アンドレス・イニエスタ単語

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アンドレスイニエスタ
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アンドレス・イニエスタ・ルハン(Andrés Iniesta Luján, 1984年5月11日 - )とは、スペインアルバセテ出身の元サッカー選手である。
サッカースペイン代表

スペインメディアからはドンアンドレス、魔術師手品師、スペイン至宝などと称されている。イエニスタと誤読誤植しないように注意。

174cm68kg。ポジションMF。利き足は右足。

概要

2010年代FCバルセロナ黄金期を支えた中心選手の1人で、4-3-3の左インサイドハーフ戦場だったが、トップ下やウイングセンターハーフで起用されることもある。

背は170cmと低めだが、戦術理解・判断力、パス出し、パスを受けるためのランニング、ドリブルに優れる。(ヘスス・スアレスは当然として)メッシルーニーら多くの人が現在世界最高のミッドフィルダーにイニエスタの名を挙げる。よくメッシサッカー天才ならばイニエスタは達人と表現され、「ピッチ内外で模範であり続ける選手」と称される。

バルセロナの下部組織であるラ・マシアの出身で、2002年トップチームデビューしてから2018年までの16年間バルセロナに在籍し、ラ・リーガに9回優勝UEFAチャンピオンズリーグにも4回優勝と数々のビッグタイトルクラブにもたらしている。2009年2015年にはトレブル三冠)を達成。2015-16シーズンから3シーズンの間キャプテンを務めている。

2018年からはJリーグヴィッセル神戸プレー。観客動員に苦しむJリーグ救世主となっただけでなく、2019年クラブ史上初タイトルとなる天皇杯優勝をもたらしている。

スペイン代表には2006年デビューしており、2010年ワールドカップ優勝2008年2012年EURO連覇に貢献。バルセロナと同様、スペイン代表の黄金期力として支えている。特に2010 FIFAワールドカップの決勝では延長戦で決勝ゴールを決め、スペインに初のワールドカップ優勝をもたらしたことで英雄となる。EURO2012では、大会のMVPいている。

ラ・リーガでの通算成績は442試合35ゴールスペイン代表としての通算成績は126試合13ゴール
実は得点アシストという数字に残る記録としては特別優れたものを残していない。フィジカル面も特段優れているわけでもない。しかし、イニエスタがいるといないではチームボールの循環がまるで違ってくると言われるほどの重要なプレイヤーである。しばしば難しいプレーを簡単にこなしてしまうプレイヤーと形容される。

プレーエリアは左のハーフスペースからバイタルエリア(相手のDFラインと中盤のラインの間)。

彼のプレーには理も駄もなく、ごく自然プレーの最適解を導き出す力を備えている。そのため、試合中で高等テクニックを使用することがほとんどない(彼が得意とするダブルタッチも初歩的なテクニックである)。

イニエスタ自身は、MFに必要な要素として、まず重要なのは「ポジショニング」。あとは「体の向き」、「ファーストラップがうまいかどうか」、「味方とのコンビネーション」、「常に顔をあげて周りを見てるか」、「ゲームの状況を把握できているか」を挙げている。

経歴

生い立ち

スペインアルバセテのフエンテアルビージャ出身。三人兄弟ん中で、がいる。裕福な庭の子として生まれ育ち、両のおかげで必要なものは何不自由なく手にすることができたので、その代わりに両の自分に対する願いを尊重していた。

4歳の頃にはすでにサッカーボールを蹴って遊んでおり、サッカー興味を持ち始めていた。当時ファンだったのはレアル・マドリードで、6歳の頃にはに「キャプテン翼」を観てから学校に通っていた。

8歳のときに地元のアルバセテ・パロンビアの下部組織に入団。幼い頃から体が小さく、周囲からはサッカーをするのは理と見られていたが、12歳のときの出場した全大会で高いドリブルテクニックと視野の広さを見せ、FCバルセロナレアル・マドリードといった名門チームを含めた様々なクラブから注されるほどの存在となる。

