ユヴェントスFC(Juventus F.C. S.p.A)とは、イタリア・セリエA所属のサッカークラブである。ユベントスとも表記される。
概要
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1897年創設、本拠地はトリノ。セリエA最多優勝を誇る世界的なクラブチーム。1923年以来、クラブのオーナーはフィアットの創業家であるアニェッリ家となっている。ホームスタジアムは2011年9月に新設されたアリアンツ・スタジアム(ユヴェントス・スタジアム)。
クラブカラーは白と黒(bianco e nero)。通称ユーヴェ、ビアンコネーリ、イタリアの貴婦人(Vecchia Signora)。サポーターはユヴェンティーノと呼ばれる。
ACミラン、インテル・ミラノと並ぶイタリアのビッグ3の一つであり、セリエAでのスクデット獲得回数は36回と他の2チームを大きく引き離して最多記録を保持している。2012年から2020年までの間にはリーグ9連覇を達成。UEFAチャンピオンズリーグには9回決勝まで進んでおり、うち2回優勝している。ただし、ビッグイヤーを獲得した回数はミラン、インテルよりも少ない。
ホームタウンという概念が確立しているヨーロッパには珍しく、全国的な人気を持つクラブである。その反面、アンチも多い。
1923年以来、クラブのオーナーはフィアットの創業者であるアニェッリ家となっている。クラブは健全経営を心掛けており、スター選手であっても契約で揉めた際は去る者は追わずのスタンスを取っていた。
しかし、近年はオーナー側がさらなる発展を求めるようになっており、クラブエンブレムの大胆な変更や多額の移籍金を費やしての選手の獲得などの動きを見せている。
同じトリノを本拠地とするトリノFCとはライバル関係にあり、両者の対戦はトリノ・ダービー(デルビー・デッラ・モーレ」と呼ばれている。またインテル・ミラノとの対戦はイタリアダービーと呼ばれ、イタリアを代表するビッグマッチとなっている。地域的なライバルではないが、1990年にロベルト・バッジョを引き抜いたことが原因でACFフィオレンティーナとは険悪な関係にある。
数多くの名選手が在籍した中で、背番号「10」はその時代を代表する選手が背負う伝統の番号とされており、過去にはミシェル・プラティニ、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デル・ピエロなどが使用している。
2000年代半ばにカルチョ・スキャンダルというおおきな不祥事の中心となった。その内容は審判買収による八百長問題であり、2006年にクラブは創設以来初となるセリエB降格処分を受けている。またイタリアサッカーへの不信感を起こさせるものとなり、以降セリエAの国際舞台での競争力が低下している。
2015年3月23日、イタリア最高裁はユヴェントスの元GMのルチアーノ・モッジ氏、元代表取締役のアントニオ・ジラウド氏らが「スポーツ犯罪を行っていない」という無罪判決を下した。有罪判決が下ったのはデ・サンティス審判のみであり、クラブはイタリアサッカー連盟(FIGC)に対し、カルチョポーリによって被った損害の賠償を求めて裁判を提起している。
歴史
1897年、マッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒がスポルト・クラブ・ユベントス(Sport Club Juventus)を設立。ちなみにユヴェントスとはラテン語で「若者」を意味している。ちなみにクラブ設立当初のユニフォームの色はピンクだったが、色褪せしやすいという問題があり、1903年に現在の白と黒に代わった。
1900年よりセリエAの前進であるイタリア選手権に参加。1905年にはクラブの初タイトルとなるイタリア選手権優勝を果たしている。その翌年クラブの内部紛争によって当時の会長が辞任し、同じ本拠地に現在のトリノFCを設立している。
1923年、フィアット社のオーナーであるエドアルド・アニェッリがクラブを買収。以降、今日に至るまでクラブの会長はアニェッリ一族が務めるようになる。これによって力をつけたチームは1926年に21年ぶりとなるイタリア選手権優勝を果たすと、1930年代には地元開催で優勝した1934 FIFAワールドカップのイタリア代表メンバーを9人も揃えた陣容で1931年から1935年までのセリエAを5連覇し、クラブ最初の黄金時代を迎える。
1942年にジャンニ・アニェッリが会長に就任するが、1940年代のカルチョの主役をライバルのACトリノに奪われてしまい、「グランデ・トリノ」と呼ばれたチームの影に隠れる格好となっていた。1938年のコッパ・イタリアを最後にタイトルから遠ざかっていたユヴェントスが次にスクデットを獲得したのは、皮肉にもグランデ・トリノのメンバーの多くが命を落とした「ミュンヘンの悲劇」の翌年である1949-1950シーズンだった。
