「城井鎮房/宇都宮鎮房」(きい・しげふさ/うつのみやしげふさ 1536 ~ 1588)は、戦国時代の武将・大名である。
身の丈六尺ほどで、鹿の角を手で引き裂く程度の大力
と語られた、鎌倉武士の血を色濃く受け継いだ怪力無双なる弓の達人。
大内氏から大友氏へ
鎌倉時代より続く豊前宇都宮氏の城井長房の子に生まれる。
父・長房が本家の宇都宮氏をとりまく内紛への介入に熱心だった為、豊前の所領の運営を父にかわって切り盛りした。
大寧寺の変で大内氏の嫡流が絶えた後、陶晴賢に擁立されて跡を継いでいた大内義長(大内義隆の妹の子で大友義鎮の実弟)が毛利元就に敗れて自刃し戦国大名・大内家は滅亡する。その後は豊後の大友義鎮(大友宗麟)から「鎮」の字を拝領して城井鎮房を名乗り、宗麟の妹を妻に迎えた。
最大の危機
しかし義兄・宗麟が耳川の戦いで島津義久に大敗北を喫すると、城井鎮房は豊前での勢力復興を目指して島津氏に接近、島津義久の筑前攻めに協力した。
豊臣秀吉が九州征伐にやってくると鎮房は息子・城井朝房を派遣して秀吉に降ったが、九州征伐終了後に秀吉から、
を命じられ、鎌倉時代から所領としていた城井谷と家宝を手放さざるを得なくなる。毛利勝信を介して城井谷に残る事を希望して再考を願ったが、秀吉は鎮房の申し出を腹背であるとして嫌い、本領安堵を拒否した。
この返答により、鎮房は鎌倉以来の武門の家系に連なるものとして「どこの馬の骨とも解らぬなり上がり者」である秀吉に対し、反旗を翻す事を選択。
城井谷に篭って野中鎮兼の蜂起と呼応し、国人一揆の盟主となった。
鎌倉武士としての自負が強い鎮房の気性を秀吉が逆手に取り、最初から滅ぼすつもりだったという説もある。
黒田官兵衛を大いに破る
討伐軍として派遣されてきた黒田孝高(黒田官兵衛/黒田如水)・黒田長政親子を、天然の要塞である城井谷の地の利を活かしたゲリラ戦で撃退。
その後、 吉川広家の仲介もあって黒田孝高より鎮房の娘・鶴姫と、黒田長政の婚姻による和議が提案され、鎮房はこれを受け入れた。
肥後の国人一揆討伐に向かう黒田孝高の軍に子・城井朝房を送り、城井鎮房自身は、父・城井長房を城井谷に残して家臣と共に出立。謀略の危険を考慮しながらも
我らが再挙のとき、命を捨てる覚悟であった。
もし謀計ならば、我が太刀で婿殿を討ち果たし、家名を残そうぞ
最期
しかし既に秀吉の勘気を蒙っていた城井鎮房は、黒田長政からも危険視されていた。
中津城を訪れた際に家臣と引き離された鎮房は、城内での宴席に臨む。酒を勧めてきた長政から隙を見て斬りつけられるが、果敢に反撃。三、四人を倒したところで、後詰に控えていた後藤基次に討ち取られた。
家臣も全員長政の命により討ち取られ、父・城井長房は黒田軍に攻められて自刃。子・城井朝房は肥後の国人一揆討伐に赴いていた黒田孝高の陣にて宿坊に火をかけられて焼き殺され、人質となっていた鶴姫も侍女と共に磔刑に処される。こうして、豊前宇都宮氏はそのことごとくが討ち滅ぼされた。
唯一、朝房の妻は逃げ延びて秋月種実を頼って一子・朝末を出産。後にこの朝末は越前松平家に仕えて宇都宮氏に複姓し、辛うじて血統は保たれた。
逸話
艾蓬の射法
豊前宇都宮氏が代々受け継いできた秘法を「艾蓬(がいほう)の射法」と呼ぶ。
「艾蓬の射法」は、蓬(よもぎ)の茎を矢にして射る儀式で、吉凶を占うほか、邪気退散、戦勝祈願に用いられた。その技は一子相伝、門外不出だったという。
伝承によれば、神功皇后が三韓征伐において用いた後、中臣氏が承け継いで藤原道兼に伝授。更にその子孫である豊前宇都宮氏に伝えられた。
蓬は枯れても薬効を残す
生死一如にて戦えば破れることなし
戦場にありてこそ神武の顕現をみる
いざや征かん
という由来からも、鎌倉武士の武門の血脈である豊前宇都宮氏らしい壮烈さががある。
朝鮮出兵に際してこの儀を執り行わせようとした秀吉だったが、鎮房・朝房の死により「艾蓬の射法」を知るものは誰一人としていなかった。
秘伝が絶えた事を知った豊臣秀吉は、遅まきながら豊前宇都宮氏の殲滅を悔やんだと言われている。
合元寺の赤壁
城井鎮房が謀殺された後、主と引き離されて合元寺に留め置かれていた家臣達は黒田軍の襲撃を受けた。一説には、黒田家の謀略を予期した城井鎮房が逃げられるよう、あえて留め置いたとも言われている。
家臣らは、
供の者は小屋掛に招き入れられ、馳走の体にて、勇士の者数十を付け置き、残らず討ち取る巧なり
と「城井軍記」に残る襲撃を受け、一人残らず討ち取られた。
この時、合元寺の壁には家臣達の血が飛び散り、どんなに洗っても落ちなかったという。このことから合元寺の壁は赤色に塗られており、柱に残された刀傷と共に、過去の惨劇を今に伝えている。
鶴姫無惨
和睦の証として黒田長政の妻となる筈だった鎮房の娘・鶴姫は、当初は人質として黒田家に入り、同家の妻女らと共に生活していたと思われる。しかし父・祖父・兄が謀殺された後に捕らえられ、侍女と共に磔刑に処されて殺された。
