第13号海防艦とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した丙型海防艦の1隻である。1944年4月3日竣工。数々の護衛任務や多号作戦に参加した武勲を持つ。終戦直前の1945年8月14日、第二次世界大戦最後の海戦と言われる香住沖海戦で米潜水艦トースクと交戦して沈没。帝國海軍が戦闘で最後に失った艦となった。
丙型海防艦(第一号型海防艦)は戦争中期から末期にかけて、帝國海軍が緊急増産した戦時急造型海防艦の一種。とにかく数を揃えるため、簡略化が進められた日振型や鵜来型を更に簡略化し、小型化・単純化を推し進めてブロック工法を導入するなど生産性を重点的に底上げしている。艦型は船首楼型で、上甲板レベルより上の船首楼舷側に直線状のフレアを設置。ちなみに次級の丁型海防艦とは設計が殆ど同じであり、奇数番号が丙型に、偶数番号が丁型に割り振られているなど実質姉妹艦のようなもの。ただし機関のみ異なり、丙型は低出力だが燃費に優れる艦本式23号乙型ディーゼルを、丁型は逆に燃費は悪いが出力に勝る蒸気タービンを搭載。
機関は量産に向いた艦本式23号乙型ディーゼル2基を搭載しているが合計出力が1900馬力に満たなくなって鵜来型より速力が低下、これでは16ノットも出せないと考えられて一時は過給器を付けて速力を補助する計画もあったが、幸い過給器無しでも16.5ノットを発揮する事が出来た。小型化に伴って居住性の悪化も招いてしまっているが、涙ぐましい努力により工数は2万8000と御蔵型の半分にまで抑えられた。極限にまで絞った丙型海防艦はあらゆる面で性能低下を甘受しなければならず「半年使えれば良い」という声まで聞こえてきたという。丙型は133隻の建造が予定され、このうち53隻が実際に就役、そして半分近い26隻が戦没している。
要目は排水量745トン、全長67.5m、全幅8.4m、喫水2.9m、出力1900馬力、最大速力16.5ノット、重油搭載量106トン。兵装は12cm単装高角砲E型、九六式25mm三連装機銃2基、三式単装迫撃砲1基、三式爆雷投射機12基、爆雷投下軌条2条、爆雷120個。
マル戦計画により第2407号艦の仮称で建造が決定。
1943年11月18日に日本鋼管株式会社鶴見造船所で起工。艦政本部から監督役として造船所に派遣されていた遠山光一技術中佐、魚住順治少佐、日本鋼管鶴見造船所技師の石井利雄中尉の尽力により量産能力や品質面で日本鋼管製の丙型海防艦は他の造船所を圧倒していたという。1944年1月25日に第13号海防艦と命名され、類別等級を第一号型海防艦に定められる。2月9日に進水。2月20日、艤装員長に飯塚倶吉大尉(特設砲艦第2長安丸の元副長)が着任し、翌日より鶴見造船所内に艤装員事務所を開設して業務を開始、3月31日に艤装員長が根東源一大尉に変更された。そして4月3日、艤装工事完了に伴い竣工。艤装員事務所を撤去して根東大尉が艦長に就任、横須賀鎮守府に編入されるとともに、就役した海防艦の慣熟訓練を担う呉鎮守府部隊呉防備戦隊に部署する。
悪化し続ける戦況は第13号海防艦に十分な訓練期間を与えてはくれなかった。1944年に入ると米潜水艦の跳梁がますます激しくなり、中国大陸から飛来する大型爆撃機も加わって輸送船に大きな被害を及ぼしつつあった。これらの脅威から輸送船を守るため1隻でも多くの海防艦が求められていたのである。4月26日、内地・シンガポール・ビルマ間の通商保護を担当する海上護衛総司令部第1海上護衛隊に編入。これに伴って呉海軍工廠で船体や機関の整備を受ける。5月1日13時に最初の船団護衛に従事するべく呉を出港、翌2日午前6時にヒ61船団の集結地となっている門司へ到着した。
5月3日午前4時、第8護衛船団の佐藤勉司令が指揮するヒ61船団(輸送船11隻、商船改造空母大鷹、海防艦佐渡、倉橋、第5号、第7号、第13号、駆逐艦電、響、朝顔)を護衛して六連を出港。5月6日、海軍配当船仁栄丸が機関故障を訴えたため、倉橋とともにヒ61船団から分離して台湾南西の高雄まで護送。ヒ61船団に置いてかれた第13号海防艦は代わりにミ03船団の護衛を命じられた。
5月8日15時30分、駆逐艦汐風、水雷艇鳩、海防艦倉橋、第1号、第37号駆潜艇、特設砲艦北京丸とともにミ03船団を護衛して出港。経由地マニラを目前に控えた5月10日午前6時55分、米潜水艦コッドの雷撃を受けて駆逐艦刈萱と昌平丸が沈没してしまう。大急ぎでマニラに退避するミ03船団。第13号と倉橋は船団から分派されて対潜制圧を行い、翌11日午前3時に自身もマニラに入港した。現地で先行していたヒ61船団と合流。リンガ泊地に進出中の小沢艦隊に対する補給任務のため駆逐艦電、響、建川丸、日栄丸、あずさ丸が船団より分離した(リンガに向かう途上で電は米潜ボーンフィッシュの雷撃を受けて沈没)。
