井原正巳(いはら まさみ、1967年9月18日 - )とは、日本の元プロサッカー選手、サッカー指導者である。滋賀県甲賀郡水口町(現:甲賀市)出身。
J1リーグの柏レイソル監督。元サッカー日本代表。
ポジションはDF(センターバック)。182cm74㎏。利き足は右足。
概要
1990年代の日本を代表するDFであり、現役当時は「アジアの壁」と呼ばれ、元韓国代表の洪明甫と並んでアジア最高のリベロと評されていた。1995年にはアジア年間最優秀選手賞を受賞。
日本代表では横山謙三監督の時代から長年ディフェンスリーダーを務め、A代表CAP数122は遠藤保仁に抜かれるまで歴代1位であった。ちなみに、日本人で代表キャップ100試合を初めて達成した選手でもある。1993年の「ドーハの悲劇」、1997年の「ジョホールバルの歓喜」を経験。日本が初出場となった1998 FIFAワールドカップにはキャプテンとして出場している。また、サッカーの聖地であるウェンブリー・スタジアムで得点を決めた唯一の日本人サッカー選手でもある。
クラブレベルでは、前身の日産自動車の時代から横浜マリノスで長年活躍。Jリーグ創成期のスター選手の一人であり、1992年と1993年のアジアカップウィナーズカップ連覇、1995年のJリーグ初優勝に大きく貢献し、「ミスター・マリノス」と呼ばれていた。キャリアの晩年にはジュビロ磐田、浦和レッズでもプレーしている。
2002年に現役を引退した後は、2009年より指導者に転身。アビスパ福岡や柏レイソルの監督を歴任し、後にプレミアリーグのアーセナルでプレーする冨安健洋の才能を見出し、指導している。
現役時代の経歴
生い立ち~学生時代
滋賀県甲賀市で3兄弟の末っ子として生まれ、小学3年生の頃兄がプレーしていた貴生川サッカー少年団でサッカーを始める。当時のポジションはFWで、小学5年のときには滋賀県大会に優勝し、全国大会に出場している。
中学の頃は甲賀市立水口中学校のサッカー部に所属。3年連続で滋賀県大会に優勝し、この頃から滋賀県内では有望な選手となっていた。高校は県内の強豪校である守山北高校に進学。2年生時の1984年に滋賀県予選を勝ち抜き、第65回全国高校サッカー選手権に出場。1回戦で敗退している。
高校卒業後は筑波大学に進学。当初は体育教師になることを考えていたが、大学1年の頃にU-20日本代表に選出。この世代のFWには武田修宏ら突出したタレントが揃っており、DFに空きがあったことから当時の松本育夫監督の薦めもあってDFにコンバートされる。このコンバートが転機となって才能が開花。2年生になるとフル代表にも呼ばれるほどの選手となり、大学でも1986年、1987年に関東リーグと総理大臣杯で連覇を果たしている。また、筑波大学の同学年には後に日本代表でも長くチームメイトとなる中山雅史も在籍しており、センターバックでコンビを組んでいた。
日産自動車、横浜マリノス、横浜F・マリノス
大学卒業後の1990年に横浜マリノスの前身である日産自動車サッカー部に入団。当時の日産は木村和司や水沼貴史らを擁し、2年連続で三冠を獲得した黄金期にあった。そんなチームでもオスカー監督はルーキーながらも井原をレギュラーとして起用。入部1年目でJSLカップ優勝を果たし、1991年には天皇杯に優勝。翌年にはアジアカップウィナーズカップ優勝にも貢献している。
Jリーグ発足に伴いプロサッカー選手となり、クラブが横浜マリノスとなった1992年には天皇杯を連覇。Jリーグ開幕年の1993年シーズンからはキャプテンに就任。4月16日のアジアカップウィナーズカップ決勝第2戦ではペルセポリスを完封し、大会連覇を果たしている。
1993年5月15日の国立競技場でのヴェルディ川崎との歴史的なJリーグ開幕戦ではキャプテンとして出場し、勝利に貢献。このときの心境を「サッカーやってて良かったなと思いました。グランドに出たとき涙が出てきた」と語っている。この年は32試合に出場。鉄壁の守備が評価され、Jリーグ初年度のベストイレブンに選出。1994年はチームは年間6位と不本意な成績に終わったが、自身は2年連続でJリーグベストイレブンに選出。5月4日のヴェルディ川崎戦ではJリーグ初ゴールを記録している。
1995年はホルヘ・ソラーリ監督のもとで堅守を構築し、1stステージ首位を走る。シーズン途中にソラーリ監督が突然退任し、早野宏史が監督に昇格。川口能活、松田直樹、安永聡太朗といった若手が台頭してくる中でチーム内ではベテランとなったが、チームリーダーとして最終ラインを統率し、苦しみながらもステージ優勝を果たす。宿敵ヴェルディ川崎とのJリーグチャンピオンシップでは、三浦知良やラモス瑠偉らタレントを揃えた強力攻撃陣を2試合に渡って見事にシャットアウト。第2戦ではセットプレーからダイビングヘッドによる値千金の決勝ゴールを決め、マリノスを初のJリーグ年間王者に導く。この年、3年連続でJリーグベストイレブンに選出され、アジア年間最優秀選手賞を受賞するなど、キャリアの中でもっとも輝いたシーズンとなった。
