アンヘル・ディ・マリア(Ángel Fabián Di María Hernández, 1988年2月14日 - )とは、アルゼンチンのサッカー選手である。
ポルトガル プリメイラ・リーガのSLベンフィカ所属。元サッカーアルゼンチン代表。
概要
アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオ出身。アルゼンチンを代表する左利きのドリブラーであり、左右のウイングが主戦場だが、インサイドハーフでもプレーできる。華麗なドリブル突破と左足のキックの精度から「魔法使い」と称されており、世界有数のプレイヤーの一人である。
1992年にアルゼンチン・プリメーラ・ディビジオンのロサリオ・セントラルのユースへ入団。2005年にトップチームデビューを果たす。当初はサイドバックとしてプレーしていたが、2007年にサイドハーフへコンバートされると才能が開花し、着実に経験を積んでいった。
2007年にポルトガル・プリメイラ・リーガのベンフィカへ移籍。すぐにポジションを掴みUEFAチャンピオンズリーグに出場するなど、大きな飛躍を遂げた。その後、レアル・マドリード、マンチェスター・ユナイテッド、パリ・サンジェルマン、ユヴェントスといった各国の名門クラブを渡り歩き、レアル・マドリード時代の2014年にはUEFAチャンピオンズリーグ優勝に貢献している。
アルゼンチン代表では同世代であるリオネル・メッシやセルヒオ・アグエロと共に長くチームを牽引しており、U-20、U-23、フル代表と各世代で世界一を経験。特に4度目の出場となった2022 FIFAワールドカップでは決勝でチームの2点目を決め、アルゼンチンの3度目の優勝に貢献。メッシの相棒である「名脇役」として欠かせない存在となっている。コパ・アメリカ2024で連覇を果たすと共に代表を引退。
ゴールを決めた際は、両手でハートを作るゴールパフォーマンスで知られている。
なお、スペイン語での標準的発音では「ディ・マリーア」に近い。
経歴
生い立ち
1988年2月14日、労働者階級の人々が住むアルベルディ区に生まれる。父親のミゲルはリーベル・プレートでプレー経験のある選手だったが、膝の怪我のために引退。その後、炭鉱で働く生活となり、けっして裕福な家庭ではなかった。そんな環境の中でも非常に活発な子供に育ち、周囲に多動性障害ではないかと心配され、母マリアーナが小児科医に相談するほどだった。
そんな動き回る子供を見かねた両親は4歳のときに地元のクルブ・トリートというサッカークラブに通わせる。練習が始まる前は父の炭鉱の仕事を手伝っており、手は真っ黒になっていた。幼いながらも両親を楽にさせようと本気でサッカーに打ち込んでおり、年間64ゴールを決めるなど頭角を現し始める。
14歳のとき、地元の強豪CAロサリオ・セントラルに入団。ちなみにこのときに受け取った移籍金はサッカーボール40個だった。この頃のポジションはサイドバックであり、ここでも同世代の中で才能を発揮するようになる。
ロサリオ・セントラル
2005年12月4日、アペルトゥーラ(前期リーグ)最終節のインデペンディエンテ戦で途中から出場し、17歳でプリメイラ・ディビシオンデビューを果たす。プロ最初のシーズンで10試合に出場したが、サイドバックとしてスピードはあるものの、スタミナと対人プレーが弱かったためチーム内での評価は低かった。コーチからは「才能がないから他の職業を探した方がいい」と言われるほどだった。
だが、2年目となった2006-07シーズンに大きな転機が訪れる。2006年11月14日、アペルトゥーラのキルメスAC戦で投入されてわずか1分でプロ初ゴールを決める。2007年に入って成績不振のロサリオはカルロス・イスチアを監督に招聘。すると、ディ・マリアは左ウイングにコンバートされる。すると、持ち前のスピードを活かしたドリブル突破からゴールに頻繁に絡むようになり、才能が開花。クラウスース(後期リーグ)だけで5ゴールを決め、いつしか欧州の名門クラブから触手が伸びるまでになっていた。
ベンフィカ
2007年7月、ボカ・ジュニアーズとの獲得競争を制したポルトガル・プリメイラ・リーガの強豪SLベンフィカに移籍する。19歳での欧州初挑戦となったが、ディ・マリアはこの大きなチャンスを見事に掴むことになる。移籍したシモン・サブローサに代わる左ウイングとして加入当初から主力として起用されると、初となったUEFAチャンピオンズリーグでは6試合全てに出場。一方、リーグ戦ではノーゴールに終わるなど、得点力が課題として挙げられていた。
