クビライ・カーンとは、モンゴル帝国の第五代(或いは第六代)君主である。
モンゴル帝国の創始者チンギス・カンの孫に当たり、祖父の事業を継承してアジア諸国に遠征軍を派遣し、各地の歴史に多大な影響を与えた。
クビライの時代にモンゴル帝国は大きな変容を蒙ったため、クビライの統治が行き届く範囲を「元朝」と呼称し、クビライを「元朝の創始者」と位置づける場合もある(後述)。
現代モンゴル語音に従ってフビライ/フビライ・ハーンと表記されることも多い。また、モンゴル皇帝としてはセチェン・カーン(Sečen Qaγan,賢明なる皇帝)、チベット仏教の守護者としてはチャクラヴァルティ・カーン(Čakravarti Qaγan,転輪聖王)、中国史上の元朝皇帝としては元の世祖、と多くの呼称を持つ。
生い立ち
クビライはチンギス・カンの末子であるトゥルイと、チンギス・カンの庇護者にして同盟者、最後には敵対者となったケレイト部首長オン・カンの姪ソルカクタニ・ベキとの間に生まれた。チンギス・カンは生まれたばかりのクビライの顔を見て、他の子供達に比べてやや浅黒いことからオン・カンに似ていると語ったという。
同母兄にはモンゴル帝国第四代君主モンケ・カーン、同母弟にはフラグ・ウルス(イルハン国)の創始者フラグ、クビライと帝位を争ったアリク・ブケらがおり、世界史上に名を残す錚々たる面々が名を連ねている。
とはいえこの4兄弟も当初は数あるチンギス・カンの子孫の一部に過ぎず、意外にも長男であるモンケを除きクビライらがどのような幼少期・少年期を過ごしたかはほとんど記録に残っていない。
…この4兄弟が世界史に名を轟かすようになるのは、長兄モンケがカーンに即位して以後のこととなる。
即位に至るまで
東アジア方面軍司令官
帝位を巡る様々な政争・陰謀を経てモンケがカーンに即位すると、モンケは西アジア遠征軍・東アジア遠征軍を組織し、フラグを前者の司令官に、クビライを後者の司令官に抜擢した。ここに至ってようやくクビライは地上最強の軍隊の一翼と、自由な裁量を得て世界史の表舞台に表れることとなる。
東アジア方面軍最大の攻略目標は当時の最先端国、南中国の南宋であったが、長江という巨大な水の壁と強力な水軍を擁する南宋は騎兵を主体とするモンゴル軍にとって相性が悪く、名将孟珙の手によって一度敗退させられたこともある難敵であった。
そこでクビライは南宋周辺の国家(高麗・チベット・大理・ヴェトナム)を先に征服し、南宋を完全に孤立させた上で征服するという戦略を立てた。そこでまずクビライは自ら軍を率いてチベット東部を南下し、大理王国を征服した。
大理王国の位置する雲南地方(現在の雲南省)は峻険な山岳地帯でこれまで外敵の征服を受けたことがなく、長く独立を保ってきた。もしクビライによる征服がなかった場合、東南アジアの独立国の一つとして存続する未来があった…のかもしれない。
兄モンケとの対立
無事大理征服を成功させたクビライであったが、その後戦後処理及びヴェトナム方面への更なる南下を部下に委ねてクビライはさっさと自らの本拠地(現内モンゴル)に帰還してしまった。さらにクビライはそこでシムシティに熱中中国経営に専念し、征服活動を再開する様子を見せなかった。
これに対して更なる戦果を求めるモンケ・カーンは激怒し、南宋遠征の早期決着を求めてクビライを更迭し、有力皇族のタガチャルを起用したが、彼もまた不可解な撤退(どう見てもサポタージュ)をした。
痺れを切らしたモンケは親征を決意、クビライ・タガチャルと連携しつつ、自ら軍を率いて一挙に南宋を征服しようとした。しかし突如として決められた親征軍は他のモンゴル軍との連携が上手く行かず、四川地方で突出してしまうこととなった。
温暖な四川地方においてモンケは熱病にかかってしまい、モンゴル高原に退却する間もなく遠征先で病死してしまった。早すぎるモンケ・カーンの死は、図らずもモンゴル帝国史上最大の内戦(帝位継承戦争)を誘発することとなってしまった。