しかし、1996年になるとチームは低迷。1997年は攻撃的なスタイルにチームが舵を切ったこともあってこれまでの堅守を維持できなくなっていた(もっともワールドカップ最終予選のためシーズン後半戦は不在だった)。1998年はJリーグ開幕から5年連続で選出されていたベストイレブンから初めて落選となる。
1999年からクラブは横浜フリューゲルスとの吸収合併によって横浜F・マリノスとなる。中村俊輔ら新たなスターが台頭する中で、32歳となった井原はこの頃から衰えが見られるようになっていた。優勝争いを演じるチームの中でレギュラーとしてプレーし続けたが、シーズン終了後に世代交代を推し進めるクラブからコーチへの就任を要請される。しかし、現役続行を希望したことから交渉は決裂。結果、前身の日産時代から10年間所属したクラブを退団することになる。
ジュビロ磐田
2000年に盟友・中山雅史がいるジュビロ磐田に移籍。シーズン序盤はレギュラーとしてプレーしていたが、怪我と年齢的な衰えもあって徐々にレギュラーを失うことが増えてしまい、1年でチームを去ることになる。
浦和レッズ
2001年より浦和レッズへ移籍。背番号は長年親しんできた「4」ではなく「3」となる。5月19日のガンバ大阪戦ではこれが現役最後のゴールとなる移籍後初ゴールを記録。
2002年にはハンス・オフトが監督に就任し、あのドーハの悲劇以来の再会を果たす。J1リーグ最終節、古巣横浜F・マリノス戦で先発フル出場をしたのを最後に、チームメイトの福田正博と共に現役を引退。Jリーグ通算297試合、5得点。
2004年1月5日には国立競技場で引退試合が開催されている。
日本代表
横山謙三監督時代
筑波大学2年生時の1988年に日本代表初選出。1月28日のUAEとの親善試合でAマッチデビューを果たす。代表ではそれまで最終ラインを支えていた加藤久の後継者として期待され、5月29日のキリンカップサッカー1988ではジーコ擁するCRフラメンゴを相手にボランチとして出場している。
1989年には1990 FIFAワールドカップアジア一次予選では21歳にして不動のCBとなり、6試合全てにフル出場。しかし、結果は北朝鮮に競り負け、一次予選敗退となる。
1991年には三浦知良、ラモス瑠偉の加入もあってチームの戦力がアップ。キリンカップサッカー1991では、ブラジルの名門バスコ・ダ・ガマ、イングランドの名門トッテナム・ホットスパーを相手に勝利し、日本代表の国際大会における初優勝に貢献している。
ハンス・オフト監督時代
初の外国人監督であるハンス・オフト監督の就任後は、急成長を遂げる日本代表のなかで柱谷哲二と不動のセンターバックコンビを形成し、日本の守備の要となる。1992年にはダイナスティカップで優勝。そして同年10月に広島で開催されたAFCアジアカップ1992では、グループリーグ最終戦のイラン戦で、敗退濃厚な中での終盤に起死回生となる三浦知良の決勝ゴールをアシスト。決勝トーナメントに入ってからも守護神の松永成立が準決勝の中国戦で退場になる危機を迎えながらも守備陣を支え、決勝のサウジアラビア戦でも見事に完封。日本のアジア初制覇に大きく貢献し、日本サッカーの夜明けを迎えることになる。
1993年5月5日の1994 FIFAワールドカップ・アジア一次予選のスリランカ戦ではAマッチでの初ゴールをマーク。そして10月にカタール・ドーハで開催されたアジア最終予選では体調不良を抱える柱谷をカバーしながら奮闘。一次予選から通算して全試合にフル出場するが、最終戦のイラク戦のロスタイムに同点ゴールを許す「ドーハの悲劇」によってワールドカップ初出場の夢をあと一歩のところで逃す。
ファルカン監督時代
急速な世代交代を進め、オフト時代の多くの選手が代表を外れることになったファルカン監督時代にも引き続きディフェンスリーダーとして選出。この頃から代表での背番号が従来の7番からマリノスと同じ4番に変更されている。1994年10月の広島アジア大会では準々決勝の韓国戦で試合終盤に一時は同点となる目の覚めるようなスーパーロングシュートを決めている。だが、その後に勝ち越しを許し、ベスト8で敗退。ファルカン監督は退任となった。
加茂周監督時代
