機長(キャプテン)、やめてください!!とは、1982年(昭和57年)2月9日に発生した日本航空350便墜落事故の際、副操縦士が発した台詞[1]である。
本記事では、当該事故の概要となぜこの台詞が発せられたのかについて解説を行っていく。なお、当記事の記述事項の多くは脚注1番、旧航空事故調査委員会(現:運輸安全委員会)が事故翌年の1983年5月16日に公表した航空事故調査報告書を参考にしている。
事故概要
発生年月日 | 1982年(昭和57年)2月9日8時44分 |
機 長 | 片桐 清二(かたぎり せいじ/35歳) |
副操縦士 | 石川 幸史(いしかわ よしふみ/33歳) |
航空機関士 | 小崎 善章(おざき よしみ/43歳) |
航空会社 | 日本航空 |
使用機材 | ダグラスDC-8-61(機体番号:JA8061) |
墜落現場 | 東京国際空港C滑走路[2] 33R側進入端から南へ360m付近 |
乗員乗客 | 乗員8名/乗客166名 合計174名 |
生存者数 | 乗員8名/乗客142名 合計150名 |
ホテルニュージャパン火災の発生からまだ29時間ほどしか経っていない1982年2月9日の朝、この日は快晴のため天候面で着陸への支障はないはずだったが、東京国際空港C滑走路(当時)へ最終進入をしていた福岡7:25発→羽田8:55着予定の日本航空350便は突如として滑走路手前で急降下し、滑走路手前510m付近で前脚から海面に着水。そのまま機体を立て直せず滑走路手前360m付近の海上に墜落した。
この結果機体が前後2つに分裂し、胴体後部が機首を含む前部に乗り上げる形となった。前部の乗客は海に投げ出されたり機体に挟まれたりするなどして24名が亡くなり、パイロット3人を含む重傷者95名・軽傷者54名を出し、無傷だったのは乗客ただ1名だけという日本の航空史に残る惨事となってしまった。ただし、海水への墜落だったため幸いにも火災は発生せず、事故当時は干潮に近づいており海の深さも1mほどしかなかったためパニックによる追加の溺死等は発生しなかった。
そしてこの事故調査の結果、片桐機長の異常な言動による前代未聞の事故原因が明らかとなる。
事故原因
当該機はILS進入(計器進入)によって着陸を試みており、特に計器類に異常は発生していなかった。また天候も晴れであり視界や風にも問題はなかった。
墜落の原因はただ1つ。片桐機長は着陸寸前に「イネ、イネ……[3]」という幻聴を聞き、突然4つあるエンジンのスラストレバー(自動車で言うアクセル)をアイドル(推力ほぼ0)の位置まで戻した。これに気づいた計器監視役の小崎航空機関士が推力がなくなった事を注意したものの、機長はそれを無視。真ん中2つのエンジンを本来は着陸後にしか使わないリバースレバーをリバース・アイドル、いわゆる逆噴射状態の位置まで持っていき、かつ操縦桿を前へ倒した結果機体が急速に落下。
事態の急変に気づいた石川副操縦士が慌てて操縦桿を引き上げようとするものの何故か操縦桿が重くてなかなか引き上がらない。そのため左に座っている機長を見るとなんと腕を突っ張って操縦桿を全力で押していた。それを見た副操縦士は「機長、やめてください!!」と大声で叫び機長に対抗して必死に操縦桿を引き上げようとしたものの着陸寸前の低空飛行ではどうしようも出来ず墜落。
事故後石川副操縦士はすぐ片桐機長を叱責したが、当の機長は自分が何をしたのか飲み込めておらずボーッとしていた。しかし、自分が滑走路の上でも飛行機の中でもなく海の上にいることを認識すると今度は泣き出してしまった。
それもそのはず。実は片桐機長は6年前から系列企業への移籍を転機に心の病を発症し、この事故の乗務中には「精神分裂病(現:統合失調症)」の状態だったのである。しかし、日本航空はこれを見逃して彼に乗務を続けさせており、その結果として今回の墜落事故を引き起こすこととなってしまった。(詳細は、次項:前兆を参照)