1957-58シーズンはクラブ初となるスクデットとコッパ・イタリアのシーズンダブルを達成。さらに、このとき通算10回目のスクデット獲得を達成し、胸にステッラ(星のエンブレム)を付けることが許された最初のチームとなる。このシーズンから1960-61シーズンまでの4シーズンの間にスクデット3回、カップ2回を獲得しており、この頃チームの攻撃の中心だったジャンピエロ・ボニペルティ、ジョン・チャールズ、オマール・シヴォリのFW三人組は「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」と呼ばれた。一方、1960年代にACミランとインテルがUEFAチャンピオンズカップを制覇したのに対し、ユーヴェは欧州の大会で上位に進出はすれど、タイトルには手が届いていなかった。
1976年にジョヴァンニ・トラパットーニが監督に就任。ディノ・ゾフ、ガエターノ・シレア、クラウディオ・ジェンティーレを擁した鉄壁の守備陣をベースに就任1年目の1976-77シーズンにスクデットを獲得すると、さらにUEFAカップ優勝を果たし、クラブ史上初となる欧州でのタイトルを獲得する。1980年代に入ると、ミシェル・プラティニ、ズビグニェフ・ボニエク、パオロ・ロッシが加入。セリエAではコンスタントにスクデットを獲得しており、1982-83シーズンに20回目の優勝を飾る。1983-84シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ優勝を果たす。そして、1984-85シーズンのUEFAチャンピオンズカップ決勝では前回覇者のリヴァプールFCを相手に勝利し、悲願となっていた初のビッグイヤーを獲得。その年の年末のトヨタカップではアルヘンティノス・ジュニアーズを下し、世界一のタイトルも手にする。タレント揃いの当時のチームの中でもひと際輝きを放った「将軍」プラティニは3年連続でバロンドールを獲得、トラパットーニは在任10年間で13個のタイトルをチームにもたらした。
プラティニが現役を引退した1986-87シーズン以降、ディエゴ・マラドーナ擁するSSナポリの台頭、オランダトリオによって黄金期が到来したACミランの後塵を拝し、世界最高リーグと呼ばれるようになったセリエAでタイトルが取れない時期が続いていた。プラティニに代わる新たなチームの象徴として1990年にロベルト・バッジョを獲得。1991年には5年ぶりにトラパットーニが監督に再任。ロベルト・バッジョは1993年にバロンドールを獲得し、1992-93シーズンにUEFAカップ優勝をもたらすが、国内ではミランの牙城を崩すことができずにいた。
1994年にマルチェロ・リッピが監督に就任。不調だったジャンルカ・ヴィアリが復調したこともあり、1994-95シーズンに9年ぶりのスクデットを獲得。1995-96シーズンは怪我がちだったロベルト・バッジョの放出を決断し、台頭してきた若いアレッサンドロ・デル・ピエロをエースに抜擢すると、UEFAチャンピオンズカップで二度目の優勝を果たす。この頃のユヴェントスは頻繁に選手の入れ替えをおこないながら攻守のバランスが取れたチームに仕上がっていき、ジネディーヌ・ジダンという世界最高峰の司令塔が加わったチームは1996-97シーズンと1997-98シーズンにセリエAを連覇。チャンピオンズカップでも3年連続で決勝進出を果たしている。特に「デルピッポ」と呼ばれたデル・ピエロとフィリッポ・インザーギの2トップ+ジダンを擁した1997-98シーズンのチームは当時の最強チームと称されていた。
しかし、1998-99シーズンはズデネク・ゼーマンの告発が発端となった「ドーピング疑惑」によってチームは批判に晒され、さらにデル・ピエロが左膝十字靭帯断裂の重傷を負ったことによって深刻な得点力不足に苦しめられ、チームは中位に低迷。名将の座を確立していたリッピは成績不振によって解任となる。その後、カルロ・アンチェロッティが後任を務めるが、3シーズン連続で無冠に終わっている。
2001年に3年間のブランクを経てマルチェロ・リッピが監督に復帰。チームの中心であったジダンがレアル・マドリードに移籍し、大きな転換期を迎えたチームはダヴィド・トレゼゲ、パベル・ネドベド、ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムらを獲得。ネドベドがジダンに代わる攻撃の中心としてフィットしたこともあり2001-02と2002-03シーズンにセリエA2連覇を果たす。2004年にはファビオ・カペッロを監督に招へいすると、ブッフォン、テュラムにファビオ・カンナヴァーロも加わった最終ラインは鉄壁のユニットを形成。2004-05、2005-06シーズンにまたもセリエAを連覇する。ところが、2006年夏にルチアーノ・モッジGMらによる審判への買収・脅迫行為が発覚。カルチョ・スキャンダルと呼ばれたこの事件によってクラブは2004-05及び2005-06シーズンのスクデット剥奪に加え、史上初のセリエB降格処分を受けることになる。