バルセロナ

12歳FCバルセロナユースに入団。当初はレアル・マドリードに入団する予定だったが、両とともにバルセロナの下部組織寮であるラ・マシアを見学した際に好印を持ち、バルセロナへの入団を決意する。このとき、まだ家族と離れて暮らしたくなかったというのが本音だったが、アカデミーサッカー選手として成長するために1人故郷を離れ、ラ・マシアに入寮することを決断する。

当初は守備的MFとしてプレーしていたが、プレーの特徴から攻撃的MFに転向。シャイな性格のためたびたびホームシックにかかったが、順調に成長を見せて才が開していき、U-15のときにはキャプテンを務める。1999年ナイキプレミアカップでは、ロスタイムに決勝ゴールを決めて優勝に貢献し、大会の最優秀選手に選ばれている。このときトロフィーを手渡された相手が当時のトップチームキャプテンであり、後に選手・監督の関係でバルセロナ黄金時代を築くジョゼップ・グアルディオラだった。グアルディオラからは「今まで見てきた中で最高の選手」と記した写真を贈られている。このとき、イニエスタの類まれな才を見抜いたグアルディオラは、トップチームの若手の有望だったシャビに対し、「あの若者たち二人を引退に追い込むかもしれない」と語っている。

その後、アンダー世代のスペイン代表でも々しい功績を残すと、バルセロナのみならずスペイン中からも将来のスター補として期待されるようになる。

2002年監督だったルイス・ファン・ハールに才を認められトップチームに昇格。10月29日UEFAチャンピオンズリーグクラブブルージュ戦で18歳にしてデビューを果たす。限られた出番の中で非な才を見せ始め、メディアからも高く評価される。なお、トップチーム昇格後に家族のために地元にを建てており、現在ではとえんじのバルサカラーに塗られ、観光名所となっている。

2003-04シーズンは、ロナウジーニョデコシャビ・エルナンデスの控えという位置づけだったが、リーグ戦11試合に出場。2004年4月10日ラ・リーガ第32節バリャドリード戦では、後半34分に途中出場すると記念すべきラ・リーガゴールを決めている。

2004-05シーズンからレギュラーに定着。途中出場がまだ多かったものの、リーグ戦37試合に出場するなど、徐々に出場機会を増やしていき、バルセロナの6シーズンぶりのラ・リーガ優勝に貢献する。

2005-06シーズンは、シーズン前半は途中出場が多かったものの、2005年12月シャビが長期離脱したことでスタメンとしての起用が増える。そして、ラ・リーガ連覇と初のUEFAチャンピオンズリーグ優勝を経験。スター選手いのチームで高いレベルプレーを披露し、選手として大きく飛躍しシーズンでもあった。

2006-07シーズンは、ロナウジーニョの欠場が多かったこともあってこれまで経験したことのない左ウイングで起用されることが増え、プレーの幅を広げる。CLレスフキ・ソフィア戦では、自身プロになってからは初の1試合2ゴール記録。その後も3トップの一としてプレーする機会が多く、ラ・リーガでは37試合に出場し、6得点3アシストという成績を残した。ドンバロンによるシーズンを通しての選手採点ではリーグ全体でも5位と高評価を受けている。

当初の背番号は「24」だったが、2007-08シーズンから背番号「8」を背負うこととなる。レアル・マドリードへの移籍話が浮上したが、バルセロナへの忠を宣言し噂を否定する。チームは前年に続いて冠に終わり、いわゆる暗黒時代に突入していたが、スペイン各誌の採点はリーグでもトップクラスの高さであり、混沌としていたチームの中で安定したプレーを続けていた。

