U-180とは、第二次世界大戦中にドイツ海軍が建造・運用したIXD1型Uボート1番艦である。1942年5月16日竣工。インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースを伊29に移乗させた。1944年8月23日以降ビスケー湾で行方不明となる。
IXD型は遠距離哨戒用の大型航洋Uボートの最終タイプにあたる。本級は1型と2型に大別され、1型は生産コストを下げるとともに速力を上げる目的で、魚雷艇用のメルセデス製1500馬力エンジン6基を搭載している。
第二次世界大戦開戦劈頭、ドイツ海軍は優れた機動性と高速性を兼ね揃えた潜水艦の必要性を認識。しかし、造船所・供給業者の双方に問題が生じるとして、新しい建造プロジェクトを一から立ち上げるのは困難だったため、カール・デーニッツ提督はIX型を改造する事で生産ラインへの悪影響を最小限に留めようと考え、IXD1型とIXD2型の設計及び建造を同時に進めた。
連合軍の対潜技術が遅れているインド洋へ進出し、同盟国の大日本帝國海軍と協同で通商破壊を行う事をコンセプトに設計されており、前級IXC型より更に船体を大型化、燃料搭載量を増大させた事で経済速力10ノット/3万1000海里の航続距離を実現。これはVIIC型の8500海里を3倍以上も上回る長大なものであった。これによりフランスからインド洋まで無補給で長駆可能となる。
後期に建造されたIXC型は機雷敷設能力を撤去しているが、IXD1型では何と復活し、艦内の内部チューブや外部シャフトに最大66個のTMB機雷を搭載。ただし機雷を搭載した場合は魚雷を降ろす必要がある。
まず最初にU-180とU-195の2隻が建造される。ところが最初の試験航海で魚雷艇用エンジンの不調が多発。加えてエンジンが高温を発する事で、遠方からでも目視出来るほどの白煙が排気口より噴出、隠密性を重視する潜水艦にとって、この問題は撃沈にも繋がる致命的なものだった。冷却システムも不完全で、熱帯で使用すると艦内が蒸し風呂になってしまう欠陥も発覚、艦長からの苦言もあって、前線任務に使用できないと判断されてしまう。以降、機関をIXC型と同じM9V40/46 ターボチャージドディーゼルに換装したIXD2型が生産され、1型は僅か2隻のみの建造で終わった。
それでも長大な航続距離はドイツ海軍にとって魅力的であった。今度は日本との連絡任務に投じられる事になり、ゲルマニア社製GWF-46ディーゼルに換装、前部魚雷発射管を撤去して貨物庫に転用、載荷重量を増やすべく甲板砲を撤去し、起倒式シュノーケルとバッテリーを増設、新たに252トンの補給用燃料タンクを装備するなどの大改装を受け、輸送用潜水艦へと転身。水上速力が20.8→15.8ノットに低下したものの航続距離は更に増大した。
U-180はインドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースを伊29に移送する特殊ミッションに臨んだ。異なる海軍の潜水艦同士が民間人の輸送に協力した例は、第二次世界大戦の全期間を通してもU-180が唯一である。
要目は排水量1610トン、全長87.58m、全幅7.5m、最大速力15.8ノット(水上)/6.9ノット(水中)、乗員55名、安全潜航深度100m、急速潜航秒時35秒。兵装は10.5cm単装砲1門、53cm魚雷発射管6門、魚雷22本、37mm単装機関砲1門、20mm連装機関砲1基。補給用潜水艦に改装された後は機関砲以外全て撤去している。
1940年5月28日デジマーグAGヴェーザー社ブレーメン造船所へ発注、建造資材調達完了に伴い、1941年2月25日、ヤード番号1020を刻んだ竜骨を設置して起工、12月10日進水し、1942年5月16日に無事竣工を果たした。初代艦長にヴェルナー・ミューゼンベルク大尉が着任するとともに訓練部隊の第4潜水隊群へ編入。
