石橋湛山とは日本のジャーナリスト、政治家である。56代内閣総理大臣。
概要
戦前は新聞記者として言論活動に従事する。日露戦争以後、イケイケの拡大主義が支配する時代にあって湛山はリベラリストの立場から「小日本主義」という反軍国主義、反大東亜共栄圏論を展開した。戦後は政治家に転身し、吉田茂内閣の蔵相として戦後経済復興の推進役を担った。しかし積極財政を旨とする「石橋財政」はGHQとの間で齟齬を生み、不当な理由でパージ(公職追放)されてしまう。政界復帰後は吉田政権打倒の急先鋒となり、鳩山一郎の後に岸信介を総裁選挙で破り総理大臣にまで上り詰める。しかし不運にも病が湛山の身体を襲い、政権はわずか65日で瓦解してしまう。政治家人生を通じて日中関係の改善に尽力した湛山は首相辞任後も周恩来やフルシチョフと接近を図り、日中米ソ平和同盟の締結を構想していた。1973年死去。
青年期と思想的バックボーン
湛山は幼名を省三とし1884年(明治17年)9月25日に東京で生まれる。父は杉田湛誓、母は石橋きん。父の湛誓は日蓮宗の僧侶であり、湛山も幼い頃から寺院での暮らしを経験している。中学では二度も落第し月謝を使い込むなど悪童であったが、同時期に校長の大島正健の謦咳に接する。大島は”Boys,be ambitious”で有名なウィリアム・クラークの弟子であり、当時の日本の可らざる教育(「してはいけない」ことを教え込む指導法)とは真逆のアメリカ的民主主義、自由主義、個人主義を教育方針としていた。今となっては想像しづらいかもしれないが、戦前の日本は自由主義、個人主義は自己中心主義として忌み嫌われていたのである。彷徨の時期に日本では稀なアメリカンデモクラシー教育を受けられたことは湛山の人生において大きな意味を持った。
中学を同期53人中17番の成績で卒業した湛山は第一高等学校(後の東京大学)を受験するが2年連続で滑り、早稲田大学高等予科に入学した。後に大学部の哲学科に進級。当時の早稲田学長は鳩山和夫(鳩山一郎の父、由紀夫の曽祖父)であり、他にも優秀な講師陣が揃っていた。中でも湛山に影響を与えたのが田中王堂である。王堂はシカゴ大学でプラグマティズム(実利主義)哲学を学んでおり、湛山は彼に師事した。欧米哲学はカントやヘーゲルなどのドイツ観念論が有名であるが、湛山が耽溺したプラグマティズムはそれとは一線を画したイギリス経験論を母体としアメリカで発展した思想であった。ここで湛山は一切の行為の基準を自主に求める個人主義、自由主義思想を確立させる。
中学を二度も落第していた不良学生の湛山だが大学は主席で卒業し、現在の大学院に当たる宗教研究科へと進学する。本邦の歴史において西洋哲学を研究者レベルで学んだ総理大臣は後にも先にも湛山だけである。それから研究科で講師を目指していた湛山であるが結局大学を去ることとなる。その理由は不明であるが、一説には早稲田で隠然たる権力を持っていた坪内逍遥に嫌われていたからとも言われる。その後、湛山は文学評論家の島村抱月の推薦でジャーナリストの道を志す。途中軍役や転籍を挟みながら、最終的に東洋経済新報社に腰を据え、東洋時論の編集記者として働き始めた。イギリス経験論哲学の民主主義、社会主義、自由主義を社是とする新報社は湛山の気質に極めて合うものであった。
まとめると生家の日蓮宗、学生時代に学んだプラグマティズム(実利主義)、新報社で触れたイギリス経験論の3重層がリベラリスト石橋湛山の思想的背骨である。
小日本主義と満州放棄論
新聞記者として石橋は幅広い分野での評論活動を行った。普通選挙法推進、警察力以上の軍事力の廃棄、国民主権の提唱(ただし石橋は天皇制廃止論者ではなかった)。またロシア革命と辛亥革命から続く両国の内乱に関して石橋はボリシェビキや中国共産党を評価している。中でも特筆すべきは石橋の小日本主義である。小日本主義とは日本の領土を主要4島とその周辺諸島に限り、全ての植民地を放棄するという当時にしては相当な過激思想であった。日清・日露戦争以降、大日本帝国は他のアジア諸国を蔑視し台湾、朝鮮を併合した後は満州に進出し、第一次世界大戦の混乱に紛れて中国に21ヶ条の要求を行っていた。石橋はこれらの拡張主義を紙面で厳しく批判した。
ここでは一つ石橋の満州放棄論を紹介する。満州の地は日本が大国ロシアに勝利して獲得した植民地であり、「20億の国帑(国家財産)と10万の英霊が眠る聖域」と呼ばれ経済的損得以上に精神的に特別な場所であった。しかし石橋は①政治上、②経済上、③人口、移民上、④軍事上、⑤国際外交上の5つの観点から日本は満州を放棄すべきであると論じた。
①政治上の問題。日本人は「満州は満州人の土地であり中国とは無関係だ」というが実質的に満州は中国人を主権者とする中国の領土の一部である。その土地を中国の内乱の間隙をついて火事場泥棒的に奪うことは中国の反日感情を激化せしめ、諸外国から非難を被ることとなる。明治日本の近代化でさえ10年にわたる内乱があったが、国土が広い中国は統一に時間がかかる。日本は気を長く持ち、一方の軍閥を支援したりせず中国が自主的に統一するのを待った後に貿易を通じて共存共栄することが最も日本の国益にかなっている。