帝位継承戦争
モンケ・カーンが亡くなった後、新たなカーン(皇帝)候補としてはモンケの兄弟(クビライ、フラグ、アリク・ブケ)と息子達(シリギ、アスタイ)が挙げられたが、息子達は若すぎるために除外され、フラグもまた遠く西アジアにいたために除外され、クビライとアリク・ブケが有力候補として残った。
アリク・ブケはモンケ・カーンが自ら南宋を攻めるに当たって首都カラコルムの防衛を委ねられており、モンケ政権の首脳陣をそのまま継承し、カラコルムでカーンに即位しようとした。
一方、クビライは本能寺の変後の秀吉のように大急ぎで南宋側と講和を結びつつ、南宋遠征軍に所属する皇族・貴族の支持を得て北上し、内モンゴルでカーンに即位することを宣言した。
クビライは実戦経験豊富な南宋遠征軍の軍事力に加えて漢人軍閥の助力を得てアリク・ブケ側を圧倒し、また中央アジアのチャガタイ家がアリク・ブケを見限ってクビライに味方したことによってアリク・ブケの敗北は決定的となった。
この敗戦によってアリク・ブケは北斗四兄弟のジャギ様のように「自分の力量もわきまえず、クビライに喧嘩を売った無能」として後世批判されるようになった。しかし、一部の歴史書や当時発行されたコインなどを見ると実はアリク・ブケの方が正当性では上であり、クビライのほうこそが「主流派に逆らう反乱者」であったようである。
「クリルタイ(国会)によって帝国の総意として選出される」カーン(皇帝)位が武力によって奪われたという顛末はモンゴル帝国内部に波紋を呼び、モンゴル帝国分裂の大きな要因となった。
クビライの治世(内政)
「元朝」の成立
クビライの即位を経てモンゴル帝国の分裂は決定的となり、帝国東方のクビライ領は中国王朝の一つ「元朝」となった……
というのが一昔前の理解であったが、現在では研究の進展によって「元朝史」の解釈も変わりつつある。
そもそもクビライは「Yeke Mongγol Ulus(大蒙古国)」という国名を「Dai-ön Yeke Mongγol Ulus(大元大蒙古国)」と改めたに過ぎず、「中国風の国名を名のった」わけではない。また、「モンゴル帝国の分裂」と一口に言ってもその実態はやや複雑で、明確にクビライの主権を認めなかったのはカイドゥとその一派(カイドゥ・ウルス)のみで、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)やフラグ・ウルス(イル・ハン国)は「元朝」を宗主国とする立場を崩していない。
とはいえクビライ以前と以後でモンゴル帝国が大きな変化を見せたのも確かであるため、近年のモンゴル史研究者は従来の「元朝」を「大元ウルス」と言い換えることで時代区分を行うようになっている。
軍事制度
クビライは新たに軍事を掌る枢密院を設置した他、従来のモンゴル軍を継承しつつ、カーン(皇帝)に直属する親衛軍の拡大を図った。「侍衛親軍」として南宋遠征に活躍した漢人兵を皇帝直轄の軍に組み込む一方、後にはキプチャク人・アスト人からなる親衛軍も組織した。
キプチャク人・アスト人は元々ロシア南部〜カフカース地方に居住していた遊牧民であるが、ロシア遠征に参加したモンケ・カーンによって捕虜として東方に連れてこられていた。キプチャク人・アスト人は帝国内では新参者であるが故にモンゴル人同士の内戦(後述)では躊躇いなく戦うことができ、シリギの乱・ナヤンの乱といった内乱でクビライ軍の主力として活躍した。
後にキプチャク人・アスト人は内乱で活躍した功績によって勢力を拡大し、軍閥化した。大元ウルス中期に実権を握った軍人エル・テムルはキプチャク軍閥の首領であった。
財政政策
クビライの治世において最も特筆すべきはその先進的な財政政策である。
クビライとその配下の財務官僚は通行税を撤廃してムスリム商人の遠隔交易を奨励し、商税(タムガ)を徴収することによって財源の拡大を目指した。