もうひとつの要因として、なぜ着陸後にしか使わない(安全装置が働いて作動しない)逆噴射装置が作動してしまったのかが挙げられる。実はこれはDC-8特有のもので、他の航空機にならば主翼についている減速用のフライト・スポイラー(減速板)がDC-8にはなく、代わりに真ん中2つのエンジンを微力で逆噴射することによってブレーキを掛けるという特殊な構造だったからである。そのため、真ん中2つに限れば飛行中であっても逆噴射することが可能であり今回の事故につながってしまった。(しかもDC-8はランディングギアを降ろしさえすれば外側2つのエンジンも逆噴射可能になるため、事故当時しようと思えば外側2つもできる状態だった)
事故原因のまとめ
- 機長は6年前から精神疾患を患っており、その症状が着陸寸前になってでてしまった。
- 日本航空はその症状を見逃し、彼に乗務をさせ続けていた。
- DC-8は特殊な構造で、飛行中であっても逆噴射装置を作動させることが可能であった。
- 副操縦士・航空機関士は機長を止めようとしたが高度が低すぎて立て直すことが不可能であった。
前兆
※この項は、調査報告書32P~45P・110P~112P・131P~132P・138P~140P・198~207Pなどを参考にしています。
心の病のはじまり(76年秋頃~80年11月)
片桐機長の心の病との戦いは、事故から6年前:1976年(昭和51年)8月19日の日航関連企業への移籍を転機として始まった。関連会社に異動となったことで今までの同僚・友人と離れてしまった彼はその年の秋頃からだんだんと自信喪失に近い考えを示すようになっていった。そこから数年間で
- 妻と2人で自動車に乗っている時に、何故か乗っていない実母が乗っていると言い出し妻を困らせる。
- 姉に「自分は日本人ではない!父はその事を隠している!!」などと真剣に相談する
- 交番に「盗聴器が自宅に仕掛けられているので調べてほしい」と相談する(結局見つからず)
治療の開始(80年11月~12月)
その後いつ彼が日本航空本体に戻ってきたかは不明であるものの、彼の症状がピークに達したのは1980年(昭和55年)11月16日、成田発モスクワ経由ロンドン行きの便に乗務している時だった。モスクワへの着陸前に着陸ブリーフィング(事前打ち合わせ)を行おうとした所気分が悪くなり嘔吐、翌17日のモスクワ発ロンドン行きの航路でも機長を務める予定だったが体調不良のためオブザーバー(補助席で他パイロットの動きを見学する研修生)として乗務した。
復路の18日、ロンドン発モスクワ行きで機長の席に戻るがその際に以下のミスが見うけられ、同乗していた上司から注意された。
- 離陸前の地上走行中通常よりも速度が速かった上、管制塔の指示を遅れて反応し荒いブレーキを掛ける。
- DME(空港からの距離計)が消えたのに気を取られ、旋回を開始するのが遅れ管制官からフォローされる。
- 機長席でうとうとする。
- モスクワの空港で、管制官から着陸復行(ゴーアラウンド/やり直し)を命じられた時にエンジン推力不足のまま機体を引き上げようとする。(上司と副操縦士が推力不足に気づきパワーを上げたため事なきを得る)
モスクワに着いた後、ミスの連続で傷ついた彼は上司にもう操縦を続けられない旨を伝え、他のフライトメンバーより一足はやく帰国。その際にも機内にフライトバッグを忘れていくなどかなり動揺していたようで、友人から病院に行ったほうがいいと勧められた。その結果、彼は11月25日に「うつ状態又は心身症」と診断され投薬治療を開始。その2日後の27日にはJALの産業医にその旨を報告し、乗務を外れて3週間休職することとなった。
しかし、休職中の12月15日「精神神経系異常なし」としてJALは彼に航空身体検査証明[4][5]を出す。実は航空身体検査で不合格対象となるのは、精神分裂病や躁うつ病であり、うつ状態や心身症であれば不合格の対象外であった。ここから、会社の症状把握と実際の症状の進行具合が乖離し始める。
回復と再発(81年1月~7月)
航空身体検査証明を貰った約一週間後から年末にかけて、半年に一度受験するシュミレーター・実技双方の定期技能検査を受検。合格こそしたものの「消極的・思考力がやや狭小・疲労を散見させる」などの評価がされ本調子ではないことを伺わせる。