ミューゼンベルク大尉はU-180が最初で最後の艦長勤務という珍しい人物であった。彼は司令塔にエンジンを製造したメルセデスの紋章を描き込んだ。全Uボート中、メルセデスのマークをエンブレムに使ったのはU-180だけである。
5月17日から21日にかけて造船所内で艤装及び残工事を行い、それが終わるとキールに移動、6月11日まで公試に従事した。6月13日以降はバルト海にて慣熟訓練に臨む。メーメルにおける機関の公試では、メルセデス製エンジン6基にアルミニウム合金製ベアリングを搭載していたが、エンジンの回転数が1200と非常に速かったせいで、試験航海が終了する前にベアリングが破損する問題が発生。このため引き続き鉛と錫を含んだ金属を使用している。
9月初旬、ヘラ半島沖での訓練中に、別のUボートとの衝突事故を起こし、艦橋部分に軽微な損傷を負う。9月18日、ブレーメンに帰投。12月19日まで造船所にてオーバーホールと最終調整を受ける。
1943年1月10日よりキールのドイチェヴェルケ造船所で実戦投入に向けた艤装工事を実施、最速で出撃準備を整えていく。出港が近づくにつれ、乗組員たちの間では何処へ向かうのか噂が飛び交った。「日本に行くのか?」「シンガポールへ行くのか?」「それとも極東のどこかに行くのか?」「次の出撃先は西インド諸島か南大西洋のはず」……みんなが気にかける疑問の答えを知っていたのは艦長だけだった。また、連合軍を撹乱するためか、幾度となく出港日が延期となっており、宿泊船に泊まる乗組員は一様に不安を覚えたという。
出港前夜の21時頃、艦の前方にある桟橋に車が停められ、士官がスーツケースと荷物を艦内へと運び入れ始めた。乗組員から謎の士官が乗艦しているとの報告を受けた機関長ウィーン中尉は「これらの箱とスーツケースは士官室に収納しろ。艦長には既に伝えてある。この件について誰にも話すな」と黙認するよう伝えた。しかし、ウィーン機関長にも全容を知らされておらず、寝台で横になった後、「一体何がそんなに秘密にされているのか?暗闇に紛れて艦内に持ち込まれた荷物は誰の物だ?」と疑問が百出し、なかなか寝付けなかったという。この謎の行動こそが疑問の答えと言えた。
英領インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースはベルリンに亡命していた。彼は大日本帝國がイギリスに宣戦布告し、マレー沖海戦で英東洋艦隊に完勝を収めたのを見て、「今や日本は、私の戦う場所をアジアに開いてくれた。この千載一遇の時期にヨーロッパの地に留まっていることは、全く不本意の至りである」と確信、日本行きを希望して大使館との接触を開始する。
大本営はボースの受け入れを容認、在独中の大島駐独大使や山本敏陸軍大佐の働きかけにより、ヒトラー総統の同意も得て、日独双方の協力でボースを日本に送り届ける事となった。しかし最も問題なのはその輸送方法である。
最初は空路での移送を考え、ドイツ空軍からの協力も取り付けていたのだが、ドイツが計画した北極海→ベーリング海→カムチャッカ半島東方→千島列島の日本軍飛行場に着陸させる飛行ルートは、東條首相が難色を示した。というのも、ベーリング海を通過する際にソ連領空を侵犯する恐れがあり、日ソ中立条約を結んでいる日本にとって、ソ連との関係に悪影響を及ぼす危険性を孕んでいたからだった。
日本側は代案としてインド洋を通過する飛行ルートを提案するも、今度は長距離飛行に耐えられる機体を持っていないドイツ側が難色を示す。ドイツ空軍は、北方飛行ルートを採用してくれるなら輸送に使った機をそのまま寄贈しても良いと譲歩案を提示したが、これも日本側が拒絶したため空路は完全に頓挫。
残された手段は潜水艦による輸送のみ。だがドイツ海軍には喜望峰を回って日本占領下東南アジアまで長駆出来る潜水艦が無く、日本海軍も太平洋戦線が手一杯で大型潜水艦を回す余裕が無かった。いつまで経っても解決策が出ない現状にボースは失望感を露わにするも、ドイツ駐在海軍武官横井忠雄少将とドイツ海軍は妙案を生み出すため尽力し、その結果、一つの案が生まれた。
ドイツ海軍はUボートにボースを乗せてインド洋に向かい、これに呼応して日本海軍も大型潜水艦をインド洋に派遣、そして定められた位置で両艦は合流、ボースを日本側へと引き渡すのである。この案はドイツ海軍の賛同を得られ、横井海軍武官と軍令部との間で暗号電文による打ち合わせが始まった。反英放送を執拗に続けるボースがドイツを出発すればイギリスは彼を捕らえるべく積極的に行動するだろう。そうした事態を考慮して、輸送計画は極秘とされ、日独両潜水艦もその行動を秘匿する必要から、航行中の無電発信は一切禁止。
また、今回の輸送作戦に便乗する形で人員と物資の交換も計画され、日本海軍からは潜水艦戦術の権威である江見哲四郎中佐と技術士官友永英夫技術少佐を訪独させようとした。友永少佐が生み出した「自動懸吊装置」と「重油漏洩防止装置」は実に画期的な技術であり、これをドイツに伝達させる目的があったのだ。
1943年2月9日午前6時よりウィーン機関長と当直員が機関室の準備を開始。午前8時、日本に譲渡するための軍需物資を載せて曇天のキール軍港を出発、10分後、ラーボエにてボースと秘書アビド・ハサンが乗艦した。異国情緒漂う黄褐色の肌をした二人は何者なのか?彼らの正体を知らない乗組員たちは推測ゲームを始めた。正午過ぎにはもう二人は着替えて潜水艦乗組員の一員と化していたという。
翌10日19時33分にノルウェー南部クリスチャンサンへ寄港して燃料補給。上陸は許可されなかった。ある者は「あれはインドのアドルフだ。ヒトラーと一緒にいたばかりだ。つい最近、雑誌で見かけたはず」と核心を突いた指摘をするが、ミューゼンベルク艦長は「彼らはUボートブンカー建設を専門とする技術者で、ノルウェーで降ろした」とはぐらかす。再び燃料補給をすべくベルゲン近郊のエーゲルスンに寄港、ここでも乗組員の上陸は許可されていない。
2月12日午前11時30分エーゲルスンを出発。遠いインド洋を目指して旅の第一歩を踏み出す。そしてノルウェーを出港して翌朝、初めて乗客の正体と航海の目的が明かされた。
U-180の出港は横井海軍武官からの機密電で軍令部にも伝えられる。U-180のインド洋到着は約2ヶ月後。大本営海軍部は直ちにボースを迎えに行く艦の選定に入り、第6艦隊司令・小松輝久中将に適切な艦を選ばせたところ、ペナン進出中で、なおかつ出撃可能な潜水艦は伊29しかいなかったため、そのまま伊29が選出された。だが日本の外交暗号を解読され、U-180の出港を連合軍にも知られてしまう事に。
海上は大荒れの天気だったが、イギリス軍の警戒が厳重な北海を突破するには却って好都合であった。敵の奇襲から身を守るため潜航と浮上を繰り返しながら慎重に進むU-180。潜水艦での生活に慣れていないボースは内気で控えめな性格になっていたとか。
出港から10日経った頃、ボースの性格がある程度分かってきた。全てが順調に進んでいる時は聖人だが、何か問題が起こると烈火の如く怒り出し、たとえばコックがミートボールを焦がすと彼は罵詈雑言の達人と化し、どんなに屈強な船乗りでも背筋が凍るような言葉を吐く。このため彼らは対ボース用の非公開対策会議を開かなければならなかった。