また、唐王朝の頃から局所的に発行されていた紙幣(交鈔)を全国的に流通させて商業活動を円滑にし、一方で従来中国で用いられてきた銅銭に代わって銀貨を貨幣の主軸とした。世界でも最先端の紙幣政策はマルコ・ポーロのような外国からの旅行者を大いに驚かしている。
モンゴルの統治の下急速に銀貨が広まった中国では銅銭が余るようになり、この時代に大量の銅銭が日本を初めとする周辺諸国に流出した。この銅銭の流出は周辺諸国の経済状況にも影響を与えている。
クビライはこれらの財政政策を掌る官署として尚書省を設置し、アフマドを初めとするムスリム官僚を登用した。ムスリム官僚は大元ウルスの財政政策に大きく寄与したものの、伝統的に農を重んじ商を軽んじる漢人官僚からは評判が悪く、弾劾されることも多かった。日本史で言うところの田沼意次の扱いに近いだろうか。
チベット仏教の導入
元来モンゴル人はシャーマニズム的な信仰を有しており、征服戦争によって国土が大幅に増大した後も特定の宗教に肩入れすることなく、全ての宗教を平等に扱う態度を取っていた。
クビライはそのような前例を無視し、チベット仏教僧であるパスパを招いて帝師に任命し、チベット仏教を国教とする立場を鮮明にした。パスパは帝国の主要な宗教行事を取り仕切る他、パスパ文字と呼ばれる新たな文字の発明にも携わり、モンゴル人の仏教信仰に大きな影響を与えた。
チベット仏教の導入については当時から現代に至るまで評価が大きく分かれており、モンゴル・チベットの歴史書ではクビライ最大の功績として称賛する一方、中国人・ムスリム・キリスト教徒の記録や歴史書ではモンゴル人を堕落させた宗教であると批判するものも多い。
クビライの治世(外征)
南宋征服
即位直後のクビライにとって、最大の征服目標は即位前と変わらず南宋国のままであった。とはいえモンケという口うるさい上司枷がなくなったクビライは強硬策をとることなく、持久戦の構えを取った。
クビライは南宋攻略最大の障害となる襄陽城を長年にわたって包囲し、それと並行してそれまで帝国にはなかった水軍を建設して南宋軍の救援を阻み、更にイスラーム文明の最先端技術から作成された投石機を投入した。巨大投石機の攻撃によって流石の襄陽城も陥落を余儀なくされると、クビライは南宋征服の司令官に名将バヤンを起用し、一挙に南宋を征服させた。
バヤンの統制によって南宋首都の臨安は大規模な破壊・掠奪が行われることなく降伏し、世界有数の貿易港としての機能を損なうことなくクビライの統治下に入った。
日本・東南アジア遠征
南宋の征服に成功したクビライは続けて未だモンゴルに服属しない東南アジア諸国(ヴェトナムの陳朝、カンボジアのアンコール朝、ビルマのパガン朝、ジャワ島のシンガサリ朝)、そして東方に位置する日本の征服に乗り出した。
時系列的には日本への進出は南宋征服以前より始まっており、南宋征服を挟んで二度(文永の役・弘安の役)にわたって遠征軍を日本に派遣したが、二度とも日本側の勇戦に遭って失敗に終わった。
また東南アジア諸国への遠征でもジャワ島・ヴェトナムへの侵攻は失敗し、征服に成功したのはビルマのパガン朝(しかも短期間)だけ、という惨憺たる有様に終わった。
それまで無敵を謳われたモンゴル軍が各地で敗北を重ねた要因については、
- 熱帯環境・舟よる渡海が騎馬隊に適さずモンゴル軍が本領を発揮できなかったため
- 南宋征服によって生じた大量の元南宋兵の処分に利用しただけで、征服に本気でなかったため
- 軍事的征服よりも通商路の確保を優先していたため
- 遠征先の軍団・将軍が優秀だったため
- 単に運が悪かった(台風の到来など)ため
ただ、日本・東南アジア遠征におけるモンゴル軍及びその指揮官がクビライ以前の遠征軍に比べ質的に劣るものであったのは確かである。モンゴル帝国の慣例として遠征軍の司令官は皇族が務めるのが常であったが、東南アジアへの遠征では皇族が参加することが少なく、また一線級の指揮官の多くはモンゴル人同士の内戦にかり出される事が多かったためである。
モンゴル帝国の分裂
カイドゥの乱
