kamS氏による非東方曲PVの第7作目。
ミレーヌ・ファルメールの名曲「Peut-etre toi」にのせて、西行寺幽々子の生前の物語を描いた作品である。
ストーリー
東方妖々夢の「キャラ設定.txt」に記載されている、西行寺幽々子の生前の物語を題材にしている。
幽々子が自身の「人を死に誘う能力」を厭い自尽するまでのストーリーを情趣的に描いている。
詳しくは、妖々夢の「キャラ設定.txt」や、大百科の西行寺幽々子の項を参照。
西行
原作で明記されている訳ではないが、幽々子の父親は西行ではないかとされている。
本動画でも、その設定に則ってストーリーが構成されているように思われる。
西行は、鎌倉時代の僧侶であるが、歌人として評価の高い人物である。
また桜をこよなく愛した事でも知られており、次のような和歌を残している。
願くは 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ
(望むなら花の下で春に死にたい。釈迦入滅の2月15日の頃に)
実際、文治6年(1190)2月16日に入滅し、その願いを実現、伝説となった人物である。
タイトル
タイトルの「我をも具して散りね花」は西行の詠んだ歌であり、「もろ共に我をも具して散りね花憂き世を厭ふ心ある身ぞ」からの抜粋である。「我をも~」の歌は下記4首の連作である。
吉野山 花吹き具して 嶺越ゆる 嵐は雲と よそに見ゆらん
(嵐に吹かれて桜の花吹雪が吉野山の峰を越える)
惜しまれぬ 身だにも世には 有物を あなあやにくの 花の心や
(隠遁して惜しまれる事の無い自分はのうのうと生きているのに
惜しまれる花が散ってしまうのは思い通りにならないものだ)
憂き世には とヾめおかじと 春風の 散らすは花を 惜しむ成けり
(いや、春風が花を散らすのは、この憂き世に花をとどめさせてはならないという愛惜の心ではないか)
もろ共に 我をも具して 散りね花 憂き世を厭ふ 心ある身ぞ
(であるならば。散るのなら私も一緒に連れて散ってしまえ。花よ。
私にはこの憂き世を厭離する心がある。お前と生死をともにする資格があるのだ)
「惜しまれぬ身」の自虐から、「憂き世を厭ふ心」へと一気に自己肯定した後、同じように憂き世を散り急ぐ花を自己と同一視、遁世者が花を愛する根拠としている。これらの歌は、桜に対しての昂揚する愛の宣言である。
本作における解釈は諸論あるが、一例を挙げるなら、
自身と同じ死を誘う能力を持つ西行桜を道連れに散ってしまおうとする生前の幽々子の心境である。
能楽「西行桜」
西行桜は、室町時代、世阿弥作の能楽作品である。
歌人と花の精との即妙なやりとりを描きながら、桜の花の持つ濃艶な雰囲気をかもし出している。
桜を一人愛でていた西行の元に、遠方より花見客が来た。
無下に追い返すこともできないので、招き入れたが、どうもうっとおしい。花見んと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける
(花を見ようと人が群れてくるのだけが、桜の罪なところだなあ)すると夢現の中、老桜の精が現れ、「先程の"桜の咎"とは何ぞや」と問いただす。
憂き世と見るも山と見るも、唯其人の心にあり
(憂き世と見るか修行に適した山だと見るかは、人の心次第で桜に咎はない)非情無心の草木の、花に憂き世の咎はあらじ
(非情無心の草木には浮世の咎は無いのだ)と、西行の先ほどの歌に反論する。
しかしながら、老桜の精は、歌聖西行と出会った事を喜び、桜の花を称えながら舞う。
春宵一刻価千金。
やがて夜も白み、惜しみながらも桜の精は別れを告げ消える。
夢から覚めた西行の前には、ただ桜が散っているのみだった。
「憂き世と~」の歌の本作での意味合いは、
生前の幽々子(人を死に誘うのを厭う)と亡霊化した幽々子(そこまで気にしない)との対比や、
「花に憂き世の咎はあらじ」から実は西行妖には人を死に誘う能力は無いことの傍証など、
