サッカーブラジル代表 単語

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サッカァブラジルダイヒョウ

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サッカーブラジル代表とは、サッカーブラジルの代表チームである。称はセレソン(Seleção、代表の意)。ブラジルサッカー連盟(CBF)によって構成されている。

概要

サッカーナショナルチーム
ブラジル代表
基本情報
国旗
協会 CBF
大陸 CONMEBOL南米
FIFAコード BRA
FIFA加盟 1923年
監督 リーヴァ・ジュニオール
FIFAワールドカップ
出場 22回
最高成績 優勝(5回)
コパ・アメリカ
出場 37回
最高成績 優勝(9回)

FIFAワールドカップには1930 FIFAワールドカップの出場以降、すべて出場している一の代表チームである。FIFAワールドカップで歴代最多の5度、コパ・アメリカで9度の優勝を誇る南米の強であり、世界を代表する強豪国である。そのためサッカーとも呼ばれている。また、ペレジーコ、ロマーリオロナウドロナウジーニョといった歴史に残る名プレイヤーを数多く輩出しており、世界中のサッカーファンからの憧れの存在ともなっている。

ユニフォーム国旗黄色カナリア色)とを基調にしており、ホームはシャツがパンツ。かつてはユニフォームを着用していたが、後述する1950年に起きたマラカナンの悲劇がきっかけで現在黄色カナリア色)のユニフォームに変更された。そのため、今日に至るまでアウェイ用にもユニフォームは使用されていない。

民のサッカー熱も相当のものであり、攻撃的なサッカー優勝しないとファンが納得しない数少ないである。結果が出なければ中から苛なバッシングを浴びせられることになることから歴代の代表監督は相当なプレッシャーを受けながら仕事をこなしてきている。1990 FIFAワールドカップで守備的なサッカーを採用し、ベスト16で敗退となったセバスティアン・ラザロ監督は、帰後に危が加えられることを避けるために家族ともども自宅を引き払い身を隠すことを余儀なくされたという逸話がある。

南米におけるライバルウルグアイアルゼンチンであり、その中でもウルグアイとのライバル関係は非常にしい。

ブラジル内での試合開催はワールドカップ地区予選、アルゼンチンとの善試合「スーペルクラシコ」以外では年1回の善試合に限られている。それ以外はヨーロッパを中心にアウェー、もしくは中立善試合を開催している。

歴史

最初の代表チームの試合が行われたのは1914年で相手はイギリスクラブチームであった。初期のブラジル代表は常に世界トップレベルにある現状とは程遠く、ブラジルサッカー連盟内部でのプロ化に関する意見の不一致による内部紛争などので、代表チームの編成も不安定な状況にあった。南米選手権現在コパ・アメリカ)では1919年に初優勝、1922年に二度優勝を果たしているが、南米でもウルグアイアルゼンチンの二強に次ぐ勢という立ち位置にあった。

FIFAワールドカップには第1回の1930 FIFAワールドカップウルグアイ大会から出場。ボリビア戦で初勝利を飾ったものの、初戦でユーゴスラビアに敗れグループリーグ敗退に終わっている。続く1934 FIFAワールドカップイタリア大会にも出場するが、1回戦でスペインに敗れまたも期敗退に終わっている。

1938 FIFAワールドカップフランス大会ではこれまでよりも実をつけていた。このときのチームの中心にいたのは「ダイヤモンド」の異名を持つレオニダスで、1回戦のポーランド戦ではハットトリックの活躍で勝利に導くと、準々決勝のチェコスロバキア戦は審の怠慢なジャッジので3人が退場となる荒れた試合となり引き分けるが、再試合では2-1で勝利している。準決勝でイタリアに敗れるが、3位決定戦ではスウェーデンを下して3位入賞を果たす。7ゴール記録したレオニダス得点王にいている。

まだ粗削りな面は残ってはいたが、ブラジルは実をつけ始めており、傑出した個人技で相手を殴り倒すスタイルはすでに確立されていた。1年後にワールドカップ開催を控えていた1949年南米選手権では、1次リーグの7試合で39ゴール記録する爆発的な攻撃を発揮。事実上の決勝であるプレーオフパラグアイ戦でも7-0と大勝、27年ぶりの優勝を果たす。

