ハンス・オフト(Marius Johan Ooft、1947年6月27日 - )とは、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。
概要
オランダ・ロッテルダム出身。現役のころはフェイエノールトの下部組織で育っている。
ドーハの悲劇のときのサッカー日本代表監督であり、1992年に就任してからの在任わずか1年間で日本代表のレベルを飛躍的に向上させた監督として知られている。「アイコンタクト」「トライアングル」「コンパクト」「ポストプレー」などの言葉を用いて、現代サッカーに必要な基礎技術を徹底、代表のみならず日本サッカー界に広く浸透させ、日本のスタイルの礎を築いた。
1992年8月には、第2回AFCダイナスティカップで優勝し、1930年極東選手権以来の公式国際大会タイトルを獲得。続く10月には、第10回AFCアジアカップ(広島)で優勝、日本代表チームを、悲願であった初のアジア王者へと導いた。当時のオフトの采配はメディアから「オフトマジック」と称賛され、プロになったばかりの日本サッカーに大きな影響を与えている。
初来日は1982年にヤマハ発動機サッカー部の臨時コーチに招かれたときであり、その後マツダSCのコーチに就任するなど日本との関わりは深い。来日前の1976年にはオランダU-21代表のコーチを務めたこともある。日本代表監督を退任した後は、Jリーグのジュビロ磐田、京都パープルサンガ、浦和レッズの監督を歴任。2008年を最後に監督業からは離れている。
1993年10月の1994 FIFAワールドカップアジア最終予選では惜しくも初の本大会出場を逃したが、初の外国人監督として、1年半足らずで、選手の力を最大限に引き出し、代表チームを確実にレベルアップさせた。それまで日本が乗り越えられなかったアジアの壁を打破し、日本をアジアの強国に押し上げ、その地位を強固なものにした功績は計り知れない。
経歴
現役時代
父親はアフリカ系黒人の移民。1947年、オランダのロッテルダムにて4男1女の末子として出生。幼少の頃から人種差別に悩まされ、いろいろなものと闘いながら生きてきたという。幼少から身近な遊びであったサッカーに興じ1954年、オランダでプロサッカーリーグが発足しサッカーブームの熱に自らも身を投じることとなる。
8歳時ローカルクラブのSVデ・ミュスヘンのユースに所属。当時はサッカーと柔道の両方を学んでいた。15歳のときに名門フェイエノールトのスカウトから声がかかり、17歳になった1964年にフェイエノールトと契約。19歳時に徴兵、1年半軍務に服す中、21歳以下軍チームの代表に選出されている。
フェイエノールトでは結局トップチームでプレーすることはできず、エールステディビジ(2部)に所属していたSCフェーンダム、SCカンブール、SCヘーレンフェーンを転々とする。24歳からコーチングの勉強を始め、コーチの資格を取得している。
結局プロサッカー選手としては大きな実績は残せず、1975年に28歳で怪我のために現役を引退。24歳の頃からコーンチングの勉強を始めており、28歳の時に怪我をしたことで現役を引退し、オランダサッカー協会のA級ライセンスを取得。指導者の道へと転身する。
指導者としての初期
1976年、オランダU-21代表(ユース代表?)のコーチに就任。ユースサッカー育成プログラム担当という立場だった。1984年まで務め、若かりし頃のルート・フリットやマルコ・ファン・バステンを指導したこともあるらしい。
当時、清水東高校の監督でもあった勝沢要が日本高校選抜を率いてヨーロッパ遠征をおこなった際に世話役を担当。これが日本との最初の接点となった。
1982年には、杉山隆一に招かれ当時日本サッカーリーグ (JSL) 2部のヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)に2ヶ月間の短期コーチとして就任、1部昇格および天皇杯優勝に貢献。
マツダSC
1984年、1年先輩である勝沢から話を聞いていた今西和男から招かれ、JSL2部のマツダSC(現・サンフレッチェ広島)のコーチに就任。肩書は監督だった今西はゼネラルマネージャー的な立場としてチームを率いており、現場の指揮は任され、名門再建を託されることになった。当時のチーム状態は最悪で、選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。
