韓信とは、古代中国の天才的な軍略の才能を有した元無職名将である。生年は不詳、紀元前196年没。麻雀の役となった「国士無双」の語源となった人物である。後世の中国においても名将の代名詞ともなった。
ちなみに同時代の人物に、戦国時代の韓の王族だった韓信という人物がいる。史記では本項の韓信の「淮陰侯列伝」のすぐ後に「韓信盧綰列伝」で列伝が立てられているのでややこしいが、区別のため後者は韓王信とも姫信とも呼ばれている。
淮陰(江蘇省淮安市)の出身。淮陰は戦国時代後期に楚の領土であった場所であり、韓信は楚の風俗に慣れ親しんではいたが、楚人としての意識は薄かったと考えられる。
平民出身で貧乏かつ品行も悪かったため、人に食事を恵んでもらい生活していた。ある亭長[1]の元に居候していたが、数か月して亭長の妻が韓信を嫌いろくに食事を出してくれなくなった。そのため出奔し放浪した後に、見かねた老婆に数十日食事を恵まれたが、韓信が「偉くなったら礼をしますよ」と言うと「あんたが可哀想だから恵んでやっただけで、礼なんて望んでいない」と返された。後に偉くなるなんて到底見えなかったのだろう。
ある日街の不良に「お前は背が高く立派な剣を帯びているが臆病者に違いない。もしお前が度胸があるなら俺を刺してみろ。そうでなければ俺の股をくぐれ。」と挑発された。韓信は熟視した後、その不良の股をくぐった。見ていた者は大いに笑った。
秦の始皇帝の死後に大動乱の世になると、韓信は項梁に仕えるが名前が知られるほどの働きはなかった。項梁の戦死後、そのまま項羽の軍に仕え、郎中[2]に任じられる。韓信はたびたび項羽に献策したが、その策は用いられることはなかった。
韓信は項羽を見限り、漢中に左遷され漢王に封じられていた劉邦に仕える。しかし劉邦の元でも接待役程度しか与えられず、ある時罪を犯して仲間と一緒に斬られる事になった。仲間が処刑されていき、ついに韓信の番となった時に「漢王は天下に大業を成すことを望まぬのか、どうして壮士を斬ろうとするのか」と叫んだ所を劉邦配下の夏侯嬰が興味を示し、彼を助命して劉邦に推薦した。
韓信は治粟都尉(兵站官)にはなった[3]が、この役で飽きたらない韓信は劉邦の片腕だった蕭何と話す。蕭何は韓信の才を認め劉邦に推薦するが、劉邦はそれでも韓信を重用しない。
そのうちに劉邦のもとでは重用されることはないと感じた韓信は劉邦の元を抜け出す。これを知った蕭何は劉邦に無断で韓信を追いかけて連れ戻す。劉邦は蕭何までもが逃亡したと聞いて絶望したが、やがて韓信と一緒に戻ってきたと聞いて安堵した。横山光輝『項羽と劉邦』の「んもう…わしをこんなに心配させおって…」の迷…名シーンである。
劉邦が「他の将軍が逃げた時は追わなかったのになぜ韓信だけ」と問い詰めると、蕭何は「韓信は『国士無双』であり、漢王様が天下に覇を争うのに必要である」と力説し、ここへ来て劉邦は韓信を全軍の大将に任じた。早速韓信は劉邦に天下を手に入れるための方策を述べ、劉邦と項羽の人物を対比し、項羽の人物に欠点があり、天下を争うものとして、劉邦の方が優れており、項羽と逆のことを行うように説明した。また、元は秦の将軍であった章邯たちが治める三秦(関中の地)では、劉邦が慕われている反面、章邯たちが憎まれており、簡単に平定できることを説明する。機を伺っていた劉邦は、ついに項羽に対して挙兵した。
劉邦は漢中から陳倉に出撃して三秦を平定した。この時の韓信の役割は不明だが、劉邦の参謀の役割を果たしていたと考える研究者も存在する。また三国時代の魏延が北伐の際に、韓信の故事を見習って別動隊を率いて北伐に向かうことを諸葛亮に求めていることから、韓信は別動隊を率いて三秦を攻めたことも考えられる。
劉邦軍の快進撃は続き、魏・韓・殷を降伏させ、斉と趙とも同盟を組んだ。しかし、項羽の本拠地である彭城(江蘇省徐州市)を落とした所を、斉の地から急いで帰還した項羽に逆襲され一敗地にまみれる。この時、韓信が彭城にいたかどうか、また漢軍を率いて敗れたかどうかについては定かではない。