5月12日午前5時、ヒ61船団の護衛としてマニラを出港、米潜が跋扈する南シナ海を突破し、5月18日18時30分に目的地のシンガポールまで辿り着いた。5月23日午前7時、内地を目指すヒ62船団を第5号、第7号海防艦、倉橋、佐渡、空母大鷹で護衛して出発。ところが5月28日に特設運送船神鳳丸がエンジントラブルを起こして船団から落伍してしまい、第5号や第7号と一緒に不調気味な神鳳丸に付き添う。敵潜水艦の餌食になりやすい脆弱な状況だったが幸運にも敵襲を受けず、ヒ62船団のマニラ入港から遅れて1日後、5月30日正午に第13号の一団もマニラへ到着。無事ヒ62船団との合流も果たし、新たに陸軍特種船玉津丸が船団に加入。
6月1日午前4時にマニラを出発、敵の索敵網を掻い潜って6月8日午前2時に六連まで辿り着き、30分後に門司へと帰投した事で護衛任務完了。第13号海防艦の初任務を白星で飾った。6月9日午前7時に門司を出発した第13号は佐世保に回航され、6月10日から18日まで佐世保工廠で船体の整備を受ける。しかし第13号に休息の時は無く、六連には次の護衛対象であるヒ67船団が集結しつつあったため、6月19日に六連へと移動。再び護衛任務に身を投じる。
6月20日19時30分、駆逐艦朝顔、呉竹、海防艦倉橋、平戸、第2号、第5号、急設網艦白鷹、第61号駆潜艇とヒ67船団を護衛して門司を出港。
6月29日15時10分頃、米潜水艦バングがヒ67船団目掛けて5本の魚雷を発射、特設運送船みりい丸と陸軍配当船さらわく丸がそれぞれ被雷するも、小破程度の損害で済んで航行可能だった。翌30日19時に船団はマニラへと入港。ここで朝顔、第2号、第5号海防艦、みりい丸、さらわく丸が分離、残りの船舶でシンガポールを目指す。7月3日午前6時、護衛対象が3隻に減ったヒ67船団を護衛してマニラを出発、米潜による被害が続出しているとは思えないほど平穏な航海となり、7月9日16時40分にシンガポール入港。船団名をヒ68に改名して数隻の船舶が加入した。
7月14日午前7時30分、ヒ68船団の護衛としてシンガポールを出港。マニラまで目前にまで迫った7月20日、近海で軽巡大井が米潜水艦フラッシャーの雷撃を受けて大破したとの報が入り、海防艦倉橋が救援に向かった。同日13時にヒ68船団はマニラに入港。ここで門司から伴走してきた白鷹が護衛より離脱、第13号海防艦もシンガポール行きのヒ69船団の護衛に転属し、7月25日午前5時45分にマニラを発つ。護衛艦艇は空母神鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦佐渡、千振、第7号、第9号、第19号、そして第13号の8隻であった。護衛に参加していた神鷹から盛んに九七式艦攻が発進して対潜警戒を援護してくれた。また空母の大きな艦体は船団に心強さを与えたという。九七式艦攻に睨まれては迂闊に敵潜も手出し出来なかったのか、7月31日17時36分にシンガポールへ到着。内地への帰投命令が出ていた駆逐艦霜月が新たに護衛に加入する。
8月4日21時、ヒ70船団を護衛してシンガポールを出港。日中は九七式艦攻が上空を旋回して対潜警戒に協力した。道中でマニラから出港してきた軽巡北上(中破)を迎え入れ、一緒に本土を目指す。8月12日午前8時15分、台湾北東にて神鷹の九七式艦攻が敵潜水艦らしき艦影を2回発見して爆雷を投下、通報を受けた第13号と佐渡が現場海域に駆け付けて更に爆雷を投下し、神鷹は敵潜撃沈を報じた(該当艦無し)。この爆雷攻撃で佐渡はヒ70船団から大きく離されてしまったため単独で高雄に向かうよう命じられて離脱。8月15日14時30分に船団は門司へ入港、今回の護衛任務も大禍なく完遂させた。8月16日より佐世保工廠で入渠整備を受ける。
8月21日13時に佐世保を出港し、19時に伊万里へ回航。8月24日午前11時43分に伊万里を出発した後、ヒ73船団が身を寄せている奄美大島有川湾に移動、18時に湾内へと到着して合流。今回の護衛艦艇は特設空母雲鷹、練習巡洋艦香椎、海防艦千振、第3号、第19号、第21号、第27号だった。幸運にも空母がいるため九七式艦攻による上空援護が受けられた。
8月26日午前4時35分、有川湾を出発するヒ73船団であったが、午前9時にエンジントラブルなのか通常より吐き出す黒煙が多い瑞穂丸、あらびあ丸、黒龍丸に有川湾残留を命じられる。黒煙が多いという事はそれだけ敵潜に発見されやすいのである。また萬光丸が機関不調により九州に引き返し、第1号と第13号が途中まで付き添って萬光丸の佐世保回航を援護した。13時、五島列島沖にて陸軍配当船音羽山丸が敵潜を探知して爆雷を投下。雲鷹所属の九七式艦攻や海防艦千振、第27号海防艦が爆雷攻撃を行う一幕があったものの敵襲は無かった。8月29日16時から20時30分まで高雄の左栄泊地で仮泊。マニラに向かう護国丸、香久丸、吉備津丸、伊良湖が第21掃海隊や海防艦屋代、水雷艇鳩、隼の護衛を受けて離脱。残りは香椎に率いられてシンガポールを目指す。
9月1日午前9時に左栄を出発。しかし今回の護衛任務は不穏当なものだった。同日16時に第19号海防艦が敵潜を探知して爆雷を投下し、深夜にはルソン海峡で九七式艦攻が急速潜航中の敵潜タニーを発見して2発の60kg爆弾を投下、タニーに損傷を負わせて撃退する。しかしその後の翌2日午前1時30分にも音羽山丸が爆雷を投下、17時20分に不時着水した九七式艦攻から千振が搭乗員を救助している。9月3日20時23分、サイゴン南方にて海軍配当船東亜丸が触雷小破するも航行自体は可能だった。何とか9月5日午前9時54分にシンガポールのセレターに入港。
9月11日午前11時、雲鷹や香椎、千振、第19号、第21号、第27号とヒ74船団を護衛してセレターを出発。翌12日午後12時45分、九七式艦攻が海面を漂う油膜を発見、第27号海防艦とともに攻撃を加えている。そして遂に恐れていた事が眼前で発生するのだった。9月16日22時31分、米潜水艦クイーンフィッシュからの雷撃を受け香椎が潜水艦攻撃を知らせる赤色照明弾を発射、船団に緊張が走る。とうとう敵のウルフパックに捕まってしまったのだ。続く23時34分、米潜バーブから6本の魚雷攻撃を受け、特設運送船あづさ丸の右舷に2本が命中して16分後に爆沈。3本が雲鷹の右舷側に命中して船団から落伍してしまう。午前7時55分に雲鷹は力尽きて48機の艦載機もろとも艦尾より沈没。ヒ74船団は上空援護を失った。生存者の救助には第27号海防艦があたった。手痛い犠牲を払いながらも危険なルソン海域を突破、9月18日18時から翌19日正午まで高雄に寄港し、9月23日22時に第13号は門司まで帰り着いた。
翌日午後12時40分に佐世保へと回航されて9月29日まで工廠で入渠整備を受ける。9月30日午前4時に佐世保を出港、同日16時に門司へ移動して次なる護衛任務に臨む。
米機動部隊はフィリピン方面に対し圧力を強め、去る9月21日から24日にかけてルソン島及びフィリピン中部の日本軍航空基地を徹底的に攻撃、第1航空艦隊の可動機が65機にまで減少する壊滅的打撃を受ける。マニラ湾でも船舶や桟橋地帯の重油タンクを始めとする軍需品が焼失するなど無視出来ない被害が発生。これを受けて帝國陸海軍はアメリカ軍の次の目標はフィリピンであると判断、中支那派遣軍から戦力を抽出してフィリピン方面に振り分ける事とした。此度の護衛任務はこれに関するものだった。
10月4日15時32分、門司発マニラ行きのモマ04船団を護衛して出港。10月6日16時に上海外港の呉淞へ寄港し、マニラに移送する第1師団主力約1万と装備を積載、10月10日午前9時に第11号、第13号、占守の3隻は呉淞を出発して先行。10月12日午前7時にモマ04船団が呉淞を出発し、先行した3隻と合流してマニラに向かう。舟山列島沖で5000名の陸兵を乗せた浅間丸が船団に加入。
10月20日午前2時30分にモマ04船団が舟山列島を出発、10月22日19時にサブタン海峡へ仮泊した際に第13号が座礁事故を起こすが、幸い離礁に成功して作戦に支障は無かった。敵潜の襲撃を避けるためバタン諸島を縫うようにして進み、カブガオ湾、ラポック湾、リンガエン湾を転々としながら10月26日23時15分に無事マニラ入港。しかしここでは想像を絶する地獄が第13号海防艦を待ち受けていたのである。10月27日に南西方面部隊へ転属、10月29日には機密南西方面部隊命令作第30号により第二次輸送部隊護衛部隊に編入された。
海軍が総力を挙げたレイテ沖海戦は敗北に終わった。しかし地上での戦いはこれから始まろうとしていた。アメリカ軍は東のタクロバンを補給港にして続々と増援を送り続けていた一方、日本軍は西のオルモックを補給港にしてセブ島の部隊をレイテ島に移送しようと多号作戦を立案。生き残っていた駆逐艦や海防艦、輸送艦、優秀船舶などをかき集めて即席の輸送船団を編制し、策源地マニラからオルモックまで部隊や軍需品を輸送する訳である。だが敵がそれをみすみすと見逃すはずがない。マニラ・オルモック間の720kmは脆弱な輸送船団にとって墓場とも言うべき苛烈な空襲地帯に成り果てたのだった。そんなところへ第13号海防艦は身を投じる事となる。
10月31日朝、第11号海防艦、占守、沖縄とともに第二次輸送船団を護衛してマニラを出港。護衛対象の金華丸、香椎丸、能登丸、高津丸はいずれも高速を発揮出来る優秀船舶で、陸軍の精鋭部隊である第1師団と揚陸支援のための船舶工兵第21連隊が分乗していた。午前9時40分に警戒部隊の駆逐艦霞、沖波、曙、潮、初春、初霜が船団に加入。17時20分から18時までP-38戦闘機5機と対空戦闘を行った後、オルモックの湾口警備のため霞、沖波、曙、潮が船団より分離。18時30分に無事オルモックに到着し、19時より揚陸作業を始めた4隻の横で移動哨戒を実施する。
夜の間だけは熾烈な空襲がピタリと止まっていたが、日の出を迎えるとすぐさま再開され、11月2日午前6時45分からP-38が攻撃を仕掛けてきた。湾内にて第13号は他の海防艦とともに対空砲火を放って敵機の脅威から輸送船をかばう。優秀船舶と言えど一等輸送艦や二等輸送艦ではないため揚陸作業に時間が掛かり、午後からはより対艦性能が高いB-24爆撃機20機が襲来。13時5分にB-24から至近弾を受けて能登丸に浸水被害が発生、あえなく30分後に沈没してしまう。それでも第1師団の揚陸には成功、17時30分にオルモックを出発した第13号は船団の前路掃討を行って安全を確保し、潮が引くように退却を図る。第13号は船団の中央部で香椎丸と高津丸の護衛に回った。帰路は空襲を受けず11月4日午前4時45分にマニラへ帰投。
第二次輸送は失敗が多かった多号作戦において数少ない成功例となり、特に第1師団が無傷でオルモックに上陸した事はアメリカ軍にとっても痛恨事であった。マニラにて根東艦長が少佐に昇進。
11月4日、第四次輸送部隊第一護衛部隊に部署。すぐに第四次輸送作戦への参加が決定する。しかし策源地マニラですら安全な場所ではなかった。11月5日午前7時32分から15時5分にかけて米機動部隊がマニラに大規模な空襲を行い、熾烈な銃爆撃の中を対空戦闘を行いながら湾内を駆け巡る。この空襲で重巡那智と第107号哨戒艇が撃沈された他、出撃スケジュールにも狂いが生じ、本来先発するはずだった第三次輸送船団よりも先に第四次輸送船団が出発する形となった。夜遅くに第13号海防艦は岸壁に接岸して真水と糧食の積み込み作業を実施。11月6日午前4時20分から15時35分まで再度マニラが大空襲を受け、11月7日に空襲の間隙を突いて何とか弾薬の積み込み作業を終わらせた。
11月8日午前10時30分、第26師団主力1万と弾薬3500トンを積載した香椎丸、金華丸、高津丸を護衛してマニラを出港。今回の陣容は警戒隊として霞(旗艦)、潮、朝霜、秋霜、長波、若月の6隻が、直接護衛隊に海防艦沖縄、占守、第11号、第13号の4隻がついた。台風がもたらす暴風雨の中で出撃を強行したため当初は航空攻撃を受ける事無く順調に進撃が続いていた。しかし翌9日に天候が回復すると空襲が再開され、16時59分から4機のB-25と20機のP-38が輸送船団に襲い掛かり対空戦闘。17時15分に高津丸が被弾炎上、香椎丸と金華丸も至近弾を受けたが、18時25分にオルモックの突入に成功。前回同様湾内で警戒行動に移り、いつ来るか分からない米魚雷艇に備えるため乗組員は不眠不休で見張りを行う。しかしここで思わぬ悲劇が輸送船団を襲う。先の対空戦闘で輸送船に搭載していた大発動艇が穴だらけになって使用不能となった上、陸上に用意していた大発も台風で埋没、あるいは敵機の機銃掃射を受けて破壊。使用可能な大発は僅か5隻のみと揚陸能力に多大な支障が発生。やむなく湾内を警備中の占守を大発代わりに使ってピストン輸送するという非効率的な方法で揚陸を続行。
当然いつもより時間を要した事で夜が明けてしまい、11月10日午前8時28分より敵機が数次に渡って波状攻撃を仕掛けてきたため、午前10時30分に作業を打ち切ってオルモックから脱出。人員そのものは揚陸完了していたが、時間の掛かる重砲等は全く陸揚げ出来ておらず、第26師団は個人の携行武器のみで戦わざるを得なくなる。更にオルモックから出た直後にモロタイから出撃してきた30機のB-25と32機のP-38による追い討ちの空襲を受け、午前11時25分に反跳爆撃で高津丸が沈没、香椎丸と第11号海防艦が被弾炎上。沈没を避けるため第11号は浜辺に擱座した。午前11時50分から14時15分まで、第13号海防艦は敵機を捌きながら第11号の人員救助を行い、艦体の砲撃処分を行った。また香椎丸も力尽きて沈没している。一方で船団から上げられた反撃の対空砲火により7機撃墜を記録。船団は潮、秋霜、金華丸、沖縄、占守、若月の先頭グループ、霞、朝霜、長波の中間グループ、最後尾の第13号海防艦の三つに分かれていた。14時頃、セブ島北端で先頭グループがP-38戦闘機10機に襲撃されて秋霜が艦首に直撃弾を受けたが、第13号は一番後ろにいたため攻撃されなかった。14時30分、第6号、第9号、第10号輸送艦が船団と合流。20時45分には遅れてマニラから出発してきた第三次輸送船団とすれ違っている。
11月11日午前7時35分から午前8時25分まで3隻の輸送艦が収容していた負傷者を引き取って移乗、続いて午前9時、ルソン島ボンドック半島西岸サバンギン礁で座礁したせれべす丸救難のため、輸送船団から分派して現場海域へ急行。せれべす丸が輸送中の陸軍部隊を受け取った。23時15分にマニラへと帰投。
11月13日午前7時42分から19時にかけて米機動部隊がマニラに熾烈な空襲を仕掛け、第5蓬莱丸が大破着底、駆逐艦曙、沖波、初春、秋霜、給油艦隠戸が撃沈される大損害を受ける。第13号は空襲下で糧食と重油を積載、南西方面部隊電令作第750号によりベラワン島北西岸イムルアン湾への回航を命じられる。
11月14日午前2時、海防艦沖縄や占守とともにマニラを出港、11月17日16時42分にブルネイへ寄港し、翌18日13時37分に護衛対象の暁山丸、同和丸が待つラブアンに回航された。この2隻をマニラまで護送するのが今回の任務だった。11月19日午前1時45分、ラブアン沖に3機のB-24が出現し、レーダー爆撃により沖縄が至近弾を受けて漏油が発生。
午前5時58分、損傷した沖縄、占守、第13号、同和丸、暁山丸で第4118船団を編制してラブアンのビクトリアハーバーを出港、道中の11月20日午後12時10分に沖縄が分離。修理の目的でシンガポールに向かった。空襲を避けるため敢えて悪天候の中を進む第4118船団だったが、翌21日18時44分に米潜水艦バショーに雷撃され暁山丸が被雷炎上、カッター1隻に乗って脱出してきた乗組員を救助する。その後、燃え盛る暁山丸は漂流したのち浜辺へ座礁、米潜フラウンダーから更なる雷撃を受けて23時57分に沈没してしまった。11月22日19時47分には米潜ガヴィナの雷撃で同和丸も沈没。第13号と占守は護衛対象を全て沈められる完敗を喫し、第4118船団はこの時点で解散となった。そして次は海防艦にも爪牙が振り下ろされる。11月25日19時20分にマニラ湾口で浮上中の敵潜を発見、占守が迎撃に向かったところで敵潜は急速潜航。ソナーで海中の様子を探る占守に向けて19時32分、左前方2000mから4本の魚雷が発射され辛くも回避に成功するも、彼我の距離が1000m切ったところで第二斉射を受け、占守の艦首に魚雷が直撃して前部を吹き飛ばされる。立ち昇った水柱を見て第13号は「占守が潜水艦を仕留めた」と思っていたが、間もなく占守から緊急信号を受信して直ちに対潜制圧に向かい、19時41分から20時28分にかけて爆雷18発を投下。魚雷の主ハッドにこれ以上の攻撃を断念させて撃退に成功した。この活躍により占守の島村艦長は第13号海防艦を命の恩人と感謝したという。先に海域から離脱した占守の後を追い、21時30分に合流。
11月26日午前8時30分にマニラへ帰投して真水、重油、糧食、弾薬の補給を受ける。第13号にとって唯一幸運だった事は、南西方面艦隊からの指揮下から離れて第1海上護衛隊に復帰するよう命じられた事だった。これで少なくとも地獄の多号作戦からは解放された訳である。11月27日13時よりキャビテ軍港で修理及び機銃の増設を実施。11月29日に治療品を積載した。
12月4日午前11時55分、損傷した占守を護衛してマニラ湾を脱出。撃沈された艦船の残骸があちこちで身を晒す船の墓場から生者の世界へと戻っていく第13号。12月5日13時55分から17時15分までラポックで仮泊し、12月7日午前11時42分に高雄へ入港。占守とはここで別れ、第13号は第31号海防艦が護衛するタモ31船団に加わり、12月9日17時31分に高雄を出発。空襲や雷撃を警戒して大陸接岸航路を使い、湾内への退避を繰り返しながら進み続けて12月17日13時35分に門司へ帰投。地獄の世界から生還した瞬間だった。また高雄から帰国するまでの間に第1護衛艦隊第1海防隊へ転属していた。
12月19日14時55分より佐世保工廠第5船渠に入渠。増大し続ける敵機の脅威に対抗するため25mm連装機銃2基と同単装機銃1基の増設工事を受けた。12月25日午前10時に出渠し、第4岸壁にて停泊する。次の任務に備えるべく12月27日に燃料と弾薬を積み込む。
12月28日18時7分に佐世保を出港して翌29日午前7時17分に門司へ回航。そこには補給艦神威を旗艦としたヒ87船団が出港の時を待っていた。シンガポールまで燃料を取りに行く貴重な1トン級タンカー6隻を主体としている他、台湾に桜花58機を輸送する龍鳳が途中まで同行。これらを海防艦4隻と駆逐艦4隻で護衛する。終わりの見えない護衛任務が第13号を幾度となく絶望の海へと追い立てる。海防艦は護衛艦艇として見ると量産性、爆雷搭載数、航続力、耐波性、居住性等において他の艦首より優れており、それは大量生産された丙型海防艦であっても例外ではなかった。つまり護衛任務において引く手数多だった訳である。
12月31日午前8時20分、空母龍鳳、給油艦神威、駆逐艦時雨、旗風、浜風、磯風、海防艦御蔵、倉橋、屋代が護衛するヒ87船団を護衛して六連沖を出発。神威を基準船にして陣形を組み、原速12ノットで航行する。2週間前に雲龍が台湾北東で雷撃されて喪失したため大陸接岸航路を使用。まず北西方向に向かい、対馬北端沖で朝鮮半島に向けて変針、朝鮮南岸を北上しつつ西側から黄海に入り、東海で南下して中国大陸に沿う。大陸沿岸の航路は味方航空隊の援護を受けやすく、また浅い場所も多いため敵潜の出現率を抑えられた。だが南シナ海と東シナ海には敵機動部隊の影があり、中国大陸から連合軍機が飛来する事もあるなど、決して楽な道ではなかった。加えて今回の護衛には空母の龍鳳がいるが、台湾に桜花を運ぶ輸送艦仕様で艦載機を持っていないため上空援護は期待出来なかった。
1945年1月3日午前6時、フィリピン東方に敵機動部隊数群が探知されたとの報告が入り、午前9時には台湾全土に空襲警報が発令されたとの事で神威の指示で上海南方の舟山列島に向かい、午前11時47分に舟山列島北東錨地に到着。到着直後に錨地の南方で敵機と交戦する味方商船が確認され、同時に空襲の兆候も見られた事から13時48分から翌4日午前4時5分まで、18時28分から20時まで第13号海防艦が近隣海域の哨戒を行っている。1月5日午前5時にヒ87船団は舟山列島を出発。
1月7日午前3時30分に光島丸が機関故障を訴えて船団から落伍し、駆逐艦旗風が護衛として残置された。そして午前5時35分より敵潜水艦の待ち伏せ場所となっている台湾海峡へ差し掛かる。本海域にはウルフパック「ラフリンズ・ルーパーズ」が展開しており、早速バーブがヒ87船団を発見。ピクーダを呼び寄せて2隻で追跡を開始した。午前11時26分、4本の雷跡が伸びてきて1本が宗像丸の船首に命中して大破。海防艦倉橋が救援に向かうとともに船団は左45度の緊急回頭を行う。13時頃、雷撃から逃れるため龍鳳が駆逐艦時雨、浜風、磯風を伴って船団より反転離脱、基隆に向かった。残った船舶を第13号たちが護衛しながら逃走を続け、18時20分、濃霧の影響で新竹沖合いの中港泊地へ退避。その際に旗風と海邦丸が衝突事故を起こしている。1月8日午前10時34分に中港泊地を出発。同日正午に高雄まで辿り着く事が出来た。
1月9日午前6時15分、高雄に空襲警報が発令され、米第38任務部隊の艦上機が大挙襲来。午前7時55分より第13号海防艦が対空戦闘を開始した。停泊中のヒ87船団も苛烈に攻撃され、海邦丸沈没と黒潮丸大破の損害が発生。神威、第13号、屋代、三宅にも若干の被害が生じた他、同じ空襲で第3号海防艦や第61号駆潜艇など5隻が撃沈されている。13時48分警報解除。空襲を切り抜けた後、船団の再編成が行われて損傷した黒潮丸と元々台湾止まりの龍鳳、その護衛として浜風と磯風が離脱、代わりに橋立丸と海防艦干珠、三宅、能美、屋久が加入した。1月10日17時に左栄泊地を出港。間もなく光島丸が機関故障を起こして高雄に反転、1月12日午前には天栄丸の舵が故障したため海防艦3隻の護衛を伴って香港に移動し、15時に第60号海防艦が護衛に加わった。
この日、南シナ海にまで侵入してきた米機動部隊がグラティテュード作戦によりインドシナ方面に大規模空襲を仕掛け、ヒ86船団や第101戦隊を始めとする戦闘艦艇11隻と輸送船48隻(22万1179トン)を一挙に喪失。大損害を受けて海上護衛総司令部はヒ87船団に香港への退避を命じ、1月13日午前11時にヒ87船団は香港に到着する。しかしここも安全な場所ではなく、ヒ87船団が出発する前に北上してきた第38任務部隊が1月15日午前9時15分より空襲を開始、1月16日午前8時43分から18時43分まで第二次空襲が行われ、天栄丸沈没、松島丸が大破炎上したのち擱座、直撃弾4発を受けて給油艦神威も大破航行不能となり、生き残った艦船も無傷のさらわく丸を除いて大小の損傷が生じた。2日間に渡る対空戦闘で船団は25機の敵機を撃墜したと記録している。これ以上の被害を避けるためヒ87A船団とヒ87B船団に分割。第13号海防艦はAの方に属した。
1月17日19時30分、駆逐艦時雨、海防艦三宅、干珠とともにさらわく丸を護衛して香港を出発。1月19日20時に海南島楡林へ寄港、門司から同行していた第7護衛船団司令部が下船し、以降は干珠艦長が船団の指揮を執るように。各艦が補給を受けている間、さらわく丸に陸軍兵440名が乗船し、翌20日18時56分に楡林を出港。1月24日未明、コタバル東方で敵潜水艦を探知した時雨が対潜掃討に移行。しかし午前7時9分に米潜水艦ブラックフィンから雷撃を受けて10分で沈没。第13号は三宅とともに敵潜攻撃に向かい、また時雨の生存者を救助して回った。午前8時17分には新手のベスゴから雷撃を受けてさらわく丸の船首に魚雷が命中。幸い航行可能だったため自力で敵潜を振り切っている。19時10分に対潜掃討を完了、第13号と三宅は先行したさらわく丸と合流し、21時にクワンタン沖で仮泊。1月25日午前2時にクワンタンを出発し、1月26日午前1時にようやく目的地のシンガポールに到着した。9隻いたタンカーのうちシンガポールまで到達出来たのは2隻(さらわく丸と後から入港した光島丸)だけという惨憺たる結果に終わった。同地にて第13号海防艦は第1海防隊の司令海防艦となる。1月29日に生鮮品を積み込んで護衛任務の準備を開始。
2月4日午前8時、輸送船3隻からなるヒ88D船団を第31号海防艦や屋久とともに護衛して出港。翌日午前8時30分に浮上中の敵潜水艦を発見したため針路を変更。2月6日午前2時30分、屋久の見張りが浮上している敵潜を発見して回避に成功するも、21時57分にサイゴン南方470kmにてパンパニトから雷撃を受け、右舷機関室に魚雷を受けた海軍配当船延元丸が2分で沈没。第13号は延元丸の生存者を救助してシンガポールに移送した。その後もパンパニトの追跡は続き、2月7日午前3時に左舷側に潜んでいるところを屋久に発見されている。しかし次に雷撃を仕掛けてきたのはパンパニトとウルフパックを組んでいたガヴィナであった。午前4時54分にガヴィナは6本の魚雷を発射、大暁丸の右舷に3本が命中して5分で沈没させてしまった。加入船舶のうち半分を沈められる犠牲を出しながらも2月8日18時20分にサンジャックへ寄港。現地でヒ88D船団は解散となった。
半ば護衛失敗を突きつけられた第13号は次の護衛任務のため翌9日午前10時にサイゴンを出発、2月13日14時30分にシンガポールへ入港する。
2月16日21時、海防艦屋久や第57号駆潜艇とヒ88H船団を護衛してシンガポール出発。道中で陸軍鳳南丸がサンジャックに向かうため船団から離脱した。2月22日午前10時45分、インドシナ沖で米潜水艦ベクーナから4本の魚雷攻撃を受け、うち1本が海軍配当船日翼丸の左舷機関室に命中して右舷へ大傾斜したのち沈没。第13号、屋久、第57号駆潜艇が65発の爆雷を投下するもベクーナに逃げられている。敵潜の追跡から逃れるため19時にナトラン湾へ退避し、2月23日午前に出発。しかし午後12時10分にハンマーヘッドが4本の魚雷を発射、このうち2本が屋久の右舷艦首に命中して轟沈。第13号海防艦が4時間に渡って追跡を行い爆雷42発を投下した後、18時50分まで屋久の生存者を救助、20時15分に油気油が噴出した地点に爆雷1個を投下して護衛に復帰。2月25日にツーランへ仮泊する。後にヒ88G船団がツーランに入ってきて船団を統合、護衛艦艇が第13号、第31号海防艦、第20号、第57号駆潜艇に増加した。
2月27日午前8時にツーランを出発、2月28日16時から3月1日午前11時まで海南島楡林に寄港、大陸に沿って北上を開始する。ところが23時10分に敵大型機の爆撃を受けて海軍配当船永昭丸が被弾沈没の被害を出し、ヒ88H船団は海南島に引き返して翌2日に後水湾で仮泊。3月3日午前1時15分、船団の出発準備が整う前に3機の敵機が襲撃、午前2時3分に第一弥栄丸が撃沈される。追い立てられるように午前7時30分に後水湾を出発した。香港の下川島南方、生日島、山梁島を経由して3月17日午前3時に六連へ到達。2ヵ月半に及んだ過酷な護衛任務を終えて無事内地帰投を果たした。3月18日から30日にかけて呉工廠で整備。グラティテュード作戦で生じた大損害により南方航路が実質封鎖に追いやられたため、3月31日に第一護衛艦隊電令作第1号が発令され、本土近海を作戦海域に定めるAS三部隊第2哨戒部隊へ転属。
