基本データ | |
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正式名称 | イェケ・モンゴル・ウルス Yeke Mongɣol Ulus |
国旗 | |
公用語 | モンゴル語 |
首都 | カラコルム |
面積 | 約3300万km²(最盛期) |
人口 | 約100000.000人(最盛期) |
皇帝(大ハーン) | チンギス・ハン(初代 1206~1226) オゴデイ・ハーン(第二代 1229年~1241年) グユク・ハーン(第三代 1246~1248) モンケ・ハーン(第四代 1209~1259) フビライ・ハーン(第五代 1260~1294) テムル・ハーン(第六代 1294~1307) |
通貨 | 銀 |
モンゴル帝国とは、チンギス・ハンが1206年に興した、ユーラシア大陸史上最大の領域を保有していた帝国である。
歴史
モンゴル帝国の誕生とチンギス・ハンの生涯
1162年ごろ、テムジン(後のチンギス・ハン)は現代のような国家や統一政府といった概念が存在しない時代のモンゴル高原に、勇敢な戦士として名が知られていたイェスゲイの息子として生まれた。だがその生い立ちは過酷なもので、幼い頃に父は毒殺され、他部族の者の捕虜になってしまう。さらには新婚早々、他部族の者に妻をNTRされてしまい、一年後に取り返したときには誰の物かわからぬ子供を孕まされていた。そんな過酷な生い立ちであったテムジンだが、苦難を乗り越え1205年にはモンゴル中にあった諸部族を平定し、モンゴル高原を統一した。そして1206年にクリルタイ(部族間の大集会)にて、彼はテムジンから、チンギス・ハンへと名前を変えた。これがモンゴル帝国が興った瞬間である。
遠征、征服
チンギスは諸部族を率いる立場となると早速、南にあった西夏や金という国を征服し始めた。ここでの戦いにてチンギスは険しい山々に作られた城砦を攻めるのに苦心する。彼らは野外での戦いでは得意の騎馬兵を用いる戦術で無敗に近かったが、馬の使えない攻城戦には非常に弱かった。そこでモンゴル人たちは捕虜にした敵国の技術者を利用し、攻城戦に使う投石器や弩砲といった兵器や戦術等を得た。
金への遠征を一旦終えるとチンギスは西へと目を移したが、西方でモンゴルと勢力を接するのは西遼という国であった。そこでは1204年に、チンギスによって部族の者を皆殺しにされたナイマン部族の王族であるクチュルクという男が西遼を乗っ取り、チンギスとモンゴル帝国に対し復讐の機会を伺っていた。それに警戒したチンギスは、二万の兵を送り込み西遼を滅ぼした。クチュルクの復讐は果たされることの無いまま終わってしまったのだ。
西遼を征服したモンゴルは、同時期に急成長したホラズム・シャー国というイスラームの国と接するようになった。チンギスは早速、通商使節団を送り込み、様子を伺う事にした。通商使節団がオトラルという町に差し掛かったときに、そこの支配者であるイナルチュクという男が欲に駆られ、通商使節団の持っていた貢物を奪い、使節団の者たちをスパイ容疑で皆殺しにした。それに激怒したチンギスは、すぐさまホラズム・シャー国に軍隊を送り込み、滅ぼした。ホラズム・シャー国の支配者である、ムハンマドは逃亡の末、カスピ海の小島にて失意の内に病死し、戦争の原因となったイナルチュクは穴という穴から溶かした銀を流し込まれて殺された。
ここまで勢力を拡大したところで、1227年にチンギス・ハンは西夏にて、命令に従わなかった事への懲罰遠征の最中に病気で死すことになる。次の王は、チンギスの三男、オゴデイがなることとなった。
オゴデイの治世
チンギスには多くの息子たちが居たが、長男のジョチは既に死んでおり次男のチャガタイは粗暴な性格であったため、オゴデイがモンゴル帝国の第二代ハン(皇帝)に選ばれた。
早速オゴデイは、まだ征服途中であった金との戦争にとりかかり、金を完全に滅ぼす。それが終わると、彼は征服行為を配下の者たちに任せ、自分は巨大化したモンゴル帝国を纏める作業に取り掛かり始めた。早速オゴデイは、モンゴルには存在しなかった首都をカラコルムに作り、街や村に使者を送り込み戸口調査を行わせ、税金を領民から徴収した。その税金で街道を整備し、馬を休ませる為の駅を道すがらに設け、国内の通行許可証も発行したという。またオゴデイは、それまでモンゴル帝国の君主号として用いていきたハンとは別に、より古い時代の君主号であるハーンという称号も用いるようになった。これはモンゴル帝国のハンを他の部族のハンから区別するための処置と考えられ、これは秦の始皇帝が中華の最高君主号である「王」の代わりに新たに「皇帝」という別の称号を名乗ったことに例えられる。
