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村田修一(むらた しゅういち、1980年12月28日-)とは、福岡県出身の元プロ野球選手(三塁手)である。現在は千葉ロッテマリーンズのコーチを務める。
男・村田。
概要
千葉ロッテマリーンズ #71 一軍打撃コーチ |
|
---|---|
村田修一 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福岡県糟屋郡篠栗町 |
生年月日 | 1980年12月28日 |
身長 体重 |
177cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 三塁手、一塁手 |
プロ入り | 2002年自由獲得枠 |
引退 | 2018年 |
経歴 | |
選手歴 コーチ歴 | |
国際大会 | |
代表チーム | 日本 |
五輪 | 2008年 |
WBC | 2009年 |
プロ野球選手テンプレート |
昭和55年12月28日生まれの所謂松坂世代(55年会)の一員。松坂世代中の野手出世頭。
日本大学から2002年のドラフト自由枠で横浜ベイスターズに入団。2007年・2008年に2年連続本塁打王に輝き、日本を代表するスラッガーの1人となる。
横浜スタジアムの場外や右中間スタンド上段にもホームランを打つなど、パワーだけでなく広角に打ち分ける技術も持つ。
経歴
横浜時代
2003年(1年目)は当時大きく期待されていた古木克明が三塁手に居た為に65試合未経験の二塁手を守りながらも、新人ながら104試合で25本塁打を放つ。
2006年に34本塁打114打点で初の30本100打点の大台に乗せると、2007・2008年と二年連続でホームラン王のタイトルを獲得。NPB屈指の和製大砲に駆け上がった。
2008年は北京五輪出場の為12試合出られなかったが、ホームラン王だけでなく打率4位・打点2位と打撃三冠で高い成績を残した。野球統計セイバーメトリクスでの高い数値や、打撃の総合力指標OPSで1.062と両リーグ通じて2008年シーズンNo.1の打者成績を残している点からも、総合的な打撃力の高さが大きく評価された。
2009年はワールド・ベースボール・クラシックの日本代表に選出され、7試合に出場し打率.320、2本塁打、7打点、出塁率.393と活躍するも第2ラウンド決勝韓国戦でヒットを打つも右太腿を痛めた。原監督曰く「重傷。プレーできる状態ではない」と無念の離脱となった。7試合目の途中までの出場ながらチームトップの2本塁打でチームのホームラン王、打点も青木宣親と並んでチームの打点王、日本の4番の名に恥じない活躍ぶりだった。
WBCで負った怪我の影響でペナント開幕には間に合わず、2009年は93試合の出場に終わる。
2010年は前年のWBCで怪我を負った反省から減量してシーズンを迎えるが、減量による影響からか極度の不振に陥る。
結局144試合に4番でスタメン出場したが、最終的な成績は怪我で93試合しか出場できなかった2009年と同程度の成績に終わった。
なおこの年国内FA権を獲得したが、自身の不振や後述の子供の件もあり、権利を行使せずに残留することを表明。
2011年はキャプテンに就任し、全力疾走をテーマにした。
144試合に4番でスタメン出場したが、2010年とあまり変わらなかった。
オフ、FA宣言。この時横浜はTBSからDeNAへの身売りが行われ、DeNA側は残留を要求していたが、親会社が変わっても横浜が優勝争いに加わる見通しが立たない事やレギュラーに拘りを持っているとの理由で、優勝争いに確実に関われる読売ジャイアンツへの移籍を決めた。この時の交渉で高田繁GMを本気で怒らせ、後の自由契約後の事態に影響する理由の一つになる。
巨人時代
2012年5月1日には第76代目の四番打者となる。144試合に出場し、自身初の優勝を経験したが、期待されていたホームランは、スタメン定着後最低の12本に終わり、代打で途中交代されることも多かったが、3年連続で全試合に出場。4年ぶりのベストナインも受賞した。
クライマックスシリーズでは復調し、ホームランを2本放ち、日本シリーズ出場に貢献した。
2013年はWBC日本代表候補となったが、2期連続の代表入りはならなかった。
シーズン前半は不振に陥り、試合前に吐く、坂本勇人に「俺来年もいれるかな…」と弱音を吐くなど精神的にも追い詰められていた。一番酷かったのは得点圏打率で、常に1割後半が当たり前、満塁時に至っては凄惨(13打数0安打など)であった。
ところが7月に入り内川聖一に近いフォームに修正すると何を間違えたか急に覚醒。
月間打率.406、20打点と大活躍し、2008年7月以来の月間MVPを獲得。
あまりの活躍ぶりに『優勝受取人が優勝請負人に進化したぞ!』、『これは村田ではない、太った内川だ!』、『第2回WBC戦士村田修一が蘇った!』などと様々な所でネタにされる。