②経済上の問題。日本人は「日本は資源に乏しく領土狭小ゆえに大陸に進出しなければ国家発展の途はない」というが、各種統計に鑑みるに満州はそれほど経済的に美味しい場所ではない。朝鮮、台湾、満州の貿易総額は9億1500万円であるのに対して、アメリカは14億3800万、インドは5億8700万、イギリスとは3億3000万である。植民地を獲得しても後者三国と関係を悪化させては損するだけだ。日本がなすべきは中国の門戸を世界に開放し資本流入を促して中国の経済発展を刺激することである。
③人口・移民上の問題。「日本は土地が狭いため植民地に国民を送らないと人口膨張に耐えられない」という意見を石橋を退ける。石橋によれば、昨今の世界の貿易は非常に活発になっており食糧の輸入で増えた人口を養うことは十分可能である。植民地に住む日本人は総勢80万人以下なのに対して、1905年から1918年の14年間で日本の人口は945万人も増えている。一定の効果はあるとはいえ、本国の人口膨張への対抗策としての植民地は弱いと言わざるを得ない。
④軍事上の問題。日本が大陸に進出することでソ連や英米との対外関係は悪化し戦争に至る危険性が高くなる。本来は太平洋と日本海のみを守っていればよかったところを、満州を領土とすると長大な国境線を防衛する必要性が出てくる。満州を放棄することで軍隊は警察力以上の実力が不要になり、国家財政に好影響を与える。
⑤国際外交上の問題。第一次世界大戦のパリ講和会議以来、英米は日本への警戒心を高めつつある。日本が中国への侵略を進めればアメリカは日本を第二のドイツとみなし、極東の軍国主義を打倒せねばならぬと討伐軍を差し向けてくるだろう。しかし日本にとって経済的にアメリカほど重要な国は他にない。アメリカと戦ってはならない。
政治家 石橋湛山と日中国交正常化
息子を戦争で失いながらも終戦を迎えた石橋は戦後初の総選挙に出馬するも落選。しかし公職追放(パージ)された鳩山一郎の代理として首相となった吉田茂が湛山を大蔵大臣として抜擢した。落選の身で大臣になるのは世にも珍しいことであるが、こうして湛山は35年に及ぶ言論活動にピリオドを打ち政界へと転身する。時に湛山61歳であった。当時の日本は財政健全化をめざして緊縮財政をとっていたが、湛山はケインズ経済学に則った積極財政を展開した。デフレに陥るよりは一定のインフレによる経済成長を目指す湛山の財政政策は「石橋財政」とあだ名された。現在ではこれをリフレ(リフレーション政策)と呼ぶ。しかし湛山の政策はGHQとウマが合わず、GHQは戦前から反戦を唱え続けていた湛山によりにもよってナショナリストの軍国主義者のレッテルを貼り公職追放してしまった。
66歳で政界に復帰した石橋は鳩山派の一角として、今や政権を盤石にしていた吉田茂との対決に挑んだ。吉田政権が崩壊した後、石橋は鳩山内閣の蔵相として辣腕を振るおうと息巻いていたが、鳩山一郎がアメリカに嫌われている石橋を蔵相にすることでアメリカが渋い顔するのを嫌厭したため通産大臣に任命されてしまう。政治家としての石橋は中国との貿易を推進し、あいかわらずアメリカに睨まれるかたわら中国から強い期待を受ける身になっていた。鳩山一郎が退陣した後に石橋は総裁選挙で岸信介を僅差でやぶり自民党二代目総裁に就任する。石橋内閣の成立にアメリカは眉を顰める一方で中国はこれを歓迎した。しかし好事魔多し。老齢の石橋は風邪から脳血栓を引き起こし、わずか2ヶ月で無念の辞任を強いられる。石橋内閣が続いていれば日中国交正常化ももっと早期に行われていただろうと言われる。
健康を回復した石橋は日中関係の改善に向けて働き続けた。当時の日中関係は朝鮮戦争や台湾問題もあり微妙なところであったが、周恩来が日本人に初めて正式な招待状を送るなど中国の石橋を見る目は前向きであった。湛山の目指したのは日中二国間のみならずアメリカやソ連も含んだ日中米ソ平和同盟という気宇壮大な構想であった。周恩来から同盟へ原則的賛成を得た後に湛山は訪ソを試みフルシチョフにアポをとるが、健康問題や国際情勢の緊迫化によって失敗する。四カ国平和同盟構想は以降の冷戦の激化により頓挫するも、日中国交正常化は1972年に田中角栄総理と大平正芳外相によって達成された。角栄は国交正常化のために中国に旅立つ直前に石橋邸を訪ねて晩年の湛山の手を握って挨拶をしたと言われる。1973年4月25日。石橋湛山他界。享年88歳。
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関連項目
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