韓信は劉邦の敗軍をまとめ、劉邦の撤退を手助けした。また、京・索の地において項羽の楚軍を打ち破り、これ以上、西に進むことを食い止める。
この敗北によって、魏は漢(劉邦)に背き自立する。また、趙と斉も漢に背いて楚(項羽)と講和した。
韓信は漢の左丞相に任命された上で、劉邦に魏の攻撃を命じられる。これは劉邦が項羽と対峙している隙に、韓信は別働隊で周辺諸国を攻めて劉邦の味方にするという戦略であったと考えられる。韓信の部下として、歩兵を率いる曹参と騎兵を率いる灌嬰をつけられた。この二人も劉邦軍の名だたる勇将であった。
魏王の魏豹は川の渡し場をふさいで防衛した。韓信はおとりの大軍を出して船を並べて河を渡るように見せかけて、伏兵をひそかに大きな木製の甕を使って河を渡らせて、本拠地を攻撃させた。韓信は魏豹を破り捕らえてしまった。
さらに韓信は張耳とともに、趙と代の攻撃を劉邦に命じられる。韓信は代の軍を攻略して、趙の大臣であった夏説を捕らえる。その後、滎陽において項羽と対峙する劉邦に、魏と代の地で得た兵士たちを送っている。
続いて韓信は張耳と数万の軍とともに趙国を攻める。ここでは張耳とかつて「刎頸の交わり」を結び、今では宿敵となった陳余が実権を握り、20万人と号する大軍を有していた。陳余はかつて趙王を名乗った武臣が趙を攻略した時に将軍に任命され、武臣を殺害し反乱を起こした李良を破ったことがある戦歴豊かな人物である。趙に仕えていた李左車は陳余に、「韓信たちが隘路(狭い道)に入ったところに私が3万の軍勢で補給を絶ち、あなたが打って出ずに守り抜けば、韓信を討ち取ることができます」と進言するが、奇策を嫌う陳余は疲労した韓信の軍を正面から撃破することにし、李左車の意見を採用しなかった。韓信はこのことを知って、趙を攻めることに決めた。
ここで韓信はまず、騎兵二千人を選んで漢の赤い旗を持たせて、「趙軍は私が敗走したら、城を空にして私を追撃するだろう。その時に趙の城に入り、趙の旗を抜いて漢の旗を立てるように」と言い含めて、抜け道を使って趙軍を傍観できる山に派遣した。さらに、上等な食事を武将たちに与えて「今日、趙を破って会食しよう」と言った。武将たちはみな、韓信の言葉を信じなかった。
また趙の大軍に対しわざと自軍の本陣を川を背にした死地に置くという「背水の陣」を取る。趙軍はこの陣を見て、大笑いした。そんな所に陣を敷いてはいけないのは兵法の基礎だからだ。韓信と張耳は出撃すると、しばらく趙軍と戦った後に偽って撤退する。趙軍は撃滅するために本陣を空にして追撃する。本陣にまで撤退したところで韓信は味方と合流してまた戦う。逃げ場のない漢軍は決死の覚悟で戦い、すぐに勝てると思っていた趙軍は一旦撤退しようとした。ところがその時すでに漢軍の騎兵が趙軍の城を奪い取り、城壁にあった趙の旗を抜いて漢の旗を立てていた。趙軍は城が陥落し、趙王や陳余たちが捕らえられたものと考え、逃走をはじめた。韓信は本陣と城から挟み撃ちにして、趙軍を破り趙王と李左車を捕らえ陳余を討ち取った(井陘の戦い)。
そこで、韓信は捕らえた李左車を師とあおいだ。また、武将たちに兵法に反した背水の陣は市井の人間たちを集めただけの兵士たちを死地に置かせて、逃亡しないようにするための意図であったことを説明した。
李左車の進言により、燕国は攻めずに使者を送って服従させる。また、張耳を趙王とすることと趙国内を平定する許可を劉邦から得た。張耳は趙王となり、韓信は楚軍と戦いながら趙国内を平定して、劉邦にたびたび援軍を送った。
しかし、項羽の攻撃に耐えかねて滎陽より脱出した劉邦は、夏侯嬰を連れて、漢の使者であることを偽って趙の城に入り、韓信と張耳が寝ている間に印璽と割符[4]を奪い取り、将軍たちの配置換えを行った上で、韓信と張耳の軍を奪ってしまった。張耳は趙の守備を命じられ、韓信は急きょ徴募した新兵とともに斉国攻略に向かうこととなった。