2008-09シーズンは北京オリンピック出場のためチームへの合流が遅れたが、徐々に調子を上げるようになり、移籍後初タイトルも獲得している。
3年目となった2009-10シーズン、2009年10月19日のUEFAヨーロッパリーグ グループステージのエヴァートンFC戦でキャリア初となるハットトリックを達成。チームの大勝に貢献する。12月のグループステージ最終戦では左足ラボーナキックによる圧巻のゴールを決め、欧州全土のメディアから大喝采を浴びる。リーグ戦でも勢いはとどまらず、2010年2月27日のレイションイスSC戦ではプリメイラ・リーガでは初となるハットトリックを達成。翌日のポルトガルのスポーツ紙は「マジック・トリ・マリア」という見出しをつけて絶賛する。このシーズンから監督に就任したジョルジェ・ジェズスからは絶大な信頼を得ており、爆発的な攻撃力を誇ったチームのサイドアタックの切り札となっていた。リーグトップとなる12アシストを記録し、ベンフィカの5シーズンぶりのリーグ優勝に貢献。この年のプリメイラ・リーガ最優秀選手賞を受賞。さらに母国の英雄ディエゴ・マラドーナからは「あと2年以内に世界的なスター選手になる」と称賛されている。
レアル・マドリード
2010年6月28日、移籍金2500万ユーロでスペイン・リーガ・エスパニョーラのレアル・マドリードへ移籍することが発表される。プレシーズンの段階で当時のマドリーの監督であったジョゼ・モウリーニョのスタイルであるカウンター戦術にフィットしレギュラーを獲得。9月18日のアウェイのレアル・ソシエダ戦で移籍後初ゴールを決める。左WGには絶対的なエースのクリスティアーノ・ロナウドがいたため右WGでの起用がメインとなったが、問題なくチームにフィット。2010年11月30日のリーガ第13節エル・クラシコでは盟友リオネル・メッシとの初対決が実現。CLではラウンド16 2ndレグのオリンピック・リヨン戦と準々決勝1stレグのトッテナム・ホットスパー戦で2試合連続ゴールを決めている。2011年4月20日のコパ・デルレイ決勝のFCバルセロナ戦では左からのクロスでクリスティアーノ・ロナウドのゴールをアシストし、このシーズンのマドリーの唯一のタイトルに貢献。もっともこの試合の試合終了間際にメッシのドリブルをファウルで阻止して退場になっている。
2011-12シーズンは前年の過密日程の影響もあって開幕から調子が悪く、2011年9月22日のリーガ第4節レバンテ戦では報復行為のようなファウルを犯し、両軍入り乱れての衝突騒ぎの発端となってしまう。それでも試合をこなすにつれて徐々に調子が上向きになっていき、11月27日のアトレティコ・マドリードとのマドリード・ダービーではゴールを決め、勝利に貢献。この年はハムストリングの負傷に悩まされて出場試合数は23試合にとどまったものの、それでも前年と同じ15アシストを記録しており、マドリーの32回目のリーガ優勝に貢献している。
2012-13シーズンはチーム内でモウリーニョ監督と主力選手の確執が噂されるなど、ロッカルームの空気は最悪だったが、自身は変わらず信頼を得て、コンスタントに試合に出場。2013年2月10日のCLラウンド16マンチェスター・ユナイテッド戦では芸術的なクロスでクリスティアーノ・ロナウドのゴールをアシストするなど大舞台での勝負強さが光っていた。公式戦では9ゴール17アシストと自己のベスト記録を更新するスタッツを残している。
2013-14シーズンはモウリーニョ監督の退任、同じポジションのガレス・ベイルの加入が重なり、移籍の噂が浮上するようになる。だが、8月に2018年まで契約を延長し、残留。シーズン序盤は出場時間が減っていたが、メスト・エジルの退団もあって新任のカルロ・アンチェロッティからインサイドハーフへコンバートされ、レギュラーとして起用されるようになる。通常時はシャビ・アロンソ、ルカ・モドリッチと中盤を形成しながら、崩しの局面では左サイドに流れてサイドアタッカーとして振る舞う、いわば中盤とWGの一人二役を任され、このシーズンのマドリーの戦術のキーとなっていた。クリスティアーノ・ロナウド、カリム・ベンゼマ、ベイルの「BBCトリオ」をサポートするチャンスメーカーとして欠かせない存在となり、彼らとの縦関係は抜群のクオリティを見せる。そして2014年5月24日、アトレティコ・マドリードとのCL決勝では120分間をフル出場し、延長前半にDF2人を置き去りにしたドリブル突破からベイルの決勝ゴールをアシスト。試合後にはこの試合のMOMにも選出され、レアル・マドリードの前人未踏のラ・デシマ(10回目のビッグイヤー獲得)達成に大きく貢献する。