ジョゼップ・グアルディオラ監督が率いた2008年から2012年の間、バルセロナ黄金時代を迎え、シャビセルジ・ブスケツと共に形成される中盤は圧倒的なポゼッション力を誇り、後のサッカー界に大きなを与えるほどのクオリティの高さを発揮。
2008-09シーズンは足の負傷の2008年年末は出場時間を限定し、途中出場が多くなっていたが、年明けからは復調し、2009年1月3日マジョルカ戦でゴールを決めている。UEFAチャンピオンズリーグ準決勝、チェルシー戦のセカンドレグロスタイムに決勝進出を決定づけつゴール叩き込み、勝ち抜けに貢献。彼の放った一撃はバルセロナのこの試合一のシュートであり、クールな立ち振る舞いで知られるグアルディオラを忘れて狂喜乱舞する程の劇的なゴールであった。イタリアローマで行われた決勝戦ではマンチェスター・ユナイテッドを圧倒し、見事欧州王者にいている。ちなみにこのシーズンにはラ・リーガ、コパ・デルレイと合わせて3冠を達成。

2009年8月8日ユース時代からの友であるダニエルハルケが急死したことで大きなショックを受け、加えて負傷のチーム練習に参加できず、グアルディオラ監督の判断で2009-10シーズンの前半は途中出場が中心になる。FIFAクラブワールドカップ2009では準決勝のアトランテFC戦では相手DF2人の間を通す絶妙なスルーパスでペドロのゴールアシスト。後半戦に入りスタメンでの出場が増えるが、またも練習中に負傷してチームを離脱。不本意なシーズンとなる。後にイニエスタ本人はこの頃を「人生でもっとも辛い時期だった」と振り返っている。

2010-11シーズンの開幕戦であるラシンサンタンデール戦では、およそ30mほどの距離からのロングシュートを決め、順調なスタートを切り、シャビブスケツと共に圧倒的なポゼッション力を生み出し、ロンドをベースとしたバルサスタイル完成形を体現する。また、2010年南アフリカワールドカップスペインの初優勝をもたらしたゴールを決めたことの経緯から、アウェイゲームで相手チームサポーターからスタンディングオベレーションを送られた。チームは歴代最強と称されるほどの類の強さで全てのコンペティションにおいて勝ち抜いていき、レアル・マドリードとのしいライバル関係にありながらもリーガチャンピオンズリーグの二冠を達成。バルセロナの時代を築いた力として揺るぎない地位を確立している。

2011-12シーズンは、出場した試合の連続記録が55試合というリーグ記録立。2011年8月17日スーペル・コパ・デ・エスパーニャレアル・マドリードとの2nd legで先制ゴールを決め、タイトル獲得に貢献。12月には、FIFAクラブワールドカップ2011に出場するため来日し、クラブ世界一を達成。チャンピオンズリーグでは、準々決勝ミラン戦の2nd leg、準決勝チェルシー戦の2nd legでゴールを決めている。チームが獲得したタイトルこそコパ・デルレイのみだったが、このシーズンの活躍ぶりが高く評価され、2012年バロンドールの最終補に残り、最終的に3位となった。

2012年グアルディオラ監督が去った後のチームでもシャビと共に攻撃のタクトを振るい、2012-13シーズンでは、ティト・ビラノバ監督のもと攻撃のテンポがよりスピーディーに変化を遂げながらもリーグ最多となる16アシスト記録リーガ・エスパニョーラ第13節のレバンテ戦では1ゴール3アシスト記録し、チームを4-0の勝利に導く。2012年12月23日には2015年までとなっていたバルセロナとの契約を3年延長し、2018年6月までとする新契約サイン。年間での勝ち点100を達成しての2シーズンぶりのラ・リーガタイトル奪還に貢献する。また、この年の8月UEFA欧州最優秀選手賞に選ばれている。

2013-14シーズンは、ヘラルド・マルティーノ監督の戦術上の問題によって全体のチームバランスが狂ってしまい、ゲームコントロールに苦労することとなる。2013年12月23日には、2015年までとなっていたチームとの契約2018年までに延長する。

ルイス・エンリケ監督が率いた2014-15シーズンでは、チーム戦術の変更に伴って自身の役割が変更し、守備の負担が増したことでゲームメイクに参加する機会が以前よりも減ってしまう。それでもチャンピオンズリーグ決勝のユヴェントス戦では、イヴァン・ラキティッチの先制ゴールアシストし、この試合のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれている。メッシスアレスネイマールMNSトリオ爆発的な攻撃力を前面に出し、ポゼッションの重要度が以前よりも下がった中でバランスを取ることに苦心しながらもチームを支え、自身にとってもバルサにとっても2度となるラ・リーガCL、コパのトレブル三冠)達成に貢献する。

