に使うという奇想天外な発想は連合軍も虚を突かれたようで、戦後「あれはすっかりやられた」と述懐している。
関連項目
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