彼は国内の整備が終わると、征服を再開した。ロシア・東欧方面にはジョチの子バトゥを総司令に、スブタイを副司令として遠征し、騎士達と戦った。特にキエフ・ルーシ(キエフ大公国)はモンゴルの遠征で崩壊し、ポーランド王国は神聖ローマ帝国からの援軍諸共に「ワールシュタットの戦い」(死体の山の戦い)で軍勢が撃滅し、今でも恐怖混じりに語り継がれている。一方で、東方では高麗を征服したもののオゴデイの三子クチュ率いる南宋遠征軍は孟珙の活躍によって失敗した。
グユクの治世
グユグはオゴデイの長男で、彼が第三代ハーンに即位した。南宋に遠征し、領土を拡大する事に励んだ。43歳の若さで死す。彼は母ドレゲネの裏工作で即位したハーンと言われている。彼の代に生じたジョチ家・トルイ家とチャガタイ家・オゴデイ家の対立は後のモンゴル帝国解体の一因となってしまう。
モンケの治世
オゴデイが死すとオゴデイの弟(チンギスの四男)である、トルイの長男のモンケがモンゴル帝国の第四代ハーンになった。彼は「第二次世界征服計画」を発動し、中国に二男のフビライ、インドのカシミール地方に武将のサリ・ノヤン、西アジアに三男のフラグを遠征に向かわせた。
フラグは西方にて、アッバース朝やルーム・セルジューク朝を滅ぼした。だが、エジプトに存在したマムルーク朝の名将バイバルスにアイン・ジャールートの戦いにて敗北し、そこで彼の進撃は止まってしまった。一方、シリアでは征服行為に危機感を持ち、モンケを暗殺しようとした集団があった。これこそが「暗殺教団」で悪名高く、今でもアニメやゲーム等で登場するニザール派である。彼らは400人の暗殺者をカラコルムに送り込み、モンケを暗殺しようとした。だが、そのうちの何人かがバレてしまい、失敗する。これに激怒したモンケは、フラグに命じニザール派の本拠地であるアラムート城砦を包囲し、降伏させた。ニザール派の殆どの者は皆殺しにされ、歴史から消え去った。
一方の中国では、南宋相手に長期戦の構えをとるフビライに腹立ち、自分で力づくに侵攻しようとする。だがこの時、南宋は酷暑に見舞われていた。モンケの軍勢は暑さから病にかかり、モンケ自身も病にみまわれ50歳で死亡する。
フビライの治世
モンケが死すと、トルイの四男であるフビライが第五代ハーンになった。彼は強引なやり方でハーンに即位し、それに対してオゴデイの息子であるハイドゥが反乱を起こしたが、鎮圧された。
反乱を抑えた後、フビライは首都をカラコルムから大都(現在の北京)に移し、国の名称を大元大蒙古国(ダイウォン・イェケ・モンゴル・ウルス)、通称元へと変える。彼は中国の南宋、ミャンマーのパガン朝、タイ系王朝の大理国を滅ぼし、征服範囲を広げていった。
次の目標として、彼は二度日本に侵攻(元寇)したが、九州の武士団の激しい抵抗にあって攻めあぐね、さらには海上で台風による大きな被害を受けて撤退した[1]。その後はベトナムへ侵攻(越蒙戦争)して陳朝やチャンパ王国と戦ったが、鬱蒼としたジャングルとゲリラ戦に阻まれ攻めあぐね、海上で輸送船団が撃破されるに至り撤退することとなった。その他にはジャワ島や琉球へも侵攻しているが、どちらも現地勢力の抵抗に遭って撤退している。
帝国の分裂
フビライが死に、彼の孫である、テムルがハーンに即位すると、元来独立色の強かった各地のウルスは大都のハーンの統制を離れて行動するようになり、帝国の統一は失われつつあった。カイドゥの反乱によって混乱を極めた中央アジアもカイドゥの死後チャガタイ家のドゥアがチャガタイ・ウルスとして再統一したことによって、地球上の陸地面積の1/4を占めたモンゴルによる巨大帝国は、中国の元(大元ウルス)、ロシアのキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)、西アジアのイル・ハン国(フラグ・ウルス)、中央アジアのチャガタイ・ハン国(チャガタイ・ウルス)の四つのウルスに大きく分割されることとなった。
しかし、各ウルスのハンも大都のハーンの優位性を完全に無視したわけではなく、四つのウルスは大都のハーンを宗主とする連合国家のような形に再編される。それと同時にモンケの死以来のモンゴル帝国内での抗争も一応の決着を見たため、モンゴル帝国がつなげた東西の交流は活発化、パクス・モンゴリカと呼ばれる繁栄の時代が訪れる。この後、四つのウルスはそれぞれの運命をたどることとなるが、モンゴル帝国の生んだ東西交流の活発化は各地に強い影響を残し、後の大航海時代につながることとなる。