解釈は様々である。
六道輪廻
六道輪廻は、仏教思想の一部である。
我々はいわゆる六道を生死を超えて輪廻し、永劫に苦しみから逃れることが出来ない。
その苦しみから逃れる為の教えが仏教であり、その究極が悟りである。
悟りを得たものは、六道の苦しみから逃れ仏となる(初期仏教)。
本作では、六道絵など、至る所に六道輪廻を示唆するオブジェクトが配置されている。
六道絵は、六道の諸相を描いたもので、平安時代から鎌倉時代にかけて多く描かれている。
地獄絵図など、現在の我々の思想に少なからず影響しているものもある。
以下、本作で登場する六道絵。
1. 餓鬼草子(東京国立博物館蔵:旧河本家本) 平安時代
登場時間:0:46~0:55
幽々子にまとわりつく白い線画の人々は、餓鬼草子に登場する平安時代の人々である。
餓鬼草子では、餓鬼と共に平安時代の町人・貴族・僧侶が描かれているが、本作では、餓鬼ではなく、平安時代のただの人間がチョイスされている。
始めに登場する長烏帽子の男性は、「欲色餓鬼」という絵の左上に描かれた人物である。 欲色餓鬼は、男女の貴族が管弦を楽しむ宴に、小さな体の餓鬼が出現して人々に取り付く、という絵である。華美な衣装をつけて淫楽にふける者は餓鬼道に堕ちる、との意味を含むが、この男性もそうであろう。幽々子の体を目当てに近づいてきたのであろうか。 |
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次に登場する平安調の小太りの女性は、「伺嬰児便餓鬼」で出産中の女性である。 伺嬰児便餓鬼は出産時の汚物を喰らう餓鬼の絵で、次のシーンで出てくる僧侶もこの伺嬰児便餓鬼の登場人物である。絵中の僧侶は大方、安産祈願でもしているのだろうが、餓鬼が妊婦のすぐ近くまで来ており、全く役に立っていない。 |
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最後に左側に登場するしゃがみこんだ女性は、「伺便餓鬼」に登場する排泄中の女性である。 よく見るとわかるが、垂れ流しである。伺便餓鬼ではその汚物を狙って寄ってきた食糞餓鬼を描いている。 餓鬼草子で描かれている人物は、同時代に描かれた他の絵よりも表情が生き生きと描かれているらしいが、本作で見る限り、その姿はかえって不気味である。 |
2. 餓鬼草子(東京国立博物館蔵:旧河本家本) 平安時代
登場時間:1:50
物忌み時の屏風に描かれている絵は、餓鬼草子の「疾行餓鬼」。 疾行餓鬼とは、死者が出ると直ちにその場に行って、その死骸を喰う餓鬼。 京で疫病が蔓延したときに、死骸が捨てられている京近郊の実景を描いたものとされる。 本作で、幽々子が何のために物忌みを行っているのかは解釈が分かれるところだが、この絵からは、当時は、疫病の災厄から逃れるために物忌みが行われていたのではないかと推測される。 |
3. 六道絵(聖衆来迎寺) 鎌倉時代中期
登場時間:2:26
妖夢登場時の階段に、聖衆来迎寺の六道絵が貼り付けられている。 今のところ、「等活地獄」と「人道不浄相」のみが確認されているが、妖夢のスペルカードが六道をテーマにしている事からすると、六道の全絵が埋め込まれていてもおかしく無い。 等活地獄は、「罪人が互いに傷つけ骨になるまで戦い続け、死んではまた生き返り、永久に殺し合う」地獄で、その有様を描いたもの。 人道不浄相は、美しい女性が死に、野に捨てられ、腐敗し、動物に食われ、白骨となり、土に還る様を描いたもの(同時代の九相詩絵巻と図柄が近い)。 四苦八苦を主題としており、諸行無常を感じさせる。 |
4. 六道絵(聖衆来迎寺) 鎌倉時代中期
登場時間:2:33
扇子に描かれたお堂の絵は、聖衆来迎寺-六道絵の「天道」である。 天道は天人五衰を描いたものであり、天人五衰とは、死の直前に、天界の住人の身体に現れる5つの衰えのこと。その苦しみは地獄の苦しみに匹敵すると言われる。 妖夢のスペルカード、天上剣「天人の五衰」 に由来していると思われる。 |