2015-16シーズンからは、シャビが退団したことに伴い、キャプテンに就任。しかし、左サイドネイマールとの関係上引き続き守備の負担が大きくなり、筋肉系のトラブルが増える。

2016-17シーズンはさらに負傷による離脱を繰り返し、リーグ戦の出場は23試合にとどまってしまう。それでも、2016年11月23日におこなわれたレアル・マドリードとのエル・クラシコでは1ゴール1アシストの活躍により敵地サンチャゴ・ベルナベウでの4-0の大勝に貢献する。交代時にはアウェーにも関わらず相手サポーターからスタンディングオベーションが贈られる。

2017-18シーズンは、この年から就任したエルネストバルベル監督の意向によって守備の負担が軽減され、怪リスクを考慮してプレー時間を制限したことでコンディションが安定し、出場した試合では高いパフォーマンスを披露するようになる。2017年10月5日クラブ史上初の生涯契約を結んだことが発表された。2018年に入ってから退団が取り沙汰されるようになり、シーズン終盤になると退団が確実視されるようになる。4月23日コパ・デル・レイ決勝のセビージャ戦では、メッシからのアシストから1ゴール記録するなど素晴らしいパフォーマンスを見せ、チームの4年連続30回のコパ・デル・レイ制覇に大きく貢献し、リーガタイトルと合わせて内2冠にく。その後今シーズンをもって退団することを正式に発表。最後の試合であるレアル・ソシエダ戦で勝利を飾り、22年間過ごし、33個のタイトルをもたらしたクラブとの別れを告げた。

バルセロナでの通算成績はラ・リーガで442試合出場35得点チャンピオンズリーグでは、16シーズン連続で出場し135試合出場15得点

ヴィッセル神戸

2018年5月において各メディアからバルセロナFCからヴィッセル神戸への移籍が報じられ世界中で話題となり、5月24日神戸への移籍が正式に決定する。彼にはバルセロナ時代の背番号が用意されたものの既にほかの選手で登録されていたため規定上着用が不可能ではあったが当事者が背番号を譲る旨を伝えたことに加えJリーグ側からルール改訂されたことで背番号「8」を着用することが正式に決定した。イニエスタが加入したことで神戸ホームゲームの観客動員数が大幅に増えただけでなく、アウェイ戦での観客動員数も増え、欧州メディアからの注度も増すなど、Jリーグ全体に大きなを与えている。移籍後3試合となった8月11日ジュビロ磐田戦でJリーグゴール記録している。

2019年4月には、ルーカス・ポドルスキに変わってキャプテンに就任。さらにこの年、バルセロナスペイン代表でチームメイトだったダビド・ビジャが加入。バルセロナ化を推し進める神戸は一時は降格圏に近づくほど迷走していたが、6月にトルステン・フィン監督が就任して以降調子を上げていく。6月17日名古屋グランパス戦では移籍後初の1試合2ゴール記録シーズン前半戦は欠場が多かったイニエスタも後半戦は高いパフォーマンスを見せ、2019年Jリーグベストイレブンに選出される。12月21日天皇杯準決勝の清水エスパルス戦では1ゴール1アシストの活躍によって決勝進出へと導く。新国立競技場の初お披露となった元旦の決勝でも、鹿島アントラーズを相手に中盤を支配し、チーム創設以来初のタイトルとなる天皇杯優勝をもたらす。試合後、キャプテンとして優勝トロフィ(天皇杯)を掲げている。