その一方で、ミューゼンベルク艦長は自身の日記に「彼は非常に落ち着いた印象を与える。むしろ、非常に慎重に話し、あらゆる分野の知識に精通した人物である事が窺える。彼は自分が何を望んでいるのか正確に理解している」と綴っている。加えてボースとハッサンの両名は知識を活かし、U-180の料理メニューに、非常に美味しくて興味深いインド料理を加えた。
アイスランド・フェロー諸島間の海域に到達してもなお、天候は回復の兆しすら見せておらず、むしろますます悪化、視界もより不明瞭となりつつあったが、これがちょうどいい目くらましとなり、イギリス軍の艦艇や哨戒機はU-180を発見出来ずにいた。一方、経験豊富な一等航海士ですら体感した事がない自然の猛威は、容赦なくU-180を襲い続け、艦橋に立つ者はベルトで体を固定しながら当直にあたらなければならなかった。見かねたミューゼンベルク艦長は夜間のみ浮上、昼間は潜航するよう命令している。
約10日後、北大西洋に進出。危険地帯を突破した頃には天候も回復していた。悪天候下では殆どの時間を寝台で過ごし、食事もあまり摂らなかったボースたちも、すっかり食欲旺盛となり、他の乗組員たちとも馴染んで良き友人となる。ただ、ボースはそこそこドイツ語を話せたものの流暢な会話は難しかったという。ハサンの方はベルリン訛りに非常に近い流暢なドイツ語を話した。U-180は南下を続けていたが、荒天に阻まれて当初の予定以上に燃料を消費してしまう。
3月3日、補給用潜水艦U-462と合流。燃料、ギアオイル、14日分の食糧、電波探知機メトックス、伊29向けのボルデン弾を受領した。赤道が近づくにつれて艦内の室温は日ごとに上昇。機関室は常に50~60℃であり、湿度も同じくらいあったので機関科員は想像を絶する暑さに苦しめられる。艦橋の見張り員も暑さに喘いでいたものの、彼らは神が気まぐれに降らせるスコールを浴びられたので、幾ばくかマシであった。
3月21日、医療的支援を受けるべくイタリア潜水艦との合流地点に到着するも、発見出来なかったため南下を再開している。
U-180の主任務は、ボースとハサンを伊29へ送り届ける事だったため、護送船団への攻撃は禁じられ、単独航行中の敵船のみが攻撃対象だった。そしてU-180はこれから、連合軍の航空基地があるアセンション島とセントヘレナ島の間を突破する。当然細心の注意が払われた。このような重要な時期に暑さで淡水生成器が故障する事態が発生。一時は飲み水が不足するほど困窮したものの、カート・フェラ上級兵曹の卓越した技術と職人技により、ありあわせの部品を使って何とか修理完了。数週間の南下を経てケープ岬沖を通過。ここからは針路を北東に向けてインド洋を目指す。
4月18日午前1時45分、ポート・エリザベス東南東約500海里にて、U-180の前方をタンカーの船影が横切り、追跡を開始。午前3時56分、ケープタウンに軽油1万3100トンと航空ガソリン50トン、一般貨物を輸送中の英商船コルビス(8132トン)に向けて魚雷2本を発射、2本とも命中させて洋上停止へと追いやったが、沈没する気配が無かった。コルビスはSOS信号を3回送信。しかしいずれも無線コールサインが正しく送信されず、どこにも通じなかったと思われる。
午前4時10分、コルビスにトドメを刺すべく魚雷を発射するも、敵船は後進をかけてこれを回避したため、6分後に2本目の魚雷を発射、船首部分に直撃して炎上、間もなくコルビスは急速に沈んでいった。生存者は救命艇4隻に分乗・脱出するも、このうち3隻が転覆して船長を含む50名が死亡。生き残った10名はU-180より食糧の補給を受け、13日間の漂流後、南アフリカ空軍に救助された。
この頃からディーゼル機関の不調が顕著となり、「ディーゼルエンジンから出る煙がますます増え、潜水艦の攻撃能力が阻害されている。巡航速度から全速力を出すと、信じられないほどの煙が最大1時間に亘って発生し、前進機動は事実上不可能になる。蒸気船を発見したら直ちに潜航しなければならないが、攻撃可能な位置まで接近出来るかどうかは運次第である」と戦時日誌に記述している。