5. 北野天神縁起 承久本の第7巻,第8巻 鎌倉時代
登場時間:4:10~4:20
幽々子の目隠しシーンは、北野天神縁起-承久本がモチーフになっている。 承久本は絵巻物語で、金峰山の行者「日蔵」が地獄を巡回し、地獄に落ちている醍醐帝や廷臣の苦悩をつぶさに見て、蘇生した後に、これを時の天皇に奏上するというストーリー。 本作で引用しているのは、第7巻・第8巻で描かれている等活地獄(罪人同士が殺しあう地獄)のシーン。実際の絵巻では、日蔵は左側で地獄を見学している。 なお、日蔵は「蔵王菩薩(=地蔵菩薩)」に案内されて冥界をめぐっているが、それが幽々子と西行妖の化身との関係に対応しているかは定かではない。 余談だが、絵巻では、日蔵は閻魔王宮に行き、そこで八頭九尾の怪獣を見るとある。 |
6. 六道輪廻図
登場時間:3:13~3:15、4:38~4:46
ラサのセラ寺蔵 |
蛹の幽々子が羽化するシーンと自尽後のシーンの背景にある輪は、六道輪廻図をモチーフにしている。六道輪廻図は数多く描かれているが、元絵がどれかは定かでない。ちなみに日本では殆ど描かれていない。 六道輪廻図中心の円は、三悪、つまり、根源的な3つの煩悩。すなわち、貪・瞋・癡を表す。外周の円は、十二因縁。無明・生・老死など、苦を生じる12個の原因。それらは互いに因縁を持ち、苦しみの連鎖を生み出す。中間の円は、六道。下半分が三悪趣(地獄道、餓鬼道、畜生道)、上半分が三善趣(修羅道、人間道、天道)。 それらの円を抱え込んでいる怪物は、無常大鬼と呼ばれる鬼(如何なる者も無常からは逃れられないの意:仏教)や、マハーカーラ(因果による輪廻を司る大いなる時間の意:チベット密教)であり、閻魔ではない。閻魔と解釈するのは日本人特有の感覚だと思われる。閻魔は本来仏教では影が薄い(輪廻は、因果応報・自業自得の原理で行われ、何者かが介在する余地が 無い為)。 十王裁判などの閻魔の論拠は「地蔵十王経」であるが、地蔵十王経は鎌倉時代に日本で作られた偽典とされており、その意味で、いわゆる閻魔様は日本固有の文化と言える。また、地蔵菩薩(いわゆるお地蔵様)も同じく「地蔵十王経」を論拠としている。今日、現実世界で地蔵信仰や閻魔の影が薄くなってきているのは、この出典のあいまいさが一因なのだろう。 |
本作では、幽々子の羽化時に四季映姫(閻魔)のZUN帽が出現するが、これは前々作(花に生う)と同じように是非曲直庁を意味すると思われる。つまり、幽々子の亡霊化に際して、是非曲直庁が関与している。羽化の直前に現れる黄色い円環は、十二因縁と思われる。 十二因縁は前述の通り、苦を生じる12個の原因。つまり、幽々子が苦しみの連鎖に囚われている意。また、十二因縁は、人間の個体発生から死に至る過程と解釈できることから、円環の具足は、幽々子が生れてから死に至るまでの過程、と捉えることも出来る。 |
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自尽後のシーンでは、輪廻の輪が断ち切られる。 通常(という言い方に違和感も感じるが)、六道輪廻は生死を越えて続くため、自殺したからといって苦しみから逃れる(輪廻の輪を断ち切る)ことは出来ない。しかし、人の身に余る能力が故に、生死を越えて未来永劫苦しまなければならない、という運命は、あまりに悲惨である。 そういった事情を汲んだ、是非曲直庁の計らいで輪廻の輪が断ち切られたのではないかと推測される。輪廻の輪は、まるで刀で切ったかのように真っ二つになっている。東方求聞史紀に「幽々子の持つ魂魄の剣は輪廻転生を断つ」とあるが、幽々子の輪廻の輪は、魂魄の剣によって断ち切られたのだろうか。であるならば、その剣は誰が振り下ろしたのか。など、興味が尽きない。 |