屈辱的なセリエBで戦うことになった2006-07シーズンだったが、主将のデル・ピエロがいち早く残留を表明したことでブッフォン、ネドベド、トレゼゲらが残留。ディディエ・デシャンを監督に迎え、独走状態でセリエB優勝を果たし、1年でセリエA復帰を果たす。セリエA復帰1年目となった2007-08シーズンは、デル・ピエロとトレゼゲの2トップが揃って好調だったこともありCL出場権を獲得するが、カルチョ・スキャンダルによって負ったダメージはやはり大きく、4シーズン連続で無冠に終わったばかりか2年連続で中位に終わるなどチームは低迷期を迎えていた。危機感を覚えたフロントはGMにジュゼッペ・マロッタ、スカウト担当にファビオ・パラティッチを迎え入れ、改革に乗り出す。
2011年、マロッタにチーム再建を託されたのはクラブOBのアントニオ・コンテだった。監督経験の少ないコンテの手腕を疑問視する声もあったが、ミランからフリーで獲得したアンドレア・ピルロがレジスタとしてゲームメイクの中心を担い、コンテの採用した3-5-2システムも嵌ったことでチームは躍進。2011年9月にイタリアでは初めてのクラブ占有のスタジアム、ユヴェントス・スタジアムが完成したことも追い風となり、2011-12シーズンは無敗で優勝。見事チームが復活したこのシーズンを最後にバンディエラであるデル・ピエロは退団する。その後、カルロス・テベスやポール・ポグバ、アルトゥーロ・ビダルが中心となったチームは2012-13、2013-14シーズンも圧倒的な強さでスクデットを獲得。ライバルであるミランとインテルが苦しむのを尻目にイタリアの盟主の座をすっかり取り戻していた。
ところが、三連覇をもたらしたコンテが2014年7月にフロントと衝突して突然の辞任。後任に指名されたマッシミリアーノ・アッレグリはコンテの戦術を踏襲しながら戦力を維持し、リーグ戦4連覇とコッパ・イタリア優勝のシーズンダブルを達成。2015年夏にピルロ、テベス、ビダルというチーム復活の立役者たちが揃って退団するが、マロッタ&パラティッチの手腕によって的確な補強を実現。自分の色を出し始めたアッレグリは3バックと4バックを試合の中で使い分ける可変型システムを採用。2016年には守護神ブッフォンが974分連続無視点というセリエA記録を樹立し、伝統であるソリッドな守備はさらに盤石なものとなっていた。2017-18シーズンにはセリエAで7連覇、コッパ・イタリア4連覇と4年連続ダブルを達成し、もはや国内では敵なしとなっていた。また、CLでも二度準優勝するなど、欧州での競争力が大きく低下したイタリアのチームにあって唯一ビッグイヤーの可能性を感じさせるチームになっていた。
2018-19シーズン、欧州での覇権奪取とさらなるビジネスの拡大を図るアニェッリ家主導によって1億ユーロという大金を投じ、バロンドーラーのクリスティアーノ・ロナウドを獲得。この頃から健全派で必要以上の経費は出さないマロッタとチームの更なる発展も求むアニェッリとの方針の違いを巡り確執が取りざたされ、マロッタは退団を表明。このあたりからチームの雲行きが怪しくなり始める。クリスティアーノ・ロナウドは期待通りの得点力を見せつけ、セリエAでは8連覇を達成。しかし、CLでは準々決勝で敗れ、アッレグリは退任となる。2019-20シーズンにはマウリツィオ・サッリが監督に就任し、セリエA9連覇を果たすが、その内容は選手の個に依存したものとなり、CLでは2年連続でラウンド16敗退。サッリは解任となり、2020-21シーズンは当初U-23の監督に就任することになっていたレジェンドのアンドレス・ピルロが監督に就任。だが、ピルロは監督としての経験の無さを露呈するようになり、チームは次第に迷走。とうとう9年間守ってきたセリエAの覇権をインテルに奪われることになる。クラブはピルロに1年で見切りを付け、SDのパラティッチも退団。
新たにCEOに就任したF1フェラーリの元代表であるマウリツィオ・アリバベーネは、アッレグリを監督として再招聘するが、2021-22シーズン開幕直後にクリスティアーノ・ロナウドが電撃的に退団。攻撃力が低下し、低調なサッカーが続いたチームは11年ぶりにシーズン無冠に終わる。2022-23シーズンもCLでは1勝5敗という不甲斐ない成績で敗退に終わり、リーグ戦でも低迷。それでもワールドカップ期間後のセリエAでは復調していたが、その矢先に不正会計が発覚し、フロント陣が総辞職する事態となり、勝点15が剥奪される処分が下される。その後、イタリアのスポーツ裁判所に提訴したことで処分が保留となったが、シーズン終盤になって勝ち点10の剥奪が決定。これによってシーズン7位となり、激動のシーズンは最終的に何も勝ち取ることができなかった。さらにUEFAの主要大会の出場権が1年間禁止となる。2023-24シーズンの前半戦は手堅い戦い方で2位で折り返すが、後半戦は大きく失速してしまい2024年2月以降はわずか3勝しかできない低調な戦いぶりとなってしまう。一方、コッパ・イタリアでは決勝でアタランタを破り、4年ぶりにタイトルを獲得。だが、この試合での言動が問題視されたアッレグリは優勝の2日後に電撃的に解任となり、第二次アッレグリ政権は大きな成果を挙げられないまま終焉を迎える。
