関ヶ原の戦いとは、慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で行われた戦いである。
『天下分け目の戦い』と言われ、現在でも決戦の舞台を「〇〇の関ヶ原」と表現する事が多い。
状況
豊臣秀吉の死後、豊臣政権において五大老として実質的トップに立った徳川家康は、日増しに勢力を拡大し続けた。
家康は、積極的に他大名と婚姻関係の成立を推し進め、また、朝鮮出兵等への恩賞として豊臣家直轄領を宛がい恩を売る等、派閥の形成を着々と推し進めていた。
時節に乗り、豊臣家臣団の中にも家康と親しくする者が多く存在していた一方、五奉行、とりわけ石田三成は家康のこの行動を危険視し、また五大老・前田利家もこの対立を収めようと尽力していた。
ところが、1599年に秀吉が頼みとしていた利家が病死。
抑止力を失った豊臣家は一気に派閥対立が噴出。同年、加藤清正、福島正則ら豊臣恩顧の武将が、石田三成を佞臣であるとして襲撃、結果的に三成を失脚に追い込んだ。
更に利家の嫡男・前田利長が家康暗殺を計画したという疑いをかけられてしまう。最終的に利家の妻・芳春院(まつ)が人質となって落着するが、これによって五大老・五奉行による政治は事実上崩壊した。
これらの対立構図や家康の台頭を危惧していた五大老・上杉景勝が領国・会津に帰国。上方には上杉家が戦支度を始めたという情報が伝わってくる。
家康を中心とした豊臣家が釈明と上洛を要求するが、景勝はこれを拒否。ここに家康を総大将とする上杉征伐の軍が結成され、諸将は会津に向けて出撃した。
この動きに対し、当時領地である佐和山に蟄居していた三成は、五大老の毛利輝元、宇喜多秀家を味方に引き込む。こうして征伐の裏を突く形となり、上杉討伐の途上にあった家康を弾劾して挙兵した。
参戦武将
東軍 | 西軍 |
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この他、東海道の旧徳川領に配置されていた豊臣家古参の山内一豊、中村一氏、堀尾吉晴なども東軍に味方する行動を取った。特に一豊は小山評定の際に自らの本城を徳川軍に進んで献上し、他家もこれに倣った。
改易されていた大友義統は大名復帰をかけて西軍に味方し、九州の旧大友領に進軍した。
黒田如水は新たに徴兵した兵で九州を席巻し、義統も破った。
また、織田信雄、前田玄以、増田長盛、片桐且元、蜂須賀家政のように旗幟を鮮明にせず、中立あるいは両属状態の武将も存在した。
豊臣家当主であった豊臣秀頼は幼君であり、騒動に対応しきれなかった。
経過
打倒家康を目論む石田三成、宇喜多秀家ら西軍諸将は、己の陣営の強化を実施。
大谷吉継らを味方に引き込み、さらに諸大名の妻子を人質に取ろうと考えたが、細川忠興の正室・たま(ガラシャ)が屋敷に火を放って自害したことにより、中止となっている。
一方、石田三成らの挙兵を知った徳川家康は、上杉景勝討伐を中断して小山で軍議を開く(小山評定)。
上杉征伐に参集した武将ほぼ全員の一致を見て、畿内の石田三成、宇喜多秀家の討伐を決定。結城秀康や伊達政宗に上杉景勝への牽制を任せ、一路畿内へ進んだ。
畿内で決起した西軍諸将は、総大将の毛利輝元が大坂城に在城する傍ら、鳥居元忠の籠る伏見城、富田信高の籠る安濃津城、細川幽斎の籠る田辺城、京極高次の籠る大津城など、周辺勢力を積極的に攻撃する。
それぞれの戦いにも興味深いエピソードが存在するが、それは割愛する。
対する東軍は東海道の付近を領有する大名が味方に属していることから、尾張まで着々と進軍した。東海道を尾張まで進軍した東軍は、織田秀信の守備する美濃を攻撃。
秀信は果敢に野戦に挑むも敗退、その後岐阜城での籠城を画策するが池田輝政、福島正則の説得を受けて開城する。
ここに至り、徳川家康も江戸からの進軍を決意。