韓信が斉に向かった時、斉国は劉邦が遣わした儒者の酈食其が既に降伏させていたが、韓信は弁士の蒯通[5]が「漢王の命令により斉攻略に向かったのに、漢王は独断で酈食其を派遣して斉を降伏させました。漢王の詔[6]が出ている以上、進撃を止めるわけにはいきません。またこのままでは、将軍(韓信)が数万の軍で一年余かけて趙を攻めとった功績は、酈食其が舌先三寸で斉を降伏された功績に及ばないことになります」と進言したため、そのまま斉国に攻め入る。斉は漢に降伏していたため、漢に対する防衛は停止されていた。韓信は夜間に河を渡り斉の軍隊を攻撃。斉軍を撃破して、斉の首都に攻め入った。酈食其は斉王に煮殺され、斉王は逃走するが、韓信はこのまま斉国を征服した。
楚からは斉に対し、龍且と20万人の軍勢が援軍として送られた。龍且は項梁時代から楚軍に仕え、項梁の章邯討伐に貢献し、項羽に対して反乱を起こした黥布を打ち破ったこともある項羽配下の有数の臣の一人に数えられる勇将である。龍且は持久戦を進言されるがこれを拒否し、「韓信のことはよく知っており、戦いやすい。戦闘を交えずに決着することはできない」と言って、出撃する。濰水という河を挟んで楚漢の両軍は布陣する。
韓信は夜間に土嚢を濰水の上流に積んで河をせき止めておいた。韓信は先に河を渡って攻撃して、龍且に決戦を挑んだ所をわざと負けた振りをして誘い込んだ。龍且は「韓信が臆病なことはわかっていた」と叫んで、濰水を渡って韓信を追撃した。韓信が上流の土嚢を取り崩させると、溜まっていた大量の濰水の河水が流れてきて、龍且の軍は大半が渡れなくなってしまった。韓信が龍且を討ち取ると、楚軍を追撃して、龍且の配下であった兵を全員捕らえてしまった。
斉を平定した韓信は斉国の安定のために、仮王(副王)になりたいと劉邦に遣いを出す。劉邦は最初は「わしがここで項羽の攻撃に苦しみ韓信の救援を日夜待っているのに、王になろうとするとは」と怒る。しかし、劉邦の参謀である張良と陳平の「現在、漢は不利です。これを拒否しても韓信は独立勢力となるでしょう。うまく待遇して斉を守られた方がいいです」との意見を聞くことにした。劉邦は「仮王でなく真の王となれ」と張良を派遣して、王号を名乗るのを許可した。その後韓信は楚を攻撃する。
項羽の方も、韓信に王となって独立し天下を三分(項羽・劉邦・韓信)とするように説得するが、かつて項羽に策を用いられなかった事と劉邦から大将として認められ兵を与えてくれた事に対する恩を理由に韓信はこれを拒絶する。蒯通は韓信に独立勢力となり、楚漢の争いに乗じて天下を獲る策を献じ、「野獣尽きて猟狗(猟犬)煮らる」という言葉を引いて劉邦が信用できず、いずれ劉邦に裏切られるだろうと説いた。しかし韓信は漢に背くことに耐えられず、功績が多いのだから斉王を取り上げられることはないだろうと考えて聞かなかった。そこで蒯通は狂人を装って出奔した。
劉邦は項羽と和睦するが、項羽が帰還した際に和睦を破って背後から攻撃した。韓信にも救援要請が届いたが当初は劉邦を支援しなかった。劉邦は張良の進言を聞いて改めて韓信に王[7]の地位を約束、韓信が項羽との最終決戦に参加した事で彭越ら他の諸侯も劉邦に味方する。
韓信は斉王として、漢側の軍の先鋒となり30万人を率いた。劉邦たちはその後方となった。対する項羽は10万程度であったが、項羽もまた二度も数万の軍で戦歴豊かな人物が率いる数十万の大軍を破る実績を持つ名将である。
韓信はその項羽の攻撃を受けて退却する。だがこれは韓信の誘いであった。韓信は両翼としていた軍を移動させており、項羽の軍を左右から攻撃する。韓信は項羽の軍が不利になったところで反転して項羽を攻撃した。楚軍は大敗し項羽は敗走した(垓下の戦い)。
兵力差があったとはいえ、中国史上有数の名将二人の対決は韓信の完全勝利に終わった。
項羽は漢軍の包囲からの脱出を図ったが最終的に自害し、楚は滅んだ。しかし劉邦は、再度韓信の軍を攻撃して、斉の軍勢を奪った[8]。
その戦後処理で劉邦は韓信を斉王から楚王に移封した[9]。故郷に錦を飾った韓信はかつての知り合い達に会った(後述)。