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ただ、輪廻の輪を外れるには、本来、悟りを得て解脱するしか方法はない。その道理を曲げ、人外の外道に堕ちる事で輪廻を断ち切った幽々子は果たして幸せなのか?楽しそうにお酌をしてもらう幽々子とは裏腹に、冥界のお姫様の悲しさがそこにあるように思える。 (もっとも人である我々にその心をうかがい知る事は出来ないのだが…) |
妖々夢キャラ
本作、1:52~2:55において、妖々夢の各キャラが登場する。
以下その説明。
レティ・ホワイトロック
カリスマ溢れるお姿である。
真・女神転生Ⅱの妖精ダークエルフ、攻殻機動隊の草薙素子あたりが元ネタに見えるが定かでない。
セリフ:「私は黒幕だけど、普通よ」(原作ゲーム中セリフより)
橙
女神転生シリーズ、魔獣ネコマタのポーズと思われる。
背景のマヨヒガが3Dになっている点も見逃せない。
セリフ:「もう帰り道も判らないでしょ」か?(原作ゲーム中セリフより)
アリス・マーガトロイド
真女神転生シリーズの魔人アリスが元ネタ。
詳しくは東方元ネタWikiやニコニコ大百科の該当記事等を参照。
セリフ:「死んでくれる?」(真女神転生シリーズ、魔人アリスのセリフより)
リリーホワイト
ヒーリング効果が…あるように見える。
プリズムリバー3姉妹
ちんどん屋なのは、「キャラ設定.txt」に「幽霊ちんどん屋」との記載があるため。
各人の楽器は次の通り。
・ルナサ…チンドン太鼓
・メルラン…トランペット
・リリカ…アコーディオン
魂魄妖夢
立ち絵は原作ゲーム中のポーズそのまま。
階段の模様については、前述の六道絵を参照。
セリフ:「斬れぬものなど、あんまり無い!」(原作ゲーム中セリフより)
西行寺幽々子
西行の反魂伝説がモチーフ。反魂伝説は、その昔、西行が放浪中、孤独に耐えられなくなり、反魂の術を使って友人を作り出そうとしたという逸話。人骨を蓆(むしろ)に包み、苺とハコベの葉を乗せ、砒霜石(砒素を含む鉱物)を投入、香を炊くという反魂法の工程を再現している。 ただし、西行が蘇らせたものは、「人には似ているが、顔色が不快で感情の無い、声も笛や琴のようである」という化け物で、幽々子も同じように餓鬼のような化け物を蘇らせている。 幽々子は妖々夢で、「西行妖の下に眠るとされる亡骸」を復活させようと試みて失敗しているが、この反魂でも同様に失敗している。 結局のところ、幽々子の死を操る能力では、人を殺すことは出来ても、蘇らせることは出来ないのだ。 セリフ:「ほとけには桜の花をたてまつれ」か?(原作ゲーム6面開始時テロップより) |
チルノ
チルノは妖々夢ゲーム中では登場するものの、本作では採用されていない。
これについて、下記のような仮説がkamS掲示板に投稿されている。
01:53~の登場人物が六道を表しているとするなら、それぞれは以下のような対応になるのではないか。
名前 | 種族 | 六道 | その理由 |
レティ | 妖怪 | 地獄 | 正真正銘の人を襲い喰らう妖怪。 背景の、暗闇の中で吹雪が舞うというのも「地獄」の表現の一つか。 |
橙 | 妖怪 | 畜生 | 獣の妖怪であり、使役される式神。 正に畜生そのもの。 |
アリス | 魔法使い | 餓鬼 | いまいち自信はないが、妖怪の一種である魔法使いであり食を必要としない。これは餓鬼とは正反対のようだが、「食によって満たされることがない」と曲解すれば違和感は少ない。 あるいは、「人間の創造」を試みて、西行が作ったような、数多の心無い失敗作(餓鬼)を作りだしてしまっていると考えることもできる。 |
リリー | 妖精 | 天 | 不老不死であり、悩みもなく空をたゆたい春を告げる。 人の想像できる理想の一種としてリリーを天と推測。 |
虹川 三姉妹 |