2020年には、自身にとってもチームにとっても初となるAFCチャンピオンズリーグACL)に出場し、初戦では2アシストの活躍でチーム勝利に貢献する。Jリーグでは9月フィン監督が退任するなどまたもチームは迷走してしまう。一方、異例の集中開催となったACLでは、第3節の広州恒大戦で1ゴール1アシスト記録するなど、高いパフォーマンスチームグループステージ突破に導く。12月7日のラウンド16上海上港戦では前半31分に先制ゴールを決めるなど、MOMに選ばれる活躍で勝利に貢献。しかし、この試合で右太もも裏を負傷し後半23分に交代となる。準々決勝の水原戦ではスタメンを外れるものの、延長後半8分から強行出場。PK戦では1人キッカーとして成功させ、神戸の準決勝進出に貢献。だが、PKを蹴った際に負傷をさらに悪化させてしまい、右足大腿直筋近位部腱断裂の重傷を負ったことが判明。全治4かと診断さえれ、12月15日バルセロナで手術を受ける。

2021年5月1日J1リーグ第12節サンフレッチェ広島戦で後半30分から出場し、143日ぶりに公式戦のピッチに立つ。
自身の37歳の誕生日でもある5月11日神戸との契約2023年までの2年延長したことを発表。このとき、自身のキャリア神戸で終えたいという希望を口にしている。このとき、前日に重要な発表があるとチームからリリースされていたため、引退を予想するファンも多く、ツイッター世界レンド入りするほどの注を集めた。
年齢的なものと故障を抱えていることからフル出場することが少なくなるが、それでもレベルの違う高次元プレーチームを牽引。9月18日J1第29節コンサドーレ札幌戦では、後半26分に交代が告げられると、しく昂しペットボトルを蹴りつける行為に出る。もっとも試合後、すぐにSNSにおいて自身の行為を謝罪している。10月2日J1第31節では、ACL出場権を争う浦和レッズと対戦。この重要な試合で前半21分と34分に連続ゴールを決めるなど、2ゴール1アシスト大車輪の活躍によって大勝をもたらす。コンディションが回復してからは世界レベルゲームメイク大迫勇也武藤嘉紀が加入した新しい攻撃リードし続け、チーム過去高順位となる3位にまで押し上げ、ACL出場権をもたらす。この年、2年ぶりにJリーグベストイレブンにも選出されている。

2022年は、3月6日J1リーグ第3節広島戦でシーズンゴールを決める。だが、ACLとの過密日程もあってコンディション調整に苦慮し、その間にチームリーグ戦開幕から11試合未勝利と低迷する。だが、5月14日の第13節鳥栖戦でスタメンに復帰すると、1ゴール1アシストの大活躍でチームに待望の初勝利をもたらす。8月6日セレッソ大阪戦に出場したのを最後に怪のために長期の戦線離脱となり、10月29日の第34節川崎フロンターレ戦で3かぶりに復帰。チームシーズン終盤の巻き返しでJ1残留を果たし、去就が注されたが、2023年も残留することが発表される。

2023年は39歳という年齢もあってコンディションがなかなか上がらず、加えて神戸ロングボール体の強度を重視したサッカーに転換し好調だったこともあり出場機会が減する。そして、5月25日記者会見で今限りでの退団を発表する。6月6日には、国立競技場での古巣であるバルセロナとの善試合に出場し、かつての盟友であるバルセロナシャビ監督と再会を果たしている。7月1日日本でのラストマッチとなったホームでの札幌戦にスタメンで出場。後半12分までプレーし、試合後は盛大なセレモニーがおこなわれ、着を持った日本ファンに別れを告げた。

エミレーツ・クラブ

2023年8月9日UAEプロリーグのエミレーツ・クラブに1年契約で移籍することが発表される。背番号は「8」。8月25日の第2節アジュマーン戦で新地でのデビューを飾ると、この試合でPKを決めるなど1ゴール1アシストの活躍を見せる。しかし1部リーグに昇格したばかりのチームは成績が低迷し、2024年に入ってからはベンチにも入れない試合が続くなど出場時間が減ってしまう。3月1日の第15節アジュマーン戦では5試合ぶりに試合に出場し、キャリア通算1000試合出場の偉業を達成する。シーズン終盤は奮闘し、最終的に5ゴール記録するが、チームは2部降格となる。自身のキャリアで初の降格経験となった。7月契約満了により退団。