就任2年目の1985年には、「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始める。その成果は着実に見られるようになり、チームをシーズン2位での1部復帰へと導く。さらにこの年の天皇杯全日本選手権大会ではベスト4まで進出。
JSL1部での戦いとなった1986-87シーズンではリーグ7位と健闘。この実績が認められ、1987-88シーズンには正式に監督に就任。自身のキャリアにとって初の監督業となった。この年の天皇杯では準優勝に導くなど成果を挙げたものの、オフトの徹底管理に、若手から中堅へと年齢を重ねた選手たちからも反発が起こるようになっていた。その結果、チームの成績は低迷してしまい、JSL2部に降格。この結果を受けて監督を辞任。OBからも「オフトをクビにしろ」と不満も噴出していた。一方、公式戦に出場させてはいないものの、2軍だった森保一の才能を見出している。
その後はオランダへ帰国し、FCユトレヒトのマネージング・ディレクターを務める。
日本代表
1992年4月、初の外国人監督として日本代表監督に就任。就任の背景には、マツダ時代に共闘した今西がJFAに推薦したといういきさつがあった。同年5月31日のキリンカップサッカー1992のアルゼンチン戦が初采配となった。このときにまだ無名だった森保一を招集し、攻守の要となるボランチとして重用している。
オフトは就任時からマツダ時代と同じく規律を重んじ、選手に明確なタスク(役割)を与え、ヨーロッパ型の組織的なスタイルを作ろうとしていた。だが、オフトのスタイルは最初は選手に受け入れられず、ブラジルでサッカーを学んだ三浦知良やラモス瑠偉は自由を失うことに戸惑っていた。特にラモスはオフトの指導方法に対して公然と反発しており、練習中に指笛を吹くオフトに対して「俺はあんたの犬じゃない」と堂々と怒鳴るほどだった。キャプテンを任された柱谷哲二は衝突必至のラモスとオフトの間に入って調整役に奔走するほどだった。
1992年8月、北京で開催されたダイナスティカップでは怪我のためにラモスが途中出場が続くという厳しい台所事情ではあったが、日本の選手たちはこれまでとは見違うようなプレーを披露し、決勝に進出。決勝では宿敵の韓国を相手にPK戦までもつれ込んでの勝利。前年の最下位から見事に優勝し、就任わずか4か月でタイトルをもとらす。何よりも、この実績によってラモスはオフトのことを認めるようになり、以降の信頼関係を築くに至った。
同年10月には広島で開催されたAFCアジアカップ1992に臨む。グループリーグでは司令塔のラモスが体調不良で途中出場が続き、2試合連続ドローとなる。しかし第3戦のイラン戦でエースの三浦知良が決勝ゴールを決めて勝利。準決勝の中国戦は守護神・松永成立が退場となる厳しい試合となったが、スーパーサブ・中山雅史の活躍でモノにする。決勝のサウジアラビア戦も高木琢也の決勝ゴールで勝利し、本大会初出場にしての初出場を達成。就任半年でアジア王者に導いたことでオフトの采配は「オフト・マジック」と称賛され、翌年にJリーグ開幕を控えた日本のサッカー人気の急上昇へと繋がる。
アジアカップ優勝で初のワールドカップ出場は日本中の悲願となっていき、1993年4月と5月の1994 FIFAワールドカップ アジア1次予選では日本ラウンドとUAEラウンドで圧倒的な強さを見せて通過する。国民からの期待は社会現象レベルでさらに膨らむが、最終予選を前に大きな問題が起きる。Jリーグの試合で不動の左サイドバックだった都並敏史が左足首骨折の重傷を負い、都並の代役探しが大きな課題となる。だが、左サイドバック探しは難航し、最終予選直前のスペイン遠征ではこれといった人材は見つからず、スペインの現地クラブとの練習試合では3連敗と不安が広がっていた。
ドーハの悲劇
1993年10月、カタール・ドーハでの集中開催となった1994 FIFAワールドカップ アジア最終予選では初戦のサウジアラビア戦では相手の堅守を攻略できずスコアレスドローに終わる。注目された左サイドバックの人選は三浦泰年を抜擢していたが、第2戦のイラン戦でその懸念事項が現実的なものになる。本職ではない三浦泰年はポジショニングの悪さを見透かされ、度々左サイドを突破される。結果、2失点を許しての敗戦となり、日本は早くも崖っぷちに立たされてしまう。
背水の陣で挑んだ第3戦の北朝鮮戦では、コンディション不良の高木琢也と福田正博に代えて中山雅史と長谷川健太を起用。左サイドバックも三浦泰年に代えて勝矢寿延を起用。この采配が功を奏し、日本は息を吹き返す。第4戦では長らく勝利したことがなかった因縁の韓国との一戦では三浦知良のゴールを守り切り、最終戦に勝てば悲願のワールドカップ出場というところまでこぎつける。このとき、日本中がワールドカップへと気持ちが傾いていた。