4月20日午前10時48分、敵蒸気船を発見するも、ディーゼルエンジンが吐き出す煙のせいで潜望鏡の視界が塞がれ、しかも敵蒸気船が体当たりしようと迫ってきたため、攻撃を中止して風下に逃げなければならなかった。
合流地点のマダガスカル島南東450kmに到着したU-180は潜航しながら伊29を「耳」で探していた。4月20日夕刻、聴音手が推進音を聴き取ったと報告。すかざす浮上してみると右舷側の水平線上に伊29の艦影が見えた。しかし彼らはU-180の浮上に気付いた様子が無い。というのも、巡潜乙型の司令塔は遠くまで見渡せるよう非常に高く作られており、近隣の、水面に浮かぶU-180が見えていなかったのである。うかつに信号を発すればイギリス海軍に見つかるので近くに居ながら上手く接触出来ずにいた。
伊29の後方数百mまで接近し、司令塔で当直中の見張り員の影すら見える状態になっても、伊29はU-180の存在に気付かなかったため、「もし俺たちがイギリス人だったら…扇状雷撃…爆発…海上に噴水…全損…奴らは寝ている」と見張り中のランゲが愚痴をこぼすも、ミューゼンベルク艦長は「日本軍の見張り員はあまりにも高い位置に立っている。高い位置から海を見下ろしている。我々の司令塔はもっと低い位置だ。これにより彼らは、広範囲に亘って、より優れた視野を確保出来るようになっているんだ」と語り、ランゲを納得させた。
4月23日未明にU-180が浮上すると伊29が僅か3海里先の地点にいた。13時35分、あらかじめ設定された英語の旗信号で互いに僚艦と認めた2隻は、150mほどにまで接近するも、海上に吹き荒れる風速10mの風が大波を発生させており、U-180は風に対して横向きを保つのが困難になる。一方の伊29は巨体のおかげで波風に強く、前後機動を繰り返してU-180とT字隊形を完成させた。
伊29艦長・伊豆寿一中佐はゴムボートでU-180へ移乗し、食堂で飲み物を味わった後、ミューゼンベルク艦長と温かな挨拶を交わす。そこへ艦長が意地悪っぽく「伊29がU-180を発見するよりずっと前から、我々は伊29を発見していた」という旨の苦言を伝えると伊豆中佐は青ざめたという。今回は味方だったから良かったものの、これが敵潜だったら間違いなく伊29は撃沈されていたからだ。
荒れて海でもゴムボートを使えば人員の移送は出来る。だが物資の移送となるとそうはいかない。ミューゼンベルク艦長の提案で、波が穏やかな場所への移動を決め、12ノットの速力で北北東への移動を開始、伊29の斜め後方からU-180も追従する。その間にミューゼンベルク艦長はBdUに向けて「悪天候により今のところ物資の交換は不可能」と報告した。
4月24日18時30分、波が低くなったのを見計らって伊29が両舷停止。連絡用のゴムボートを降ろしてU-180に向かわせた。15分後そのゴムボートに乗って、ドイツ海軍中尉が伊29へ移乗、先に伊29に乗っていた連絡員のドイツ人信号兵と交代するも、時化が収まらず2隻は洋上待機を強いられる。
待機中もU-180のディーゼル燃料は減少、このまま波が高い状況が続けば、帰投に必要な分の燃料を失ってしまうため、いざという時はペナンに行って燃料補給を受ける旨のBdU宛てメッセージを、ミューゼンベルク艦長は用意していた。
夜空に冴えた星が光る中、伊29艦内では、ドイツ語が堪能な加納照民軍医大尉を通訳にして、ドイツ人信号員がカレーライスを美味しそうに食べていた。U-180の厳しい燃料事情を知った伊29はサバンで燃料補給を受けてはどうかと提案したがU-180側はこれを謝絶する。