開催の1950 FIFAワールドカップブラジル大会では、前年の南米選手権での圧倒的な強さもあって民からの大きな期待を背負っており、欧州勢の多くが第二次世界大戦傷跡を残していたこともあり下評でもブラジル優勝は間違いないと見られていた。1次リーグエースのアデミールの活躍で順調に勝ち抜くと、決勝リーグでもスウェーデンスペインに大勝し、初優勝前となっていた。しかし、事実上の決勝戦となったウルグアイ戦ではまさかの逆転負けを喫し、準優勝に終わる。この時ブラジル代表が敗れたショックショック死する人や自殺する人まで出た。この出来事はマラカナンの悲劇と呼ばれ半世紀経った今でも語り継がれている。当時9歳だったペレがこの試合後落ち込んでいた父親を「悲しまないで。いつかブラジルワールドカップ優勝させてあげるから」と励ましたというエピソードは有名である。

1954 FIFAワールドカップスイス大会は、アデミール、ジジーニョの両スター選手が欠場となったが、グループリーグ突破を果たし、準々決勝では優勝補筆頭であるハンガリーと対戦。攻撃的なスタイルの両者の対戦は多くのファンから注されたが、試合は両チームを合わせて3人が退場となり、試合終了後も喧嘩になるなど、「ベルンの戦い」と後に呼ばれるほど醜い試合となった。結果は2-4で敗れ、ベスト8敗退となる。

ブラジルが悲願の初優勝を果たしたのはガリンシャ、ジジ、そして17歳ペレを擁した1958 FIFAワールドカップスウェーデン大会であった。グループリーグではオーストリアイングランドソ連という倨傲いの組に入るが、2勝1分の首位で順調に突破。ペレが登場したのは決勝トーナメントに入ってからだった。ペレは初出場となった準々決勝のウェールズ戦でワールドカップゴール記録し、17歳239日という現在でも打ち破られていない大会最年少ゴール記録。準決勝のフランス戦ではハットトリックを達成し、決勝のスウェーデン戦でも2ゴール大車輪の活躍を見せる。スウェーデンを5-2で打ち破ったブラジルマラカナンの悲劇から8年後に初のワールドカップ優勝を達成することとなった。大会のヒーローとなったペレは「サッカー王様」と呼ばれ、世界的なスーパースターとなる。ちなみに、現在南米チームヨーロッパ開催のワールドカップ優勝したのはこのときのみである。

1962 FIFAワールドカップチリ大会では、ペレが大会中に怪で離脱するアクシデントに見舞われるが、前大会でも活躍したガリンシャがペレを埋めるのに十分すぎる異次元プレーを見せ、ブラジル勝利に導く。準々決勝はイングランドを、準決勝では開催チリを相手にそれぞれ大量ゴールを奪って圧勝。決勝では、グループリーグでの対戦では引き分けチェコスロバキアを3-1で下し、1938年大会のイタリア以来となるワールドカップ連覇を達成。ちなみに6人が並んだ得点王のうちガリンシャとババの2人がブラジルの選手だった。

1966 FIFAワールドカップイングランド大会ではペレガリンシャが悪質なファウルによって潰されたこともあり、ポルトガルハンガリーに抑えられて3位となりグループリーグで敗退となる。このときのファウルペレワールドカップへの参加拒否を口にするほど悪質なものであり、これがきっかけでFIFAラフプレーを防止すべくイエローカードレッドカードの導入を決定した。