劉邦の漢王朝下の諸侯王として韓信の地位は約束されたかに見えたが、劉邦から度々怒りを買っており警戒されていた事、項羽の部下だった鍾離昧[10]を友人であっために匿っていた事、韓信が楚の国を回る時には兵を連れていたことから、劉邦に対して韓信が反乱を起こそうとしていると報告するものがあった。劉邦は韓信を襲撃するつもりで、雲夢沢という地に狩猟という名目で諸侯王を集めた。
韓信は反乱を起こそうとも考えたが、自分に罪はないので反乱にまで踏み切れず、また劉邦に捕らえられることも恐れた。ある人が鍾離昩を殺害すれば心配はない、と進言したため鍾離昩にこのことを相談した。鍾離昩は「漢が楚を攻撃しないのはあなたと私が楚にいるからだ。あなたが私の身柄を漢に差し出すのならば私は死ぬが、あなたもいずれ滅びるだろう。あなたは有徳の人ではない」と警告して自害した。
韓信は劉邦に鍾離昧の首を持っていったが捕らえられる。韓信は「狡兎死して良狗烹られ、高鳥尽きて良弓蔵され、敵国敗れて謀臣亡ぶ[11]。天下が平定されたからには、私は煮られるのだろう」と言うと、劉邦は「君が反乱を起こしたと告げるものがいたのだ」と話す。劉邦には韓信を無実の罪で殺害する気はなく、韓信は許され兵権の無い淮陰侯に格下げされた。
韓信は病気と称して出仕せず、長安(漢王朝の首都)では悶々とした日々を過ごしていて、劉邦の功臣である周勃や灌嬰と同列であることを屈辱に感じていた。韓信が樊噲のところに立ち寄った時、樊噲はとてもへりくだって韓信を出迎えたが、韓信は「生きて樊噲などと同等の立場になろうとは」と話したと伝えられる。
また、ある日劉邦と話をした時、「わしはどれくらいの将であるか」と劉邦が話題を出した時の会話が史記に残っている。
「陛下は十万の兵の将に過ぎません」
「そういうお前はどうなんだ」
「私は多ければ多いほどいいでしょう(多々益々弁ず)」
「そんなお前がどうしてわしの虜になったのだ」
「陛下は兵を率いることが出来なくとも将の将であることが出来ます。これが私が家臣になった理由です。これは天から与えられた才能です」
ただし、『漢書』では漢の天下平定の後、韓信は劉邦に命じられて漢軍の軍法を作ったとされており、全く何もしなかったわけでないようである(韓信が漢の軍法を作ったのは、大将に任じられた漢中にいた時期である説もある。)
また、同じく『漢書』に、「漢王朝が興った後、張良と韓信が兵法書を整理して百八十二家とし、重要なものを抜いて三十五家にした」とされるため、韓信が張良と協力して兵法書を整理したとすれば、この時期に行ったことになる。
やがて陳豨という人物が鉅鹿太守に任命され、韓信の元に挨拶にやって来た。韓信はここぞとばかりに劉邦への不満と版心を陳豨にぶちまけ、共同して反乱を起こす計画を打ち明けた。紀元前196年、果たして陳豨が反乱を起こし、劉邦は討伐のため親征に赴き、この隙を狙って韓信は漢王朝を乗っ取るための謀反を企てる。
だが罪があった舎人(下級の側近)の弟に密告され(話ができすぎているため反乱の話は冤罪だったという研究者もいる。後述。)、劉邦の妻である呂雉に相談された相国の蕭何は一計を案じ、陳豨が既に殺され朝廷のものが祝賀に来ていると噂を流させた。また、蕭何自身が甘言で韓信を騙して誘う。韓信は宮中において捕えられた。劉邦が帰還する前に韓信とその三族は処刑された。
劉邦が陳豨討伐から帰還後、呂雉から韓信の死を聞かされ(反乱が未然に防げたと思い)喜ぶとともに大いに残念がったが、呂雉から「韓信は死ぬ前に蒯通の言葉を聞かなかった事が残念だと言っていました」と聞くや激怒して蒯通を捕らえて殺そうとした。しかし、蒯通が抗弁したためこれを許した。
『史記』を記した司馬遷は、韓信の淮陰侯列伝では韓信を全体として褒め称えているが、評論においては「韓信が道理を学び、自分の能力と手柄を自慢しなかったなら、理想に近いことを実現したであろうに、そういった努力をせず謀反を図ったのだから、一族滅亡となったのは当然である」と厳しく評している。