2024年10月8日(自身の背番号である8にちなんで)、現役引退を表明。

スペイン代表

U-16, U-20など各カテゴリの代表に選ばれており、2001年UEFA U-16欧州選手権と2002年UEFA U-19欧州選手権に出場し、両方の大会で優勝を経験。さらに、2003年11月UAEで開催された2003 FIFAワールドユース選手権に出場。グループリーグ第3戦のウズベキスタン戦では決勝ゴールを決め、決勝トーナメント出場に貢献。準決勝のコロンビア戦でも終盤に決勝ゴールとなるPKを決めるなど、中心選手として準優勝を果たし、大会のベストイレブンにも選出されている。

2006年5月15日、これまでフル代表の経験がかったにも関わらずルイス・アラゴネス監督から2006 FIFAワールドカップ本大会に出場するメンバーに選出され、スペイン民を驚かせる。大会直前のテストマッチとなったロシア戦で途中出場し、スペイン代表デビューを飾る。もっともアラゴネス監督は将来を見越して選出していたため、本大会に出場したのはグループリーグ突破が決まっていた第3戦のみとなった。

W杯後も代表にコンスタントに招集され、2007年頃からレギュラーとして起用されるようになる。アラゴネス監督はイニエスタ、シャビセスク・ファブレガスダビド・シルバを中盤に並べたチーム作りを進め、クワトロ・フゴーネスと呼ばれた4人の創造者の1人としてプレーUEFA2008予選では、中盤もしくは左ウイングとして起用され、スウェーデン戦では1ゴール1アシストの活躍を見せるなど、首位での本大会出場に貢献する。

2008年6月に開催されたEURO2008では、大会直前に食中毒を患いながらも力として出場し、シャビセスク・ファブレガスダビド・シルバと共に形成した「クアトロ・フゴーネス」の一として魅力的なフットボールを展開。グループリーグ第2戦のロシア戦ではダビド・シルバゴールアシストし、準決勝のロシア戦では質の高いクロスシャビの決勝ゴールアシストしてMOMに選ばれるなど44年ぶりの優勝に大きく貢献。シャビマルコス・セナら6人のチームメイトと共に大会のベストイレブンに選出される。

2009年は負傷のもあり、FIFAコンフェデレーションズカップを欠場。南アフリカW杯欧州予選も6試合のみの出場となった。

2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップにも出場。大会直前に足首を負傷するも、本番には間に合わせ、シャビダビド・シルバと共に中盤を支配し、各試合で高いポゼッション率を記録する。グループリーグ3戦チリ戦では、大会節100ゴールとなるゴールを決め、MOMに選出。準々決勝のパラグアイ戦では、ダビド・ビジャの決勝ゴールを演出し、MOMに選ばれる。決勝の対オランダ戦では優位に試合を進めながら0-0のまま延長戦に突入。延長後半11分に決勝弾を決め、スペイン代表は初の世界王者にいた。
ユニフォームを脱ぎ捨てて歓喜するイニエスタのアンダーシャツには「"DANI JARQUE SIEMPRE CON NOSOTROS"(ダニハルケ、いつも一緒だ)」と記されていた。これは1年前に他界したダニエルハルケにげたメッセージであり、ハルケの所属クラブであったエスパニョールを始めスペインに留まらず世界中に感動を与えた。
この大会でイニエスタは大会3度となる決勝戦のMOMに選ばれ、FIFAから大会のベストイレブンに選出。この年のバロンドールではチームメイトリオネル・メッシに次ぐ2位となっている。なお、彼の代表における活躍を称えてか、2010-11シーズン以降クラブリーグ戦において敵地のファンからイニエスタへの采がしばしば送られている。

2012年6月に行われたUEFA EURO2012にも出場。この大会はキャリアの絶頂期といえる時期にあり、圧巻のボールコントロールとパス捌きでスペインの中盤をリードし続け、シャビダビド・シルバと抜群の連携も見せる。イタリアとの決勝を含む3試合でMOMに選ばれる活躍を見せ、欧州連覇に貢献。大会の最優秀選手にも選出。バルセロナのみならず、要3大会連続優勝という史上初の偉業を成し遂げたスペイン代表の黄金時代を支えた中核となる。