1970 FIFAワールドカップメキシコ大会では、これが最後のワールドカップとなったペレを中心にリベリーノ、ジェルソン、トスタン、ジャイルジーニョ、クロドアウドといった最強の攻撃を擁し、歴代のブラジル代表の中でも見られなかった程の攻撃的なサッカーで他のチームを圧倒していく。このときのペレは周囲のタレントを生かすゲームメーカー役を務めており、ジャイルジーニョは初戦から全試合でゴールを決めるという快挙を成し遂げた。守備面も若きカルロス・アウベルトを中心にまとまっており、文字通り他を寄せ付けない盤石の勝ち上がりを見せていた。決勝のイタリア戦でもペレの1ゴール2アシストの大活躍によって圧勝し、前人未到の3度優勝を果たす。これによって史上初のジュール・リメ杯の永久所持が認められた。なお、この1970年大会では本大会のみならず、南米予選でも全試合に勝利するという大会史上一の記録を打ち立てている。さらに監督を務めたマリオ・ザガロは、選手・監督の両方でワールドカップ優勝を経験した史上初の人物となった。この1年後、ブラジルに数々の栄をもたらした王様ペレは、マラカナン・スタジアムで代表を引退する。

ペレがいなくなって最初のワールドカップとなった1974 FIFAワールドカップ西ドイツ大会では、ペレ背番号10を引き継いだリベリーノが東ドイツ戦で見事なFKを決めるなど奮闘するも、前回とべてチームが低下したことは否めず、2次リーグヨハン・クライフ擁するオランダ敗。3位決定戦でもポーランドに敗れ、4位に終わる。

1978 FIFAワールドカップアルゼンチン大会では、敗のまま2次リーグを終えるが、得失点差で開催アルゼンチンに及ばず決勝進出は果たせなかった。3位決定戦ではイタリアを倒し、3位で終える。

1982 FIFAワールドカップスペイン大会ではジーコソクラテスファルカントニーニョ・セレーゾの所謂「黄金カルテット」を擁し大きな期待が寄せられた。1次リーグから技巧的なパスワークと攻撃世界中のサッカーファンを魅了しながら3連勝を飾る。大会前半戦の話題はほぼブラジルが独占していた。しかし、2次リーグ初戦ではディエゴ・マラドーナのいるアルゼンチン勝利したものの、第2戦のイタリア戦でパオロ・ロッシハットトリックを決められ敗退。このときのチームは「ブラジルサッカー史上、最も多くの人々を魅了したチーム」として語り継がれているが、同時に「面サッカーをしたチームが勝つとは限らない」という代表例として挙げられることも多い。

1986 FIFAワールドカップメキシコ大会ではエースジーコが負傷を抱える厳しい状況の中でもカレッカの活躍によって準々決勝まで勝ち進む。準々決勝ではミシェル・プラティニ擁するフランスとの事実上の決勝と言われた黄金カードが実現。後半に投入されたジーコが自らのスルーパスで得たPKを自ら蹴るが、これを失敗。死闘の末、PK戦で敗退。ベスト8止まりとなる。

コパ・アメリカ1989では、伝統の4バックから3バックシステムを導入し、ベベットとロマーリオの2トップの活躍によって1949年以来40年ぶりの優勝を飾る。しかし、1990 FIFAワールドカップイタリア大会ではベベットとロマーリオは控えに追いやられ、ラウンド16で宿敵アルゼンチンの前に敗れて敗退。このときのセバスティアン・ラザロ監督の守備的な采配は批判の的となった。

1994 FIFAワールドカップアメリカ大会ではドゥンガ&マウロ・シウバダブルボランチを採用した守備的な布とロマーリオベベットの強2トップの決定で勝ち進む。ラウンド16では開催アメリカの予想以上の抵抗に苦しみ、レオナルドが退場となるアクシデントもあったが辛くも勝利している。決勝ではイタリアとのPK戦を制し、24年ぶりとなる4度優勝を飾る。カルロス・パレイラ監督チームバランス重視で「黄金カルテット」程の人気いが、10番に依存しない代わりにサイドバックの攻撃参加を重視した戦術など、後のサッカー界にを与えたチームでもある。また、この年の5月民的英雄だったF1アイルトン・セナ事故死しており、チームは試合前には選手同士が手をつないで入場し、決勝戦後にはセナへのメッセージを書いた横断幕を掲げた。

