日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日に日本航空(JAL)所属のボーイング747型機が群馬県多野郡上野村の山中に墜落した航空事故である。
発生日 | 1985年8月12日 |
場所 | 群馬県多野郡上野村・高天原山「御巣鷹の尾根」 [1] |
搭乗者 | 524名 (乗員数:15名、乗客数:509名) |
死者 | 520名 |
生存者 | 4名 |
単独機の航空事故として世界最悪の犠牲者数である。また複数機の事故を含めても、1事故での死者数は1977年のテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故に次ぎワースト2である。
その事故の規模の大きさから、単に日航機墜落事故や日航ジャンボ機墜落事故と言った場合この事故をさすほどである。今でも123便・日航機事故といえばこの事故の事を思い浮かべる人が多いほど、人々の記憶に強くその名を刻んでいる。
事故当日はお盆の帰省シーズンの月曜日で、ビジネス客の他、当時開催されていたつくば科学万博や東京ディズニーランドからの帰り客がいたことなどからほぼ満席となっており、乗員乗客524名が搭乗していたが墜落によりその内の520名が犠牲となった。
犠牲者には歌手の坂本九、元宝塚歌劇団の北原瑤子、阪神タイガース社長中埜肇、ハウス食品社長の浦上郁夫、コピーライターの藤島克彦ら数名の著名人や、甲子園球場で行われていた夏の高校野球を見に1人で搭乗していた小学生なども含まれている。
事故の前日には東京でコミックマーケットが開催されており、コミケ帰りに事故に遭った参加者や、同人作家の緋本こりんもこの事故で亡くなっている。
当日のJAL123便の運航乗務員は、以下の通り。
通常、機長はコックピットの左側の席に、副操縦士が右席に着席するが、当日のJAL123便では機長昇格訓練実施の為、通常とは逆に訓練生の佐々木副操縦士が左席に、訓練教官の高濱機長が右席に着席していた。
当日のJAL123便(B747SR、JA8119)はほぼ定刻通りの18時04分に羽田空港を出発、12分に離陸。予定通りの航路を飛行していた。
しかし離陸して約12分後、航空機内の気圧を維持する後部圧力隔壁が破損。この際の衝撃で垂直尾翼を失うと同時に、油圧管が全て破損した事で油圧を喪失。油圧系、すなわち操縦桿を用いた機体の制御が完全に不可能な状態へ陥った。この事態にパイロットは緊急事態を宣言(スコーク77: トランスポンダの状態番号を「非常事態」を示す7700に設定)すると同時に、即座に羽田へ戻る事を管制塔へ要請。また通信を聴いた米軍横田基地も最優先で123便を受け入れる準備を整えた。パイロットはエンジンの出力調整などの限られた手法を用いて必死に機体を制御して羽田へ向かおうとしたが、尾翼を失ったことによって安定性が失われ、ダッチロールとフゴイド運動が激しくなりつつあった機体は徐々にコントロールを失い、群馬県の山岳地帯へ向かい始める。
なおも諦めずに制御を続けたが、異常発生の約30分後に右主翼と機体後部が立ち木(報告書では「一本から松」と仮称)と接触。この際の衝撃で第4エンジンが脱落。直後に稜線(報告書では「U字溝」と仮称)に激突して第1、第2、第3エンジンが脱落、機体後部が分離した。この脱落した後部は尾根に沿って滑落、衝撃が少なく火災に巻き込まれることはなかった。これが奇跡的に生存者を生み出す要因となる。最早飛行機とは呼べない状態となりながらも数秒間飛び、18時56分、群馬県と長野県の県境の御巣鷹の尾根 (御巣鷹山ではなく高天原山(たかまがはらやま)山系に位置する尾根) に引っくり返るような形で墜落。機体は原型を留めない程に破壊され、爆発炎上した。
墜落直前、上昇を試みてエンジン出力を上げていた状態で地面に衝突したため、墜落時の速度はおよそ350kt(時速650~700km/h)、その衝撃は数百Gと推定される。
8月14日に発見された操縦室音声記録装置(コックピットボイスレコーダー、CVR)には異常発生から墜落の直前の音声までが鮮明に記録されており、コクピット内でクルー達が舵の効かなくなった機体を必死に立て直そうとする様子や、機長が他のクルーを励ます様子、また客席内の音声からは異常事態の中でも冷静を保ち続けた客室乗務員達の様子を伺い知ることができる。しかし、最後に記録された音声は墜落時刻の約10秒前、対地接近警報装置(GPWS)の警告音声が流れる中に記録された、機長の「もう、だめだ!」という断末魔の悲鳴であった。