2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップにおいても、決勝でブラジルに敗れて準優勝となったものの、グループリーグ3試合で15得点を奪ったチームにあってシルバーボールに選ばれる。

3度の出場となった2014 FIFAワールドカップでは、大きな期待を背負っての出場となったものの、グループリーグ第1戦のオランダ戦では、シャビと共にマンマークを付けられたことでプレーを制限されてしまい、かつて自身をトップチームに引き上げた恩師であるルイス・ファン・ハール監督の術中に嵌る。生命線を封じられたチームは5失点を許し、衝撃的な大敗を喫する。続くチリ戦でも、中盤が機不全の状態に追い込まれ敗戦。まさかの開幕2連敗で々にグループリーグ敗退という屈辱的な大会となる。

2016年に開催されたUEFA EURO2016では、初戦のチェコ戦でジェラール・ピケのゴールアシストし、勝利に貢献。しかし、準々決勝のイタリア戦では、相手のタイトな守備の前に高い位置でボールを持つことができず、しくミス立つなど低調な出来となってしまい、チームも0-2で敗れて3連覇を逃すこととなり、8年間代表を率いたビセンテ・デルボス監督が退任することとなる。

所属するバルセロナで負傷が頻発し、代表に合流できることが少なくなりつつあったが、34歳となっても必要な存在とみなされ、2018 FIFAワールドカップに出場。しかし、大会開幕の直前に監督が交代するという前代未聞の事態に陥り、混乱の中で4度ワールドカップを迎えることとなる。グループリーグは3試合ともスタメンで出場したが、本来のパフォーマンスとは程遠い出来で、スペイン内からも批判を受ける。ラウンド16のロシア戦はスタメンを外れ、後半22分からの出場となったが、チームPK戦で敗れ、敗退となる。試合後、スペイン代表からの引退を表明する。

代表通算126試合出場13得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
2002ー03 バルセロナ ラ・リーガ 6 0
2003ー04 バルセロナ ラ・リーガ 11 1
2004ー05 バルセロナ ラ・リーガ 17 6
2005ー06 バルセロナ ラ・リーガ 33 0
2006ー07 バルセロナ ラ・リーガ 37 6
2007-08 バルセロナ ラ・リーガ 31 3
2008ー09 バルセロナ ラ・リーガ 26 4
2009-10 バルセロナ ラ・リーガ 29 1
2010-11 バルセロナ ラ・リーガ 34 8
2011-12 バルセロナ ラ・リーガ 27 2
2012-13 バルセロナ ラ・リーガ 31 3
2013-14 バルセロナ ラ・リーガ 35 3
2014-15 バルセロナ ラ・リーガ 24 0
2015-16 バルセロナ ラ・リーガ 28 1
2016-17 バルセロナ ラ・リーガ 23 0
2017-18 バルセロナ ラ・リーガ 30 1
2018 ヴィッセル神戸 J1リーグ 14 3
2019 ヴィッセル神戸 J1リーグ 23 6
2020 ヴィッセル神戸 J1リーグ 26 4
2021 ヴィッセル神戸 J1リーグ 23 6
2022 ヴィッセル神戸 J1リーグ 24 2
2023 ヴィッセル神戸 J1リーグ 4 0
2023‐24 エミレーツ・クラブ ADNOCプロリーグ 20 5

個人タイトル

引退後

2024年12月15日東京味の素スタジアムで「EL CLASICO in TOKYO」と題された日本での引退試合を開催。シャビリバウド、ハビエルサビオラ、イケル・カシージャスロベルトカルロスファビオ・カンナヴァーロといったFCバルセロナレアル・マドリードのOBが集まった中、引退試合とは思えないガチな試合となった。試合中、久々となるシャビとの黄金コンビを披露。試合後、導者への転身を希望していることを明らかにする。