また『資治通鑑』を記した司馬光は、司馬遷の意見に賛同しながらも「漢が天下をとった原因のほとんどが韓信の功績である。韓信が斉王の時、楚王の時、反逆の心などはなかった。しかし、淮陰侯に落とされてからは反逆を図ったのだ。韓信は劉邦には自分に対する利益を与えることを求め、かつ広い心で自分に対するように求めたのだ。これでは生き残るのは難しいだろう」と評している。
しかし、韓信は謀反人とされ一族が滅亡させられたにも関わらず、後世では蕭何・張良と共に漢の創業に最も功績のある漢の三傑の一人として呼ばれるようになる。
唐代には武成王廟(太公望)の名将十哲の一人に選ばれている。十哲は左側に白起、韓信、諸葛亮、李靖、李勣、右側に張良、田穣苴、孫武、呉起、楽毅であり、兵法家としての性格の強い人物を除けば、白起・李靖・李勣・楽毅という名だたる名将たちと同等であると評されている。
その後においても、元代の戯曲や小説では韓信は無実の罪で殺されたことになっており、三国志平話では韓信は無実の罪により殺されたことに対する訴えが認められ、曹操に転生し漢王朝に復讐を果たすことになっている。
元代の知識人においても韓信の無実を主張する人物もおり、その知識人によると朱子もそのように主張していたという。
日本においても人気が高く、商業ベースでもいくつもの韓信を主人公にした小説が刊行されている。
創作作品において韓信は、志が高く、細かいことは気にしない純粋で誇り高いが、傲慢で他人の気持ちに無配慮な人物に描かれることが多い。
韓信の戦術に見られる特徴は「敵の虚をつく」・「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」・「河を利用して戦う」である。韓信の軍は無勢で訓練が少ない兵であることが多かった。魏と斉の戦いでは「敵の虚をつく」・「河を利用して戦う」ことに重点が置かれ[12]、趙と龍且との戦いでは、「敵の虚をつく」・「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」・「河を利用して戦う」全てに重点が置かれている。項羽との垓下の戦いでは「自分が設定した有利な戦場において誘い出して戦う」ことを実行している。
上記の通り兵力が少なく訓練を行っていない軍による戦いを強いられることが多かったが、優れた軍略で勝利を重ねた。
韓信の戦術は独創性が高く、相当に緻密な計算がなければ、わずかな誤差から失敗になるものが多かったが、韓信は成功にまで導き、圧倒的な勝利を勝ちえ続けた。また、兵力が優位な戦いでは項羽を相手に一戦にして大敗させており、大軍を使った軍略にも優れていたことが理解できる。冒頓単于との戦いも見たかったという意見も強い。
韓信の兵法書としては、『漢書』芸文志の兵書に『韓信三篇』と記載されており、韓信の著作とされる兵法書が存在したことが分かるが、現存していない。
酈食其によって降伏していた斉が警戒を解いている時に攻撃し、そのために酈食其が殺されることになった件について後世の批判は強い。
確かに史書をそのまま読めば、韓信の功名心が動機と解釈するのが素直な読み方である。
しかし、これは酈食其を犠牲にすることを覚悟で斉を嵌めようとした劉邦の策略であるとする研究者もいる。蒯通の発言から、劉邦は韓信に攻撃中止命令を下しておらず、韓信が攻撃しなかった場合は命令に反した罪に問われたであろうとする。
なお、『史記』に伝わる酈食其の最期に斉王に語った言葉は、「大事を起こすものは小さなことに拘らない。すぐれた人物は遠慮をしない。私はお前のために前言を翻さない。」であったと伝わっており、初めから覚悟のあったようにも読める。これらが劉邦の策略だったのではないかと考える根拠となっている。
酈食其の説得により斉が漢に降伏したといっても、あくまで斉が漢を列国の盟主として認めたというだけであり、斉が自立していることは変わらない。劉邦の臣下であった韓信が斉を支配することとは大きく意味が異なる。そのため、上記の策略を行う動機は劉邦には存在する。
ただし、史書に劉邦の策略であったことを裏付ける記述は存在せず、これを事実として劉邦を非難することには注意を要する。