8月は好調の7月以上に調子を上げ、打率.422、27打点、セリーグ新記録となる月間46安打を達成。見事二ヶ月連続で月間MVPとなった。特に月間46安打はイチローが持つ日本記録の48安打目前だったため、尚更評価された。
前月よりも更に活躍したため、「元々村田はパワーヒッターだったのに、いつの間にかアベレージヒッターになり、しかもイチローの記録に挑戦とかwwww」、「今の村田は内川本人だな」…と一層ネタにされた。
ただ、もっとおかしい成績の選手とのW受賞だったり、パに世界記録を達成したMVP投手がいたせいであまり目立たなかったあたり不憫である。
引退を発表した宮本慎也と桧山進次郎の引退試合が巨人戦であった。しかし宮本のほうは日程がずれて引退試合は阪神戦になった。だが同じ巨人の古城茂幸の引退試合が入り、その時は見事に花を添えた。
桧山の時は自重したのかノーヒットだった。
最終的な成績は.316、25本塁打、87打点と去年とは別人の成績でシーズンを終えた。最多安打はマット・マートンに譲った。ポストシーズンの日本シリーズでもホームランを2本放つ等不振に喘ぐ阿部と坂本の穴を埋める活躍をした。
シーズン終了後は初めてゴールデングラブ賞に選ばれ、内海哲也に代わり巨人の選手会長に就任。なお生え抜き以外で巨人の選手会長になったのは村田が初である。生え抜きと同待遇、うっ、頭が…
2014年8月1日の広島東洋カープ戦で通算300本塁打を達成したが、その1ヶ月ほど前から打撃不振に陥り、7月27日の中日ドラゴンズ戦で欠場。前年の打撃がなんだったのか、この年は両リーグワーストの22併殺打を喫した。
2015年は序盤から打撃不振に陥り、さらに右太もも裏の肉離れで5月20日に二軍落ち。打撃コーチになった高橋由伸の指導を受け本来のスイングを徐々に取り戻し、7月10日の阪神タイガース戦で逆転4号ホームランを放ち、ヒーローインタビューで号泣した。7月31日の中日ドラゴンズ戦では初めて一塁手として出場した。9月19日には右肘関節炎で2度目の離脱。この年は打撃不振と故障に泣かされ、キャリアワーストの12本塁打に終わった。
2016年、オープン戦では岡本和真と競ったが、7番三塁手で開幕スタメン入り。6月25日の横浜DeNAベイスターズ戦で通算1000打点を達成した。レギュラーシーズンでは全試合に出場し、打率.302、25本塁打、82打点と復活のシーズンとなった。
2017年はケーシー・マギーが入団し三塁手に定着したため、代打での出場になる。マギーが二塁手に就いた後は三塁手として出場を重ねた。118試合の出場で打率.262、14本塁打、58打点に終わる。10月13日にチームの若返りを進めるという方針もあり戦力外通告を受けた。
栃木時代
2018年は所属先を求めてトレーニングをしていたが、獲得に動く球団は現れなかった。3月5日にベースボール・チャレンジ・リーグの栃木ゴールデンブレーブスが獲得を発表した。背番号は25。しかしNPB復帰を目指すもどこも獲得に動かず、現役を引退した。
引退後
2019年から2022年まで読売ジャイアンツのコーチを務める。背番号は75。2019年は二軍野手総合コーチ、2021年は一軍野手総合コーチ、2022年は一軍打撃兼内野守備コーチを務めた。
2023年からは千葉ロッテマリーンズの一軍打撃コーチを務める。
引退試合クラッシャー
なぜか引退試合では普段とは異なり活躍する。
特に佐々岡真司、矢野燿大の引退試合でのホームランが色々と問題になった。
日付 | 引退する選手 | 村田の成績 | 備考 |
---|---|---|---|
2007年10月4日 | 鈴木健 | 4打数1安打1打点 (1本塁打) |
鈴木健の打席では明らかなフライを見送り、空気を読んだ |
2007年10月6日 | 佐々岡真司 | 3打数1安打1打点 (1本塁打) |
佐々岡から打った一発により物議を醸すことに |
2010年9月30日 | 矢野燿大 | 4打数2安打4打点 (2本塁打) |
この試合の敗北により、2010年の阪神の自力優勝の可能性が消滅 |
2012年10月22日 | 英智 | 4打数3安打1打点 (1本塁打) |
この試合の敗北により、中日のCSでの敗退が決定 |
2013年10月3日 | 古城茂幸 | 3打数2安打3打点 (1本塁打) |
同じ巨人のチームメイト。なお古城はこの前日に引退発表し、村田と共にお立ち台に立つことになった。 |
2013年10月5日 | 桧山進次郎 | 4打数0安打0打点 | 初のノーヒット。その後鈴木尚広と交代。なお村田の代わりに三塁手で入った立岡宗一郎が派手にやらかし逆転負け。 |
2013年10月8日 | 宮本慎也 | 4打数1安打1打点 | 9回裏無死満塁から逆転サヨナラヒット。試合後、両軍揃っての宮本胴上げに加わる。 |