当時のCVRは30分のエンドレステープであるが、テープに余分があったため、異常事態発生直前から墜落までの一部始終が上書きされる事なく、すべて記録されていた。
18:12 | 羽田空港を離陸 |
18:24:35 | 爆発音と共に圧力隔壁破損。垂直尾翼と油圧を喪失する。 |
18:24:47 | 緊急信号を発信。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市 以下、東京ACC)がこれを受信。 |
18:27 | 東京ACCより緊急事態宣言をするかの最終確認。123便、緊急事態を宣言する。 |
18:28 | 123便より操縦不能の無線連絡。この時、初めて地上は123便が操縦不能と知る。 |
18:31 | 東京ACCより小牧市・名古屋空港への着陸を提案されるが123便は小牧が市街地にある事と滑走路の長さを勘案し、羽田へ引き返す事を要請。 東京ACC側もこの要請を承認すると共に、通常は英語で行われる交信に日本語を使用する事を許可。 |
18:45 | 交信を聞いた米軍横田基地より、123便へ支援の申し出があるが123便はこれを断る。 |
18:53 | ACCより123便を呼び出すも、「アンコントロール(操縦不能)」とのみ返答。 東京アプローチ(以下、東京APR)へ無線の変更を指示し、123便もこれを了承。 また米軍横田基地は123便の緊急着陸受入準備を完了させる。 |
18:54 | 123便より「リクエストポジション(現在地を知りたい)」との要請あり。 東京ACCが「羽田から55マイル北西、熊谷より25マイル西」と返答。 |
18:55 | 東京APRより「羽田と横田に貴機は最優先で着陸可能である」との無線連絡。 機関士が「はい了解しました」と返答。これが123便から発せられた最後の言葉となった。 |
18:56:14 | 対地接近警報装置(GPWS)作動。 |
18:56:21 | 機長らしき声で「もう、だめだ!」と聞き取れる音声。これがCVRに残された最後の言葉である。 (事故報告書には内容判別不能として記載されず) |
18:56:23 | CVRに最初の衝撃音。右主翼と機体後部が地面をかすった、あるいは樹木に 接触したものと推測されている。 |
18:56:26 | 二度目の衝撃音。右主翼が地面を抉るように接触し完全にコントロールを失う。 |
18:56:28 | 機体後部が分離し、先に墜落。CVRにはここまでの音声が記録されている。 |
18:56:30 | 123便墜落。 |
墜落後、消防・警察などにおいて救助体制が整えられ、第一空挺師団など自衛隊も出動準備を整えたが、日暮れの時間帯であったことや、墜落場所が山岳地帯であったことなどから墜落場所の特定に難航。さらに車両などが接近できないため、現場までは徒歩で移動せざるをえなく、最初の救助隊(地元の消防団)が墜落現場に到着したのは夜が明けてからであった。
現場は爆発の影響により周囲が焼け焦げ、見る影も無く破壊された機体の残骸や乗客の遺品、そして墜落の際の激しい衝撃により激しく損傷した乗客の遺体が散乱しており、想像を絶する凄惨な状態であった。
現場に入った救助隊や報道関係者、上野村の住民の証言によれば「木の枝だと思ったら、焼け焦げた人間の腕だった」、「地面の土が人の血でぬかるんでいた」、「一面に肉の焼け焦げた匂いが漂っていた」、「現場にカラスが集まり遺体の肉片をついばんでいた[2]」、「帰ってからしばらく食事が喉を通らなかった。肉の焦げ目を見るだけでも吐き気がした」。
しかしその絶望的な光景の中から奇跡的に4人の女性の生存者を発見。彼女達は皆、先述した機体後部にいた為に難を逃れた。生存者は自衛隊のヘリコプターにより救助され、その救助の際の映像はこの事故を象徴するシーンとして、多くの人の記憶に残っている。
機体後部の犠牲者の遺体は損傷の少ない状態で発見された方も多く、生存者の証言によれば墜落直後はさらに生存者がいたとのこと。また検視に当たった医師も「もっと早く救助できていれば、さらに多くの人を助ける事ができた」と語っている。
生存者の発見後は、犠牲者の遺体の収容作業が開始された。しかし先述したように墜落の衝撃・爆発炎上により犠牲者の遺体は激しく損傷。男女の区別もつかないほどに焼け焦げたもの、四肢が断裂してバラバラになったもの、遺体に別の遺体がめり込んでしまったものなど、想像を絶するような凄惨な姿の遺体が数多く収容されたという。遺体判別に従事した看護師は「今でも(デパートに置いてある)首の無いマネキンを見ることが出来ない」と話している。