日本国内では深夜ながら空前の高視聴率を叩き出した最終戦のイラク戦は開始早々に三浦知良のゴールで先制する。ところが、これまでの疲労が蓄積した選手たちの体は重く、イラクに主導権を握られてしまう。後半開始早々にとうとう同点に追いつかれるが、劣勢のなかで後半24分にラモスのオフサイドラインギリギリのスルーパスに抜け出した中山が勝ち越しゴールを決める。その後も運動量が落ちて防戦一方のなかでどうにか守りぬく時間が続く。ラモスや柱谷は中盤に北澤豪を投入するように要求していたが、オフトは追加点を狙って武田修宏を中山との交代で投入。この監督と選手の意図の不一致によるエアポケットが最後の最後で致命傷となる。
あと少しでワールドカップ出場が決まるところだった試合終了直前の後半ロスタイムにショートコーナーから同点ゴールを許してしまう。この結果、日本は最終予選での敗退が決まり、ワールドカップ初出場の夢は4年後に持ち越されることになった。試合後、号泣するキャプテンの柱谷哲二を清雲栄純コーチと共に支える姿はドーハの悲劇の印象的なシーンの一つとなった。この最終予選の後、日本代表監督を退任する。
ジュビロ磐田
1994年、Jリーグ昇格1年目のジュビロ磐田の監督に就任。日本代表監督時代に共に戦った中山雅史、吉田光範が在籍しており、さらに自らのリクエストによってドーハメンバーの勝矢寿延も加入。高卒1年目の服部年宏、大卒1年目の藤田俊哉を積極的にレギュラーとして起用し、チームの中軸にまで成長させる。だが、エースの中山に加えて7月に加入したサルバトーレ・スキラッチも負傷によって長期離脱してしまい、得点力不足に悩まされたことで総合8位となる。一方、Jリーグヤマザキナビスコカップでは決勝まで進み、準優勝という結果を残す。
2年目の1995年は大卒ルーキーの名波浩をゲームメーカーとして抜擢。中山とスキラッチのJ屈指の破壊力を持つ強力2トップがフル稼働できたこともあって揃ってゴールを量産。7月には現役ブラジル代表主将のドゥンガも加わり、ボランチにコンバートした福西崇史が台頭するなどチーム力は着実にアップする。
1996年はこれまで登用してきた若い選手が成長を遂げ、名波と藤田による中盤のコンビはJリーグでもトップクラスのクオリティを見せていた。これまでのクラブ最高記録である年間4位でシーズンを終えるが、戦力を考えるとタイトル獲得に物足りなさが感じられ、オフトの戦術が単一化しすぎて研究されていたのも事実だった。シーズン終了後、退任を表明。
それでも就任以降に登用していた若手は多くがその後の磐田の黄金期の中心選手に育っており、翌年にクラブがJリーグ初優勝を遂げていることからも、チームを強豪にまで押し上げ、黄金期到来の種まきとして重要な仕事を果たしている。
京都パープルサンガ
1年の充電期間を経て、1998年に京都パープルサンガの監督に就任。日本代表監督時代に指導したことのある森保一、大嶽直人、山田隆裕、黒崎比差支を補強するが、彼らの多くは選手としてのピークを過ぎていることは否めず、成績は低迷。6月のワールドカップによる中断期間中に辞任する。
浦和レッズ
その後しばらくフリーの期間が続くが、2002年に浦和レッズの監督に就任。2ndステージでは第9節まで8勝1分と無敗で首位に立っていたが、その後6連敗で8位に沈む。ナビスコカップでは決勝で鹿島アントラーズに敗れ準優勝に終わったものの、クラブ創設後初の決勝進出を果たす。また、この年に日本代表監督時代に苦楽を共にした福田正博と井原正巳が現役を引退。二人にとっての現役最後の監督となった。
就任2年目の2003年は前年よりもチーム力が向上し、1stステージは6位に入る。そして、ナビスコパップでは前年同様に決勝で鹿島と対戦することになるが、エメルソンの2ゴールなど4点を奪って大勝。クラブとしての初タイトルをもたらし、自身の監督としてもクラブレベルでは唯一のタイトルとなった。しかし、この頃から3年かけてチームを強くしようとしたオフトの方針と早期にチームを結果を求める犬飼基昭社長との意見の食い違いからの対立が表面化するようになり、優勝後の会見で不満から退任をぶちまける一幕もあった。J1リーグ2ndステージでは第12節で首位に立ち、2つ目のタイトルを獲得するチャンスがあったが、エメルソンの出場停止が響いて2連敗し、またもステージ優勝を逃す。これらの経緯からシーズン終了後に事実上の解任となった。
浦和在任中は磐田時代と同様に長谷部誠、坪井慶介、平川忠亮といった後の黄金期の主力を抜擢しており、やはりその後もチームの黄金期到来の種まきを果たしている。
ジュビロ磐田