夜が明けていくにつれ次第に波が静かになってきた。第14潜水隊司令・寺岡正雄大佐は交換作業の強行を命令し、ドイツ人信号兵が手旗でU-180に伝える。
移載作業の準備は4月27日朝から始まった。まずU-180の甲板上に物資を並べ、伊29に接近したのち手渡されたロープで2隻を繋ぎ止めて位置を固定、そして午前11時より作業が開始される。U-180は持ってきた小型潜水艦設計図、対戦車用特殊砲弾、キニーネ約2トン、ドイツ大使館向けの郵便文書、吸着機雷1発、ソナー欺瞞用デコイ432個入り木箱3個を伊29に移載。伊29は技術提供の対価として、金塊146本(2トン)、酸素魚雷1本、航空魚雷2本、特殊潜航艇と赤城型航空母艦の設計図などをU-180に渡す。この作業は夕方頃に完了。
次に人員の交換が行われ、連絡役のドイツ人信号兵が帰艦、入れ替わりにライフジャケットを着たボースとハッサンが伊29に乗り移って、全身に波しぶきを浴びながら甲板で寺岡大佐と握手を交わす。最後にドイツ行きの友永中佐と江見中佐がU-180へ移乗。20時30分を以って全ての工程が完了した。
伊29から、ドイツ人が好物とするジャガイモを贈ろうかと打診があったものの、「十分に持っている」として謝絶。伊豆寿一艦長より「兄等の親愛なる潜水艦乗組員より。我々は世界新秩序の建設に対し、兄等の努力を希望し、さらに、別れに臨み安全なる航海と多幸を祈る」と挨拶が送られ、対するミューゼンベルク艦長は「日独両潜水艦の協力により、インド独立運動の志士を本国に送還し、これによりインド国民が英国の不法なる支配より脱せん事を切に祈る」と返礼した。
やがて両艦は南北への移動を始める。徐々に距離が開いていく中、伊29の甲板上に整列した乗組員たちは帽子や手を振り、U-180が南の水平線下へ没するまで見送ってくれた。
伊29から受け取った物資の重量でU-180の排水量が2トンも増加。これは潜水艦にとって無視できない問題である。トリムと重量バランスを取れるよう、積み荷は居住区とビルジに均等に分散配置された。特に重い金塊2トンは艦首に置かれる。
新たな便乗者となった友永中佐と江見中佐はU-180のあらゆる機械に興味を示し、注意深く観察していた。特に機関の革新的なシステムには目を見張って観察。その様相は乗組員にして「彼らの知識欲は飽く事を知らない」と言わしめたほど。また彼らは紳士で、かつ友好的であり、時折真珠湾攻撃の体験談を語ってくれたという。
4月29日20時30分、ミューゼンベルク艦長は天長節を祝い、BdUに「日本の天皇の誕生日を祝して乾杯。天皇弥栄の誕生日に、我々の中に2人の日本の戦友がいる事を喜びと光栄に思います。天皇弥栄に敬意を表し、彼個人の健康と幸福、そして共通の目標の勝利の達成を祈ります。天皇弥栄表現から、老兵の姿で三重の歓声で挨拶と祝辞を送ります」と無線メッセージを打った。
5月4日から7日にかけてダーバン沖の東西航路を監視するが商船を発見出来ず。航路を通ったのは駆逐艦とコルベット艦くらいであった。
6月2日14時50分、ダーバン沖を航行中、イギリス空軍のアブロ・アンソンとハンドレページ・ハンプデンに発見され、太陽を背に、高度8000mから急降下してきた。即座に警報が鳴らされて甲板上の乗組員は艦内へと退避。退避が済むと急速潜航を行った。
6月3日17時7分、アセンション島西方260海里の海域にて、ボーキサイトやポプラ材など2975トンを輸送中のギリシャ商船ボリス(5166トン)を発見。しかしボリスがいた場所は、味方の封鎖突破船が通る航路でもあったため、ミューゼンベルク艦長はBdUに無線で問い合わせ、攻撃許可が下りるまでは追跡するだけに留めた。23時40分、7ノットで航行中のボリスを狙って3本の魚雷を発射し、このうち1本が第一船倉に命中、沈没を悟った船員は遭難信号を発しないまま、2隻の救命ボートで脱出したが、木材を積み荷していた影響で沈没する気配が無く、12分後にトドメの魚雷2本を放って撃沈。U-180はボートに乗っていた一等航海士に尋問を行い、それが終わると解放した。