DNA鑑定も確立されていなかった当時の技術では身元の確認作業も困難を極め、最終的に4ヶ月の期間が費やされたものの、約400の遺体片はついに最後まで身元が分からなかった。犠牲者の中の坂本九は頭部や四肢が断裂した胴体のみ、普段から身に着けていた笠間稲荷神社の御守りが体内にめりこんでいた事から特定できたという。懸命な努力を続けた高濱機長は下顎の骨の一部(歯5本)のみが歯科診療記録によって本人のものであると確認されたという。遺体が安置された体育館には強烈な死臭が漂い、後にクリーニングを実施するも異臭が取れずに体育館を取り壊して移転したほどである。
事故当時、可能な限りの遺留品の回収及び遺体の収容が行われたが、事故から相当な年月を経た後に、それらの一部と思われるものが発見されている。これは墜落の衝撃で地中深く埋まった残骸が、冬場長さ20センチメートルにもなる霜柱により春になって地面に露出したものである。事故から25年経った2010年の夏にもかなり大きな機体の残骸が見つかった。
直接的な原因は金属疲労による後部圧力隔壁の破損によるものだが、これは過去の修理が不適切なものだと判明した。
1978年(昭和53年)、伊丹空港で着陸時に機体後部を滑走路に擦り付ける「しりもち事故」を起こしていた。その際、後部圧力隔壁を含む機体後部が破損した為、ボーイング社の技師によって修理されていた。その修理にミスがあったのだ。
この修理では、破損した隔壁下部のバルクヘッドを交換し、上部のバルクヘッドをつなぎ合わせる形を取った。その際、2枚のバルクヘッドの間に「スプライス・プレート」と呼ばれる縦3列分のリベット穴が開いた結合板が1枚挟み込まれ3列のリベットで止める。こうする事で、結合板を介して上部に2列分のリベットが効き、下部にも2列分のリベットが効く。これが正しい修理方法である。
ところが、その結合板が2枚にカットされていた。この機材の場合、上部にリベット2列分、下部に1列分の2枚。これでは1列分のリベットしか効かず接続強度が不足し金属疲労を早めてしまう。
その状態で7年間飛び続けた上点検でこれらの異常を発見できなかった為、金属疲労が加速。遂に限界に達し後部圧力隔壁の破壊に繋がった。
上記の人物のうち、明石家さんま・逸見政孝・稲川淳二・ジャニー喜多川らは同便に乗る予定だったが、何かの偶然によりたまたま搭乗を回避している。また、JA8119が事故を起こす直前のフライトだった福岡空港発羽田行のJAL366便にも、運輸大臣や阪神タイガースの選手が乗っていた。
また、一般客も例外ではない。事故当日、滅多に遅延が生じないはずの東京モノレール(当時、京急空港線は羽田空港内まで乗り入れていなかった)が何故か遅れ、123便に乗り遅れて結果的に助かった人がいた。しかしその一方で、キャンセル待ちが成功して123便に乗り込み結果的に命を落とした人もいた。
当時JALがスポンサーとなっていた長寿クイズ番組「アップダウンクイズ」の打ち切り、再放送中だった日本航空を舞台としたドラマ「スチュワーデス物語」の放映を中止するなどの自粛が取られた。当然、CMも自粛のうえ、看板等の広告も撤去された。
また、JALは、東京都大田区の羽田空港整備地区に事故の遺品を展示した施設「JAL安全啓発センター」を開設(最寄は東京モノレール羽田空港線・新整備場駅)。社員研修が主な目的となっているが、予約さえすれば社員でなくとも入場可能。
この事故で、羽田~伊丹線「JAL123便」は事故の半月後から事実上欠番となっており、現在では123便と対をなす「JAL122便」も欠番となっている。(ただし全日空では便名に123を現在も使用している)
事故から15年後の2000年4月17日、JALは同年5月15日から電話音声認識による国内線の空席案内サービスを始めるプレスリリースを出した[3]。そのフリーダイヤルは「0120-747-123」である。いうまでもなく、747は当該事故機体、123は当該事故便名である。
123便をフライトプランからは欠番にこそしたものの、15年ぶりに123という数字を乗客の触れる箇所に復活させたことによって改めて二度と事故を忘れない・起こさないという強い決意を感じさせることとなった。
飛行機墜落事故はトラブルが発生してからおよそ5分程度で墜落するのが一般的だが、JAL123便ではトラブル発生から30分以上も飛行していた。このことから舵面が失われた場合でもエンジンコントロールである程度機体制御が可能であることが、航空業界で認知された。
4年後の1989年に同様の機体破損で発生したユナイテッド航空232便事故(DC-10)の際は、乗客として乗り合わせていたユナイテッド航空の訓練教官がこの事故を教訓としたシミュレータ訓練を積んでいたおかげで、なんとか機体を制御することに成功し、空港へたどり着くことに成功している。