とはいえ、投薬治療の効果と定期技能検査のプレッシャーから開放されたこともあってか症状は徐々に回復。年が明けた1981年(昭和56年)2月24日に投薬治療を一度終了し(薬は3月9日分まで処方された)、3月7日から医師同乗の基オブザーバーや副操縦士として乗務を再開した。4月には本格的な復職のため国内線部門へ移動となった。しかしこの頃、前の病院とは別の大学病院から「うつ状態」と診断され2週間程度の薬を再び処方されている。
5月10日、羽田→那覇→福岡という航路を副操縦士として乗務したが、那覇空港への最終進入中突然「クックック……」と肩を震えさせながら笑い出し、しかもそれがかなり長く続いたため同乗していた機長と航空機関士を困惑させる。その後福岡空港まではなんとか乗務を継続したものの、福岡に着いた後具合が悪いことを会社に報告し乗務を中断して翌日に東京へと戻ってきた。
その後は「汗が出たり疲れたりして全く飛行を続けられる状態ではなくなってしまい、翌11日にも症状が回復しなかったため乗務を中断して戻った」と大学病院の医師に報告。モスクワ帰りのような症状を再び出してしまい、16日から再び投薬治療を再開している。
しかし、彼が検査を受けたのが那覇空港事案の前の5月7日だったということもあり、6月10日にJALは再び彼に対して「異常なし」として航空身体検査証明を発行。6月12日の産業医が書いた記録では「まだうつ状態」とはしつつも「定期技能検査を受ける分には問題ない」とし、6月中旬から下旬にかけて定期技能検査を受験し再び合格。しかし評価としては「機長としてはクルー間の調和不足・副操縦士としては消極的で疲労からくる注意力散漫状態が見受けられた」という疑問符がつくような評価が与えられている。
7月中は副操縦士として国内線に乗務。ただ今度は投薬治療の効果が弱く投薬開始から1ヶ月経っているが「なかなか疲れがとれない」などと大学病院の医師に報告している。
機長復帰(81年8月~11月)
8月13日、羽田→福岡のフライトに産業医便乗の基乗務。産業医はその観察結果から「自律神経失調症・抑うつ状態で経過観察中であるが、順調な回復中。勤務時間を増やして9月後半からは機長として復帰させるのはどうか」といった内容の意見書を運航乗員部に提出。19日には大学病院に赴き、こちらの医師も「経過良好。イライラも見られず話もスムーズになってきた」と診療記録を残している。
そして10月4日~5日、福岡→大阪→那覇→大阪という航路において機長復帰のため再び産業医便乗の基乗務を行い、産業医は翌日の6日に「技術的・情緒的な問題はなし。乗務が終了した後周りのパイロットにうまく溶け込めていないことと無口であること以外は変わりない。機長復帰に問題なし。医師による経過観察は続けるので乗務制限は段階的に緩和していってほしい」といった内容の意見書を運航乗員部に提出している。
11月17日、運航乗員部は片桐機長を再び機長の座に復帰させることを決定し、11月20日から機長として乗務に復帰した。ただその少し前に行われた上司による技量確認では全体的に問題なしとはされているもの「マニュアルの改訂を一部行っていない・地上走行が荒い・注意されるまで返針しない・ギアダウンのタイミングが早い」とモスクワの頃に出したミスが抜けきっていないような面も見られる。
さらに、25日に実機で行われた定期技能検査でも4段階評価中上から3番目で、「技量は普通だが、副操縦士としては業務と助力面で不足。注意指導を行った」とこちらでも注意されている。
家族と会社の相談不足(81年12月~82年2月)
機長夫人(前述の自動車に乗っている時に困らされた奥さん)は11月下旬、同じJALパイロットの機長の友人に「機長の様子が前と変わっていないので心配」という相談をし、その友人からは「会社もOKしているので心配ないと思う。長い目で見ましょう」と励ましを受けている。12月7日にJALは彼に対して事故時にも有効だった、最後の航空身体検査証明を「異常なし」として発行している。
