東方昭和伝第五部とは、eleven氏制作動画シリーズ「東方昭和伝」の第五部である。「帝都騒乱編」。
≪ 主なできごと ≫ 二・二六事件 北一輝、永田鉄山の事跡につき総まとめ
≪ 役名・肩書き・演者 肩書きは原則として作中の現職。元職は特記のみ ≫
宮中
外国要人
その他、魂魄妖忌(荒木貞夫)・森近霖之助(渡辺錠太郎)・こーりん(真崎甚三郎)・レイセン(下士官・兵士)・高木社長
教育総監 (きょういくそうかん)
陸軍の教育をつかさどる教育総監部の長。陸軍軍人の教育・育成に大きな影響を与える存在であることから、陸軍大臣・参謀総長とならぶ「陸軍三長官(三顕職)」のひとつとして強い権威を持った。
天皇の軍事諮問機関である「軍事参議院」を構成する軍人が任じられる職。基本的には陸軍・海軍の古参・長老軍人の名誉職である。軍事参議院は天皇の諮詢を受けて開催されるもので、通常は参議官だけで独自に開催はされない。なお、通常の軍事参議院の構成員は参議官のほか、元帥・大臣・統帥部総長(参謀本部・軍令部)・侍従武官長・侍従武官1名らも加わる。
中隊 (ちゅうたい)
スオムスいらん子中隊。軍隊の編成単位のひとつ。小隊の上、大隊の下。国や時代、兵科によって定員は異なるが、歩兵の場合150~200人程度。日本陸軍においては、明治時代に制定された定員令によると136人(隊長は大尉)となっており、4個中隊で1個大隊を構成する。
昭和期の陸軍軍人。最終階級は大将。男爵。同期生に荒木貞夫・真崎甚三郎・阿部信行・松井石根・林仙之の5人の陸軍大将がおり、本庄を合わせて、陸軍士官学校9期は歴代最多の6名の大将を輩出した(同数で20期があるが、朝香宮鳩彦王・東久邇宮稔彦王の2皇族と、没時昇進の沖縄戦司令官・牛島満がいるという特殊事例)。
キャリアの多くを参謀本部で務め、大佐時代には参謀本部支那課長。張作霖の軍事顧問となったこともある、いわゆる「支那通」のひとり。昭和6年8月に関東軍司令官となったが、そのわずか1か月後に柳条湖事件・満洲事変が勃発。石原莞爾・板垣征四郎らに引きずられる格好となりながらも、関東軍の指揮を執る。翌年の満洲国建国後に、軍事参議官。帰京直後の拝謁で、昭和天皇に「関東軍は絶対に謀略はやっておりませぬ」という奉答をおこなっている。昭和8年4月より侍従武官長となるが、今度は二・二六事件に遭遇。事件中の言動や、蹶起部隊に自分の娘婿・山口一太郎大尉が加担していたこともあって、まもなく引退する。
敗戦後、GHQより逮捕令が下ったのを受けて、割腹自決。遺稿となった『本庄日記』は、二・二六事件中の昭和天皇や宮中・政府・陸軍上層部の動向を記した、第一級資料となっている。
閑院宮載仁親王 (かんいんのみや ことひとしんのう 1865~1945)
昭和期の皇族・陸軍軍人。最終階級は大将、加えて元帥府に列する。伏見宮邦家親王の第16皇子。幼少期に一度出家して僧籍に入るが、明治4年に還俗し閑院宮家を継承。明治11年に親王宣下を受ける。日本で陸軍幼年学校を卒業後フランスに留学し、フランスで士官学校・騎兵学校・陸軍大学を卒業する。日清戦争・日露戦争に従軍し、日清戦争では銃弾の飛び交う中を伝令将校として馬で駆けたという逸話がある。大正元年に大将、同8年に元帥府。大正10年に行われた皇太子裕仁親王(昭和天皇)のヨーロッパ訪問に随行した。
昭和6年、陸軍大臣・荒木貞夫の推挙により参謀総長に就任。荒木としては、同期で親しい真崎甚三郎・参謀次長の傀儡とするために親王を立てたようだが、逆に親王は荒木・真崎に反感を抱き、荒木陸相辞任の際、真崎を後任という動きに対して林銑十郎を就任させた。真崎教育総監更迭事件においても、真崎辞任の圧力をかけていたと言われる。
同時期に海軍軍令部長(軍令部総長)となった、同じく皇族の伏見宮博恭王との釣り合いを取るためか、結局昭和15年まで参謀総長を務めたが、「皇族」という権威を各派閥に利用され続け、米内光政内閣の倒閣工作には確実に関与した。終戦直前の昭和20年5月に薨去。戦前最後の国葬の礼を賜った。
昭和期の陸軍軍人。最終階級は大将。愛知県出身。家が貧しく、小学校を中退。19歳のとき農家の養子となる。当時、陸軍上等看護長になると医師開業免状を与えられていたので、これを目的に当初は医師を目指して陸軍に入った。しかし、勉学の熱心さを認めた中隊長に薦められて陸軍士官学校に入り、続いて陸軍大学校。陸大17期は首席で卒業した。明治38年、元老・山縣有朋の副官(明治43年に再び副官)。明治末から大正前期にかけてドイツ・オランダで駐在武官をたびたび務めて、ヨーロッパ各国の軍事事情に通じる。給料の大半を洋書購入の支払いにあてているほどの教養人であった。