浦和の監督を退任した後は、スペインに在住。定期的に来日して少年サッカーの指導などに関わりつつも、現場の第一線からは離れて悠々自適の生活を送っていたが2008年9月、途中解任された内山篤に代わって、J2降格の危機に陥っていたジュビロ磐田の監督に12年ぶりに就任。自身にとって5年ぶりの監督業となった。低迷するチーム状況下で守備的な戦術を敷いて戦ったが、降格圏を抜けるまでには行かず、シーズン16位となって入れ替え戦に回ることとなる。それでもベガルタ仙台との入れ替え戦に勝利し、最低限のノルマだったJ1残留を果たす。
フロントからは翌シーズンも残留することを求められたが、これを固辞し退任。この年を最後に監督業からは退いている。
その後
2013年、日本サッカー発展に功績があった人物として、日本サッカー殿堂表彰が決定。
表舞台に登場する機会は減り、たまにドーハの悲劇を振り返るインタビューやドキュメンタリーに登場している。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
1987-88 | マツダSC | JSL1部 | 11位 | ||
1992~1993 | 日本代表 | - | - | ダイナスティカップ1992 AFCアジアカップ1992 アフロアジア選手権1993 |
|
1994 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 8位 | ||
1995 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 6位 | ||
1996 | ジュビロ磐田 | Jリーグ | 4位 | ||
1998 | 京都パープルサンガ | Jリーグ | -※1 | ||
2003 | 浦和レッズ | J1リーグ | 11位 | ||
2004 | 浦和レッズ | J1リーグ | 6位 | ナビスコカップ | |
2008 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 16位※2 | ナビスコカップ |
指導者としての特徴
コーチングとは、ゲームの中で状況を伝える指示の声を意味する。
1つの声によってチーム全体が同じピクチャーを描き、
何をするべきかを同時に判断しなければならない。
そして、何より大切なのは、
その声を正確に聴き取り、正しく理解することである。
監督として規律を重視し、ポジションごとの役割を明確化させ、守備面では「DF・MF・FWのスリーラインをコンパクトに保ち、選手間の距離を縮める(スモールフィールド)」、攻撃面では「ボール保持者の周りでトライアングル(三角形のパスコース)を作りながらパスを回す」ことを重視するスタイル。
オフトの監督としての戦術は当時のアマチュアからプロになったばかりの日本にとっては画期的なものだったが、現代的なサッカーの観点から見れば特別な指導ではなく、選手に難しく考えさせない基礎的なサッカーを勧めている。オフトジャパンのキャプテンを務めた柱谷哲二も「ヨーロッパでは育成レベルでやっていることでした」と述べている。選手の見る目は高く、日本代表時代の森保の抜擢や磐田時代の福西のコンバートなど実績もある。
監督としてはどちらかと言えば保守的であり、勝負師というタイプではない。特にJリーグの監督時代はMFがFWを追い越すことや、ワンツーパスを禁止するなどバランスを重視していた。レギュラーメンバーを固定させる傾向が強く、日本代表監督時代はアメリカW杯最終予選直前に左サイドバックの都並敏史を怪我で欠き、バックアップメンバーをうまく固定させることができず、結果としてドーハの悲劇を生む遠因となった。
これからトップレベルに成長しようというチームには最適な監督であり、日本代表は退任後にワールドカップの常連国となり、ジュビロ磐田と浦和レッズは退任後に黄金期を迎えている。つまりは、チームの土台作りに優秀な監督である。
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- 日本サッカーの挑戦(1993年9月1日、講談社)- 著書
- オフト革命: 勝つための人材と組織をどう作るか(1993年10月1日、祥伝社)
- COACHINGハンス・オフトのサッカー学(1994年12月1日、小学館)- 著書
- オフト革命: ワールドカップ日本出場の原点をつくった男(1998年1月1日、祥伝社)
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