概要
誰もが一度は聞いた事があるであろう松阪牛の産地。松阪牛は松阪で一から育てられた牛の事ではなく、全国各地から子牛を買い取って3年間育成した牛の事を指す。言うなれば牛のトレーニングジム。
吸収合併を繰り返した結果、東端は伊勢湾に面し、西端は奈良県に接するという三重県中部を横断する横長い面積となっている。南は多気郡、北は津市に面する。東西50km、南北37km、総面積623.58平方kmを有し、県土全体の約10.8%が松阪市である。その広大な面積は、県庁所在地の津市に次いで三重県内2位である。伊勢平野が広がる北東部に人口が集中し、西部一帯は紀伊山地、高見山地、台高山地が連なる大自然の世界である。人口は約16万ほどで、県の9%に相当する。官公庁が集まる津市のベッドタウンとして人口は増加傾向にある。駅前は少しずつ開発が進んでいるがショッピングモールのような商業施設は全く無いため、観光目的で来た場合は暇を潰せる場所が無い。隣の松ヶ崎駅まで行くとイオンモールや上新電機などがある。背の高い建物も殆ど無いので、いわゆる寂れた田舎町である。
隣町の明和町や多気町は松阪市に属していないが、同地に警察署やハローワーク等が無いため、行政的には松阪市の所管となっている。
松阪駅にはJRと近鉄が同居しており、近鉄大阪線、近鉄山田線、名松線、紀勢本線が伸びる交通の要衝。名古屋、京都、大阪、和歌山、奈良、大台方面に向かう事が出来、しかも近鉄の特急停車駅にも指定されているため、名古屋、京都、大阪からのアクセスが容易。南北連絡通路が無いので、反対側へ行きたい場合は、いちいち迂回して踏み切りを渡る必要がある。かつては三重電気鉄道の駅もあったが、現在は廃線となっている。
かつて商人の町として栄えた古き良き街並み、自然豊かな風景、松阪城跡地、江戸時代の古典学者・本居宣長の生家などがあり、観光都市の一つに数えられる。伊勢湾に面している関係で新鮮な魚が採れ、松阪牛も堪能できるなどグルメも充実している。東方projectの登場人物こと本居小鈴の聖地になっており、毎年同人誌即売会が行われている。四日市以南には同人ショップの類が無いため、貴重な同人誌購入の場となっている。
市名の由来は、かつて同地にあった松ヶ島城の松と、大阪から阪の文字を貰って組み合わせたもの。江戸時代から「まつさか/まつざか」と二通りの呼び名があったが、2005年1月1日の市町村合併の際に「まつさか」に統一された。漢字表記も松阪と松坂の二通りあったが、1889年の町制移行時に松阪に統一。
歴史
松阪市からは最古の土偶が発掘されたり、国指定史跡の天白遺跡がある事から縄文時代から人が住んでいたと思われる。奈良及び平安時代に入ると、都と伊勢をつなぐ拠点として交通網が整備されるようになる。伊勢神宮を訪れる人々が必ず松阪の地を通るようになったため、経済的発展を遂げた。原料の綿が伝来すると、綿の栽培に適していた松阪の地は一気に紡織技術が向上。海岸線で綿の栽培が行われ、「伊勢の綿が一番」と言われるほどの評価を獲得。農家には必ず機織り機があったとされ、農閑期に女性が木綿を織っていた。ゆえに木綿は現在でも松阪市の特産品となっている。
南北朝時代から約230年間は北畠家の支配下となり、九代に渡って統治。戦国時代に入っても戦火に焼かれる事は無く、農村一帯は至って平和だった。しかし1569年、織田信長率いる軍勢が伊勢に侵攻。北畠軍は篭城を選択し、戦火が及びかけたが、直前で和睦したため被害は無かった。
今の松阪市の基礎を作ったのは戦国武将の蒲生氏郷(がもううじさと)であった。1584年、松ヶ崎城の城主となった氏郷は城から約4km南にある森に新たな城を建築。築城を急ぐため松ヶ崎城から瓦を剥ぎ取って資材とし、1587年に完成。翌年氏郷が入城し、松ヶ崎の松と上司の豊臣秀吉が築いた大阪から阪の文字を取って松阪城と命名した。さっそく氏郷は城下町の整備にかかり、城の周りには武家を配置。その外周に松ヶ島城から移してきた神社を置いた。かつて織田信長に仕えていた氏郷は楽市楽座を真似て、日野や伊勢から有力な商人を誘致。続いて海岸線にあった参宮伊勢街道を城下に引き入れ、道に沿う形で商人を配置。これにより城下町に多くの人が集まるようになった。また敵への備えも怠っておらず、道路をギザギザの形にして見通しを悪くし、要所要所に防御拠点となる神社や寺院を置いて侵攻しづらいように整備していた。その後、氏郷は東北の奥羽地方に飛ばされてしまい、1590年に松阪の地を離れた。1595年に秀吉配下の服部一忠が城主となるが、秀次事件の連座で改易される。続いて近江日野から来た古田重勝が城主になる。
1600年、石田三成が挙兵すると重勝は東軍に参加。松阪城で鍋島勝茂率いる西軍を撃退する戦果を挙げた。1609年に重勝が病没すると、弟の古田重治が後継となった。そこから10年間は重治が統治していたが、1619年に石見国へ転出。入れ替わる形で徳川家康の十男頼宣が紀州藩主となったが、松阪城に城主は置かれなかった。