幽閉された部屋から、自分を処刑する為の磔柱が立てられる音を聞いた姫は
なかなかに きいて果てなん唐衣 わがために織る はたものの音
と辞世の句を詠んだと伝えられている。
ただし処刑を免れ、生きて見逃されたという異説も唱えられており、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では生存説を採用している。
その後、この出来事を元にした現代歌舞伎「斑雪白骨城(はだれゆきはっこつじょう)」が上演された。
逸話に脚色を加え、一族が滅んだ後も生きていた鶴姫が親の仇である筈の如水に惹かれ、最後は中津城の完成を願って人柱となるという内容である。 長政涙拭けよ。
城井家の祟り
その後、江戸時代を通して黒田家には次々と災いが降り掛かった。
長政の嫡子にして2代目藩主の黒田忠之は、不品行を理由に先代の家臣団と対立。三大御家騒動の一つに数えられる「黒田騒動」を引き起こし、あわや改易になる所だったが、祖父と父の功績に免じて許されている。
その後、6代目藩主の黒田継高は跡継ぎになる筈だった2人の男子を次々と亡くし、更にその亡くなった男子の一人である黒田重政の子達も次々と早世し、黒田孝高直系の子孫は完全に断絶してしまった。
その後、黒田家は養子を得て存続はしたものの、7代目黒田治之から11代目黒田長溥の子達に至るまでの長い間に、藩主が急死したり跡継ぎが早世したり、後継者問題が相次いで発生している。
これらは豊前宇都宮氏による祟りだと噂されたという。
城井神社と城井兼光
城井鎮房が斬殺された後、黒田長政の居城・中津城には鎮房の亡霊が出没し、長政を大いに悩ませたと伝えられている。
後に長政は豊前宇都宮氏を謀略によって滅ぼした事を悔い、中津城内に城井神社を建立して霊を祀った。その後、黒田家が筑前福岡藩に転封された時も、福岡城内に城井神社が創建された。
また、長政は鎮房を斬った刀に「城井兼光」と号をつけて代々の家宝とした。これは昭和に入って黒田家当主の遺言により、多くの宝物・文物と共に福岡市博物館に寄贈され、年に一度の頻度で公開されている。
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補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 75 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 15 | 政治 | 51 | 野望 | 52 | ||||
天翔記 | 戦才 | 146(A) | 智才 | 48(C) | 政才 | 112(B) | 魅力 | 70 | 野望 | 54 | ||||
将星録 | 戦闘 | 72 | 智謀 | 43 | 政治 | 55 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 64 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 23 | 政治 | 52 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 60 | 智謀 | 18 | 政治 | 41 | 野望 | 45 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 63 | 知略 | 22 | 政治 | 43 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 63 | 知略 | 22 | 政治 | 40 | 教養 | 65 | ||||||
革新 | 統率 | 72 | 武勇 | 70 | 知略 | 36 | 政治 | 45 | ||||||
天道 | 統率 | 74 | 武勇 | 80 | 知略 | 68 | 政治 | 45 | ||||||
創造 | 統率 | 71 | 武勇 | 75 | 知略 | 66 | 政治 | 48 |
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関連項目
- 城井長房(宇都宮長房)
- 城井朝房(宇都宮朝房)
- 大内義隆
- 大友義鎮(大友宗麟)
- 豊臣秀吉
- 毛利勝信
- 黒田孝高(黒田官兵衛/黒田如水)
- 黒田長政
- 戦国時代の人物の一覧
- ニコニコ歴史戦略ゲー
- iM@S架空戦記シリーズ
- 律子の野望
- 愚息
関連リンク
- 福岡県築上郡吉冨町行政サイト【1】黒田氏の入封と宇都宮氏の反抗
- YOMIURI ONLINE 地域版・九州発:道義に生きる―豊前の名将 城井鎮房<1>
- YOMIURI ONLINE 地域版・九州発:非業の死遂げた宇都宮氏の姫、地元住民ら420回忌供養
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