2014-15シーズンにクラブはハメス・ロドリゲスとトニ・クロースを補強。これによってUEFAスーパーカップのセビージャFC戦に15分間プレーしたのがマドリーでの最後の試合となり、シャビ・アロンソと共に押し出されるように退団する。毎年のように活躍しながらクラブからの彼への評価は不当なものだった。
マンチェスター・ユナイテッド
2014年8月26日にイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドへ史上最高額の5970万ポンドで移籍。クラブ伝統の7番を与えられるなど、大きな期待を背負って迎えた加入1年目の2014-15シーズンでは中盤戦から徐々に調子を落とし始め、終盤戦では低調なプレーに終始。シーズン中にはルイス・ファン・ハール監督との確執も噂され、27試合3得点10アシストを記録したものの1年で放出されることとなった。シーズン後、デイリー・デレグラフからシーズン最悪の契約選手と評されてしまう。なお、マンチェスターに購入した7億円の豪邸が強盗に襲われてしまい、ショックでプレーがままならなくなったとも言われている。
パリ・サンジェルマン
2015年8月6日、フランス・リーグ・アンのパリ・サンジェルマンへ移籍。契約期間は4年で背番号は11。8月30日、アウェイのASモナコ戦で新天地でのデビューを果たすと、この試合で早速アシストを記録。9月15日のCL ホームのマルメFF戦では移籍後初ゴールを決める。ユナイテッドでの不遇の1年から再び輝きを取り戻すと、9月22日のホームのナント戦では公式戦2試合連続となるリーグ・アンでの初ゴールを決める。ズラタン・イブラヒモビッチ、エディソン・カバーニとのトリオはCIAトリオと呼ばれ、圧倒的な破壊力でリーグ・アンを独走し、加入1年目にしてクラブの国内三冠に貢献。2016年4月26日のクープ・ドゥ・ラリーグ決勝のLOSCリール戦では決勝ゴールをマーク。移籍1年目にしてリーグ・アン新記録となる18アシストを記録し、さらにキャリア初の二桁ゴール二桁アシストを達成。自らの存在価値をあらためて証明することとなった。
2016-17シーズンも引き続きレギュラーとしてプレーし、2016年10月19日のCLグループステージ、ホームのバーゼル戦でシーズン初ゴールを記録。11月19日のナントFC戦でリーグ・アンでのシーズン初ゴールを決める。2017年2月14日、パルク・デ・フランスでおこなわれたCL準々決勝のFCバルセロナ戦では2ゴールを決め、4-0での大勝に貢献。しかし、チームはカンプノウでの2ndレグで歴史的な大逆転負けを喫して敗退。リーグ・アンでも優勝を逃すが、2017年4月1日のクープ・ドゥ・フランス決勝ASモナコ戦ではゴールを決め、国内カップ戦二冠を達成。
2017-18シーズンはネイマール、キリアン・エムバペといったビッグネームのアタッカーがチームに加入。カバーニと共にスター選手たちの割を食った部分はあったものの、チーム内で重要な立場であることに変わりはなく、チャンスメイクに奔走する。2018年2月6日のクープ・ドゥ・フランス3回戦FCソショー戦ではハットトリックを達成。準決勝のオリンピック・マルセイユ戦では2ゴールを決め、大会通算7ゴールを決めている。
2018-19シーズンもスター軍団の中でも輝きを放ち、この年から就任したトーマス・トゥヘル監督からも重宝される。2018年2月14日のCLラウンド16では因縁のマンチェスター・ユナイテッドと対戦。1stレグではアシュリー・ヤングのタックルによって負傷を負うが、交代を拒否してプレーを続行。その後にエムバペのゴールをアシストし、3-1での勝利に貢献。しかし、2年前と同じようにオールド・トラフォードでの2ndレグで逆転負けを喫し、3年連続でベスト16で敗退。一方、リーグ・アンではキャリハイとなる12ゴール12アシストを記録し、リーグ連覇に貢献している。
