諏訪頼重という人物は諏訪氏に2人いる。
- 諏訪頼重 / 諏訪盛高(?~1335):鎌倉時代~南北朝時代の武将
もともとは諏訪盛高(『系図簒要』では盛隆)らしいが、中先代の乱の頃には諏訪頼重と名乗っていた - 諏訪頼重(1516~1542):戦国時代の武将で、武田信玄に切腹させられた人物としておなじみ
1の概要
歴史上は、北条時行を脱出させ、中先代の乱の失敗で敗死した以外これといった事績のない男……のはずだった……。
得宗被官・諏訪氏
諏訪の名字が示す通り、武田信玄との戦いでおなじみの信濃の諏訪大社の諏訪氏である。が、はっきり言って鎌倉時代には平氏(後の長崎氏)、尾藤氏とならぶ御内人三家として主君北条氏とともに繁栄を謳歌した存在以外の何物でもなかった。
この得宗被官諏訪氏の初代・諏訪盛重は北条時頼の神秘の沙汰にも名を連ねており、寄合衆の一角としてその子・諏訪盛経は、完全に北条時宗の側近であった。その後を継いだのがこの記事の人物の父親・諏訪直性(後述の通り系図でブレがあるため俗名ははっきりとしていない)である。この諏訪直性の地位を端的に言えば、北条高時とともに最期を迎えた重臣であり、長崎高綱、尾藤時綱と3人で北条高時政権を支えた男であった。
なお、この時期の諏訪氏は系図ではかなりブレがあり、諏訪直性が諏訪盛経の息子・諏訪宗経と同一人物か、その息子か定かではない。とはいえ『太平記』で高齢の摂津親鑑を若者といったことから、細川重男は諏訪直性を諏訪宗経の方としている。
兄・諏訪新左衛門尉について
元亨元年(1321年)4月の「南部文書」にある『徳宗領陸奥国名取郡若四郎名年貢結解状』、5月1日の「宗像神社文書」にある公文所下知状、嘉暦2年(1327年)6月18日の「秋田藩採集文書」4にある公文所奉書、元徳2年(1330年)10月22日の「宗像神社文書」にある公文書奉書の4通の文書にのみ登場する存在である。
なお、左衛門尉とのみ書かれてはいるものの、2通目に金判、おそらく金刺と書かれていること、長崎高資に次ぐ高い地位が諏訪直性とほぼ同じであることから、この人物が諏訪氏であるとされる。加えて『門葉記』の嘉暦2年(1327年)9月12日の記事に諏訪新左衛門尉が登場する。
つまり、この人物は、諏訪左衛門尉、諏訪直性の嫡子とされるのであり、この記事の1、諏訪頼重の兄と考えられる、ということなのだ。
ぶっちゃけ、彼についてわかっているのはそれだけである。ただ、細川重男は触れていないが、後述の通り、諏訪左衛門尉がまた登場したりするので、この件はここまでにしておきたいと思う。
諏訪頼重の一瞬の輝き
この諏訪直性の息子がこの記事の人物である。なお、父親の地位は諱不明の諏訪新左衛門尉という嫡男が継いでおり、諏訪三郎こと彼は御内人の一族の庶子以外の何物ではなかった。
とはいえ、ぶっちゃけなのだが鎌倉時代の彼は、元享3年(1323年)10月27日の「円覚寺文書」69号『北条貞時十三年忌供養記』に諏訪三河権守とある人物が、『系図簒要』の三河守という記述とすり合わせて彼だということしか、よくわからない。というかぶっちゃけ『尊卑分脈』に至っては曾祖父・諏訪盛重からいきなり彼につながっているため、中世当時ですらなにがなんやらよくわかっていなかったのである。
かくして、元弘3年(1333年)、鎌倉幕府が滅んだ日、『太平記』によると彼・諏訪盛高は北条時行を連れて脱出した。『太平記』には再起を誓う北条泰家の極秘ミッションで、泣く泣く北条高時の愛妾・二位殿の局と乳母たちから連れ去った諏訪盛高の姿が描かれているが、軍記物語なので、史実かは不明である。
ちなみにであるが、『金剛般若波羅蜜多経奥書』(信濃史料5巻114号)に、金刺盛高という人物が出てくる。この史料によると、この経典は金刺盛高の命令で書写したとされるのだが、これは正慶癸酉三月初一日、つまり1333年3月1日で、幕府滅亡のわずか2ヶ月前なのである。ということで、金刺盛高は、小林計一郎によれば、諏訪盛高とされるのだが、この人物、金刺金吾盛高、つまり諏訪左衛門尉盛高なのである。
んん?諏訪左衛門尉って、諏訪三河守じゃなくて?となるのだが、この件はおいておきたい。