騒霊 | 人間 | 人の感情の多面性を表すと同時に、亡霊となった幽々子と、キャラクターとしては唯一同族(正式には違うが求聞史紀では分類上同族とされたので)あり、幽々子=人間とした場合、同一の世界に住める唯一の存在といえる。 |
妖夢 | 半人半霊 | 修羅 | 刀=闘争を表す。また妖夢自身、人と霊の中間の存在であり、背景の階段も善である天と人間がいた空と、悪である餓鬼、畜生、地獄がいた地を繋ぐ存在と捉えれば、場合によって善とも悪とも言われる修羅に相応しいといえる。 |
つまり、六道を妖々夢の登場人物で表現した結果、チルノの枠が足りなかったのではないかという仮説である。
「構成上の理由」で組み込まれなかったという「おまけ」にはチルノが登場している所を見ると、
不採用にこのような理由があってもおかしく無い。
ギフチョウ
登場時間:1:27~
チョウ目・アゲハチョウ科の昆虫で別名、錦蝶。日本固有の種である。 似た種類の蝶にヒメギフチョウがあるが、羽の模様が微妙に異なる。 春の短い時期にのみ姿を現すスプリング・エフェメラルである。 同じく春にしか花を咲かせないカタクリの蜜を吸い、カンアオイの葉に卵を産み付ける。 春の草花をぬって舞う姿がとても美しいことから春の女神と呼ばれる。 近年個体数が激減しており、絶滅危惧II類に指定されている。 初回登場シーン、ギフチョウはカタクリの蜜を吸っている。春の野の描写だが、その精緻さには驚かされるばかりだ。 カマドウマが妙にかわいらしい。 その次のシーンでは、交尾の様子が描かれている。 本作では描かれていないが、ギフチョウは少し変わった交尾をする。 まず、飛んでいるオスとメスが空中でぶつかり合う(バチッという音がすることもあるらしい)。 そしてそのまま地上に落下、交尾を行う。交尾が終わると、オスは液を出して、メスの交尾口を塞いでしまう。メスはそれが邪魔になり、二度と交尾が出来ないようになる。 また、ギフチョウは青い色に近寄る習性がある。これは好物のカタクリやアオイが青色のためだが、本作で彼女らが幽々子の周りを舞うのも青い着物を着ているせいだと思われる。 本作でのギフチョウの意味合いは、各種議論が行われているが、未だ、コレという結論には至っていない。生と死の象徴、死霊を操る能力、幽々子の能力の発現の傍証、亡霊幽々子誕生の前準備など、解釈は様々である。詳しくはkamS掲示板を参照。 |
アテネの学堂
登場時間:3:04~
紫の登場シーンの2人のポーズは、ラファエロ(1483-1520)の絵画「アテネの学堂」を元にしている。 「アテネの学堂」は古代ギリシアの哲学者・科学者を描いたもので、中心にプラトン(前427年-前347年)とアリストテレス(前384-前322)が描かれている。 プラトンは天を指差し、アリストテレスは手のひらで地を示している。 これは、プラトン哲学の理想主義、アリストテレス哲学の現実主義を象徴していると考えられている。ちなみにアリストテレスはプラトンの弟子である。 プラトンのモデルは、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)、アリストテレスのモデルは、ミケランジェロ(1475-1564)と言われており、作者のラファエロと合わせて、3人はルネサンスの三大巨匠と呼ばれている。 本作での意味合いは、様々な見方があるが、一例をあげるなら、思いつめた幽々子(理想主義)を諭しに来た紫(現実主義)といった意味合いである。 なお、天を指差す構図として、もう一枚有名な絵画がある。 それはダ・ヴィンチの絵画「洗礼者聖ヨハネ」である。 |
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ヨハネはキリストに洗礼を行った人物だが、ヘロデ王の娘サロメの願いにより斬首刑に処された。そのヨハネの若かれし姿を描いた「洗礼者聖ヨハネ」で、彼は右手で天を指差している。 また、本作0:42頃に西行妖の化身として灰色の女性の姿があらわれるが、この姿がサロメに似ているように見える。 |