韓信が斉を攻略し、項羽の武将である龍且に勝利した後、自分を斉の仮(副)王に封じることを劉邦に要求したことについても、臣下の方から主君に弱みにつけこんで、恩賞と地位を要求したとして、批判が強い。
実際に劉邦と張良はそのように解釈し、韓信の自立を止めるため、かえって斉王に封じ、その使者は張良が行うという破格の扱いとされている。
しかし、これも通説とは違う事情が存在した可能性が存在する。
確かに、『史記』の淮陰侯列伝では、張耳の趙王封建は趙討伐直後の紀元前204年10月頃であるが、韓信が斉の仮王の地位を要請した時期とかなりずれるが、『史記』秦楚之際月表という『史記』に付された各国の年表によると、張耳の趙王封建は韓信の龍且との戦いの同月である紀元前203年11月という淮陰侯列伝より一年遅れで封建されており、こちらでは、韓信が斉の仮王の地位を要請した時期とほぼ同時期となる。
『史記』は列伝などの各所ごとでの矛盾も多く、司馬遷は各所では取材した史料をできるだけ生かした形にして、自分の考えを秦楚之際月表などの年表に残したという学説が存在し、張耳の趙王封建の時期が『史記』秦楚之際月表の時期通りであると考える研究者も存在する。
『史記』秦楚之際月表のとおりとすると、韓信が自分を斉の仮王に封じることを要請したことは、張耳の趙王封建によって、韓信が趙や斉を劉邦が郡や県を置いて漢の直轄にしない方針にしたことととらえ、劉邦が(趙よりさらに漢から遠い斉に)当然、王を封じるものと解釈し、(韓信の言葉通り)、斉国の統治のために劉邦が王を封じることを前提とした上で、それを補佐する仮王に韓信を封じることを要請したもので、斉の統治も実際に困難であったであろうことから、それほど、おかしな要請ではなかったことになる。
実際に、韓信は斉王を辞退しなかったとはいえ、あくまで当初は、仮王となることを求めており、斉王には当然、韓信の上位に来るべき人物が封じられることを想定していたと考えられる。
そのような人物は劉邦の一族(弟の劉交(りゅうこう)、長子の劉肥(りゅうひ)など)か、妻の一族(呂雉(りょち)の兄、呂沢(りょたく)など)もしくは、劉邦の親友で、軍の最高責任者となっていた盧綰(ろわん)ぐらいしか存在せず、韓信の要請が疑われて当然の非常識のものであったわけではない。
韓信が斉王を辞退しなかったことは間違いないが、これについては劉邦と張良、韓信の間で様々な誤解が生じていた可能性もある。
この時、韓信の部下となっており、劉邦の当初からの部下である曹参に、韓信を諫めた、劉邦に韓信の独走を報告したなどの記述がなく、斉王となった韓信の相国(宰相)に就任して、特に大きな問題も起きていないことも注意を要する。
『史記』秦楚之際月表という『史記』に付された各国の年表によると、紀元前202年9月に「(楚)王得故項羽將鍾離眜,斬之以聞」とあり、これは「楚王である韓信は、かつての項羽の将であった鍾離眛を捕らえて処刑して、そのことを劉邦に報告した」という意味である。これは韓信が捕らえらえて楚王の地位を剥奪された紀元前201年12月とは、4か月離れている[13]。淮陰侯列伝の記述では、鍾離昩の死と韓信が捕らえられた時期にほとんど差がないと考えられ、韓信が捕らえて処刑した記述とは矛盾する。
また、『史記』秦楚之際月表の内容も韓信が鍾離眛を討伐し、戦闘の上で、鍾離眛を捕獲して処刑したと解釈できるもので、淮陰侯列伝の記述とは大きく異なる。
そのため、韓信が鍾離昩を自害に追い込んだ件については淮陰侯列伝と秦楚之際月表の記述が異なるのだが、上記で記載した通り、秦楚之際月表の方が列伝の記述より信憑性が高いということは学説でもかなり有力であり、韓信が鍾離昩を自害に追い込んだ件を史実と考えることについては注意を要する。
淮陰侯となった韓信の謀反が密告され韓信が一族とともに処刑された事件については、本紀や列伝に姓名も記述されない人物の告発である上に、漢王朝側にとって余りにも都合がよすぎ、かつ劉邦が不在の時に起きた事件であるため、謀反を起こしたことについて疑問に考える研究者も多い。