新型コロナウィルス感染拡大のためにリーグ・アンがシーズン途中で打ち切りとなった2019-20シーズンでは、2019年9月18日のグループステージでは、古巣のレアル・マドリードとの対戦が実現し、2ゴールの大活躍で撃破をしている。ちなみに、この試合によってバルセロナとレアル・マドリードの両方を相手に1試合2得点を達成した史上2人目の選手となった。リーグ戦では26試合で7ゴール14アシストでリーグ3連覇に貢献。異例の集中開催となったCLでは、準々決勝は出場停止のため欠場となったが、準決勝のRBライプツィヒ戦では1ゴール2アシストの大活躍によってPSGをクラブ史上初のファイナル進出に導いている。自陣にとってはレアル・マドリード時代の2014年以来2度目となったCL決勝のバイエルン・ミュンヘン戦では善戦しながらも及ばず、準優勝に終わっている。それでもシーズン通算13ゴール22アシストという脅威のスタッツを残している。
2020-21シーズンは前年の疲労を抱えてシーズン前半戦は低調なパフォーマンスが続ていた。2020年9月13日のマルセイユとのル・クラスィクでは試合終了間際に両軍入り乱れた乱闘騒ぎとなり、ネイマールに衝突したアルバロ・ゴンサレスに唾を吐いたとして4試合の出場停止処分を受けている。フロントとの確執でトゥヘル監督が解任になるなど混乱の続いたシーズンとなった中、2021年5月4日のCL準決勝マンチェスター・シティ戦でフェルナンジーニョの足を踏みつけて一発退場となり、欧州の大会3試合の出場停止処分を受ける。5月20日のクープ・ドゥ・フランス決勝ではエムバペのゴールをアシストし、PSGの歴代トップのアシスト数となる通算104アシストを達成している。
契約を1年延長した2021-22シーズンはリオネル・メッシと初めて同じクラブでプレーすることになる。前線にメッシ、エムバペ、ネイマールというスター3人が揃った影響で負担が増え、スタメンから外れることもしばしば起きていたが、それでも公式戦7ゴール9アシストという数字を残す。PSGでの5度目のリーグ優勝を経験した後の2022年5月20日、契約満了により退団することが発表される。PSGで最後の試合となったリーグ・アン最終節FCメス戦でアシストを記録。パルク・デ・フランスの大きなスタンディングオベレーションを受けながらパリでの生活に終止符を打つ。
ユヴェントス
2022年7月8日、イタリア・セリエAのユヴェントスにフリーで移籍。8月15日のセリエA開幕戦サッスオーロ戦で先制ゴールを決め、鮮烈なデビューを飾る。その後、アシストも記録したが負傷によりピッチを後にした。9月15日のCLでは古巣のベンフィカ戦に出場し、CL通算100試合出場を果たす。10月5日のCLマッカビ・ハイファ戦ではチームの全得点となる3アシストの活躍を見せる。2023年2月23日、UEFAヨーロッパリーグ アウェイのナント戦ではハットトリックを達成。ただ慢性的なハムストリングの負傷によって出場時間が限定され、年齢のこともあって1年で契約満了により退団する。
ベンフィカ
2023-24シーズンはサウジアラビアから巨額のオファーが届いたと伝えられるが、2023年7月6日に古巣であるSLベンフィカに13年ぶりに復帰することが発表される。8月9日のスーパーカップ FCポルト戦で二度目のポルトガルデビューを飾ると、初ゴールを決め勝利に貢献。9月29日のプリメイラ・リーガのポルト戦でもゴールを決めている。敗退が決まった後のCLグループステージ最終節ザルツブルク戦ではCKからの直接ゴールを決めている。シーズン後半戦は2度の4試合連続アシストを記録するなど、調子をさらに上げる。タイトル獲得こそ果たせなかったが、アシスト数はリーグ3位の11アシストを記録。公式戦全体では17ゴール13アシストという素晴らしい成績を残し、ベンフィカ・サポーターの期待に十分応えたシーズンとなった。
アルゼンチン代表での経歴
アンダー世代