帰路ではU-463と合流、燃料補給を受ける予定であったが、去る5月16日、U-463はイギリス軍によって撃沈されてしまったため、6月19日に代艦のU-530から燃料と食糧14日分の補給を受ける。既に大破状態のU-530はU-180と帰路に就く。
ビスケー湾に近づくにつれて艦内の緊張は高まっていく。今やビスケー湾の制空権はイギリス空軍に握られ、多くのUボートが湾内で撃沈される「死の谷」と化していたからだ。西経18度を越えてからは概ね潜航しながら進み、バッテリーを充電する時だけ浮上していたが、敵機の昼夜を問わない厳しい航空哨戒に阻まれて満足に十分な充電が出来ず、乗組員たちは苛立たしさを感じざるを得なかった。
U-180には日本軍士官2名と金塊が乗っている事から、6月26日、ユンカースJu88や駆逐艦による護衛が検討され、まず最初にJu88が上空援護についた。
ビスケー湾では昼夜ともに潜航して進み、早朝及び夕刻の3~4時間だけ浮上してバッテリーを充電、水上見張りは先任将校、航海長、准士官、下士官の4人で臨み、それぞれ90度ごとに見張り範囲を分担、更に見張り員2名と機銃員2名が肉眼を以って上空四方を監視する。浮上時間が短いため一直であった。
6月30日午前7時30分、U-530とビスケー湾を航行中、左舷前方より敵機が急接近してきた。雲がギリギリまで敵機を隠していたせいで急速潜航はもう間に合わない。敵機は爆弾倉を開いて投弾体勢に入っている。しかし、幸運にも敵機は爆弾を投下出来ずに頭上を航過、すかさずU-180は対空機銃で敵機を狙うも、これまでの長旅の影響で照準が不明瞭であり、敵機を止めるには至らない。
旋回した敵機が再び戻ってきて、必中を期すためか高度200mまで降下、これを回避するべくU-180は6基のエンジン全てをフル稼働させて20ノットに増速、右舷へ急転舵して回避運動を取った。不思議な事に今回も爆弾は投下されなかった。どうやら技術的トラブルが起きているらしい。やむなく敵機は機銃掃射を仕掛け、艦尾から1mの海面を穿ったが、次に敵機が旋回し戻って来た時には、U-180は急速潜航を済ませて水深100mまで沈み込んでいた。
7月1日午前6時に駆逐艦の出迎えを受ける。入出港の際に駆逐艦が護衛につくのは異例の事だった。
7月2日19時30分ジロンド河口のル・ヴェルドンへ到着。危険地帯を抜けられて乗組員たちはみんな歓喜にひたった。ここまで来れば目的地のボルドーは目と鼻の先なのだが、長旅をしてきたU-180の燃料は底を尽きかけており、燃料残量的にミューゼンベルク艦長はボルドーまで辿り着ける確信を得られなかったので、横付けしてきたU-518より燃料を補給してもらっている。翌3日午前5時30分に出港準備完了。護衛艦艇に伴われながら同日中にボルドーへと入港した。
U-180がブンカーに入ると、そこには日本から託された物資を回収するための荷馬車、警備員、ゲシュタポ、憲兵が待っていた。積み荷はあらかた回収されたが、何故か2トンの金塊だけは見つからず、誰かが盗んだのではないかと疑われたものの、長く困難な捜索の末、ビルジの泥の中に隠されていた金塊が発見されて事なきを得る。
7月26日、遣独潜水艦作戦の第二次訪独艦としてフランスに向かっている伊8に対し、江見中佐はU-180のビスケー湾突破方法を在独海軍武官を通じて伝達した。