2024-25シーズンはボローニャを大躍進させたチアゴ・モッタを新監督として招聘。
タイトル
国内タイトル
- セリエA 36回
1905, 1925-26, 1930-31, 1931-32, 1932-33, 1933-34, 1934-35, 1949-50, 1951-52, 1957-58, 1959-60, 1960-61, 1966-67, 1971-72, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1977-78, 1980-81, 1981-82, 1983-84, 1985-86, 1994-95, 1996-97, 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2011-12, 2012-13, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2018-19, 2019-20
※カルチョ・スキャンダルにより2004-05, 2005-06のスクデット剥奪 - セリエB 1回
2006-07 - コッパ・イタリア 15回
1937-38, 1941-42, 1958-59, 1959-60, 1964-65, 1978-79, 1982-83, 1989-90, 1994-95, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2020-21, 2023-24 - スーペル・コッパ・イタリアーナ 9回
1995, 1997, 2002, 2003, 2012, 2013, 2015, 2018, 2020
国際タイトル
- UEFAチャンピオンズカップ 2回
1984-85, 1995-96 - UEFAカップ 3回
1976-77, 1989-90, 1992-93 - UEFAカップウィナーズカップ 1回
1983-84 - UEFAスーパーカップ 2回
1984, 1996 - UEFAインタートトカップ 1回
1999 - インターコンチネンタルカップ/トヨタカップ 2回
1985, 1996
現所属選手
背番号 | Pos. | 国籍 | 選手名 | 生年月日 | 加入年 | 前所属 |
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- | 監督 | チアゴ・モッタ | 1982.8.28 | 2021 | ボローニャ | |
1 | GK | マッティア・ペリン | 1992.11.10 | 2018 | ジェノア | |
2 | DF | マッティア・デ・シリオ | 1992.12.20 | 2017 | ミラン | |
3 | DF | ブレーメル | 1997.3.18 | 2022 | トリノ | |
4 | DF | フェデリコ・ガッティ | 1998.6.24 | 2022 | フロジノーネ | |
5 | MF | マヌエル・ロカテッリ | 1998.1.8 | 2021 | サッスオーロ | |
6 | DF | ダニーロ(C) | 1991.3.15 | 2022 | マンチェスター・C | |
7 | FW | フランシスコ・コンセイソン | 2002.12.14 | 2024 | FCポルト | |
8 | MF | トゥーン・コープマイネルス | 1998.12.28 | 2024 | アタランタ | |
9 | FW | ドゥシャン・ヴラホヴィッチ | 2000.1.28 | 2022 | フィオレンティーナ | |
10 | FW | ケナン・ユルディズ | 2005.5.4 | 2023 | ユヴェントス NEXT GEN | |
11 | MF | ニコ・ゴンサレス | 1998.4.6 | 2024 | フィオレンティーナ | |
14 | FW | アルカデウシュ・ミリク | 1994.2.28 | 2022 | マルセイユ | |
15 | DF | ピエール・カルル | 2000.6.5 | 2024 | ACミラン | |
16 | MF | ウェストン・マッケニー | 1998.8.28 | 2020 | リーズ | |
17 | FW | ヴァシリエ・アジッチ | 2006.5.12 | 2024 | ユヴェントス NEXT GEN | |
18 | MF | アルトゥール | 1996.8.12 | 2020 | フィオレンティーナ | |
19 | MF | ケフラン・テュラム | 2001.3.26 | 2024 | ニース | |