なお、諏訪頼重が諏訪有実に元弘4年(1334年)2月8日に発給した文書が、「信濃守矢文書」にある(「南北朝遺文関東編46号」)。花押影も残っているのだが、史料の性格上、一定の留保がされている状態にまだある。
そして、建武2年(1335年)。中先代の乱が起きる。北条時行の軍の主力は彼ら諏訪氏と滋野一族(真田さんたちのご先祖)、合流した三浦党であった。
この中先代の乱は瞬く間に信濃を抑え、迎撃に出た鎌倉の足利直義を指揮官レベルを大量に討ち取る勢いで叩きのめす。この乱で、『梅松論』に出てくるのが、諏訪三河入道照雲ことこの諏訪頼重である。かくして、諏訪頼重と幼き北条時行率いる軍勢は、鎌倉を制圧したのである。
なお、『市河文書』のうち「建武2年7月付市河助房等着到状」等にも『梅松論』と同様、彼・諏訪三河入道照雲が出てくるため、この挙兵に加わったのは史実である。
ところが、足利尊氏が京都から迎撃に向かう。北条時行軍はこの迎撃に失敗し、鎌倉を脱出。諏訪頼重は北条時行の脱出とともに、自害して果てた。彼の死亡は、一次史料『足利尊氏関東下向宿次・合戦注文』の8月19日部分に書かれてたっぽいのだが、実はちょうど彼の名前が書かれだしたところで史料が欠けてしまっていたりする。マジで「諏方上宮祝三河権守頼重法師於大御」と言いかけて史料が欠けている。
結局この人って何?
真面目な話、鎌倉時代の諏訪三河権守と諏訪三河権守入道照雲(=諏訪頼重)が同一人物かはわからない。『系図簒要』などで後世いい感じに同一人物扱いされるようにはなったが、実のところ軍記物語に出てくる諏訪盛高と諏訪頼重が同一人物かどうかも全くの不明。というかぶっちゃけ『太平記』では諏訪三郎盛高と諏訪三河守が同一人物かどうかはノータッチである(なお、一番手に入りやすい岩波文庫版『太平記』では注釈で別人扱いされてしまっている)。
つまり、一次史料の諏訪三河権守、諏訪三河権守入道照雲、軍記物語である二次史料の内の異なる出典である諏訪盛高、諏訪頼重のうち、諏訪三河権守、諏訪盛高、諏訪頼重が同一人物という保証はない(ていうか諏訪盛高って官途から行ってお兄ちゃんとか別人じゃね?)。
「鎌倉よ、私は帰ってきた!」と言わんばかりに中先代の乱の諏訪氏の関与を象徴する人物ではあるのだが、完全に血の通っていない文字だけの存在なのだ。
2の概要
1の後いろいろあって諏訪氏を浮上させたが、武田信玄に殺された人。
1以後の大体のあらすじ
中先代の乱の失敗後、足利尊氏は小笠原貞宗を信濃に置き、諏訪氏の掃討を命じた。諏訪氏の大祝職は傍流の藤沢政頼が継ぎ、諏訪氏は1の孫(たぶん、おそらく、誰か研究してくれ)の諏訪頼継が北条時行を引き続き支援し、抵抗を続けた。
ところが、観応の擾乱である。諏訪氏は諏訪頼継の同一人物とされる諏訪直頼が足利直義派に近づき、足利尊氏派の小笠原氏と戦っていったのである。諏訪一族は足利直義死後になると、宗良親王を核として南朝方の主要な勢力となったが、文和4年(1355年)に小笠原長基に桔梗ヶ原の戦いで敗走する。かくして、小笠原氏のレジームが信濃では確立した、はずだった。
が、大塔合戦に代表されるように、信濃は小笠原氏が統一的な権力を打ち立てることに失敗する。かくして、空中分解した国衆たちが離合集散する信濃情勢が繰り広げられ、そのうちのひとつが諏訪氏となった。以後筆を進めたい。
応安4年(1372年)に諏訪頼貞(信貞?)が足利義満に降伏。諏訪氏の大祝と惣領職は、諏訪頼継の弟・諏訪信嗣が継ぎ、諏訪頼継の系統は高遠氏を名乗る。ここまでで大体主要な諏訪氏の系統は出そろったと思う。
さらにややこしいことが起きる。諏訪氏はいったん大祝になった人物が辞任すると惣領になるシステムだったはずが、嫡流の中で大祝家と惣領家が分離したのである。これが対立を惹起するようになるのが、応永4年(1397年)の諏訪有継の代以降であり、以後1世紀近く双方が分離したままとなった。
文安4年(1449年)に諏訪氏と下社金刺氏が対立。これに小笠原政康を筆頭にした、同じく空中分解していた守護・小笠原氏が介入する。やがて惣領家が下社金刺氏を圧倒するが、これを脅威と取った大祝家との関係が悪化。惣領家の諏訪信満、大祝家の諏訪頼満(あの有名な諏訪頼満は同姓同名の別人)が「芸州・予州大乱」を起こしたのである。