ロサリオ・セントラルでブレイクし始めた2007年にU-20アルゼンチン代表に選出され、U-20南米選手権に出場。2007年6月に開催された2007 FIFA U-20ワールドカップのメンバーにも選出され、セルヒオ・アグエロと共に攻撃陣を牽引。準決勝のチリ戦の先制ゴールを決めるなど、通算3ゴールを決め、アルゼンチンの大会連覇に貢献。この大会でのセンセーショナルな活躍が認められ、多くのビッグクラブに注目されるようになり、その後のベンフィカ移籍に繋がる。
2008年からはU-23アルゼンチン代表に選出され、8月に開催された北京オリンピックのメンバーに選出される。リオネル・メッシ、セルヒオ・アグエロ、エセキエル・ラベッシ、OAのフアン・リケルメといったタレント揃いの攻撃陣の中でも目を引くような活躍を見せ、準々決勝のオランダ戦ではメッシのパスに反応して延長後半に決勝ゴールを決める。決勝のナイジェリア戦では、後半13分にカウンターから鮮やかなループシュートで決勝ゴールを決める。この大会ではラッキーボーイ的な存在にもなり、アルゼンチンの金メダル獲得に貢献。二世代続けての世界一となる。
アルゼンチン代表
北京オリンピック後の2008年9月6日、2010 FIFAワールドカップ南米予選パラグアイ戦でフル代表でのデビューを果たす。当初はタレント揃いの攻撃陣で出場機会が限られていたものの、徐々に代表に定着するようになる。2010年5月24日のカナダ戦で代表初ゴールを記録。
2010年6月から開催された2010 FIFAワールドカップ 南アフリカ大会のメンバーにディエゴ・マラドーナ監督から選出される。大会では左サイドのレギュラーとして起用され、5試合全てに出場(ギリシャ戦以外はスタメン)。チームは準々決勝でドイツに大敗している。
2011年7月に開催されたコパ・アメリカ2011では、3試合に出場。グループリーグ第3戦のコスタリカ戦では代表の公式戦初ゴールを記録。しかし準々決勝のウルグアイ戦でPK戦の末に敗退。
2014 FIFAワールドカップの南米予選では12試合に出場し、2014年6月にブラジルで開催された本大会にも出場。メッシ、アグエロ、ゴンサロ・イグアインといった豪華な攻撃陣の一角として活躍し、ドリブル突破から何度もチャンスを作り出していた。ラウンド16のスイス戦ではスコアレスで迎えた延長後半終了間際に値千金の決勝ゴールを決める。準々決勝のベルギー戦でも開始8分にイグアインのゴールをアシストするが、前半33分に太ももの肉離れによって涙を流しながらピッチを後にする。準決勝と決勝は無念の欠場となり、アルゼンチンは決勝でドイツに敗れて準優勝となる。
ワールドカップ直後の2014年9月5日には決勝で敗れたドイツとの親善試合が早速実現し、1ゴール3アシストと大暴れし、ドイツに大勝。リベンジに成功する。
2015年6月からチリで開催されたコパ・アメリカ2015では、前年のワールドカップのリベンジを誓いタイトル獲得への意欲を見せるなか、準決勝のパラグアイ戦で2ゴールを決め、アグエロのゴールもアシストする活躍で決勝進出に貢献。しかし、決勝のチリ戦ではブラジルW杯のときと同様に前半30分で肉離れによってピッチを後にし、チームもPK戦の末に敗れ、またも準優勝に終わる。
2016年6月、アメリカで開催されたコパ・アメリカ センテリオでは開幕戦のチリ戦で先制ゴールを決め、後半にはエベル・バネガのゴールをアシスト。続くパナマ戦でも開始早々にCKからニコラス・オタメンディのゴールをアシストするが、またもや負傷によってピッチを後にする。残りの試合は欠場となってしまい、3年連続大きな大会で怪我によって離脱する悲運に見舞われ、チームもまたチリに敗れ、準優勝に終わる。
2018年6月、ロシアで開催された2018 FIFAワールドカップ ロシア大会に出場。不振のチームは選手とホルヘ・サンパオリ監督の間に軋轢が生まれるという悪い空気に包まれながら辛くも決勝トーナメントに進出。ラウンド16のフランス戦では、同点ゴールを決めるが、後半にチームメイトであるキリアン・エムバペのセンセーショナルな2ゴールによって敗退となる。
2019年6月にブラジルで開催されたコパ・アメリカ2019ではレギュラーを外れ、全て途中出場となり、チームも準決勝でブラジルに完敗。なお、準々決勝のベネズエラ戦でアルゼンチン代表100試合出場を達成している。