江戸時代では、徳川紀州藩伊勢領の本拠地になる。大阪商人、近江商人と並ぶ伊勢商人輩出の地で、三井家(のちの三井グループ)、長谷川家、小津家といった豪商が誕生。1644年から1681年にかけて大江戸に進出し、木綿を売って稼ぎまくった。伊勢神宮を訪れる人は必ず松阪を通るため、様々な情報が自然と集まり、それを伊勢商人同士が独自のネットワークで共有。時勢を的確に見抜き、莫大な金を儲けていたという。金持ちだった割には倹約家で、伊勢商人は質素な生活を好んだ。商売上手な近江商人と伊勢商人に嫉妬した江戸っ子は「近江泥棒、伊勢乞食」と呼んでいた。成功者が多いので、武士から商人に転向したケースもあったとか。1750年頃には、江戸に店を持つ豪商は50を超えた。伊勢商人と交友関係を結んだ江戸の文化人が伊勢神宮を参拝し、松阪で句会や歌会を行った結果、他にはない独特な文化が築かれた。また開発によって伊勢街道と和歌山街道が合流する地点となり、宿場町として発展。隆盛を極めていた。
1889年4月1日、町村制への移行で松阪城下にあった大小の村が合併。飯高郡松阪町が誕生した。しかし明治期の1893年3月26日に大火によって町屋1318棟が焼失。当時を偲ぶ姿は殆ど残っていない。松阪城も火事や台風の影響で破壊され、石垣のみ残っている有り様である。1909年、松阪公園で但馬地方から取り寄せた50頭の雌牛の品評会が開かれた。これが松阪における畜産の始まりで、松阪牛ブランドの第一歩だった。但馬地方などから買い取った子牛は自由に放牧させず、牛舎内で育成。穀物類を与えて肥えさせ、肉質を良くするマッサージやビールを飲ませるなど徹底した管理と環境で子牛は育てられた。その甲斐あって1923年、連合畜産共進会に出場した松阪牛が入賞。その後も飯南郡の村を合併して大きくなり、1933年2月1日に市へ昇格する。1935年、全国肉用畜産博覧会で松阪牛は最高の名誉賞を獲得し、全国に最高級ブランド松阪牛が知れ渡った。
大東亜戦争の戦況が悪化の一途を辿る1944年、松阪市の学生や教師は明野飛行場や四日市の造兵廠などに派遣され、様々な形で軍に協力。市内の中島飛行機にも大勢の一般人や学生が徴用されている。12月7日、東南海地震が発生。震源に近かった松阪市は大地震となり、地面が波打ったほどだった。かろうじて建物や電柱の倒壊は無かったものの、地下水を汲み上げるポンプが破壊され、井戸から人力で水を汲み上げる羽目になった。余震は何度も続き、人々の不安を煽った。帝國海軍の重要拠点があった四日市や日本の象徴的存在の伊勢神宮が近隣にあった事から、松阪もついでと言わんばかりに空襲を受けた。1945年2月4日14時頃、B-29爆撃機16機が襲来。目標は市内の中島飛行機工場で、焼夷弾数千発が投下されて3分の2が焼き払われた。このうちの一部が西風に流されて高田、久保、上川周辺に着弾。8人が犠牲となっている。この空襲で中島飛行機工場は一時機能を喪失したが、2月21日から作業再開。以降は松阪市を狙った空襲は無かったものの空襲警報は何度も発令され、サイレンが鳴り響くたびに工員は1km先の神社へ避難していた。市内に軍は駐留していなかったようで、我が物顔で飛び回る敵機を迎撃した様子は無かった。7月16日、松阪市上空で明野飛行場から出撃した五式戦闘機24機と、硫黄島から出撃したP-51戦闘機96機が30分に渡って交戦している。
1951年12月16日、二度目の大火で約700戸が焼失。さらに1953年9月20日、台風13号が発生。26日に潮岬に上陸し、三重県に甚大な被害を及ぼした(伊勢湾台風)。松阪市にも暴風と大雨が襲い、道路は冠水。道と畑の区別が付かないほどだった。戦後も吸収合併を繰り返し、ついには三重県下2位の広大な面積を持つようになった。2005年1月1日、嬉野町・三雲町・飯南町・飯高町を合併して改めて松阪市が発足した。12月22日には非核平和都市を宣言し、核兵器の廃絶と恒久的な平和を訴えている。これを機に毎年8月1日から15日にかけて、市役所や松阪公民館などで「戦争と平和を考えるパネル展」を行っている。
主な観光地
- 松阪市観光情報センター
観光地ではないが、こちらに記載。松阪駅の南口に位置するガラス張りの建物。観光案内所の看板が目印。問い合わせや経路案内を行う観光客の強い味方である。無料の散策マップや観光資料も揃っている。年中無休で、営業時間は9時から18時まで。
- 松阪城跡地
松阪駅から徒歩15分の場所にある四五百森(よいほのもり)の高台に位置する。現在は石垣だけが残っている。城祉は松阪公園として整備されており、桜の名所となっている。公園内には本居宣長記念館や歴史民族資料館などがある。
- 御城番屋敷(ごようばんやしき)
松阪市殿町にある観光スポット。松阪城跡地南側に位置している。元々は紀州藩士が住んでいた屋敷群で、現在は西棟北端の一軒のみが無料公開されている。ちなみに松阪駅から徒歩15分も掛かるため、意外と遠いのがネック。
- 旧長谷川治郎兵衛家(きゅうはせがわじろべえけ)
江戸期を代表する豪商の一人・長谷川家の邸宅。災害や大東亜戦争から奇跡的に残った数少ない邸宅であり、2016年7月に国の重要文化財に指定されている。拝観料は320円。松阪駅から徒歩10分。
- 樹敬寺(じゅきょうじ)
浄土宗のお寺で、江戸時代の古事記学者・本居宣長とその一族の菩提寺。
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt