U-196とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD2型Uボートの1隻である。1942年9月11日竣工。通商破壊で3隻撃沈(1万7739トン)の戦果を挙げた。1944年12月1日以降スンダ海峡で行方不明となる。
IXD2型とは、前級IXC型以上に作戦範囲の拡大を目指した長距離航洋型Uボートである。これまでのIX型とは全く違う船体と設計を持ち、排水量も1600トン以上と、日本海軍の海大型に迫る巨躯を誇る。
まず最初にIXD1型が建造されたが、搭載していたメルセデス製魚雷艇用エンジンの信頼性が低かったため、IXD2型では、IXC型と同一のMAN社製M9V40/46ターボチャージドエンジン2基に戻し、新たに低速巡航用のMWM社製RS34/5S巡航用ディーゼル2基を搭載。これによりフランスからインド洋やオーストラリア近海まで長駆出来る長大な航続距離を獲得した。またIXC型より船体を10m延伸して燃料搭載量を増大させている。補助用ディーゼル発電機と電動モーターを同時駆動させる事で、水上速力19ノットを発揮。
甲板砲には10.5cmシフスカノーネC/32砲を採用。360度旋回可能、23kgの弾丸を最大1万5300m先まで発射出来るこの砲は操作に3名の人員を要する。戦況が不利になるにつれ、各種Uボートから甲板砲が撤去されたが、IX型のみ何故か最後まで搭載され続けていた。後甲板には強力な重対空砲である3.7cm Flak M/42単装機関砲を装備。IXD2型はVIIC型より大型なので更に2cm Flak38連装機関砲を装備、Flak38はFlak30の改良型にあたり、3倍以上の発射速度を誇る。魚雷の代わりに最大48個のTMA機雷を搭載する事も可能。
航洋型Uボートの完成形とも呼べるIXD2型は合計28隻生産された。
U-196はIXD2型の中で唯一10.5cm Utof砲2門を前後甲板にそれぞれ装備。通常のUボートであれば110~150発のところ、U-196には240発の砲弾が搭載されていた。ケントラット艦長の証言によると、対空戦闘では全く役に立たなかったが、戦争末期のインド洋ではIX型の殆どが甲板砲を撤去していた背景もあり、味方のUボートからは識別用のマークとして大いに役立ったという。
またUボート史上最長の戦闘航海記録(225日間)をも有している。写真が不鮮明のため判別は難しいが、ウィンターガルテン型司令塔を持ち、37mm単装機関砲と20mm連装機関砲2基を搭載。
諸元は排水量1616トン、全長87.6m、全幅7.5m、最大速力19.2ノット(水上)/6.9ノット(水中)、燃料搭載量389トン。兵装は21インチ艦首魚雷発射管4門、同艦尾魚雷発射管2門、45口径10.5cm単装砲2門、37mm単装機関砲1基、20mm連装機関砲1基(改装後は2基に増備)。
1940年11月4日、ヤード番号1042の仮称でAGヴェーザー社ブレーメン造船所に発注。大型航洋Uボートの建造は急務だったので優先的に資材が割り当てられ、1941年6月10日に起工、1942年4月24日進水し、ディーゼル機関2基、魚雷発射管、甲板砲などの搭載作業を行ったのち、9月11日に無事竣工を果たした。初代艦長にアイテル・フリードリヒ・ケントラット少佐が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。
ケントラット艦長はU-8とU-74の艦長を務め、7隻の撃沈戦果を挙げ、第1級鉄十字章、騎士十字章、Uボート戦闘章の授与経験もあるいぶし銀のベテランであった。乗組員は全員ドイツ人で、外国人志願兵が乗艦した記録は無い。
9月14日午前11時より港内で潜航試験を実施してこれをクリア。ブレーメンで自主訓練と残工事を片付けた後、カイザーヴィルヘルム運河とブルンスビュッテルを経由してキール軍港に回航、9月24日午前8時40分から急速潜航、急速浮上、演習用魚雷の発射テストを行った。9月28日にはハイケンドルファー湾で機雷敷設訓練に従事。10月6日の時点でレーダーシステムを除く全ての試験を完了。
10月11日キールを出港してシュヴィーネミュンデに回航。次いでダンツィヒへ寄港し、訓練及び整備の拠点となる宿泊船イベリアの右舷側に横付けして午後から船内清掃を行った。10月30日からは訓練支援船バースⅡの助力を受けながら、ゴーテンハーフェンで第25潜水隊群と魚雷発射訓練や急速潜航訓練を行い、それが終わるとヘラ半島で陸上戦術訓練に従事、11月23日14時58分、ダンツィヒへと戻って宿泊艦ドイッチュラントを拠点に砲雷撃訓練を行う。一通りの慣熟訓練を終えたU-196は12月21日22時にブレーメンへ帰投。翌日より造船所で入渠整備を受ける。
1943年2月15日出渠。海上公試、最終調整、食糧積載を行ったのち、2月27日キールで甲板砲の射撃試験とトリムテストを実施、そして3月2日から5日にかけて造船所で消磁作業を受けて出撃準備を整えた。現存する写真からこの時点で既にFuMB-1 メトックスが装備されていた様子。
1943年3月13日午前8時キールを出撃、午前11時30分にU-664と合流し、グレートベルト海峡とスカゲラク海峡を通過、14日19時35分より15日午前6時までマルヴィケンで燃料補給を受け、ノルウェー西岸に沿って北上していく。道中では訓練がてら急速潜航を繰り返した。
カール・デーニッツ提督はインド洋で3回目の攻勢をかけるべくU-196、U-177、U-178、U-181、U-195、U-197、U-198にインド洋まで長駆するよう命令を下す。IXD2型には補給無しで大西洋を越えられるほどの長大な航続距離があったのだ。一方、U-196は積極的な通商破壊よりも、遠隔地での偵察や耐久試験を重視するよう命じられていたようで、試験艦的役割が強かったとされる。
アイスランド・フェロー諸島間に差し掛かった3月20日15時8分、浮上直後にイギリス軍のショートサンダーランド飛行艇に襲撃されて潜航退避、17時57分まで潜り続けて何とか敵機をやり過ごす。3月25日と27日、命令に従って北大西洋の気象情報を報告。イギリス軍の捜索網を掻い潜って北大西洋に進出したU-196は南下を続けて南アフリカ沖を目指す。
4月16日に赤道を南下して南大西洋へと足を踏み入れる。同日16時、ケープタウン沖の海上交通を調査すべく、U-196と他3隻にはそれぞれBdUが定めた航路を辿るよう命じられる。4月末までケープタウン沖で通商破壊を試みるも、強風や大波に阻まれて戦果を得られなかったためインド洋への移動を開始。しかしデーニッツ提督の命令電はイギリス軍に傍受・解読され、南アフリカ沖でも護送船団方式を導入、Uボートに狙われやすい独航船は一部の高速船を除いて姿を消してしまった。
5月11日21時30分、蒸気船の影を発見して追跡を開始、23時40分、南アフリカ南東ポートセントジョンズ南方40海里で魚雷を発射し、英蒸気船ネイルシー・メドウ(4962トン)の船体中央部に命中させる。ネイルシー・メドウを洋上停止させたが沈没には至らない。翌12日午前0時2分に再度魚雷を発射するが命中せず、しかし程なくしてネイルシー・メドウは爆発を起こして沈没。モントゴメリー将軍率いるエジプトの第8軍宛ての戦車や郵便物など積み荷7104トンが海中へと呑み込まれていった。
5月24日21時47分、U-178より送られてきた敵輸送船団の位置情報を受信、海岸線に沿って進みながら獲物を探し求める。
5月25日13時に商船6隻と駆逐艦2隻で編成された敵船団を発見。魚雷2本を発射しようとしたが、実際に発射出来たのは1本のみで、残り1本は信管起爆状態のまま発射管内に留まるという非常に危険な状態に陥ってしまう。ケントラット艦長は艦を急角度で潜航させ、発射管から魚雷を滑り落とす形で除去した。しかし、今度は護衛の駆逐艦に攻撃され、13時20分に3回の爆雷炸裂音が轟く。それから2時間以上に亘ってソナー音が鳴り響いたがこれ以上の爆雷投下は無かった。16時15分浮上。
U-196が遭遇した敵船団の情報はU-181にも共有され、モザンビーク海峡で待ち伏せを行うが、どうやらダーバンへと向かったようで、一晩中待機していたにも関わらず敵船団の出現は認められなかった。またインド洋西部では昼夜を問わない航空哨戒が行われており、敵機の接近を確認するたびに潜航退避の必要があった。
6月5日には艦体の破損や損耗が徐々に蓄積している事が判明。応急修理により当面の間は耐えられると判断された。6月7日、U-198の成功を受けてBdUはU-196、U-177、U-178、U-181の4隻に作戦海域での自由な通商破壊を命令。
この時、インド洋ではマダガスカル南方、モザンビーク海峡、ターバン沖などでUボート7隻が通商破壊を、北部のアデン湾では日本海軍の伊29が通商破壊を行っており日独協同戦線が張られていた。事前の協定によってドイツは南側、日本は北側を作戦範囲に定め、また同士討ちを避けるべく潜水艦への攻撃を厳禁とした。ドイツ海軍は通商破壊を支援するため給油船シャルロッテ・シュリーマンをインド洋に派遣。
6月22日午前4時55分、シャルロッテ・シュリーマンとの合流地点であるダーバン東方約1800海里で浮上。そこにはシャルロッテ、U-178、U-181、U-197の姿があり、U-181とU-197が補給を受けている間、U-178とともに対空及び対水上警戒を担う。2隻の補給作業が終わると次はU-196の番で、22時30分、給油ホースを繋いで送油を受ける。燃料200トンや生鮮食品の補給は翌23日午前4時30分に完了。
U-196はシャルロッテの信号員の少なさ、燃料と食糧以外の供給設備を持っていない不便さ、モーターボートが1隻しかないせいで食糧輸送に遅れが生じたと問題点を挙げた一方、ミーティング自体はスムーズに進み、シャルロッテのローテ船長や乗組員の対応は模範的で優しさに満ちたものだったと評価している。
補給後、Uボート群は次なる獲物を求めて北西方向に移動。最新の海上交通情報に基づき、U-178とU-196はそれぞれモザンビーク海峡の東西に分かれて遊弋する事となり、マダガスカル東方を北上していく。
7月21日午前4時36分、右舷後方より陸上航空機が迫りつつあるのを発見、対空機銃に人員を配置するが、艦尾直前で何故か踵を返し飛び去って行ったため、その隙を突いて潜航退避に成功。午前6時55分に浮上したのちMG30機関銃による射撃訓練を実施。
8月2日16時7分、左舷後方の水平線上より立ち昇る煙を発見。接近してみると10ノットで北上中のCB-1船団8隻が姿を現した。護衛は大型艦2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻のようだ。ケントラット艦長は攻撃を決断して急速潜航を命じた。船団後方には更に1隻の駆逐艦が護衛に付いており、敵にとっても重要な船団のようだ。
8月3日午前0時24分、タンガニーカのメンバ湾北東約100海里にて、ダーバン発キリンディニ行きのCB-1船団を狙って魚雷3本を発射、間を置いて1本を発射したのち、方向転換して今度は艦尾発射管から更に1本を発射する。80秒後、1本が英蒸気船シティ・オブ・オラン(7323トン)に命中して大破状態へと追いやる。シティ・オブ・オランは助かる見込みが無いと判断され、掃海艇マスターフルによって砲撃処分された。2隻目の獲物を仕留めたU-196は南へと移動。
8月14日、ナタール沖で南アフリカ空軍第22飛行隊のPV-1ベンチュラに発見され、5発の爆雷投下を受けるも無傷で逃走に成功。しかし、ベンチュラから通報を受けたコルベット艦ナイジェラが駆け付け、更に上空にはベンチュラが旋回、翌15日には計6発の爆雷が投下された。海と空から同時に攻撃を受けるU-196。8月16日、包囲網を突破しようと6回浮上を試みるも、そのたびに連合軍機がすっ飛んできて海中へと押し込められ、17日未明からは多数のベンチュラによる大規模捜索が始まるなど、苦しい戦いを強いられ続ける。
8月18日午前3時34分に浮上、間隙を突いてどうにか虎口を脱した。18時46分、U-181艦長ヴォルフガング・リュート少佐から、現在位置と合流地点を伝える無電メッセージが届いて移動を開始。
8月20日午前11時39分にマダガスカル島南西約300海里でU-181と合流、新しい暗号コードを受け取った。ケントラット艦長は、大戦果を挙げて魚雷を多く消費しているU-181に、食糧と魚雷の提供を申し出たが、悪天候下では移送は不可能としてリュート艦長に謝絶される。
17時11分、U-197からの遭難信号を受信。どうやらU-197は空襲で損傷していて潜航が出来ない状態らしい。ちょうどU-181への燃料補給が完了したため2隻は救難に向けて協議を行う。U-197は南に逃げたようだが、日没を迎えた後に探し回るのは得策ではないとし、その晩は現在位置に留まった。
BdUは21日19時6分と22日18時38分の2回に亘ってU-196へ捜索を指示。間もなくしてU-197からの通信が途絶し、U-196、U-181は信号で示された位置に急行するも何も発見出来なかった。生存者から喪失原因を聞き出したかったBdUの思惑は失敗に終わった。この対応について、ケントラット艦長は遭難信号を受信しておきながら、U-197に対する適切な支援を怠ったとして、BdUに厳しく叱責されたが、実のところ、捜索指示を出した時点でU-197は撃沈されており、どのみち助けられなかったと言えるだろう。
8月22日に帰投命令を受領。8月24日17時よりU-181と帰路に就き、U-196の左舷前方約3海里にU-181が占位するが、8月28日午前5時の払暁時にU-181とはぐれて単艦フランスを目指す羽目に。
9月9日、U-196の下に「イタリアが連合国に降伏した」との情報が届き、乗組員はイタリア人に対して軽蔑と憤りを覚えた他、ケントラット艦長は「我々はもっと団結して強くならなければ」と、結束の意志を新たにしている。
漏油があるのか時折航跡に油膜が混じったり、ユンカースコンプレッサーのクランクケースに亀裂が走るなどの軽微な故障・損傷が見受けられたが、幸運にも連合軍に発見される事態には至らず、毎日潜航と浮上を繰り返しながら慎重に歩を進めていく。10月17日20時30分スペイン北西部フィステレ灯台を確認。翌日から難所であるビスケー湾に差し掛かり、潜航しながら北東方向に進む。
そして10月23日18時26分、ドイツ占領下フランスのボルドー基地に帰投、潜望鏡に商船2隻撃沈を表す2枚の白ペナントを掲げて出迎えの観衆に戦果を誇示する。225日間に及ぶ戦闘航海は第二次世界大戦におけるUボートの最長任務記録となった。この事実はIXD2型が長期の独立巡航に耐えられる事の証明と言えた。しかし疲れのせいか乗組員たちは〝強制収容所から出てきたばかりの〟やつれた顔をしていたという。
その後、偉大な記録を打ち立てたケントラット艦長は、第12潜水隊群クラウス・ショルツ司令や、ハンス・ルドルフ・レーシング西部管区司令とベックスビールを酌み交わした。続いてケントラット艦長は報告のためデーニッツ提督の下を訪れる。だが、あまりにも彼が疲れ切っていたので、元潜水艦乗りのデーニッツ提督は「ケントラット、まずは休暇を取りなさい。それが最も重要で、かつ緊急の事だ」と理解を示してくれた。
ドイツ海軍は大西洋での戦況が好転しない事を受け、同盟国日本から提供された東南アジアのペナン基地を拠点に、モンスーン戦隊がインド洋で通商破壊を行っていた。しかしUボートの魚雷は熱帯の気候に耐えられるものではなく、長期保管により深刻な損傷や故障が発生、そこで魚雷の補充も兼ねて、フランスから追加のUボートを派遣する事とし、航続距離に優れるU-196もまたペナン行きを命じられた。
これを受けてU-196は造船所で改修工事に着手。対水上レーダーFuMO 29 シータクトを装備するとともに、司令塔をウィンターガルテン型に改装し、20mm連装機関砲を2基に増やして対空能力を向上、不要となったフォッケ・アハゲリス FA-330を揚陸する。余談だがこのFA-330は後にフランス軍の手に渡り、ル・ブルジェ航空宇宙博物館で展示されている。艦内には日本軍向けの水銀瓶1404本、アルミニウムインゴット9158本、光学ガラス入り木箱105個、レーダーの設計図などを積載。
ケントラット艦長が休暇から帰還した後、過去数ヶ月の戦死者リストを見る機会を得た。それによるとUボートと熟練乗組員の損失が甚大であった。特に経験豊富な艦長の人手不足が深刻化している。デーニッツ提督が「どの陸上指揮官に艦を任せるか?」と尋ねると、艦長は「ありません、大提督」とキッパリ答え、引き続きU-196の艦長でいる事を望んだ。この状況下では艦を降りる事など到底出来なかったのだ。
1944年3月11日ボルドーを出港、ところがその直後、潜航試験中にGHG集音装置が故障するトラブルに見舞われ、3月13日に急遽ラ・パリスに寄港して応急修理を行う。
3月16日、U-181とともにラ・パリスを出撃して東南アジアのペナンを目指す。イギリス軍機による厳しい航空哨戒を掻い潜ってビスケー湾を突破した後は大西洋を南下する。
連合軍の対潜技術は留まるところを知らず、護衛空母やレーダーを駆使して、西ヨーロッパ侵攻時期を探ろうと気象観測に従事するUボートを次々に撃沈、あまりの損害にデーニッツ提督は3月22日、中部大西洋からの撤退を命令。今やドイツ海軍は大西洋の戦いに敗れて制海権・制空権ともに喪失していた。
4月9日、カーボベルデ西方にて乳牛ことU-488と合流、食糧や燃料の補給を受ける。4月23日、南大西洋上にて護衛駆逐艦グスタフソンから爆雷攻撃を喰らうも損傷無く逃走に成功。強化された連合軍の対潜網を避けるべく大西洋では通商破壊を行わず隠密航行を優先した。
5月9日、U-196、U-181、U-851は南アフリカ南西端ケープタウンからマダガスカル島東方モーリシャスまでの海域を作戦範囲に定めて通商破壊を開始。インド洋を管轄するイギリス東洋艦隊は戦力不足が原因で、全ての船舶に護衛を付けられていない状態であり、大西洋と比べて対潜警戒が緩い傾向にあった。5月20日頃喜望峰を抜けてインド洋に進出。だが思うように獲物を発見出来ず戦果を挙げられなかった。
6月2日、BdUは「攻撃の機会が無い場合は、これ以上留まらずペナン方面への航行を続けよ」と命令、やむなく通商破壊を切り上げてアラビア海へと向かう。インド南西で蒸気船に襲撃を仕掛けようとしたが、スコールに阻まれて失敗、その激しさたるや、僅か数十m先の艦首さえも見えなくなるほどで、近くにU-181がいる事さえも気付かなかったという。
7月9日、インド北西部ボンベイ南西約470海里にて、落花生5000トンを輸送中の英蒸気船シャーザダ(5454トン)を雷撃で撃沈。アラン・スコット・ハミルトン船長、船員36名、砲手9名が戦死した。生存者52名は英蒸気船チャンゴンとスウェーデン船マグナにそれぞれ救助された。
U-196はペナン到着が迫っている事を無線で連絡する必要があった。指定された時間に無線メッセージを送信し、イギリス軍に見つからないよう即座に急速潜航、そして予定時刻に再度浮上するが応答は無く、もう一度メッセージを送信した上で潜航、それでもペナン側からの連絡は無かった。応答が無ければ先に進む事が出来ない。苦労の末、5回目の送信でようやく返信が届いた。当然イギリス軍がこのような目立つ行動を見逃すはずがなくコロンボから爆撃機が発進。近くにいたU-181ともども逃げ回る羽目となった。
8月5日にU-196はスマトラ島北西まで辿り着く。目的地のペナンまでは目と鼻の先だが、その周辺では暗号解析で得た情報を基に、英潜水艦が出入港するUボートを狙っており、この哨戒線こそが旅路の最後の関門であった。集合地点にはイギリスの潜水艦が待ち伏せしていたが、ペナンより飛来したアラドAr-196水上機を発見・退散していたため、幸いU-196は敵潜の罠をすり抜けて難を逃れる。
8月10日、152日間の航海を経てペナンに入港。桟橋には儀仗隊と軍楽隊が整列してU-196の到着を歓迎、ねぎらいの演奏が行われていたが、港内の潮流は猛烈で、エンジンや舵を駆使して桟橋に横付けしようとしても押し流されてしまい、ケントラット艦長以下乗組員は歓待に応えられるだけの余裕が無かった。ようやく儀仗隊の100m手前で船首索を岸に引き寄せ、それを基地のドイツ人要員が素早く固定する。
すると銃を肩にかけた日本兵が駆け寄ってきて、係留柱にかけた船首索を外して水中に投げ捨てた。突然の出来事にケントラット艦長は夢を見ているかのような唖然とした表情を浮かべた。直後、U-196の艦体は強い潮流に流されてバランスを崩し、無情にもまた桟橋から引き離されていく。結局定位置に投錨するまでに丸1時間も要してしまった。後に判明した事だが、U-196が最初に係留した場所は陸軍の錨地だったようで、事情を知らない日本兵が「海軍の潜水艦が陸軍の錨地に投錨している」と勘違いし、船首索を外した訳である。
この頃になるとペナン到達率は非常に低くなっており、9隻が道中で撃沈、無事辿り着けたのはU-196を含めて9隻のみに留まった。
8月15日にペナンを出港、マラッカ海峡を通って、8月17日にシンガポールへと入港した。乾ドックで修理を受けるとともに積み荷の揚陸作業を実施、その間乗組員には1ヶ月間の休養が与えられた。
ペナン回航を成し遂げたケントラット艦長であったが、5ヵ月間に亘る戦闘哨戒で血圧が急激に低下、不眠症や夜盲症に悩まされ、循環器系の問題で視力にも悪影響を及ぼしているなど満身創痍状態と化していた。こうなってしまってはどうしようもない。ケントラット艦長は艦を降りる覚悟を決め、BdUに艦長の交代を要請した。
9月21日ケントラット艦長がU-196を退艦。神戸にある潜水艦基地の司令に異動となった。二代目艦長にはヴェルナー・ストリーグナー少佐が着任。やむを得ないとはいえ、苦楽を共にした乗組員との別れは胸を引き裂かれるほど辛く、親友と握手を交わした時、「君が艦に残ってくれたら皆帰れると分かっていたのに」と声を掛けられたという。
連合軍の猛攻に耐えられなくなったモンスーン戦隊はペナンより撤退。バタビア外港のタンジュンプリオクを新たな拠点とした。これに伴ってU-196も10月1日タンジュンプリオクへ移動し、同日付で第33潜水隊群(モンスーン戦隊)に編入される。
バタビア停泊中は当直士官を除く全ての乗組員が陸上で居住、機関士のみ日中は艦上で作業を行い、寝食は他の乗組員同様陸上で行った。
熱帯地帯の気候はバッテリーに悪影響を与えた。放電中及び充電中にバッテリーの温度が5~10℃上昇、これにより寿命が約20%ほど短くなってしまうのだ。U-196のバッテリーにも少なからず影響で出ていた模様。また、高い湿度はレーダーや捜索受信機の故障を招いたが、こちらは行き届いた整備によって未然に防がれている。燃料に関してもブルネイで産出された未精製油しかなく劣悪と言わざるを得なかった。
加えてドイツ人乗組員は熱帯気候に慣れていないためマラリアの罹患率は25%に達した。唯一の救いはスポーツ施設、図書館、公式ダンスホール、ドイツ映画の鑑賞といった福利厚生が充実し、乗組員の戦意が低下しなかった事くらいである。
日本海軍はベルリンの海軍武官を通じて、デーニッツ提督にオーストラリア南西方面での通商破壊作戦を要請、9月26日にU-168、U-537、U-862の運用が承認された。さっそく日本海軍は規則に従って関係各所へUボートの行動予定を通達するが、これを連合軍に傍受され、まず10月6日にU-168が蘭潜水艦ズワードヴィッシュの雷撃で撃沈、続いて11月9日にU-537が米潜水艦フラウンダーの雷撃で撃沈されてしまう。11月初旬、モンスーン戦隊は喪失したU-168に代わりU-196に出撃命令を下す。
予定では、スンダ海峡を通過してU-510とU-843に物資を補給、それが終わるとオーストラリア南西で1ヶ月間の通商破壊を行い、次いで神戸へ回航してバッテリーの交換を受けるはずだった。一説によると、U-196には最新の推進システムが搭載され、戦場から遠く離れたオーストラリア西岸で性能テストを実施しようとしていたという。
1944年11月30日バタビアを出撃。しかしこれ以降U-196からの連絡は途絶え、スンダ海峡あるいはジャワ海で消息不明となる。乗組員65名全員死亡。
U-510が機械的な問題でペナンに反転帰投したため、モンスーン戦隊はU-510への補給任務を中止、新たにインド洋で帰国中のU-181に燃料補給を行うよう指示を出すも、応答は無く、12月15日の位置情報送信指示にも応答しなかったので、12月22日、東南アジア所在の全Uボートに「U-196は12月12日以降ジャワ島南方で行方不明。おそらく出港直後、連合軍潜水艦によって撃沈された」と通達。この無線は連合軍にも傍受されたが、彼らはU-196を攻撃していない事から困惑したという。
喪失については、「シュノーケルを使った試験潜航中に事故を起こして沈没」もしくは「英潜水艦ポーパスが敷設した機雷により沈没」の二通りの説が原因に挙げられているが、ポーパスが敷設したのは12月9日なので、時系列的に後者の説は辻褄が合わない。
加えてストリーグナー少佐は艦長養成コースを修了しておらず、本来であれば艦長不適なのだが、東南アジアでは人手不足が深刻化している背景もあり、戦闘航海をしていないとはいえ、UIT-23の艦長経験がある彼を起用せざるを得なかったと思われる。このため事故が起きた時に適切な判断を下せず、そのまま沈没させてしまったのだろう。
U-196軍医ハインツ・ハーケ中尉の墓が、パングランゴ山の麓にあるアルカ・ドマスにある。何故彼の遺体だけ存在するのかは記録が殆ど無く詳細不明。
2006年のドイツ映画『U-196』(原題:Himmel über Australien、直訳するとオーストラリアの空)にてラスボス?を務める。
ドイツから日本にボツリヌス菌を輸送する途上、コーラル・エッジ沖で沈没した設定で、残骸から漏れ出したボツリヌス菌により、海洋生物が大量に変死する問題が発生。これを食い止めるためにオーストラリアの海洋観測所が立ち上がる…といった内容。原題や内容を見れば分かるようにUボート戦記ものではない。U-196の出番も少しだけで、残りは男女の三角関係や意見の対立などに充てられている。ちなみにボツリヌス菌は1gで100万人以上の人間を殺害出来る世界最強の毒。
ドイツ版のパッケージは内容に忠実なパケ絵となっているが、日本版のパッケージにはU-196が大きく写し出されており、これが戦記ものと誤解させる要因になっていると思われる。なおボツリヌス菌は毒ガスではない。
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