プレースタイル

卓越したボールコントロールとパスセンス、戦術眼を駆使してチームコントロールする中盤のマエストロ。ボールを絶えず動かして繋ぐバルセロナスタイルにおいて、彼の相手の間で受ける力、狭いスペースでのワンタッチコントロール、敵をかわす高い技術は欠かせないものとなっていた。常に正しいポジションを取っているため、ボールを受ける際に動く必要はく、ボールを受けるときは常に止まった状態で受けている。

ボールが足につくように止めることができる技術は、ジネディーヌ・ジダンと共通した力である。足についているからボールを見る必要はなく、敵の動きを見ることができる。イニエスタは、敵の動きを見透かすことができるを持っており、相手の先手を取ってプレーを選択することができ、常に優位に立つことに繋がっている。

プレー選択力の高さも特筆すべきもので、理と判断すれば受けたパスを後方に返して、動き直しからパスコースを作り、前へ運ぶ最良の選択肢を見つけるためこの作業を繰り返す。そのため、味方からは安心してボールを預けられるため、自然とイニエスタにボールが集まることになる。そのため、バルセロナ哲学そのものを体現している存在とも言われている。

人物・エピソード

イニエスタについて

お前シャビ)はオレを引退させるだろうが、あいつ(イニエスタ)はお前引退させるだろう
いま世界でもっとも完成された選手
刑の執行人となったのは世界最高のフットボーラー、イニエスタだった

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アンドレス・イニエスタ

21 ななしのよっしん
2018/08/16(木) 12:32:54 ID: y9ugzS7Aee
>>18
Jリーグと言うよりはヴィッセル神戸というチームが成熟してない。
昨日の試合を見てる限り、対戦相手のサンフレはチームとして良いサッカーしてるし。
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22 ななしのよっしん
2018/09/01(土) 22:17:45 ID: bbBrK0NJnk
奈良春日野」の2番で「イニエスタ」みたいなこと唄ってたなー、とか
急に思い出して調べたら「いによった」(去によった)かー、当時は関西の言葉わかんなかったなー…
と思ったんだが、何か似てるような気がする(妄想)
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削除しました ID: e5ZMe+F/iO
削除しました
24 ななしのよっしん
2021/05/10(月) 20:15:32 ID: sO5u3uhsed
明日会見ねえ
公式もはっきり言ってないけどなんか勘ぐっちゃうわな
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25 ななしのよっしん
2021/05/11(火) 22:49:36 ID: s8GclA4Ni9
正直37歳で大怪を負っていたこともあったから、引退だと思ってた。なのであと2年神戸でプレーしてくれることは素直に嬉しい
今日、気になり過ぎて仕事トイレに入ってスマホ開いてニュースを確認したわ
戦力はもちろんだけど、Jリーグの放映権が海外でも買われるようになったのはイニエスタのおかげなのは間違いないし、そういった意味でも大きい
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26 ななしのよっしん
2023/02/19(日) 00:15:55 ID: lMBLN469Dy
スペイン日本サッカー最大の違いは?と問われて
レベルですね」と嫌味なしではっきり言えるが好感度高いわw
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28 ななしのよっしん
2023/06/07(水) 05:02:54 ID: bHMTAXKn5H
スクラップ寸前のハゲが自分の全盛期そのままプレーしようとしては怪する日曜お父さんみたいだった。日本W杯スペイン破ったし強がりしくくわ。日本よりレベルの低いどこかに引き取って貰えるといいね
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29 ななしのよっしん
2023/07/02(日) 09:06:00 ID: DsYUX13o1e
とうとう退団か。正直もっと日本で見たかったけど
イニエスタ日本に来たばかりの頃、仕事退して神戸まで見に行ったのがいい思い出。生でイニエスタを見れたあの感動は忘れられないわ
本当に、ありがとう
次にこれだけのビッグネームJリーグに来ることなんてあるのだろうか?
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30 ななしのよっしん
2023/09/20(水) 20:00:20 ID: DYYocNqgsV
イニエスタに1億5千万円の支払いをめる」 ファンクラブ運営会社関係者は「契約内容を履行してくれない」「横柄な態度で連絡さえロクに取れない」
https://www.dailyshincho.jp/article/2023/09201131/exit
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