アメリカワールドカップ後、1970年大会で優勝に導いたマリオ・ザガロ監督に復帰。ロナウドリバウド、ロベルトカルロスといった新戦が台頭するようになる。コパ・アメリカ1997ではロナウドとロマーリオの「ROROコンビ」が猛威を振るい二人合わせて9ゴール記録グループリーグ初戦から全勝という衝撃的な強さで優勝する。同年のFIFAコンフェデレーションズカップ1997の決勝オーストラリア戦では、ロナウドとロマーリオってハットトリックという偉業を成し遂げ、初優勝を成し遂げる。

優勝補の大本命と見られていた1998 FIFAワールドカップフランス大会では、大会直前にロマーリオが落選するという衝撃が走りながらも、エースの重責を背負った怪物ロナウドを中心にリバウド、ベベットの攻撃も随所に結果を残す。準決勝のオランダ戦はロナウドゴールで先制しながら後半終了間際に追いつかてしまう。試合後に監督ザガロが思わずを流すほどの闘となったが、最後はPK戦の末に勝利し、ぐ2大会連続で決勝まで進出する。ところが、決勝では直前に体調を崩し強行出場したロナウドが不調だったことがし、ジネディーヌ・ジダンを擁する開催フランスの前に惨敗。準優勝に終わる。大会後、ロナウドを出場させたザガロの判断が物議を醸す。

ヴァンデルレイ・ルシェンブル監督の下で再スタートを切ったブラジルは、1999年リバウドの活躍でコパ・アメリカ連覇を達成。ところが、その後エースロナウドが大怪で長期離脱したことがワールドカップ南米予選では低調な戦いが続く。さらには脱税疑惑が浮上したルシェンブルコが解任。後任のエメルソン・レオン2001年FIFAコンフェデレーションズカップで低調だったことにより解任になり、初のW杯予選敗退の危機に立たされる中で監督に就任したルイスフェリペ・スコラーリのもとで何とか本大会出場にこぎつける。

2002 FIFAワールドカップ・日大会では南米予選で苦戦し、代表復帰が期待されたロマーリオがまたしても落選したこともあって期待値は低かったが、本大会では3Rロナウドリバウド、ロナウジーニョ)を擁した攻撃が機グループリーグでは3試合で11ゴール記録して突破すると、決勝トーナメントに入っても3Rの3人がそれぞれ結果を残し、ロナウジーニョを出場停止で欠いた準決勝のトルコ戦もロナウドの奪った1点を守り切り、危なげなく3大会連続での決勝進出を果たす。決勝でもこれまでワールドカップでは一度も対戦したことのなかったドイツを相手にロナウドが今大会の最優秀選手に選ばれたオリバー・カーンから2ゴールを奪って勝利し、開幕から全勝で史上最多となる5度優勝を果たした。波乱続きだった大会で最後まで好調だった3Rは、3人合わせて15ゴールを稼ぐなど爆発的な破壊を見せつけた。なお、この大会で大活躍のロナウドだが、「大五郎ヘア」と呼ばれた奇抜な髪型話題となった。

2006 FIFAワールドカップドイツ大会ではロナウドロナウジーニョカカ、アドリアーノの「カルテット・マジコ」を擁し、優勝大本命と見られていたが、準々決勝でまたもジダンを擁するフランスの前に屈してしまう。特にこの大会の補と見られていたロナウジーニョ得点に終わるなど大きな期待外れに終わり、戦犯としてファンメディアからの批判された。

ドイツワールドカップ後、ドゥンガ監督に就任。厳格なドゥンガは若手を積極的に起用する一方で規を乱しがちなロナウドロナウジーニョ、アドリアーノらを除外した。コパ・アメリカ2007では決勝で宿敵アルゼンチン相手に快勝し連覇を飾る。2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会でも堅実なスタイルで戦うが、準々決勝でオランダ相手に逆転負けを許し、2大会連続でベスト8敗退となる。