しかし12月9日、機長は夫人とともに大学病院に赴くがその際の診療記録には「順調(機長)」「以前と比べると些細なことにスムーズではなく、気分にもムラがある(夫人)」と本人と夫人の主張が食い違っている点が見受けられる。さらに機長夫人はこの頃「家族には何の変化や落ち度もないのに機長に"裏切り者"と罵られたり、長女からは"とうとうパパのいうことを聞かなくなったね"と言われたことを相談された」とも後に述べている。そのような状況ではあったが12月9日の通院による82年1月5日分までの投薬を最後に、病院への通院をやめている。
この頃機長は、夫人にお金が盗まれると思って預金通帳を全て自分が持ち歩いて夫人には一切お金を渡さなかったり、同僚の話しかけに対する応答も十分ではなく、物忘れも目立っていたが、年が変わって82年1月17日、夫人は運航乗員部の部長夫人に電話で「機長はすっかり元気になっている」と報告し、上記のような内容を会社にはっきりと伝えきれていなかった。
さらに、夫人と大学病院医師による面談も事故前までに医師側の主張で12回・電話での連絡も2回行っているが、そのほとんどが機長を含めた三者面談であり機長の前では言いづらい点もあったのか、上記盗聴器の件など一部の重大事項は医師に伝わることはなかった。
機長の友人達も1月に入ってから「旅行に誘ったが30分後には忘れられた」「ホテルでクルー全員で食事中、他の全員が笑っているのに機長は笑わず人の顔を凝視していた」などの行動を目撃しているが、こちらも会社や医師に伝わることはなかった。
事故前日(1982年2月8日/JL377便 羽田→福岡)
世間はホテルニュージャパン火災によりてんやわんやだった頃、機長は事故便の往路に当たるJL377便羽田20:00発→福岡21:40着のフライトに搭乗するため、17時頃に日航羽田オペレーションセンターに出社。石川副操縦士と組むのは初めてで、小崎航空機関士とも組むのは2回目だった。その後操縦室内で離陸前ブリーフィングを行なっていたものの、投薬治療が終わって1ヶ月経っていた影響もあるのか気分が悪くなり吐き気を催したためこれを手短に終わらせている。
20時11分頃、滑走路04(旧B滑走路)手前で待機していた際、管制塔から「滑走路に進入して待機せよ」という指示を受け滑走路に進入するが、機長はなぜかこれを離陸許可だと勘違いしてそのままどこかの残念機長と全く同じようにスラストレバーを入れかける。これに気づいた副操縦士・航空機関士が共に静止させこの時は事なきを得ている。これだけにとどまらず、さらに離陸後も怪しい言動は続く。
20時17分頃、機長は離陸後所定の手順にしたがって右旋回を行っていたが、突如としてバンク角が70度にまで傾く急旋回となった。ここから15秒間で機体は高度6,800フィート(約2,070m)から6,000フィート(約1,830m)まで800フィート(約250m)も降下した。これも石川副操縦士が慌てて操縦桿を握って修正動作を行いもとに戻している。(この時は墜落時とは違って機長が操縦桿を押し込んでいなかったため素早く元の姿勢に戻すことができた) その後、通常航行では30度までしかあげないバンク角を異常ともいえる70度まであげた機長に対し、副操縦士は「キャプテン、大丈夫ですか?」と声をかけるも10秒ほど応答がなく、再び声をかけると「ああ、大丈夫だよ。」と落ち着いた返事で返してきたため再び操縦桿を機長に譲った。
ちなみに、もし石川副操縦士の回復操作があと5秒遅れていたらDC-8の最大運用限界速度を超えここで墜落していた可能性もあるとして事故調査報告書はこの見事な反応を取り上げている。機長も福岡空港に21:58に到着した後、降機する際に副操縦士に対して「お見事」と声をかけている。一方副操縦士は翌日航空機関士に対して「あのままほっとけば90度までバンクしてたかもしれないぞ」という旨の発言を残している。
3名は22時半頃にビジネスホテルにつき、23時半頃に就寝。機長は翌朝5時半頃に起床し実母に電話をかけ「どうも最近自分の周囲に変なことが起こっている。仕事をやめたい」と話している。しかし片桐機長は前日に重大なミスを2回も起こしているのにも関わらずモスクワや那覇の時とは違って自発的に航空機を降りることはなく、結果翌2月9日に前代未聞の逆噴射事故を起こすこととなってしまう。
前兆のまとめ
- 片桐機長は6年前の異動を契機に精神疾患を患う。
- 事故の2年前には乗務に支障をきたすまでになり、休職の上投薬治療を開始する。
- 投薬中は症状が和らぐものの、薬が切れるとまたすぐに悪化してしまう。
- 日本航空は上記事態を把握していたものの、医師からの診断書が検査不合格対象外の症状名で書かれていたため検査を全てパスさせていた。
- 機長の家族や友人も、機長の異常行動を正確に会社や医師に伝えきれていなかった。
- 家族・友人からの情報が不十分であったため、医師も正確な診断を下すことが出来なかった。
- 事故前日、機長は重大なミスを2回も起こしていた。
機長、やめてください!!(事故直前の行動)
※この項は、調査報告書45P・120P~122P・191P~192Pを参考にしています。
CVR/FDR解析の結果、当日7時34分に福岡空港を離陸してから墜落の42秒前に当たる8時43分25秒頃までは特に機長の操縦に異常はなかった。異変は高度500フィート(約150m)を通過した時からはじまる。この時DC-8の着陸マニュアルでは副操縦士が「Five hundred」と500フィートを通過した事を宣言し、機長が「Stabilized」と返答しなければならないが、機長は返答しなかった。 この時同時に管制との交信を行っていたわけではないので、このあたりから機長の幻覚症状が始まったと推定されている。
次に43分50秒頃、デシジョン・ハイト(着陸決心高度)に近づいていることを示すため副操縦士が「Approaching minimum」と宣言し、この時は小さく沈んだ声ではあったものの定められた通り「Check」と応答している。これと同時に鳴り出したミドルマーカー(空港の1km手前に設置されている電波発射装置)通過警報音を聞く頃、機長は強い恐怖感に襲われ前述の「イネ、イネ……」という幻聴が聞こえたと発言している。
6秒後の43分56秒頃、高度200フィート(約60m)を通過したことを示す電波高度計の警報音が短く3度鳴り、3秒後に航空機関士が「Two hundred」と宣言する。この高度はILS着陸(計器着陸)でのデシジョン・ハイトであり続けて副操縦士が機長に対して着陸をするか・それとも着陸復行(やり直し)をするかを問う「Minimum」と宣言をする。 この時機長は「①Landing(着陸する)」「②Go-around(着陸復行する)」のどちらかを宣言しなければならないが、この時機長は一つ前の応答と同じ「Check」と誤った応答をしている。
直後の44分1秒、自動操縦を解除すると同時に操縦桿を前方に押し込み同時に全エンジンのスラストレバーをアイドル位置にまで引き下げた。1秒後、前述の応答間違いから航空機関士が怪しんで機長のほうを見た所、スラストレバーを下げたのを視認したので「We are low」もしくは「Power low」と注意を促す。
ところが機長は事故後この時点で気を失ったと発言するなどすでに"正常人には理解することの出来ない幻覚妄想状態(事故調査書より)"に陥っており、ついに第2・第3エンジンのレバーをリバース・アイドルまで持っていき機首が水平より最大9度下を向いた。
44分4秒、副操縦士は急に機首が下を向いたので操縦桿を前方から手前に引こうとするが、機長が全力で押し込んでいたため「機長、やめてください!!」と叫ぶ。機首を水平から7度下向きにまで上げることに成功するものの時すでに遅く、8時44分07秒進入航路からやや左に外れた海面に墜落した。
時系列(コックピットボイスレコーダーより)
時刻(墜落までの秒数) | 発言者 | 内 容 |
08:43:25(-42) | COP | 「Five hundred」 |
- | CAP | 応答せず(本来は「Stabilized」) |
08:43:50(-17.45) | COP | 「Approaching minimum」 |
08:43:50(-17.00) | CAP | 「Check」(小さく沈んだ声) |
08:43:50(-16.98) | - | ミドルマーカー通過警報音作動開始(この頃「イネ、イネ……」という幻聴を聞く) |
08:43:56(-10.58) | - | 電波高度計が3度短く鳴動 |
08:43:59(-08.10) | F/E | 「Two hundred」 |
08:44:00(-07.24) | COP | 「Minimum」 |
08:44:00(-06.76) | CAP | 「Check」(本来は「Landing」) |
08:44:01(-06.03) | - | 自動操縦が機長によって解除される |
08:44:01(-05.76) | - | スラストレバーがアイドル位置になる(機長曰くこの頃気を失った) |
08:44:01(-05.46) | - | ミドルマーカー通過警報音作動終了 |
08:44:02(-05.27) | F/E | 「We are low」または「Power low」※1 |
08:44:02(-04.84) | - | リバースレバーがリバース・アイドル位置になる |
08:44:02(-03.06) | - | 何かの操作音(誰がどのような操作をしたかは不明) |
08:44:04(-02.68) | - | 「Glide slope」(GPWS※2による自動音声) |
08:44:05(-01.96) | COP | 「Captain」 |
08:44:05(-01.52) | - | 「Glide sl……」(GPWSによる自動音声) |
08:44:05(-01.52) | COP | 「やめてください!!」 |
08:44:07(±00.00) | - | 墜落 |
08:44:07(+00.42) | - | 録音終了 |
- CAP=片桐機長、COP=石川副操縦士、F/E=小崎航空機関士
- ※1 航空機関士は前者だと主張しているが、事故調査委員会は音声解析の結果後者としている。
- ※2 GPWS=対地接近警報装置 今回の警報は、進入角度から下側に外れていることを示すもの。
事故後の影響
事故後に事故調査委員会と日本航空の高木養根(やすもと)社長は以下のような発言を記者会見で行っている[6]。
事故機は最後の約5秒間にかなり急速な降下をしながらも、対気速度が減少するという飛行経過をたどった形跡が強い。エンジンにつきましては、No.2及びNo.3エンジンが着陸滑走中に逆噴射をすれば示すであろうような外観を呈していました。
ボイスレコーダーの最後の部分に、「キャプテン、やめてください!!」が重なって続き、その直後にガガーという短い衝撃音で終わっております。
機長は、昭和55年11月頃より"心身症"などにより短期休養を命ぜられておりましたが、その後当社乗員健康管理室の医師により、機長として乗務することは支障がない旨の判断があったので、国内線機長として乗務に復帰せしめたものであります。
上記の記者会見で発言された、「逆噴射」「機長、やめてください!!」「心身症」などの当時聞き慣れなかった言葉は当時のお茶の間に絶大なインパクトを残し、当時の流行語となった。
事故後、当然ながら問題のある機長を乗務させ続けた日本航空にはとてつもなく大きな批判が集まりパイロットの検査基準が改められることになった。機長は検査によって流行語となった心身症ではなく、本来は航空身体検査で不合格対象であった「精神分裂病(現:統合失調症)」と診断され、刑事責任を負えないとして不起訴とはなったもののパイロット復帰は叶わず事故から約1年後に日本航空を解雇された。
事故から2年後、1984年には機長がすり抜けてしまった航空身体検査の基準を見直すため、航空医学研究センターが設立。現在でも同検査の実施や航空医学の研究を行っている。
事故から3年後、1985年には日本の航空史上最悪の事故である日本航空123便墜落事故が発生し、CVR音声が文字起こしでのみ世間に広まった際には高濱機長の「これはだめかもわからんね」「どーんといこうや」などの発言が大きな注目を浴びるきっかけにもなった。(高濱機長には心身症等の疾患は無く、事故原因は機体の修理ミスであった)高木社長は日航初の生え抜き社長であったが、在籍中にこの2件の事故を連続で起こしてしまい引責辞任という形で社長の座を追われている。
現在でも350便は、123便及びその対になる122便と並んで日本航空の永久欠番となっている。(ただし、300番台は2019年現在羽田-福岡/北九州便で使われているものの、福岡便は300-335・北九州便は370-379が使われているので350番前後の便名はそもそもJALに存在しない)
逆噴射
事故後しばらくは、現在の糖質のように精神異常者を指す隠語としても使われ、航空業界からも”逆推力”と言い換えられてしまうなど悪い意味で捉えられるようになってしまったこの逆噴射という言葉。この言葉の名誉を回復させたのは、人ではなくなんと馬だった。
1991年に中央競馬で競走馬デビューしたツインターボ。どの馬も脚質という自分の得意分野で勝負を挑む競馬の世界の中で、大逃げという天性の脚質を手にした彼は他の馬などお構いなしに先頭を爆走する。しかし、最終コーナー付近でその無理な飛ばし方がたたりいつも馬群に飲み込まれてしまう…… その場内がどよめくほどの逃げっぷりと潔い負けっぷりがターボエンジン逆噴射と称されて一躍人気の馬となり、1993年10月31日のGI天皇賞(秋)では前日発売で1番人気、最終オッズでも3番人気になるほどの人気を集めた。
この名馬の活躍により、事故から10年ほど経って逆噴射という言葉からはマイナスイメージが取り払われることとなった。
類似事故
日本では文字通り空前絶後の事件となったが、実は世界を見てみるとパイロット・あるいは同じ航空会社の人間の内部犯行によって墜落等の事故に繋がったものも多い。下記にいくつか例を取り上げる。
パイロット・社員による故意の事故一覧
- パシフィック・サウスウエスト航空1771便墜落事故(1987年12月7日/犯罪行為によって解雇された社員の逆恨みによるハイジャック)
- フェデックス705便ハイジャック未遂事件(1994年4月7日/貨物便に便乗した社員によるハイジャック未遂)
- シルクエアー185便墜落事故(1997年12月19日/機長の資産運用失敗による意図的墜落と推定される)
- エジプト航空990便墜落事故(1999年10月31日/副操縦士による意図的墜落と推定される)
- LAMモザンビーク航空470便墜落事故(2013年11月29日/機長による意図的墜落)
- ジャーマンウイングス9525便墜落事故(2015年3月24日/うつ病を患った副操縦士による意図的墜落)
スポイラー誤展開・逆噴射装置誤作動による事故一覧
またDC-8にはフライト・スポイラーこそないものの、着陸後に展開するグラウンド・スポイラーは他の航空機と同じく装備されておりそちらを誤って飛行中に展開し墜落した例もある。さらに、逆噴射装置が誤作動したことによって当事故と同様の状態に陥り墜落した事故も存在する。
- エア・カナダ621便墜落事故(1970年7月5日/DC-8/着陸寸前のグラウンド・スポイラー誤展開により墜落)
- 日本航空シェレメーチエヴォ墜落事故(1972年11月28日/DC-8/離陸直後のグランド・スポイラー誤展開により墜落)
- ラウダ航空004便墜落事故(1991年5月26日/B767/飛行中の逆噴射装置誤作動による空中分解)
- TAM航空402便離陸失敗事故(1996年10月31日/フォッカー100/離陸直後の逆噴射装置誤作動による墜落)
関連動画
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関連項目
脚注
- *運輸安全委員会 報告書番号58-3
- *沖合展開前の滑走路で現在のA滑走路よりもさらに西側に位置し、現在のC滑走路とは位置が大きく異なる。
- *去れ・帰れという意味の去ね(日本語の古語で現在では関西地方の方言として使用されているもの)と推測される。
- *国が指定したパイロットに必要な身体検査を全て基準を上回り合格したことを示す証明
毎年約10,000名が受験し10%にあたる約1,000人が検査に不合格となる厳しい身体検査。脚注5番も参照。 - *【悩める日本の「航空医」】(下)身体検査で不合格者は年間1千人超、パイロット不足も深刻化しており、解決策なし(産経ニュース)
- *日本航空羽田沖墜落事故 1982 - youtube
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