クビライの治世を通じてクビライを最も悩ませたのは外敵との戦いではなく、同じモンゴル人同士の戦いであり、クビライにとって最大の敵となったのは第二代皇帝オゴタイの孫、梟雄カイドゥであった。
「カイドゥの乱」が生じた要因を辿っていくと、その遠因はチンギス・カンの時代まで遡る。
チンギス・カンにはジュチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイという四人の息子がおり、それぞれが王家を形成したが、ジュチ家とトゥルイ家、チャガタイ家とオゴタイ家がそれぞれ仲が良い傾向にあった。第二代-第三代カーンの時代はチャガタイ家とオゴタイ家が栄える形となったため、ジュチ家とトゥルイ家は協力してモンケを即位させて優位に立とうとした。
モンケは即位するとチャガタイ家とオゴタイ家を弾圧し、二度と復活することがないようにした。ところがモンケが予想外に早く亡くなり、トゥルイ家内(クビライとアリク・ブケ)で内戦が起こったため、チャガタイ家とオゴタイ家はこれを好機と見て勢力復興を図った。
このような状況で頭角を現したのがオゴタイ家のカイドゥで、カイドゥはフラグ・ウルス(イルハン国)との戦いで自滅した衰退したチャガタイ家を吸収し、中央アジアで覇権を確立した。カイドゥは父祖の代からの因縁によってトゥルイ家(クビライ)の主権を認めず、クビライの統治する大元ウルスと敵対した。
以前はカイドゥが治める地域を「オゴタイ・ハン国」と呼称していたが、実際にはチャガタイ家、アリク・ブケ家なども内包していたため、現在はカイドゥ・ウルスと呼称するのが一般的である。
シリギの乱
いくらカイドゥの存在が脅威とはいえ、所詮は遠い中央アジアの存在。シルクロードの防備を固めればカイドゥは大元ウルスに手を出せず、向こうからの攻撃がなければどうということはない……
そんなクビライの計算を一変させた事件が「シリギの乱」である。
そもそもクビライは帝位継承戦争の際、内戦の早期解決を図って敵対勢力の殲滅ではなく降伏を優先しており、クビライと敵対したモンケ/アリク・ブケの一族の多くは戦後もその地位を保ったままクビライに帰順した。
クビライの息子ノムガンがカイドゥ領の中央アジアに攻め込もうとしたとき、その配下にあったモンケの息子シリギを中心とする一団は叛旗を翻してノムガンを捕虜にし、クビライと敵対した。
事態を重く見たクビライは南宋征服を終えたばかりのバヤンを召喚して叛乱鎮圧に向かわせ、「シリギの乱」そのものは比較的早くに鎮圧された。しかし、真にクビライにとって痛手であったのはモンゴル高原西部に領土を持つモンケ/アリク・ブケの一族がカイドゥと同盟を組むことによって、モンゴル高原西部の守りが失われたことにあった。
クビライに敗れたモンケ/アリク・ブケの一族がカイドゥと同盟を組んだ結果、カイドゥは何の障害もなくモンゴル高原に攻め込めるようになり、クビライ-カイドゥ間の戦争の主戦場はシルクロードからモンゴル高原に移った。この状況に対し、クビライはバヤンを初めとする多くの名将を投入してカイドゥの侵攻を阻ませた。
もし、シリギの乱がないままバヤンらが南中国に留まり、東南アジア遠征を指揮していたら…
東南アジア諸国征服の結果は違ったものとなっていたかもしれない。
ナヤンの乱
バヤンら名将の活躍によってカイドゥとの戦いは膠着状態に陥り、とりあえずは平穏な統治を続けていたクビライの晩年を揺るがしたのが、ナヤンを中心とした東方三王家が起こした「ナヤンの乱」である。
「東方三王家」とはチンギス・カンの弟達を始祖とする王家の総称で、知名度こそ低いものの格式の上では西方のジュチ・ウルスやチャガタイ・ウルスと同格の有力王家であった。当然のことながらカーン(皇帝)選出のクリルタイ(国会)では大きな発言力を有しており、モンケ・クビライ兄弟が即位できたのは東方三王家の助力による面が非常に大きかった。