ちなみにこの頃、世界で初めて世界史について書かれた本がモンゴル帝国の一部であった、イル=ハン国から生まれる。「集史」と呼ばれる本である。これはイル・ハン国のペルシア人宰相ラシードウッディーンという人物が編纂し、ペルシアで最も優れた文学と言われている。
後世への影響
モンゴル帝国はその巨大な版図ゆえに、当時のユーラシア大陸のほとんどの地域に多大な影響を及ぼした。モンゴル帝国(およびその後継)・被影響国・被影響国の敵対国(あるいは隣国)といった三角関係を東西の地域で展開させ、それによりその後のユーラシア史を大きく塗り替えた。
アジア
東アジアでは先述の日本に対する「元寇」に加え、1634年まで「北元」帝国として存続し明と度々衝突したことから、東洋史を語る上では無視できない存在となった。
西アジアにおいても、フラグによる西方遠征、とくにバグダードでの戦いによるアッバース朝への大打撃や、当時ビザンツ帝国(東ローマ帝国)を圧しアナトリアに覇を唱えつつあったルーム・セルジューク朝を降した事実など、イスラム圏や東地中海沿岸の歴史に甚大な影響を及ぼしている。
モンゴル帝国の威光は、中央アジアではティムール帝国として受け継がれ、これもアジアへ多大な影響を及ぼした。ティムール帝国は、西はアナトリアのオスマン朝(オスマン帝国)、東は明へと圧を加えたが、特に西方は、後述するようにオスマン朝に敵対するビザンツ帝国の寿命に影響した。のちにはティムール帝国の一部の勢力がインド方面に亡命し、自らは「チンギス王家の娘婿」を名乗り、ペルシア語では「モンゴル人の帝国」と呼ばれたムガール帝国になった。
東欧
先述した「ワールシュタットの戦い」により、ポーランド王国やハンガリー王国および神聖ローマ帝国にもモンゴルの脅威が伝わった。荒廃したポーランド王国にはバルト地方を中心とした西方のドイツ人植民が行われた。これは後に、ドイツ騎士団対ポーランド王国、プロイセン公国対ポーランド・リトアニア共和国の対立を生む。
一方、東地中海の覇者であったビザンツ帝国にとっても、その余命が延ばされた点でモンゴル帝国の影響を思い知ることができる。11世紀も後半の当時、ビザンツ帝国はトルコ系王朝のセルジューク朝に大敗し、お膝元であったアナトリアをほとんど喪失したが、東方からモンゴル帝国がアナトリアに浸食したことより、セルジューク朝が一方的にビザンツ帝国を降し、アナトリアで覇を唱えることはなくなった。また、15世紀初めにおいても、ビザンツ帝国はトルコ系のオスマン朝に攻撃されていたが、モンゴル帝国の一後継王朝たるティムール帝国がアナトリア方面に攻勢をかけたことにより、またもや余命が延ばされることとなった。
13世紀のポーランド王国・神聖ローマ帝国、衰退しつつあったビザンツ帝国もさることながら、モンゴル帝国によるロシア・ウクライナ地域への支配、すなわち「タタールのくびき」は、同地域の形成やその後の歴史に色濃く及んでいる。リトアニアはキエフ・ルーシ崩壊後にこの地域へ勢力を拡大する。ロシアは、当時の政権たるモスクワ大公国によるキプチャク・ハン国の権威の利用、およびそこからの独立、そしてビザンツ帝国の遺産の吸収とリトアニアと合同したポーランドとの対立などが、ロシア帝国の形成に大きく寄与している。
後継諸国
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関連項目
- モンゴル
- モンゴルの歴史
- チンギス・ハーン
- モンケ
- クビライ
- スブタイ
- 耶律楚材
- 元王朝
- ティムール朝
- 東ローマ帝国
- オスマン帝国
- ロシア帝国
- 東欧の歴史
- 世界史
- 現存しない国の一覧
- 帝国
- 越蒙戦争
- 元寇
脚注
- *しばしば「日本は暴風雨(いわゆる神風)に窮地を救われた」と表現されることがある。確かに元軍は二度の侵攻で二度とも暴風雨により大きな被害を受けている。しかし、最初の襲来(文永の役)で元軍が暴風雨から被害を受けたのは元軍が撤退を決めた後の話だし、侵攻中に被害にあった二度目の襲来(弘安の役)にしても九州の武士団の激しい抵抗にあって元軍が上陸しあぐねている最中の出来事である。これらを「窮地を救われた」とするのは些か暴風雨の影響を過大評価した表現だと言えよう。
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