天皇機関説事件の際、機関説に好意的な言動をしたといわれたこと、及び真崎甚三郎の後任で教育総監に就任したのが、真崎追い落とし工作の黒幕一味(もちろん言いがかりである)とみなされて青年将校の憎悪の対象となり、二・二六事件で襲撃を受けて殺害された。
昭和期の陸軍軍人。最終階級は大将。同期生に本庄・荒木など。佐賀県出身で、上原勇作元帥(宮崎県。第2次西園寺内閣の2個師団増設問題を起こした当時の陸相)をはじめとする陸軍の薩摩閥(九州閥)の系譜に連なり、田中義一(長州)・宇垣一成(岡山県)らの長州閥とは、常々対立する立場にあった。
陸士校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。台湾軍司令官など経て参謀次長に就任し、陸相の荒木貞夫とともに皇道派を形成する。肩書きは参謀次長であったが、参謀総長・閑院宮載仁親王の下で事実上の総長として参謀本部を動かし、国際連盟脱退の引き金となった熱河作戦等を実行。 このため昭和天皇から忌避されるようになり、露骨な派閥人事を行ったことから閑院宮からも嫌われることとなる。 昭和9年、教育総監。天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進した。
林銑十郎陸相と永田鉄山軍務局長によって教育総監を罷免されるが、これが相沢事件、二 ・二六事件の誘因となる。永田への憎悪は相当なもので、永田を弔問した日の日記ですら「かかる恩知らず無節操の不徳漢」との悪罵を記している。二・二六事件後、「反乱幇助」の容疑で軍法会議にかけられるも、証拠不十分で無罪。戦後にも戦犯として逮捕されたが、こちらも無罪・釈放となった。
・青江舜二郎「石原莞爾」(中公文庫)
・阿部牧郎「英雄の魂 小説石原莞爾」(祥伝社)
・岡本幸治「北一輝」(ミネルヴァ書房)
・太田尚樹「赤い諜報員 ゾルゲ、尾崎秀実、そしてスメドレー」(講談社)
・加藤陽子「満州事変から日中戦争へ」(岩波新書)
・河原敏明「昭和天皇とその時代」(文春文庫)
・勝田龍夫「重臣たちの昭和史(上)」(文芸春秋)
・生出寿「米内光政」(徳間文庫)
・岡崎久彦「重光・東郷とその時代」(PHP文庫)
・上坂紀夫「宰相 岡田啓介の生涯」(東京新聞出版局)
・北岡伸一「日本の近代5 政党から軍部へ」(中央公論新社)
・北博昭「二・二六事件全検証」(朝日新聞社)
・児島襄「史説 山下奉文」(文春文庫)
・児島襄「天皇Ⅲ 二・二六事件」(文春文庫)
・迫水久常「機関銃下の首相官邸」(恒文社)
・佐高信「石原莞爾 その虚飾」(講談社文庫)
・杉森久英「夕日将軍 小説・石原莞爾」(河出文庫)
・鈴木一編「鈴木貫太郎自伝」(時事通信社)
・高橋正衛「二・二六事件 「昭和維新」の思想と行動 増補改版」(中公新書)
・筒井清忠「二・二六事件とその時代」(ちくま学芸文庫)
・中田整一「盗聴二・二六事件」(文春文庫)
・原彬久「岸信介」(岩波新書)
・半藤一利「昭和史」(平凡社)
・半藤一利「聖断 昭和天皇と鈴木貫太郎」(文藝春秋)
・半藤一利ほか「昭和陸海軍の失敗」(文春新書)
・平川祐弘「平和の海と戦いの海」(講談社学術文庫)
・福田和也「昭和天皇 第三部 金融恐慌と血盟団事件」(文藝春秋)
・福田和也「昭和天皇 第四部 二・二六事件」(文藝春秋)
・福田和也「地ひらく 石原莞爾と昭和の夢」(文藝春秋)
・保阪正康「東條英機と天皇の時代」(ちくま文庫)
・松田十刻「東条英機」(PHP文庫)
・松本健一「評伝 北一輝 Ⅳ」(岩波書店)
・松本健一「評伝 北一輝 Ⅴ」(岩波書店)
・松本健一「北一輝論」(講談社学術文庫)
・松本清張「昭和史発掘 4」(文春文庫)
・松本清張「昭和史発掘 5」(文春文庫)
・松本清張「昭和史発掘 6」(文春文庫)
・松本清張「昭和史発掘 10」(文藝春秋)
・松本清張「昭和史発掘 11」(文藝春秋)
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