なお、陳豨が反乱を起こしたのは9月、韓信が謀反を理由に捕らえられ処刑されたのは翌年の正月である。『史記』には陳豨が謀反を起こしたという報告を待っていたと記述されているにも関わらず、実際の韓信は陳豨が反乱を起こした後4~5か月も謀反計画を温めたまま行動しなかったことになる。また当時の韓信はなんらの軍事力を有しておらず[14]、暴かれたとされる謀反の計画は、朝廷に出仕していなかった韓信が劉邦の詔(みことのり)を偽り、囚人を開放して、呂雉と皇太子(劉盈、後の恵帝)を襲わせるという実現性の薄い計画であった。
また陳豨討伐に関連して、討伐後に韓信が謀反に加担している証拠が見つかったという記述は存在しない。
韓信の謀反を告発した韓信の舎人(下級の側近)とその弟については、『史記』の淮陰侯列伝ではその姓名を記載されないため、実在を危ぶむ意見があるが、『史記』の劉邦のもとで秦や項羽、統一後の反乱討伐において主に戦功を立てた功臣のリストである高祖功臣侯者年表において、その姓名が明記されている。
韓信を告発した人物は、欒説(らんせつ)という人物で、やはり韓信の舎人であったという。欒説が捕まった舎人なのか、その弟なのか、不明であるが、その功績により、慎陽侯に封じられ、二千戸を与えられている。功臣としての順位も百三十一位とされ、楚漢戦争や反乱を起こした諸侯王討伐と同等の功績であるとみなされていることが分かる。
与えられた戸数も多く、韓信を処刑に追いこんだ告発が謀反の真偽は別にして、重大なものであると漢王朝には認識されたことが分かる。
なお、楚漢戦争の講談小説である『通俗漢楚軍談』(原作は明代に書かれている)では、韓信を訴えた人物は謝公著(しゃこうちょ)という人物とされている。
当時の淮陰は現在では淮安市である。淮安市には韓信の故郷であることを伝える碑や、股くぐりの場所とされる股下橋、韓信を祀る韓侯祠、韓信の母の墓と伝えられる韓母墓もある。
物語の冒頭で、韓信が登場する。冥界において、韓信は無実の罪で劉邦に殺害されたことを天帝が定めた裁判官(司馬仲相)に彭越・黥布とともに訴える。劉邦は白をきるが、呂雉・蒯通の証言で、劉邦が韓信らを警戒し、無実の罪で呂雉に命じて誅殺させたことが語られる。
司馬仲相は天帝の名で判決をくだし、韓信を曹操に、彭越を劉備に、黥布を孫権に生まれ変わらせる。曹操に生まれ変わった韓信は、献帝に生まれ変わった劉邦を幽閉し、伏皇后に生まれ変わった呂雉を殺害して、仇を討つ。
すでに、中国の元代では韓信が大功をあげたにも関わらず、無実の罪で、劉邦の指示により、誅殺されたという説話が存在したことが分かる。
中国の講談を江戸時代に翻訳した講談小説。横山光輝『項羽と劉邦』はこれをベースにした作品である。
韓信は、貧相で貧困であり、項梁・項羽に進言をするが、その才能を認められず、重く用いられることがなかった。項羽が韓生を処刑したことから、項羽から離れ、劉邦に仕えることにする。張良と蕭何いずれからも才能を認められ、特に蕭何の強い推薦を受けて、大将軍となる。
軍法に厳しく、劉邦の腹心すら処刑し、章邯たち諸王を相手に度々、勝利をおさめるが、劉邦の彭城攻めに反対し、元帥の立場と魏豹に交代させられる。誇りを傷つけられた韓信は、劉邦の謝罪を待つため病気を偽るが、張良の策略によって再び元帥となり、項羽を破る。
戦争では常勝を誇るが、次第に傲慢な性格になり、たびたび劉邦からの不信をかう。楚王をおろされた後は、陳豨と組んで謀反をはかり処刑された。
戦場で軍を操ることに関して凄まじい才能と情熱を持ち、普段は臆病な反面、戦場ではただ一人、項羽を恐れない勇敢さを有した人物として描かれる。単独での参戦であったため、項羽にも劉邦にもなかなか認められず、軍を指揮する立場になることに執着する。また、子供のような純粋な心を持ち、一部の人物から熱狂的な支持と支援を受ける一方で、劉邦からの誤解を受け怒りを買うような行動もしばしば行うという政治性と社会性が欠如した人物でもある。