2021年6月、ブラジル開催となったコパ・アメリカ2021に出場。グループリーグ第3戦のパラグアイ戦ではパプ・ゴメスのゴールをアシストしたものの、決勝トーナメントに入ってからは若手が優先的に起用され、途中出場が続いていた。決勝のブラジル戦ではスタメンで起用されると、前半22分ロドリゴ・デ・パウルからのロングパスに反応すると、この試合唯一のゴールとなる左足でのチップキックシュートを決め、アルゼンチンの28年ぶりのタイトル獲得に貢献。メッシと共に喉が出るほど欲しかったフル代表での初タイトルを自らの左足で引き寄せることとなった。
2022年6月1日には、ウェンブリースタジアムで開催されたEURO王者イタリアとのフィナリッシマ2022に出場し、前半アディショナルタイムにチームの2点目を決め、代表での2つ目のタイトルを手にしている。
2022年11月には2022 FIFAワールドカップ カタール大会に出場。大会前には怪我で出場が危ぶまれながら34歳で4度目のワールドカップとなったが、初戦のサウジアラビア戦を落とし、後がなくなったグループリーグ第2戦のメキシコ戦でメッシの先制ゴールをアシスト。しかし、第3戦のポーランド戦で無念の負傷によってピッチを後にしてしまい、決勝トーナメントに入ってからは準々決勝のオランダ戦で8分間だけプレーしたのみとなる。だが、決勝のフランス戦で戦列に復帰し、左WGのスタメンに名を連ねると、前半21分にファウルを誘ってメッシのPKによる先制ゴールをお膳立てすると、前半35分にはアレクシス・マック・アリスターのパスに反応し、左足でファーサイドに流し込む丁寧なシュートによってチームの2点目を決めている。後半19分に交代したものの、アルゼンチンの36年ぶりとなるワールドカップ優勝に貢献。メッシと共にU-20、U-23に続いての世界制覇となった。
この大会を最後に代表を引退することを発表したが、メッシに説得されたこともあり、代表でのプレーを継続することを公言する。
2023年11月24日、自身のSNSにおいて2024年のコパ・アメリカを最後に代表を引退することを発表する。そして2024年6月に迎えたコパ・アメリカ2024では、右サイドのファーストチョイスとして6試合中5試合に出場。第3戦のペルー戦ではダイレクトのスルーパスでラウタロ・マルティネスのゴールをアシスト。代表での最後の試合となった決勝のコロンビア戦では延長後半11分までを戦い抜き、コパ・アメリカ連覇という最高の形で代表でのキャリアにピリオドを打つ。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2005-06 | ロサリオ・セントラル | プリメーラ・ディビジオン | 10 | 0 | |
2006-07 | ロサリオ・セントラル | プリメーラ・ディビジオン | 25 | 6 | |
2007-08 | ベンフィカ | プリメイラ・リーガ | 26 | 0 | |
2008-09 | ベンフィカ | プリメイラ・リーガ | 24 | 2 | |
2009-10 | ベンフィカ | プリメイラ・リーガ | 26 | 5 | |
2010-11 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 35 | 6 | |
2011-12 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 23 | 5 | |
2012-13 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 32 | 7 | |
2013-14 | レアル・マドリード | リーガ・エスパニョーラ | 34 | 4 | |
2014-15 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 27 | 3 | |
2015-16 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 29 | 10 | |
2016-17 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 29 | 6 | |
2017-18 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 30 | 11 | |