1995年1月、オフト時代の仲間が多く復帰したインターコンチネンタルカップに出場するが、ナイジェリアに2失点、アルゼンチンに5失点でいずれも大敗という散々な結果に終わり、世界との差を痛感させられる。6月にイングランドで開催されたアンブロカップでは、聖地ウェンブリーで地元イングランドを相手に奮闘。後半17分には三浦知良のコーナーキックから一時は同点とするゴールを決め、ウェンブリーでゴールを決めた初の日本人選手となる。試合は1-2で敗れたものの、予想外の善戦で欧州のメディアやファンを驚かせた。
1996年になると、柱谷が代表に選出されなくなったことで加茂監督から代表のキャプテンに任命される。キャプテンとして迎えた初の公式大会となるAFCアジアカップ1996では、先のアトランタオリンピックで活躍した前園真聖、川口能活が加わり、グループリーグを首位で突破。しかし、準々決勝でクウェートを相手に完敗し、連覇を果たすことはできなかった。
30歳となった1997年はワールドカップ初優勝がかかった勝負の一年となる。20歳の新司令塔・中田英寿が加わり、1998 FIFAワールドカップ一次予選を問題なく通過。しかし最終予選ではホーム・国立競技場での韓国戦では5バック変更で混乱が生じてしまい、リードを守り切れずに敗戦。続くアウェイのカザフスタン戦でも試合終了間際に裏を取られる形で同点ゴールを許し、引き分けに終わる。予選敗退の危機を迎えたことで加茂監督は更迭され、岡田武史コーチが監督に昇格する。
岡田武史監督時代
新体制になってすぐの試合となったアウェイのウズベキスタン戦では前半に先制される最悪のムードに陥ってしまう。追い込まれてしまった状況で、試合終了間際に最終ラインから放ったロングフィードが呂比須ワグナーの同点ゴールをアシスト。しかし、続くホームのUAE戦では累積警告で出場停止となった中でチームはスコアレスに終わってしまう。メディアやファンの批判はキャプテンである井原にも向けられ、リーダーシップの欠如を指摘されるなど、苦しい時間を過ごすことになる。
背水の陣で迎えたアウェイの韓国戦だったが、この試合に完封勝利。これで息を吹き返した日本は続くカザフスタン戦に大勝。後半22分には名波浩のコーナーキックをボレーで合わせ、チームの4点目を決めている。そしてマレーシア・ジョホールバルでイランとの運命の第三代表決定戦を迎える。一度は逆転される苦しい試合展開となった中でキャプテンとしてチームを鼓舞し続け、延長戦での岡野雅行のVゴールで日本が勝利。悲願であったワールドカップ初優勝を果たす、「ジョホールバルの歓喜」が訪れ、背負っていた大きな重圧から解放された瞬間でもあった。
初のワールドカップとなった1998 FIFAワールドカップ・フランス大会でもキャプテンとして出場。初戦のアルゼンチン戦、第2戦のクロアチア戦と格上相手に守備的な戦術が採用された中で奮闘するが、ガブリエル・バティストゥータ、ダヴォール・シュケルといった相手のエースにいずれもワンチャンスを決められ連敗。第3戦のジャマイカ戦でも攻撃的に出た裏を突かれて2失点。結局、3戦全敗に終わる。
フィリップ・トルシエ監督時代
フィリップ・トルシエ監督就任当初も引き続き代表のキャプテンとして3バックの中央を務めていた。しかし、1999年にパラグアイで開催されたコパ・アメリカ1999では本気の南米勢に太刀打ちできず、惨敗。第3戦のボリビア戦では代表キャリアで初の退場処分を受けてしまう。このコパ・アメリカでの敗戦を受けてトルシエ監督はシドニーオリンピック世代を中心としたチーム作りに舵を取り、その後再び代表に招集されることはなかった。
2002 FIFAワールドカップではアジア代表として1次リーグ抽選会のドロワーを務めている。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1990ー91 | 日産自動車 | JSL1部 | 22 | 2 | |
1991ー92 | 日産自動車 | JSL1部 | 22 | 0 | |
1993 | 横浜マリノス | Jリーグ | 32 | 0 | |
1994 | 横浜マリノス | Jリーグ | 41 | 1 | |
1995 | 横浜マリノス | Jリーグ | 47 | 1 | |
1996 | 横浜マリノス | Jリーグ | 29 | 1 | |
1997 | 横浜マリノス | Jリーグ | 22 | 0 | |
1998 | 横浜マリノス | Jリーグ | 27 | 0 | |
1999 | 横浜F・マリノス | J1リーグ | 25 | 0 | |
2000 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 20 | 1 | |
2001 | 浦和レッズ | J1リーグ | 26 | 1 | |