機関から自艦の位置が特定されかねないほど濃い黒煙が噴き出す致命的欠陥に、ミューゼンベルク艦長は強い不満を抱いていた。黒煙以外にも、排気弁や推進軸ブッシュからの漏水で、潜航中最大6トンの浸水が認発生、排水ポンプを常時稼働させなければならず、自重の変化で艦首前方のトリムバランスが崩れる問題も無視出来なかった。姉妹艦U-195の艦長ハインツ・ブッフホルツ少佐も同様の不満を抱いていたので、一度退役して機関の換装を実施する事に。
入港後、U-180は日本占領下東南アジア行きを命じられ、ボルドーのドイツ海軍造船所で司令塔右舷前端に起倒式シュノーケルマストを搭載するとともに、機関をゲルマニア社製GWF-46ディーゼル2基に換装、魚雷発射管と甲板砲を撤去し、バッテリーとシュノーケルを増設、更に252トン入り補給用燃料タンクを追加装備するなどの改造工事を受けた。工事が長期に及んだため乗組員たちは他の艦へと異動。
1944年4月1日工事完了。翌2日にロルフ・リーゼン中佐が艦長に就任する。
ところが6月6日、連合軍がノルマンディーへ上陸した事で、後方地域だったフランスにも戦火が及ぶようになり、8月上旬にはブレストやロリアンといったUボート基地を潰そうとアメリカ軍がブルターニュ半島への侵攻を開始、更に8月15日、連合軍のドラグーン作戦によって南フランスにも戦線が構築され、ボルドーの失陥は時間の問題となりつつあった。
8月14日頃、陸路での補給が困難になったため、ダイナマイト15トン、2cm砲弾7トン、爆破用爆薬、バラスト16トンをサン・マロ基地に輸送すべく準備を進めていたが、サン・マロの基地司令より「荷下ろしは不可能」と言われて出港中止。代わりに日本占領下ペナン向けの物資を積載した。
8月22日、基地司令官カーリ・ウェーバー少将がボルドー残留の艦艇に脱出を指示。ボルドー基地では既にレジスタンスによる破壊工作が盛んに行われており、同日午後には爆薬を収めた13号格納庫が爆発した他、アルザス系の水兵が脱走してレジスタンスに加わるなど士気崩壊も激しく、急ぎ出港準備が進められた。
1944年8月23日朝、U-219、U-195、U-457とともにボルドーを脱出。護衛には駆逐艦Z24が付いた。同日夜ル・ヴェルドンへ到着し、翌24日午後に水雷艇T-24が遅れて合流する。しかし19時頃、東の空から、E.W.タコン中隊長率いる第236飛行隊・第404飛行隊所属のブリストルボーファイター計18機が出現、凄絶な航空攻撃でT-24が撃沈、Z24が大破したのち転覆させられる。
護衛を失ったU-180は僚艦と8月25日午前0時30分にル・ヴェルドンを出発。最初の関門であるジロンド河口の機雷原テオダールを突破して、ビスケー湾を潜航中、小型哨戒艇と思しき敵艦からソナーによる捜索を受ける。次はモスキート戦闘機とショートサンダーランド飛行艇の襲撃を受けて交戦、両軍とも被害は無かった。敵機を振り切った4隻は潜航して各々の哨戒地点へと向かう。
しかしコンティス西方のビスケー湾にて位置情報の報告が途絶、BdUからの呼びかけにも応答しなかったので9月15日に行方不明と認定された。乗組員56名全員死亡。沈没、残骸、爆発、遭難信号など消息不明の原因に繋がる手がかりは一切無し。
公式記録では「機雷による沈没」とする一方、専門家アクセル・ニーストレ博士は「8月23日に護衛艦艇と別れた時には、イギリス空軍がジロンド河口に敷設した機雷原テオダールを既に通過しており、触雷の可能性は低い」と指摘、シュノーケルの故障こそが原因としている。ポール・ケンプ著書『両大戦におけるドイツとオーストリアの潜水艦の損失』では8月26日喪失と記述された。
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最終更新:2026/06/11(木) 23:00
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