自らは東海道を遡上して畿内へ向かい、一方で息子の徳川秀忠に徳川軍の中核と森忠政らを預け、中山道の進軍とその周辺の平定を指示する。ところが秀忠軍は途中で真田昌幸の抵抗にあい、籠城によって1週間近く足止めを食らう羽目になり(第二次上田合戦)、結果的に関ヶ原の戦いに間に合わなかった。
一方、家康の動きを知った石田三成ら西軍諸将は、美濃大垣城を出発して転進、関ヶ原方面に向かう。
9月14日に美濃赤坂に到着していた徳川家康も、それを追って関ヶ原方面に進軍。この時散発的な戦闘があったと言われている。
同時期、小早川秀秋は松尾山城に陣取る伊藤某(伊藤盛正と伝わる)を追い出し松尾山城に布陣。家臣・稲葉正成の献策だと言われている。
関ヶ原本戦
関ヶ原本戦の動向には諸説あり、どの説を取るかによって成り行きは大きく異なるのだが、結果的に
- 小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠が西軍から東軍へ寝返る。前者2名は事前打診。
- 徳川家康が指揮する東軍が勝利、石田三成、宇喜多秀家ら西軍諸将が敗走。
- 大谷吉継は戦場で自害。
- 毛利秀元は東軍背後に陣取っていたが、事前の調略で本戦では不介入を貫く。
催促に来た伝令に「兵士が食事中なので動けない」と告げて「宰相殿の空弁当」と笑いものになった。 - 島津義弘は、後に「島津の退き口」と呼ばれる「前進する退却戦」で戦場を離脱。
- 石田三成の居城・佐和山城が落城、西軍総大将・毛利輝元が大坂城を退去。
という展開となった。
西軍がギリギリまで東軍を追い詰めたとも、東軍が最初から圧倒していたとも言われる。
戦後処理については、
- 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊 - 京都市中引き回しの上、六条河原で斬首。
- 宇喜多秀家 - 八丈島へ流罪。
- 織田秀信 - 高野山に流罪。後に追放されて自害。
- 真田昌幸 - 死罪とされたが多くの嘆願により減じられ、九度山へ流罪。
- 島津義弘 - 申し開きや嘆願が通り、異例の本領安堵。(西軍では唯一)
- 上杉景勝 - 会津120万石から米沢30万石に、大幅な減封。
- 毛利輝元 - 中立違反を咎められて領地の大半を没収。
- その他西軍武将の大多数が減封、または改易処分。多くは浪人となった。
ともあれ、関ヶ原の戦いが東軍勝利に終わったことで、徳川家康は不動の巨大基盤を確立。主家の豊臣家を凌ぐ勢いとなった。
その3年後、徳川家康は征夷大将軍となり、ここに江戸幕府が誕生する。
しかし、この戦いはあくまでも豊臣家内部の戦いとされ、豊臣家は勢力を損なったが、依然侮りがたい勢力を保持する。この豊臣家にどう対応するかが、その後の徳川家の課題となっていった。
その後、1615年に大坂の陣が発生するまで豊臣家は存続した。
時代は下って明治となり、陸軍指導教官を務めたドイツ軍将校・メッケル少佐は関ヶ原の布陣図を見せられた際、「西軍の勝ちでしょう」と言った……
……という話が伝わっているが、これは司馬遼太郎による創作の可能性が高いそうな。マジかよ。
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関連項目
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- 本多忠勝
- 井伊直政
- 細川忠興
- 石田三成
- 毛利輝元
- 宇喜多秀家
- 小西行長
- 島津義弘
- 小早川秀秋
- 豊臣秀頼
- 小牧長久手の戦い
- 大坂の陣
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- 関ヶ原軍記大成
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