2002 | 浦和レッズ | J1リーグ | 28 | 0 |
個人タイトル
引退後・指導者としての経歴
引退後はNHKサッカー解説、TBSラジオ番組『スポーツBOMBER!』パーソナリティー(2003年度から下半期・木曜日担当)、日本サッカー協会認定のJFAアンバサダー、びわこ成蹊スポーツ大学客員教授などを務めていた。
2006年4月にJFAのS級ライセンスを取得。以降、指導者として現場に復帰することとなる。
同年8月から2008年8月までU-23日本代表(北京オリンピック代表)のアシスタントコーチに就任。
2009年からは柏レイソルのヘッドコーチに就任。2010年のJ2リーグ優勝及び2011年のJ1リーグ優勝にも立ち会っている。2009年7月、監督の高橋真一郎が解任され、後任監督が決定するまでの代行監督を務めた。2013年にはシーズン中に監督の辞意を表明したネルシーニョに代わって天皇杯の1試合指揮を執っている。2014年シーズンいっぱいをもって退任。
アビスパ福岡
2015年にJ2リーグのアビスパ福岡の監督に就任、初の正式な監督業となる。コーチには三浦文丈、チーム統括部長に鈴木健仁と横浜マリノス時代のチームメイトがスタッフとして加わっている。開幕節から3連敗し一時は最下位に沈んだものの、井原が挑んだ3バックによる守備の再構築が功を奏し第4節からクラブ記録を更新する11戦無敗(8勝3分)と戦績が向上。相手によって3バックと4バックを使い分けるシステムも機能し始め、J1昇格プレーオフに進出できる3位でシーズンを終える。昇格プレーオフは、準決勝でV・ファーレン長崎戦に勝利。決勝でセレッソ大阪に引き分けでレギュレーションによりクラブを5年ぶりのJ1昇格に導く。
J1リーグで指揮を執ることとなった2016年だったが、流石に他チームとの戦力の差を埋めきれず苦戦。1stステージはわずか2勝にとどまり最下位に終わり、2ndステージでも2勝2分13敗と苦しみ、1年でのJ2降格となる。一方、高校3年生だった冨安健洋をトップチームに上げてデビューさせ、シーズン後半戦にはレギュラーに抜擢。後の日本サッカー界にとっては大きな功績をあげたと言える。
J2降格となった2017年だが、これまでの手腕を評価されて続投。前半戦は首位で折り返すなど1年でのJ1復帰へ順調な道のりを歩んでいたが、後半戦に入って失速。最後まで昇格争いに加わりながらも4位でシーズンを終え、J1昇格プレーオフに進出。決勝まで進むが、3位の名古屋グランパスとの決勝を0-0で引き分け、レギュレーションによりJ1復帰を果たせなかった。
2018年はベルギーに移籍した冨安の穴を埋めきれず、開幕から低迷。それでも一時は盛り返したが、最終的にプレーオフ進出すら果たせずに終わる。シーズン終了後、J1復帰を果たせなかった責任を取る形で退任となる。
柏レイソル
2019年より再び柏レイソルのヘッドコーチに復帰。2023年5月23日、チームの成績不振によって退任となったネルシーニョ監督の後任として監督に昇格する。しかし1勝が遠く、低迷するチームを立て直す一手が打ち出せずにJ2降格の危機に直面する。それでもこの年はJ2に降格するチームが1チームのみだったこと、後半戦に犬飼智也が加入したことで守備が安定したことで19位で終え、J1残留を果たす。天皇杯では決勝まで勝ち残るが、あと一歩でタイトルを逃している。
プレースタイル
その鉄壁の守備から「アジアの壁」といわれ、冷静な判断と鋭い読み、向かってくる相手選手からボールを奪う上手さ、体をぶつけられても倒れない強さなど、ディフェンダーとしての要素を全て備えていた。警告を受けることも少なく、ポジショニングと判断力によって無理なく相手FWを封殺する。
大学1年生までFWということもあって攻撃でも貢献でき、最終ラインからの正確なフィードによってゴールに結びつけることも多く、最後尾から自ら持ち上がって強烈なロングシュートを放つことも。
人物・エピソード
前述したように中山雅史は筑波大学時代の同級生であり、同じコンビニでアルバイトをするなど仲が良い。
現役時代はJリーグトップクラスの人気選手で、知的でクールなルックスから女性ファンも多かった。
関連動画
書籍
- 井原正巳 NO.1リベロへの道 (地球スポーツライブラリー) - 1995年12月25日(TOKYO FM出版)
- 井原正巳のディフェンス論―Essence of defense (B・B MOOK 406 スポーツシリーズ NO. 285 Socce) - 2006年4月1日(ベースボール・マガジン社)
関連項目
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