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リソルジメント
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リソルジメントとは、近代イタリア独立運動である。

概要

日本語ではイタリア統一運動と呼ばれることの多い、歴史上の用語である。

イタリア語の原義では「復」を意味する言葉であり。古代ローマの崩壊以来、バラバラになっていたイタリア半島を統一して再しようといった意味合いで用いられた。1847年にイタリア初代首相であり、この運動最大の功労者であるカミッロ・カヴールが発刊した『イル・リソルジメント』という新聞名前から、現在広く使われている意味で使われるようになった。

なお、リソルジメントはイタリアの一種のナショナリズムであると考えられているが、第二次世界大戦前に台頭したムッソリーニの掲げるファシズムとは違うものである。リソルジメントは歴史の項でも触れる通り、民主主義自由に基づいた運動であるため、帝国義と独裁義に基づいたファシズムとは性質を異にするものと理解する必要がある。

リソルジメントは、近代、そして現在イタリアへと繋がる大変重要な出来事であり、イタリア歴史を語る上では欠かせない言葉である。

歴史

前史

イタリア半島は、か昔にローマ帝国現在ヨーロッパの大部分を支配し、繁栄を極めていた。しかし、476年にゲルマン人の傭兵隊長であるオドアケルによって、当地を支配していた西ローマ帝国が滅びてから1300年余りにわたってイタリア半島には統一国家は登場しなかった。

中世ゲルマン人による国家乱立や、東ローマ帝国による支配、イスラムキリスト教勢力の最前線としての経緯をたどりながら、11世紀から13世紀にかけてヴェネツィアやジェノヴァミラノなどの都市国家が登場した。近代的な意味での大学や、商業的必要から会計学が登場したのもこの地域からである。

都市国家ロンバルディア同盟などの都市同盟を組んで、神聖ローマ帝国などの大に並ぶほどの力をもったこともあった。また、14世紀に入るとローマへの憧れが増大してルネサンス文化開くようになり、これら都市国家はフィレンツェをはじめとして大きな繁栄を遂げることになる。

しかし、時代の流れは残酷であった。15世紀終わりからは、フランス神聖ローマ帝国の間でイタリア戦争が勃発し、1527年の神聖ローマ皇帝カール5世によるローマに代表されるイタリア半島へのすさまじい略奪によってイタリア文化社会的なは衰退。イタリア戦争が16世紀なかばになって一応の決着をみても、18世紀にいたるまでの数十年にわたってイタリア半島は西のフランス、北のオーストリアハプスブルク)など列強諸の代理戦争の場と化した。

フランス革命とウィーン体制

1789年フランス革命は、それまで隷従に甘んじていたイタリアの人々を統一へと大きく掻き立てた。

18世紀末オーストリアへの備えとして行われたイタリア遠征により。当初はフランス革命軍、続いてナポレオンの支配をイタリア半島は受けることとなった。この過程で半島政治的な地図は、好き放題に様々な為政者が登場しては消えていったため滅な状態となり、住民は今自分がなんというに住んでいるのかすら判然としない有様であった。

しかし、較的統治の行き届いていた北イタリアでは封建地代や10分の1税止など、自由民主主義に基づいた諸改革が実行され、民主主義の気を醸成するのに大いに役立った。一方でナポレオンイタリアフランス帝国の版図とし、フランス語を強要したが、これもまたイタリアナショナリズムを大きく刺した。

ナポレオンが敗れ、ウィーン体制がしかれると、イタリアはこれまでとは反対にフランスへの封じ込めとしてオーストリアが強まり、ヴェネツィアロンバルディア地方は直接、それ以外にも数多くの半島内の都市国家を間接的に支配した。ウィーン体制は正統義の名のもとに旧体制への回帰及び維持を至上命題としたため、フランス革命で掲げられた理念は一時消え去ったかのようにみえた。

しかし、イタリア半島のなかでもオーストリアに屈したばかりではなかった。それは、イタリア半島統一の中心勢力となったサルデーニャ王である。かのナポレオンによって奪われたピエモンテ地方イタリア西部で、フランスに隣接する地方)を回復し、ウィーン会議ではそのすぐ南にあるジェノヴァの領有も認められた。彼のサルデーニャイタリア半島の西側にある地中海)とピエモンテをな勢力基盤として、統一を進めていくことになる。

初期の独立運動

ウィーン体制はイタリア半島にとりあえずの安定をもたらしたが、それに承している人たちばかりではなかった。その嚆矢を放ったのは、ナポレオン統治時代に、秘密結社として大きく勢力を伸ばしたカルボナリ(炭焼きの意味。カルボネリーア)であった。かの組織は1820年にスペインで発生した自由憲法復活めた立革命に刺され、同年7月ナポリのカルボナリ起。議会選挙まで行うに至ったが、オーストリアによって鎮圧された。

翌年にはサルデーニャ王首都であるトリノで、保守的な国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ1世に反発し、カルボナリの構成員であった自由貴族たちが軍隊を巻き込んで決起。国王責任をとって退位し、カルロフェリーチェが即位して、彼らの掲げた憲法を承認。しかしフェリーチェはこのとき、イタリア中部のモデナに居たため、自分が居ないうちに首都で勝手に進められたこの一連の出来事に不満を持ち、トリノに到着すると言を翻して、オーストリア軍を引き入れ、鎮圧した。

このおよそ10年後、1830年にフランスで復古王政が倒される事件が発生(七月革命)し、それに触発されて今度は自由義者フィリップ・ヴォナローティがまず中部イタリアで反乱を起こすも、程なく鎮圧。1831年11月フランスマルセイユ亡命していた、ジュセッペ・マッツィーニが、カルボナリや先の反乱が失敗した先例をうけて、然とした政治団体青年イタリアを組織。共和制国家したこの団体は君主制に飽き飽きしていた人々の支持を集め、1833年から1834年にかけて反オーストリア感情の強いサルデーニャ王内で活動した。

しかし、共和制は当然ながら君主制を否定する制度のため、サルデーニャ王の疑心を買って、マッツィーニは逮捕された。釈放後に1834年になってサヴォイアでも起を呼びかけたがまたしても失敗し、スイスへと亡命することに成る。

青年イタリアは一旦潰えたが、その精神はもうひとりの統一の英傑であるジュゼッペ・ガリバルディに受け継がれ、リソルジメントに大きなを与えることに成る。

第一次イタリア独立戦争

1848年はフランス2月革命にはじまる自由運動と、ウィーン体制に対する反動が決定的になり、それが潰える年となった。フランスでは七月王政に代わって第二共和政が成立し、同年のうちにナポレオンの甥にあたるルイ・ナポレオンが圧倒的支持を受けて大統領に就任。1852年には皇帝に即位してナポレオン3世となり、第二政が成立。リソルジメントにも大きく関わることとなる。

イタリアにおいて多くの領土を持っていたオーストリアでも三月革命と呼ばれる大規模な反乱が発生し、ウィーンは一時暴徒に占拠されて皇族達は現在チェコ西部都市・オルミュッツ(チェコ語ではオロモウツ)へ避難を余儀なくされた。オーストリアを支え続けた名宰相として知られるメッテルニヒも、自由義・民族運動を弾圧していたため反乱軍から解任を迫られ、英国亡命していくことになる。皇帝フェルディナンド1世も長男フラン大公に譲位した。18歳のこの若き皇帝が、第一次世界大戦までその権力を握り続けた、フランツ・ヨーゼフである。

このウィーンの動揺を見たイタリアにおいてもそのは甚大なもので、1月のシチリ・パレルモにおける反乱で、両シチリア王憲法制定を認めたことを皮切りに、サルデーニャ王や教皇領、トスカ大公憲法が承認、続いてミラノやヴェネツィアでは市民起し、70代にさしかかっていたナポレオン戦争で活躍した老将、ヨーゼフ・ラデツキー率いる軍勢を追い払って共和制が布かれるなど、イタリア半島のほぼ全域においてオーストリアに対する反旗が翻った。

時のサルデーニャ国王カルロアルベルトはこの動きをみて、オーストリア宣戦布告し、第一次イタリア独立戦争が勃発する。しかし、これまでに見た通り、君主制共和制の二つの閥に別れていたため、団結ができず、オーストリアに各個撃破されていく。彼の前にはタタでは転ばなかった老将、ラデツキーが立ちはだかり、当初ミラノなどで敗北が続いていたオーストリア軍を見事に立て直した。

同年7月オーストリアへ反旗を翻していたミラノへの支援を行うべくサルデーニャ軍が出兵。緒戦では勝利を収めるも、ヴェネト州(ミラノの東にある州)・クストーツァにおいて本格的な会戦が行われた際、サルデーニャ軍はラデツキーの前に大敗を喫し[1]ミラノに引き返した。そしかし、共和ミラノはサルデーニャとの協同に乗り気ではなかった。不信を持ったアルベルトオーストリアと休戦協定を結んでトリノにまで撤退してしまった。

休戦協定から7ヶ後の1849年3月カルロアルベルトは休戦協定を破棄して、再起のためにオーストリアに再び戦いを挑んだ。しかし、その大事な一戦であったノヴァーラの戦いでも、ラデツキー率いるオーストリアに大敗を喫したため、逃げるようにしてポルトガル亡命した。

イタリア統一への命運は、譲位されたアルベルトの子、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世へと引き継がれることとなった。

クリミア戦争

この他にも1848年には、青年イタリア導でローマ共和が成立するなどの動きがあったが、いずれにしろ全てオーストリアフランスによって鎮圧された。オーストリアも当初約束していた自由義的な諸改革を反故にし、ヨーロッパ憲兵としてその力を奮っていたロシア帝国の協力を取り付けて1848年10月2000名以上の犠牲者を出して反乱を鎮圧させた。

自らの力ぶりを悟ったイタリア運動政治家たちは、イタリア統一を志向するようになった。結局のところ、これら列強に並ぶ力を持つには、イタリア全土の統一は絶対条件だからである。

さて、1848年革命を終えると、ヨーロッパにはまた大きな戦争が勃発した。1853年に、オスマン帝国聖地管理権をフランスナポレオン3世に引き渡したことに対抗して、ロシアニコライ1世がギリシャ正教徒の保護を名にして同盟を申し込むも、オスマン帝国はこれを拒否。そのため、同年7月ロシアオスマン帝国へ宣戦。英オスマンを支持してロシアへ宣戦。世にいう、クリミア戦争のはじまりである。(当然これはきっかけでしかなく、ロシアの南下政策とフランス英国の利関係の衝突といった背景から生じた出来事である)

これを見たサルデーニャ王首相のカミッロ・カヴールは、英の支持を得るべくクリミア戦争への介入を決断。両国と同盟を結んだ上で1855年にロシア宣戦布告し、15000に渡る軍勢を最大の戦地となったクリミア半島のセヴァストーポリに派遣した。カヴールは底したリアリストであり、英のような大支援なくば、オーストリアを打ち破ることはかなわないことをよく理解していたのである。

1856年にパリ講和会議が開かれ、カヴールはそこでイタリアの窮状を訴え、英とより深い交を結ぶことに成功した。この出来事はイタリア統一におけるサルデーニャ王存在感を大きく知らしめ、イタリア半島の人々に統一への希望を与えた。

パリ講和会議では、具体的な支援や援助を勝ち取ることはできなかったものの、その後も英との関係改善に勤め続けた。そして、1858年7月にはベルギープロンビエールにおいて、遂にナポレオン3世からオーストリアへの宣戦を確約させた。(プロンビエールの密約

かしこれは、フランス人が多く住むサヴォイア及びニース地方フランスへ割譲するという大きな代償を払わなければならなかった。サヴォイアは、サルデーニャ王にとっては王発祥の地であるため、苦渋の決断であったといえよう。でいうならば奈良京都あたりを譲り渡すといったところか……。

内政面でも第一次イタリア独立戦争敗北からの10年間でコツコツと、産業育成や軍の近代化に注力し、オーストリアへのリベンジを果たす準備は着々と整いつつあった。また、ロシア帝国の方も当然オーストリアから助力があると思っていたのが、日和見を決め込んだため不信感を抱く原因となり、これがサルデーニャにとっても有利に働くことになった。

第二次イタリア独立戦争

密約はあくまで、オーストリア側から仕掛けた場合に行うと書かれていた為、カヴールは1859年にオーストリア近くに軍を行軍させ、同を刺オーストリア側は動員解除をめる最後通牒を発したが、応じる様子がなかったため、4月29日オーストリアサルデーニャ王宣戦布告。これは明らかに挑発に乗ったオーストリア失策であったが、ここに、第二次イタリア独立戦争が勃発した。フランスサルデーニャ連合軍に加えて、ガリバルディ義勇軍で約20万人、それに対してオーストリア軍は22万と、人的の上ではオーストリア有利の軍勢であった。

連合軍はロンバルディアへ侵入し、緒戦では勝利をおさめ、6月にはイタリアの北部中央に位置するソルフェリーノにおいて突。連合軍は辛勝するも、両軍併せて2万人が犠牲になるという、当時では凄まじい規模の被害を出した。[2] この戦いにはオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフも従軍しており、命からがら戦地からは脱出するも、オーストリアの威信はこれで大いに失墜することになる。

このまま連合軍有利でオーストリア叩き出せると思いきや、ナポレオン3世は隣プロイセンがこの機に乗じて動員をかけている知らせが入ったこと、それに加えてローマ併合にまで乗り出すと、支持基盤であったカトリック信者からの反発を予想したことなどから、オーストリアとの講和を決断。フランツ・ヨーゼフ流石に情勢から講和を判断し、同年7月、ヴィラフランカの和約が結ばれて、サルデーニャの断りく戦線を離脱した。

この知らせはサルデーニャにとって寝耳に水であり、カヴールは激怒して一時首相を辞任する事態に至った。しかし、この講和によってサルデーニャはロンバルディアを手中にし、また、サルデーニャ王導のイタリア統一が確定的になった。

イタリア王国成立

一時は首相の任を離れたカヴールだったが、この独立戦争で、中部イタリアを治めていた諸の君に対して民衆は反乱を起こしたため、次々と逃亡し、共和制の動きが活発になった。

かねてより、サヴォイア王サルデーニャ王の王族)による統一を見ていたカヴールは、危機感を抱いて首相の座に復帰。ナポレオン3世に再び接近して、1860年にイタリア中部の併合を容認するのと引き換えにサヴォイアとニースを割譲するという合意を形成し、3月に住民投票を行った末に、トスカーナやモデナ、パルマ、ロマーニャといった中部イタリアを併合した。

しかし、未だに教皇領やナポリといった別の南部に存在しており、カヴールは手詰まりとなっていた。そこで、ガリバルディが同年にチリを占領し、続いてナポリをも支配下に入れたガリバルディは熱心な共和であったが、自身の信条よりもイタリア統一という、民族意識を優先し、占領地を無条件サルデーニャ国王のヴィットーリオ・エマヌエーレに献上。彼であっても、ここまで統一に尽力した国王シンボルとしての力は無視できなかったのである。

こうして、1861年にあらかたリソルジメントを了したとして、3月に開かれた議会において、サルデーニャの国王をヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とすることを定め、イタリアが成立。フランス革命に始まるイタリアの人々の宿願は一応達成された。首都はトリノ(65年にフィレンツェ、最終的にはローマ)、人口2200万人の若き大がここに誕生した。

カヴールはイタリア初代首相に選ばれたが、それからわずか三ヶ後に逝去。イタリア統一運動の柱を担い、結実から間もなく亡くなったことから後世より『神がイタリア統一のために、地上に遣わせた男』とよばれることになる。

イタリア王国の『完成』

当然ながらこれでリソルジメントが終わったわけではない。その後も統一に向けての運動は続いた。同じく国家統一に向けて動いていたプロイセン王国宰相・ビスマルクヴェネツィアの支配権を認める事を引き合いに出してイタリアを誘い込み、1866年に普墺戦争を引き起こした。

イタリア軍はこの戦争においてはオーストリアに対しては劣勢であったものの、軍の近代化を推し進めて情報力でも圧倒的に上回っていたモルトケ率いるプロイセン軍が終始優勢であった。同年7月のケーニヒグレーツの戦いでオーストリア軍は散々に壊滅させられ、事実上この戦争の帰趨は決した。これを見てイタリアヴェネツィアを併合、オーストリアも最これを認める他なく、10月ウィーン条約でそれを公式に承認した。これで北部の統一は一応の完成を見ることになった。

最後に残ったのは、ローマに鎮座する教皇領である。756年のピピンの寄進以来、(一時は断絶や分裂をはさみながらも)ローマに根を下ろしていたローマ教皇と教皇庁は、イタリア統一が進んでもなお、世俗の権力介入を拒み続けていた。そして領内にはナポレオン3世の支持の下で、フランス軍によって当地は守られていたため、統一後もしばらくはイタリアは手も足も出なかった。反教皇でもあったガリバルディ1867年ローマへ攻撃を加えるも、フランスの反撃に遭って失敗している。

しかし、1870年にエムス電報事件をきっかけにナポレオン3世がプロイセン宣戦布告したことにより、普戦争が勃発。フランスは即座にローマ駐留軍を引きあげた為、ローマの防衛はがらきとなった。そして、セダンの戦いでナポレオン3世が大敗を喫し、第二政が崩壊したのを確認すると、イタリアは教皇領へ侵攻、ローマへ入を果たした。

時の教皇ピウス9世は敗北覚悟していたが、タダで屈するのは教皇としての威信に関わるため、衛兵たちに形ばかりの抵抗を示させたという。占領からしばらくして住民投票が行われ、10月9日に併合を実施。1871年7月9日にフィレンツェからローマへの遷都が行われ、イタリアは『完成』した。

教皇はこの武力併合に大きく反発し、イタリア政府とは絶縁状態になる。ピウス9世は自らを「バチカン囚人」と称した。この問題は建後半世紀以上にわたって続き、最終的な解決は、1929年ムッソリーニ政権下におけるラテラノ条約を待たなければならなかった。

未回収のイタリア

これでイタリア完成し、リソルジメントは達成を見た。しかし、イタリア完成してもその全てがオーストリアから返還されたというわけではなく、この後もまるで喉に刺さった小骨のように、中欧における際関係の摩擦要因となっていた。

特に、地政学的な理由から南チロルとトリエステについては併合が強くめられ、第一次世界大戦への遠因となっていくが、そこからの話は当該項に譲ることとしよう。

なお、未回収のイタリア回復運動や思想は、イッレデンティズモと呼ばれ、リソルジメントとは明確に区別されている。デンティズモとはイタリア語で償還を意味し、イッレ(irre)とは、英語のinと同じくそれを否定する意味合いの接頭辞なので、未償還を意味し、その統合をした思想という意味合いである。

日本との関連

リソルジメントは、同時代に同じく近代化に邁進し、ナショナリズム確立に心血を注いでいたにおいても大きなを与えた。

1873年の岩倉遣欧使節団のヨーロッパの歴訪で、イタリアの内情が知れ渡って以来、イタリアはその歴史近感から大きく交が深まった。明治の知識人たちは西欧の書物を盛んに翻訳したが、このリソルジメントにおける大きな関心は、明治の初期から中期にかけて特有ともいえる特異な現象であった。

与謝野幹は人をふる歌という作品の中で、バイロンハイネと並んで、ガリバルディ名前をあげているし、1882年にガリバルディが逝去した際は『東京日日新聞現在毎日新聞)』が、四回にって伝記に彼の事績を紹介するなど、人気の高さが伺える。また、帝国義の論客となった徳富峰は、吉田松陰マッツィーニに重ねるなど、様々な分析を行っていた。

しかし、このような関心は日清日露戦争勝利が列強に並ぶようになると徐々に、英国フランスに移っていき、忘れ去られていく。

今ではリソルジメントはもはや、世界史教科書くらいでしかなかなかにすることのない言葉ではあるが、と同時期に遠く離れたイタリアでも同じように、国家統一へと邁進した人々がいたことを思い起こすのも、また一ではないだろうか。

関連項目

脚注

  1. *オーストリア作曲ヨハンシュトラウスはこの勝利を受けて、戦勝式典の為に一月後の1848年8月末にかの有名なクラシックラデツキー行進曲』を作曲した。
  2. *従軍していたスイス人、アンリ・デュナンはこの戦いをみて大きくショックを受け、赤十字設立へとつながる契機となる。

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