残念ながら着陸直前に横風で機体の安定を損ない、滑走路に激突・炎上しながら不時着する形になったため、全乗客の1/3強に当たる296名中111名の死者が出たものの、残る185名は地上救護班の必死の救助作業も奏功して生還している。
また、2003年にはDHLの貨物便(エアバスA300)がテロリストによるミサイル攻撃を受け、同様に油圧系を喪失する事件が発生したが(DHL貨物便撃墜事件)、同様にエンジンコントロールのみでバグダード国際空港へ帰還、全員生還に成功している。
これらの事故を受け、NASAは舵面喪失状態に対応できる自動操縦システムの開発を試み、実際に安全な着陸が可能なものの試作に成功している。しかしながらあまりにも高コストなシステムとなること等から実用化は見送られたとのこと。
また、2000年以降に設計された大型機(A380・A350・B787)では全油圧パイプが完全破断に陥った場合でも、可動部の各油圧ピストンに横付けされた電気ポンプを直接稼働させ操縦ができる構造になった。
阪神タイガース球団社長中埜肇(なかの・はじむ)も犠牲になった。これにより亡き社長へ優勝を手向けようと関係者が奮起したことが、この年の阪神タイガース優勝を招いたともいわれている。現にこの時のウイニングボールは中埜の霊前に手向けられているとのこと。また、球界ではこの事故で中埜が帰らぬ人になったことを重視し、JALでの移動は控えられ、さらに時間的余裕がない、飛行機でしか行くことができないなどの特別な事情がない限り空路での移動は行われないことになった。
事故からちょうど20年後の、2005年8月12日には、JALウェイズの旅客機(マクドネルダグラスDC-10)に事故が再び起きている。
福岡空港を離陸した直後に右エンジンが炎上したというものであった。
幸い操縦士がこれに気づき、右エンジンを停止し燃料を消費した上で緊急着陸に成功。乗員乗客に1人の負傷者も出さなかった。
事故からちょうど32年後の2017年8月12日に、ANA37便が墜落こそしなかったものの緊急着陸をする事態に見舞われ、トラブルの原因や発生時刻・発着地、さらにはスコーク77の発信など状況がほぼ一致した。
機長は緊急事態宣言(エマージン)を宣言して羽田に引き返し、無事に着陸した。
123便は右旋回していたが当機は左旋回して羽田空港に戻った。
緊急着陸後、女性一人が体調不良を訴えたものの幸いけが人などは出なかった。
まさに8月12日は飛行機事故などが多いという記事も見られた。
8月12日の羽田発伊丹行の飛行機は用心しておいた方が良いかもしれない。
123便の事故からまもなく35年を迎えようとする2020年8月6日の未明、成田空港で駐機していた便に永久欠番であるはずの「JL123」という便名が表示されたのだ。これはTwitterユーザーが飛行機の位置情報を開示しているサイトである「Flightradar24」を閲覧した際に偶然見つけてしまったもの。
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https://twitter.com/m3600/status/1291027498533191681
これは様々な憶測を呼び、Twitterでは1万リツイートを越え、メディアも取り上げるほどの騒ぎになった。JALへの取材によると、これは整備の過程で管制との無線通信のテストを行うために仮の便名を設定する必要があったので、適当に「0123」と連番を打ち込んだら123便として処理されてしまった、ということだそう。なお、この便はその後「JL711」としてシンガポールへ向けフライトしている。
「日本航空では、2年に1度、航空機と管制塔が情報をやりとりする機能をテストしている。その際には実際に航空機と管制塔を電波でつなぎ、航空機の位置情報を確認する。テストに用いるフライトナンバーのルールは特に定めておらず、連番で入力が簡単なJAL0123を使用した」
と回答している。
また、一部ではこの事案について123便の教訓が風化しているのではないか、という懸念の声もあった。
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最終更新:2025/01/22(水) 04:00
最終更新:2025/01/22(水) 04:00
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