64年ぶりの開催となった2014 FIFAワールドカップブラジル大会ではエースネイマールの活躍もあり順調にグループリーグを突破。決勝トーナメントに入ってからはチリコロンビア南米勢同士の対戦が続くが、苦戦しながらも3大会ぶりのベスト4進出を果たす。しかし準々決勝のコロンビア戦でネイマールが負傷離脱、キャプテンチアゴ・シウバが累積警告で出場停止を受けると、準決勝でドイツ代表を相手に1-7歴史的な大敗を喫することになる。特に前半23分に2失点を許してからの6分間で4失点を喫するという、ブラジルにとっては悪夢というしかない惨劇だった。この出来事はミネイロンの惨劇と呼ばれており、試合後には代表へのしい非難や暴動などが多発した。3位決定戦でも前回敗退に追い込まれたオランダを相手に0-3と敗し、最終的に4位に終わる失意の大会となってしまい、「王」と呼ばれたブラジルブランドが脆くも崩壊したことを印付けてしまった。

同じく自開催となった2016年リオデジャネイロオリンピックでは、最初の2試合を格下相手に連続ドローという不穏なスタートとなったが、徐々に調子を上げるようになると、決勝トーナメントに入ってからはオーバーエイで出場したネイマールの活躍によって勝ち上がる。決勝のドイツ戦はPK戦までもつれるが、最後のキッカーとしてネイマールがきっちりと決め、悲願だった初の金メダルを獲得。

2018 FIFAワールドカップロシア大会では、初戦のスイス戦こそ引き分けたものの、コスタリカ戦とセルビア戦に勝利し首位でグループリーグを突破。ラウンド16ではメキシコ相手に快勝し、ようやくエンジンがかかってきたと思われたが、準々決勝では黄金世代を擁するベルギーの高速カウンターの前に沈み、ベスト8で敗退となる。また、この大会ではネイマールの相手チャージに対する過剰演技が何かと話題になった(転がるネイマール)。一方、コパ・アメリカ2019ではネイマールを怪で欠きながらも、13得点1失点という盤石の戦いぶりによって3大会ぶり9回ぶりの優勝を果たす。

2022 FIFAワールドカップカタール大会は南米予選を敗の首位で突破し、優勝補の大本命とされていた。グループリーグ初戦のセルビア戦でネイマールが負傷、第3戦のカメルーン戦で24年ぶりにグループステージが付くなどの問題はあったが、首位でグループリーグを突破。準々決勝のクロアチア戦では、苦戦しながらも延長前半にネイマールゴールを決まるが、延長後半に同点に追いつかれてしまう。PK戦ではロドリゴとマルキーニョの2人が失敗し、またしてもベスト8で敗退となる。

主な戦績

FIFAワールドカップ
優勝(1958, 1962, 1970, 1994, 2002)
優勝(1950, 1998)
3位(1938, 1978)
ベスト4(1974, 2014
ベスト8(1954, 1986, 2006, 2010, 2018, 2022)
2次リーグ敗退(1982)
ベスト16(1990
グループリーグ敗退(1930, 1966)
1回戦敗退(1934)
コパ・アメリカ
優勝1919, 1922, 1949, 1989, 1997, 1999, 2004, 2007, 2019
優勝(1921, 1925, 1937, 1945, 1946, 1953, 1957, 1959, 1983, 1991, 1995, 2021)
3位(1916, 1917, 1920, 1942, 1959)
ベスト4(1923, 1956, 1963, 1975, 1979)
ベスト8(1993, 2001, 2011, 2015
グループリーグ敗退(1987, 2016
FIFAコンフェデレーションズカップ
優勝(1997, 2005, 2009, 2013
優勝(1999
ベスト4(2001
グループリーグ敗退(2003

世代別の戦績

オリンピック
優勝2016, 2020)、準優勝1984, 1988, 2012)、3位(1996, 2008
FIFA U-20ワールドカップ
優勝(1983, 1985, 1993, 2003, 2011
優勝(1991, 1995, 2009, 2015
3位(1977,1989,2005
FIFA U-17ワールドカップ
優勝(1997, 1999, 2003)、準優勝(1995, 2005)、3位(1985)

主な代表選手

(※太字はワールドカップ優勝メンバー

2022 FIFAワールドカップ・カタール大会メンバー

歴代代表監督

太字はワールドカップを戦った監督赤字ワールドカップ優勝監督

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