2012年までの4試合の通算成績は【打率.467、5本塁打、7打点 OPS2.034】という凄まじいものである。ペナントでもこれぐらい打てよ。
なお全ての試合が誰かの引退試合だと仮定した場合の成績は【打率.486、148本塁打、打点585】になるらしい。
しかし自分が所属するチームの選手の引退試合ではやる気が出ないらしく、成績も低調になっていた。
2010年10月6日の木塚敦志の引退試合では3打数1安打0打点(0本塁打)で、横浜ベイスターズ(当時所属)は敗れている。 しかし2013年10月3日の古城茂幸の引退試合では上記の通りの成績で見事勝利、引退試合に華を添えた。
性格
男・村田という表記を好んで使っていることから、ホームランを打つなど試合で活躍すると男・村田と呼ばれる。ただし凡退するとウゴ・ケデブと揶揄される。
二枚舌かつ口は災いの元を絵に描いたような性格で、FA交渉において高田繁GMに失礼な事をいい本気で怒らせ、事実上古巣から勘当同然の扱いを受けている。また村田が巨人から自由契約された際高田は「力は落ちてないと思うけれど、うちは三塁には首位打者の宮崎がいるし、一塁にもロペスがいるから」「チーム編成は3年後、5年後を見据えてやるもの。彼は出場機会がほしいんでしょ? 他の球団だったら、どこかチャンスはあるんじゃないか」と当時の村田の発言を皮肉に近い形で返している。
また横浜時代では野球に対する素行も真面目では無かったらしく、横浜の暗黒の象徴と言われている。ミーティングではレギュラーの座をつかみかけている若手と最前列でふざけてたりシーズン中に足を肉離れし30%くらいしか治ってないのにも関わらずFAの権利取得日数を稼がせるために一軍に上がっていたり、ある試合で五回で退いた後監督室に入り込んでテレビを見ていたり(これについては当時外野守備走塁コーチの波留敏夫が激怒している)、後輩の面倒見が良かったものの派閥をつくってチームの和を乱す傾向があったなど直接の名前は伏せていたものの当時の横浜コーチだった駒田徳広が暴露している。
大学時代は東都大学リーグでリーグ記録となる1シーズン8本塁打や歴代2位の大学通算20本塁打と、アマチュア時代から世代屈指の強打者として知られていた。ドラフトの際には読売ジャイアンツから事前に指名を約束されるも、「子供の頃から自分は、お山の大将でいたい」と1位(自由獲得)の横浜を選んだ。日大監督の鈴木博識は「お金にこだわることも決して悪いことではないぞ」とプロについて説いたが、村田は「監督さん、お金は入団後に活躍して稼ぎます。」と返しプロ入り後、有言実行している。
広島東洋カープの佐々岡真司投手の引退試合で、1ストライク3ボールから「フォアボールで現役を終わらせるのは忍びない」とボール球を強引に打った結果ホームランになった(カープ側は引退試合でも真剣勝負なので打っても構わないと言っていた)。試合後、佐々岡投手に謝罪に行くと佐々岡が「吹っ切れた。気持ち良かったよ」と笑顔で激励し村田は涙した。
自らのブログにも登場する息子は出生の際予定より3ヶ月早く生まれた未熟児で、生まれてからしばらく生死をさまよった。現在は元気に生活をしているが、同じ境遇にあった人に少しでも励みになればと、元気に成長している姿を載せている。
応援歌
球団 | レス | No | プレイヤー |
---|---|---|---|
巨人 | 応援歌のピコカキコ一覧#31 | 8545 | |
栃木 | 応援歌のピコカキコ一覧#1479 | 16141 |
成績
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2003年 | 横浜 | 104 | 373 | 330 | 48 | 74 | 11 | 0 | 25 | 56 | 3 | 3 | 2 | 26 | 12 | 111 | 6 | .224 | .303 |
2004年 | 116 | 369 | 326 | 43 | 79 | 17 | 0 | 15 | 38 | 2 | 0 | 2 | 30 | 11 | 84 | 10 | .242 | .325 | |
2005年 | 136 | 539 | 477 | 60 | 120 | 32 | 2 | 24 | 82 | 1 | 3 | 4 | 44 | 11 | 124 | 15 | .252 | .326 | |
2006年 | 145 | 611 | 545 | 83 | 145 | 30 | 3 | 34 | 114 | 1 | 4 | 10 | 39 | 13 | 153 | 11 | .266 | .325 | |
2007年 | 144 | 615 | 526 | 94 | 151 | 30 | 1 | 36 | 101 | 1 | 0 | 9 | 65 | 15 | 117 | 14 | .287 | .376 | |
2008年 | 132 | 554 | 489 | 89 | 158 | 25 | 2 | 46 | 114 | 0 | 0 | 3 | 55 | 7 | 113 | 10 | .323 | .397 | |
2009年 | 93 | 369 | 343 | 45 | 94 | 16 | 1 | 25 | 69 | 0 | 0 | 0 | 21 | 5 | 80 | 7 | .274 | .325 | |
2010年 | 144 | 617 | 565 | 75 | 145 | 30 | 0 | 26 | 88 | 0 | 0 | 3 | 45 | 4 | 124 | 19 | .257 | .314 | |
2011年 | 144 | 592 | 530 | 65 | 134 | 28 | 1 | 20 | 70 | 0 | 0 | 6 | 44 | 12 | 103 | 19 | .253 | .321 | |
2012年 | 巨人 | 144 | 575 | 516 | 49 | 130 | 27 | 0 | 12 | 58 | 1 | 2 | 6 | 36 | 15 | 85 | 16 | .252 | .316 |
2013年 | 144 | 595 | 519 | 76 | 164 | 26 | 0 | 25 | 87 | 1 | 6 | 7 | 50 | 13 | 74 | 11 | .316 | .385 | |
2014年 | 143 | 575 | 519 | 49 | 133 | 17 | 0 | 21 | 68 | 2 | 0 | 4 | 39 | 13 | 83 | 22 | .256 | .322 | |
2015年 | 103 | 370 | 330 | 3 | 78 | 9 | 0 | 12 | 39 | 1 | 2 | 2 | 28 | 8 | 65 | 12 | .236 | .310 | |
2016年 | 143 | 576 | 529 | 58 | 160 | 32 | 0 | 25 | 81 | 1 | 2 | 2 | 38 | 5 | 83 | 21 | .302 | .354 | |
2017年 | 118 | 424 | 381 | 41 | 100 | 19 | 0 | 14 | 58 | 0 | 1 | 2 | 34 | 6 | 63 | 15 | .262 | .331 | |
NPB:15年 | 1953 | 7754 | 6925 | 908 | 1865 | 339 | 10 | 360 | 1123 | 14 | 23 | 62 | 594 | 150 | 1462 | 208 | .269 | .337 |
国際大会での打撃成績
年度 | 代表 | 大会 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2013年 | 日本 | WBC | 7 | 29 | 25 | 4 | 8 | 0 | 0 | 2 | 7 | 0 | 0 | 1 | 1 | 2 | 6 | 0 | .320 | .379 |
通算守備成績
機構 | 守備位置 | 試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 一塁手 | 62 | 306 | 21 | 1 | 24 | .996 |
二塁手 | 65 | 129 | 191 | 8 | 41 | .976 | |
三塁手 | 1712 | 1015 | 2814 | 164 | 222 | .958 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
最多本塁打 | 2回 | 2007年、2008年 |
表彰 | ||
ベストナイン | 3回 | 2008年、2012年、2013年、2016年 |
ゴールデングラブ賞 | 2回 | 2013年、2014年、2016年 |
月間MVP | 4回 | 2003年9月、2008年7月、2013年7月・8月 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 5回 | 2006年、2008年、2011年、2012年、2014年 |
全球団から本塁打 | - | 2012年8月4日 |
関連動画
横浜時代
巨人時代
栃木時代
関連コミュニティ
関連項目
- プロ野球選手一覧
- NPB(日本プロ野球)
- ベースボール・チャレンジ・リーグ
- 吉村裕基(横浜時代の同僚で高校の後輩)
- 館山昌平(日本大学の同期で同じ背番号25)
- 栗原健太(WBCで村田の代役として緊急招集)
外部リンク
- 「男・村田は九州男児!」(ブログでは絵・顔文字を使うなどかわいい一面も)
- ピクシブ百科事典
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