韓信本人としては自分を引き立ててくれた劉邦が個人的に好きであるから味方すると発言し、自分を取り立ててくれなかった項羽に対する嫌悪感を外部に剥き出しにして、劉邦の味方であることを自認し続ける。しかし、自立を勧めた蒯通の説得に理解を示す態度を表し、劉邦の援軍要請に応えず王の地位を約束されて出兵するなど、強い信念を有していたわけでもなく、それが後に謀反の罪で処刑されるということへの伏線となっている。
真面目で軍略に優れるが傲慢な性格というイメージであった『史記』の韓信像を、「誇り高いが、純粋でお人よし、誤解を受けやすい性格」というイメージ像に変えた作品である。
上記の司馬遼太郎『項羽と劉邦』と『史記』、久松文雄の『史記』(原作:久保田千太郎)のうち『項羽と劉邦』をベースとした漫画作品。
北斗の拳やドラゴンボールが連載中であった週刊少年ジャンプにおいて連載される。作品自体は打ち切りではあったが、冴えない容貌の神経質な性格と描写されがちだった韓信を、作者が多くの作品で重要人物として扱う「傲慢な面があるが、誇り高く飄々とした立派な出で立ちの人物」像として描いた作品である。むしろ主人公の1人であるはずの劉邦の、後半になるにつれての小悪党化が酷い。
韓信は智謀・武勇ともに優れており、「智謀は張良・范増、武術は項羽、人徳は劉邦と並ぶ」と豪語するほどの自信の持ち主である。また史実とは違い、蕭何ではなく張良にその才能を見出され、自身で戦略を語り劉邦から全軍の総大将を任された。項羽との戦いで、項羽に正面からでは勝てないと判断し、項羽のいない戦場で戦い無敵を誇った。
活躍の場面は少なかったが、劉邦が斉王となることを許可してくれたことと取り立てられた恩、個人的に劉邦が好きだったことから劉邦の味方であり続ける。しかし他の漢側の人物と違い、心から劉邦を慕っていたわけでもなく、斉王となる許可を得られなかったら、その一生を劉邦の下に置くことはしなかった「かもしれない」と答えている。
作品の最後はその後、(文字と背景だけによる)劉邦が韓信たち功臣を誅殺したという内容の見開きという衝撃の終わり方をする。
『項羽と劉邦』と『史記』では顔が違いすぎているためたまにネタにされる。
また、韓信の若い頃を描いた特別読み切り『虎はゆく』が『殷周伝説』に収録されている。
最近の三國志シリーズでいにしえ武将として登場、チート的存在を放っている。
『項劉記』では重要なキーパーソンだが、彼が独立するイベントもあるので第三者勢力となった彼でプレイできれば良かったとも言われる。
『項羽と劉邦 下巻 楚漢激突と“国士”韓信』 (歴史群像シリーズ 33)(学研)
韓信に関する研究の専著は日本語では存在しないが、タイトルで分かる通り、韓信の行った楚漢戦争に関する戦いを多くの図や絵を使って分かりやすく説明している。韓信は項羽に敗れた彭城の戦いには参加せずに、関中において章邯と戦っていたか、黄河北岸で別動隊を率いていたという考えで説明されている。
掲示板
211 ななしのよっしん
2024/04/13(土) 18:44:10 ID: wMUdX4cmeX
>>206
上二つはイヤミ込みと見る人もいるけどだったら尚更小物臭いな…
212 ななしのよっしん
2024/11/11(月) 19:25:11 ID: eL/DZ9MpoK
武渉の言う通り天下三分に従っていれば惨めな末路を送らず済んだだろうに
王になる欲望はあったのに肝心な所で妥協したところが破滅につながったように思える
213 ななしのよっしん
2024/11/12(火) 09:55:36 ID: BiuhzbCgOD
王にはなってるからなあ
そもそも人の下について云々って性格や常識じゃなかったことや王の上に立つ存在を理解できてなかったのはあるかもしれないが
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最終更新:2025/03/26(水) 01:00
最終更新:2025/03/26(水) 01:00
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