3月31日午前6時、第39号海防艦とともに呉を出港して門司に向かい、16時30分に到着。日本海側で対潜哨戒任務に就く。4月7日15時13分にシリンダーピストンを焼損したため、4月10日に佐世保へ帰投してシリンダー修理を受ける。5月5日午前11時33分、紀伊水道を航行中に航空攻撃を受け、至近弾により左舷ディーゼルエンジンが故障するとともに乗組員11名が死亡した。
6月2日17時、海防艦隠岐とともにフタ01船団(彌彦丸のみ)を護衛して釜山を出発して青島に向かう。翌3日午前10時5分にB-29爆撃機2機から攻撃され、隠岐とともに対空戦闘を実施。第13号は高角砲5発を発射して撃退に成功した。13時55分から15時36分まで荷衣島で仮泊した際に隠岐が護衛より離脱。第13号海防艦のみで彌彦丸を護衛する事となる。6月4日14時30分、PBYカタリナ飛行艇2機と交戦して機銃24発を発射。「天皇の浴槽」と言われた日本海であっても平然と敵機が飛び回り、機雷防御突破した敵潜まで跋扈するなど、制海権・制空権ともに敵に奪われつつあった。14時30分、撃沈されて海面を漂流中の第319安東丸生存者7名を救助。6月7日午前9時25分に青島へ到着して護衛任務を完了させた。6月10日より食糧品の積載を行う。
6月11日18時、第13号、第39号、辰春丸でタフ03船団を編制して青島を出港。翌12日17時45分に第39号が潜望鏡らしきものを発見して制圧に向かうも敵情を得ず中止、19時57分に大東湾で仮泊する。新たに海防艦久賀を護衛に加え、タフ03船団に名称を変えて6月13日に出発。午前10時30分からカタリナ2機が来襲して対空戦闘を行い撃退に成功するが、14日午前11時26分に京雉島東水道で今度はカタリナ4機が来襲。このカタリナは新型兵器のレーダー誘導滑空爆弾バットを持っており、タフ03船団に向けて投下、第13号と久賀の間に着弾して大きな水柱が築かれた。また午後12時50分には荷衣島沖東西3海里でカタリナ2機とB-29爆撃機2機が来襲するなど連続して航空攻撃を受ける。辛くも空からの脅威を振り切って6月15日14時30分に釜山へ入港して護衛完了。翌日午前8時7分に鎮海へ回航されて焼損した左舷6番シリンダーの修理を受ける。
1945年8月14日朝、元山に集結中の船団を護衛するため第47号海防艦と合流するべく鳥取県境港を出発。正午頃に香住沖の合流地点に到着するも、そこに第47号の姿は無く、海面には残骸と油膜が広がっていた。実は第47号は1時間前に米潜水艦トースクの雷撃を受けて沈没していたのである。浮遊物や生存者を発見した第13号は付近に敵潜水艦が潜んでいると悟り、ソナー探知を開始。第二次世界大戦最後の海戦と言われる香住沖海戦が幕を開けた。しかしトースクは水深121mまで潜航していた上、第47号の残骸や雑音に妨げられて探知が困難であり、位置の特定が非常に難しかった。それこそトースクの「狙い」だった。
探知しかねている第13号に向けてトースクは2本の魚雷を発射。だが第13号もここまで生き残ってきた強者、機銃で応戦しながら見事な操艦技術で2本とも回避したのである。相手が只者ではないと直感したトースクはスクリューを停止させ、実験兵器の域を出ていない新型音響魚雷Mk.27「キューティー」を艦尾から2本発射。この音響魚雷は推進音に反応して誘導する分からん殺しの兵器だった。回避するにはトースクのようにスクリューを停止させるか、アメリカの護衛駆逐艦が持つ妨害装置フォクサーを起動させるしかない。
午後12時25分、第13号の見張り員が2本の雷跡を発見して回避しようとするも艦尾に1本が直撃。被雷の際に乗員28名が戦死し、たちまち右舷側に傾斜して10分後に総員退艦命令が出され、乗組員は次々に海へと飛び込んだ。海戦の様子は陸地からも見えていたようで、海軍からの要請を受けて香住の漁船団が生存者を献身的に救助し、先に撃沈されていた第47号と合わせて355名が救われた。トースクは駆け付けた対潜哨戒機や哨戒艇によって7時間拘束されたものの東方への逃走に成功した。
第13号海防艦は戦闘で失われた最後の艦艇だった(最後の戦没艦は8月15日の海防艦干珠だが、喪失原因が触雷であるため「戦闘」による喪失は第13号が最後)。1945年9月15日除籍。
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最終更新:2025/12/21(日) 18:00
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