そのため、クビライの治世の前半において東方三王家は非常に優遇されていたが、当主の代替わりに伴ってクビライとの関係が悪化し、叛乱を起こすに至ったのである。
軍の主力はカイドゥとの対決のため西方にあって動かせず、頼りにすべき4人の嫡子は全員がクビライに先立って亡くなっていた。絶望的な状況の中、クビライが取った行動とは……
72歳の老骨に鞭打って自ら軍を率い、叛乱軍本隊を撃ち破ることであった。
この時、クビライはビルマ征服で得た戦象に乗り、自ら育て上げた親衛軍を率い、油断しきっていたナヤン軍を粉砕した。あまりの電撃戦ぶりに、ナヤンの乱に呼応して攻め込もうとしたカイドゥがつけいる隙も無かったほどの手腕であった。
クビライの死とその後
皇太子チンキムがクビライに先立って亡くなったため、クビライはチンキムの3子(カマラ・ダルマバラ・テムル)を後継者としようとした。
ところがダルマバラまでもがクビライに先立って亡くなりカマラは無能だったため、クビライはテムルを後継者とし、「ナヤンの乱」の残敵掃蕩を任せるなど経験を積ませた。
そして「ナヤンの乱」からさらに7年後、79歳という当時としては異例の長寿を全うし、クビライは亡くなった。クビライ没後のクリルタイ(国会)では空気を読めない一部の人々がカマラをカーンにしようと画策したが、バヤンらの後ろ盾の下、順当にテムルが即位した。
クビライの没後、これを好機と見たカイドゥは大元ウルスに攻め込もうとしたが、クビライの築いた基盤は揺るぎもせず、クビライの育てた諸将の奮戦によって逆にカイドゥ自身が傷を負い、この戦傷によってカイドゥは病死してしまった。
カイドゥの死後、あっという間に「カイドゥ・ウルス」は解体してしまい、チャガタイ家のドゥアに乗っ取られてしまった。ドゥアは大元ウルスと講和を望んだため、テムル・カーンの治世においてようやくクビライが長年望んだモンゴル帝国の再統合が達成されたこととなる。
評価・逸話
中国史上では「野蛮なモンゴル人に中国文明を導入した賢君」として概ね高評価される傾向にある。そのあおりをくってモンケが不当な評価を受けている面もあるが…兄よりすぐれた弟なぞ存在しねぇ!!
とはいえ、「中国文明に傾倒した君主」という評価は近年の研究によって改められつつある。前述したようにクビライが王権の正当化に利用したのはチベット仏教僧であり、財政政策にはウイグル人・ペルシア人官僚を登用してイスラム世界の商業政策に学び、国家制度の大枠はモンゴル帝国の基本形から大きく変わっていない。
クビライが中国人官僚を取り立て、中国風の統治制度を取り入れたのは事実であるが、それはクビライの政策の一面に過ぎず、多民族・多文化・多宗教の臣下を有して新たな国作りに挑んだのが真の姿であると言える。
また、後世のモンゴルではチベット仏教を導入したことが称賛される一方で、南宋を征服したことや国名を改めたことなどは注目されていなかった。
現在のモンゴル国首都ウランバートルの国会前にはチンギス・カン、オゴタイ・カーン、クビライ・カーンの3人の銅像が建てられているが、「中国に傾倒した」クビライの像を建てるかどうかは議論があり、最終的に中国がクビライの銅像を建てる事を聞いて慌てて建造を決定したという。
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ゲーム
世界史上でも著名な君主の一人として、ゲームにもしばしば登場する。
能力値としてはチンギス・カンに比べ戦闘面での能力がやや劣るステータスに設定されていることが多い。
政治 | 戦闘 | 智謀 | 歩 | 弓 | 騎 | 水 |
92 | 85 | 89 | B | B | A | E |
政治 | 采配 | 戦闘 | 智謀 | 足軽 | 騎馬 | 鉄砲 | 水軍 |
97 | 83 | 74 | 91 | B | A | E | E |
関連項目
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