その子である大祝家・諏訪継満、惣領家・諏訪政満はさらに対立し、小笠原氏内部の対立に連動した両者の抗争が始まる。かくして、文明15年(1483年)に諏訪継満は諏訪政満一門を謀殺し、クーデターで乗っ取りを計った。ところがこの事態に上社の神長官・守矢満実など惣領家に味方するものも多く、諏訪継満は逃走。逃げ遅れた子・諏訪頼満(あの有名な諏訪頼満は同姓同名の別人…かつ2人目)のみが討たれたのであった。
更に幸運は続く。どさくさ紛れに蜂起した下社の金刺氏をあっけなく追い詰め、金刺興春らを討ち取ったのである。かくして諏訪政満の二男で、あの有名な諏訪頼満が上社の惣領職と大祝職を1世紀近くぶりに統一したのであった。
諏訪頼重の躍進と死
諏訪頼満の嫡男・諏訪頼隆は早世し、勢力拡大に邁進した諏訪頼満も天文8年(1539年)に病死した。この結果、孫・諏訪頼重(この記事の2)が24歳で後を継ぎ、武田信玄を迎えることとなった。
というか、そもそも諏訪氏の檀家であった武田氏は、割とツーカーの仲のはずであった。たとえば武田信昌が跡部氏と戦っているときも、諏訪頼満は御柱祭を終えるとすぐに向かっている。しかし、武田信昌と武田信縄の戦いで、諏訪頼満が引き続き武田信昌を支援したあたりから徐々に雲行きが怪しくなる。
ついには武田信縄の息子・武田信虎には下社の金刺昌春が近づき、諏訪頼満は反武田信虎方として開戦する。ところが、情勢はあっけなく武田信虎方に有利となり、諏訪頼満は和睦に追い込まれた。とはいえ、この背景には武田信虎に北条氏綱と今川氏輝が攻めかかっていた事情もありはする。
こうして武田信虎・諏訪頼満の関係が修復されたとたん、天文5年(1536年)に今川義元の登場で武田氏・今川氏の同盟が成立。諏訪氏も諏訪氏で、諏訪頼満・諏訪頼重が小笠原長時と開戦する。この和睦のタイミングが、前述した諏訪頼満から諏訪頼重の家督相続の時期である。
武田信虎は北条氏との戦いの継続から、同盟を続ける選択をする。かくして、両者の共同作戦が各地で展開されるようになる。この結果、禰々御両人が天文9年(1540年)に諏訪頼重に嫁いだ。
両者の間に寅王丸も生まれ、武田信虎・諏訪頼重・村上義清の連合軍が、海野棟綱を攻め、追い払った。ところがこの帰陣後、武田信玄のクーデターで武田信虎が追い払われる。さらに武田氏が混乱中、諏訪頼重が上杉憲政と海野棟綱の帰還の交渉を勝手に進めていたのである。
天文11年(1542年)6月、武田信玄はいきなり諏訪氏を攻めた。加えて、傍流の高遠頼継、下社が加わり、上社は包囲されることとなった。桑原城を守った諏訪頼重は囲まれ、降伏。さらに禰宜長官・矢島満清は大祝についていた諏訪頼重の弟・諏訪頼高を突き出し、7月21日に兄弟は切腹させられた。息子のお宮参りをして、2か月にも満たない時期であった。
2の補足
活動時期の短さから結構長い間でない時期があった。脳筋キャラだったが、久しぶりに出たら平均的なパラメータになった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 72 | 智謀 | 11 | 政治 | 33 | 野望 | 64 | ||||
天翔記 | 戦才 | 144 | 智才 | 24 | 政才 | 94 | 魅力 | 78 | 野望 | 74 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 55 | 智謀 | 12 | 政治 | 37 | 野望 | 62 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 56 | 知略 | 9 | 政治 | 35 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 56 | 武勇 | 50 | 知略 | 48 | 政治 | 45 |
関連項目
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