2018-19 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 30 | 12 | |
2019-20 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 26 | 8 | |
2020-21 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 27 | 4 | |
2021-22 | パリ・サンジェルマン | リーグ・アン | 26 | 5 | |
2022-23 | ユヴェントス | セリエA | 26 | 4 | |
2023-24 | ベンフィカ | プリメイラ・リーガ | 28 | 9 | |
2024-25 | ベンフィカ | プリメイラ・リーガ |
個人タイトル
プレースタイル
左利きで「魔法使い」とも称されるドリブラーでメインポジションは右のウイングだが、左のウイングやトップ下、インサイドハーフでも問題なくプレーできるユーティリティプレイヤー。ゴールよりもチャンスメイクを得意にしているタイプ。
スピードはもちろんだが、繊細なボールタッチの持ち主で、スピードで強引に相手を置き去りにすることもできれば、ボールタッチを活かしたトリッキーなドリブル突破も使いこなし、ラボーナのような遊び心のあるプレーを披露することもある。相手との駆け引きにも長けており、最前線の選手をサポートしながら違いを生み出す。
左足のキックの精度は世界でもトップクラスであり、キックの球種も豊富。視野が広いため、逆サイドに正確なサイドチェンジを送るのも得意で、ピンポイントのクロスから多くのアシストを記録している。セットプレーのキッカーを任されることも多い。
またチームメイトとの共有力が高く、非常に連携面で優れる選手です。レアルマドリードではクリスティアーノ・ロナウド、ベンゼマ、マンチェスターユナイテッドではルーニー、ファン・ペルシ、そしてパリではイブラヒモビッチやエンバぺ、代表ではメッシ、イグアイン等数々の選手達とコンビネーションを構築。彼らの良き相棒としてアシストを量産している。
守備の局面でも労を惜しまないハードワーカーで、アルゼンチン代表では守備の貢献が少ないメッシをフォローしている。その反面、身体にかかる負担が大きく、筋肉系の怪我が多い。そのため1シーズンを通してフルで稼働できることは少なく、代表のビッグトーナメントでも途中で離脱することが多い。また、アルゼンチン人らしいダーティーな一面もあり、熱くなり過ぎて悪質なファウルでカードを貰うことも。
人物・エピソード
- 家族の収入が低かったため、サッカースパイクを購入したり、ディ・マリアがサッカーを続けるのは両親にとって困難だった。そういったこともあり、ベンフィカへ移籍した際には父親にもう働かないように頼み、両親と姉妹のために家を購入している。
- キリスト教を信仰しており、試合前にはロッカールームでお祈りを欠かさない。
- 腕に刺青で地元であるペルドリエル地区に対するメッセージを入れており、試合前にはその刺青にキスをしている。
- レアル・マドリード移籍1年目から活躍すると、(Ángel)というファーストネームから、移籍したラウル・ゴンサレスに代わる『マドリーの新たな天使』というニックネームを授かる。
- 2010年9月28日、チャンピオンズリーグのAJオセール戦で自身のゴールが決勝点となりマドリーが勝利した翌日、ディ・マリアはマドリー市街で恋人とデートをしていたが、交通事故に遭ってしまい、愛車のアウディが破損。幸い二人に怪我は無かった。
- 細身の体格だが、実は大食漢。フェルナンド・ガゴが名付けたことがきっかけとなり、チームメイトからはフィデオ(パスタの意)と呼ばれる。
- 2013年4月24日に、第一子となる女児が生まれた。
- マンチェスター・ユナイテッド移籍の際、妻のホルヘリーナが頑なに拒否。結局説得したことで渋々マンチェスターへ付いてきたが、「マンチェスターに住んでいる人たちって上品ぶってる割にやたら顔色が悪いじゃない。おまけに食事もまずいし」と不満を堂々と吐いてしまう。
- マンチェスター時代に住居が強盗の被害に遭ったが、パリでも強盗の被害に遭っている。
関連動画
関連項目
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