21 | MF | ニコロ・ファジョーリ | 2001.2.12 | 2022 | クレモネーゼ | |
22 | MF | ティモシー・ウェア | 2000.2.22 | 2023 | リール | |
23 | GK | カルロ・ピンソーリオ | 1990.3.16 | 2021 | チェルシー | |
26 | MF | ドグラス・ルイス | 1998.5.19 | 2019 | ニューカッスル | |
27 | DF | アンドレア・カンビアーゾ | 2000.2.20 | 2022 | ボローニャ | |
29 | GK | ミケーレ・ディ・グレグリオ | 1997.7.27 | 2024 | モンツァ | |
32 | DF | フアン・カバラ | 2001.1.8 | 2024 | ヴェローナ | |
36 | FW | ロレンツォ・アンゲレ ※ | 2005.2.25 | 2024 | ユヴェントス NEXT GEN | |
37 | DF | ニコロ・サヴォーナ | 2003.3.19 | 2024 | ユヴェントス NEXT GEN | |
38 | GK | ジョヴァンニ・ダファラ ※ | 2004.12.5 | ユヴェントス NEXT GEN | ||
40 | DF | ヨナス・ロウヒ | 2004.1.7 | 2024 | ユヴェントス NEXT GEN | |
51 | FW | サミュエル・ムバングラ | 2004.1.16 | 2024 | ユヴェントス NEXT GEN | |
- | MF | ポール・ポグバ | 1993.3.15 | 2022 | マンチェスター・U |
※はプリマヴェーラ所属選手。
過去に所属したおもな選手
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歴代監督
- イェネー・カロリ(1923 - 1926)
- ヨージェフ・ヴィオーラ(1926 - 1928)
- ウィリアム・エイトケン(1928 - 1930)
- カルロ・カルカーノ(1930 - 1934)
- カルロ・ビガット(1934 - 1935)
- ヴィルジニオ・ロゼッタ(1935 - 1939)
- ウンベルト・カリガリス(1939 - 1940)
- フェデリコ・ムネラティ(1940 - 1941)
- ジョヴァンニ・フェラーリ(1941 - 1942)
- ルイス・モンティ(1942)
- フェリーチェ・ボレル(1942 - 1946)
- レナト・チェザリーニ(1946 - 1948)
- ウィリアム・チャーマーズ(1948 - 1949)
- ジェス・カーヴァー(1949 - 1951)
- ルイージ・ベルトリーニ(1951)
- ジョルジョ・サロージ(1951-1953)
- アルド・オリヴィエーリ(1953-1955)
- サンドロ・プッポ(1955-1957)
- リュビサ・ブロチッチ(1957-1958)
- カルロ・パローラ(1959 - 1962)
- パウロ・アマラウ(1962 - 1963)
- エラルド・モンゼーリオ(1963 - 1964)
- エルコーレ・ラビッティ(1964)
- エリベルト・エレーラ(1964 - 1969)
- ルイス・カルニグリア(1969)
- エルコーレ・ラビッティ(1969 - 1970)
- アルマンド・ピッキ(1970 - 1971)
- チェストミール・ヴィツパーレク(1971 - 1974)
- カルロ・パローラ(1974 - 1976)
- ジョヴァンニ・トラパットーニ(1976-1986)
- リノ・マルケージ(1986 - 1988)
- ディノ・ゾフ(1988 - 1990)
- ルイジ・マイフレディ(1990-1991)
- ジョヴァンニ・トラパットーニ(1991 - 1994)
- マルチェロ・リッピ(1994 - 1999)
- カルロ・アンチェロッティ(1999 - 2001)
- マルチェロ・リッピ(2001 - 2004)
- ファビオ・カペッロ(2004 - 2006)
- ディディエ・デシャン(2006 - 2007)
- ジャンカルロ・コッラディーニ(2007)
- クラウディオ・ラニエリ(2007 - 2009)
- チロ・フェラーラ(2009 - 2010)
- アルベルト・ザッケローニ(2010)
- ルイジ・デルネーリ(2010 - 2011)
- アントニオ・コンテ(2011 - 2014)
- マッシミリアーノ・アッレグリ(2014 - 2019)
- マウリツィオ・サッリ(2019-2020)
- アンドレア・ピルロ(2020-2021)
- マッシミリアーノ・アッレグリ(2021 - 2024)
- チアゴ・モッタ(2024 - )
関連動画
関連静画
関連項目
外部リンク
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