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サロメは、祝宴での舞踏の褒美として「好きなものを求めよ」と言われ「洗礼者ヨハネの斬首」を求めた人物である。仮にそういったモチーフがあったとすれば、幽々子(洗礼者ヨハネ)と西行妖(サロメ)という関係が成り立つが、本作でそのような意味が込められているかは定かでない。 なお、前作「月の仕舞」でダヴィンチが永琳を見て「人体図」をひらめいたようにラファエロが二人を見て「アテネの学堂」を書いた可能性は…紫がからんでいるので否定しきれない。 |
殺生石
1:03頃に西行妖の化身としてピンク色の女性の姿があらわれるが、この女性は能面を被っているように見える。本作で能といえば西行桜だが、被っている能面は、西行桜で使われる皺尉のような老人の面ではなく、女方の面。おそらく、殺生石という演目で使われる万媚ではないかと思われる。 殺生石は、近寄るものを殺す石の話だが、その正体は、玉藻の前、つまり九尾の狐である。本作で大々的に藍が登場することは無いが、ラストシーンに影で登場しているように、藍も何か幽々子に関係があるように思えてならない。 |
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3:57では狐(?)のような影が西行妖の化身にまとわりついている。 ちなみに、この時の背景の人の数は9人である。 |
西行妖の化身の舞
本作のクライマックス、桜を背景に西行妖の化身が舞うシーンは、 能「西行桜」を精密に模している。 配役は次の通り。 |
登場人物 | 配役 | 役割 |
西行妖の化身 | シテ | 舞台中央、夢幻能では亡霊や神仙などの超自然的存在。 |
幽々子 | ワキ | 舞台右手前、通常背中を向けている。通常人間。 |
4人の人影 | 囃子方 | 舞台奥4人の楽器演奏者。 |
9人の人影 | 地謡 | 舞台右8~10人、シテの心理描写や情景描写担当。 |
右手で扇を投げるのは、シカケと呼ばれる能の所作の一種。
西行妖の化身が座るは、居グセと呼ばれる能のクライマックス部の表現を模したものだと思われる。
また、能「西行桜」では、物語の後半、シテ・ワキ・囃子方による掛け合いが行われるが、
本作でも歌とSHUT UP!という声の掛け合いが行われており、その点でも能の構成が模されている。
なお、西行桜のような能は、夢幻能と呼ばれており、「シテ(=死者)による語り」を特徴とする。
また、通常、夢幻能は「ワキ(人間)の夢の中でシテ(死者)が夢を見ている」という構成になる。
能の解釈からすると、本作は、
幽々子の夢の中に現れた西行妖の化身による語り(または更にその夢)という設定になる。
本作におけるこのシーンの解釈は、西行妖と同じように自らの手も穢れている事に気づいた幽々子、
西行妖が幽々子の隠れ蓑になっていた、等様々である。詳しくはkamS掲示板を参照。
参考動画
参考文献
- 日本の美術12 No.271 六道絵 (至文堂) ISBN-10:4784332715
- 和歌文学大系21 山歌集/聞書集/残集 (明治書院) ISBN-10:4625413168
- 東方求聞史紀 (一迅社) ISBN-10:4758010633
- 仏教辞典 他
参考ページ
- 【画像】餓鬼草紙(東京国立博物館) 欲色餓鬼
- 【画像】餓鬼草紙(東京国立博物館) 伺嬰児便餓鬼
- 【画像】餓鬼草紙(東京国立博物館) 伺便餓鬼
- 【画像】餓鬼草紙(東京国立博物館) 疾行餓鬼
- 【画像】六道絵 等活地獄 (聖衆来迎寺)
- 【画像】六道絵 人道不浄相 (聖衆来迎寺)
- 【画像】六道絵 天道 (聖衆来迎寺)
- 【画像】北野天神縁起 承久本 (等活地獄)
- 【画像】六道輪廻図(Wikipedia)
- 西行 反魂伝説
- ギフチョウ(Wikipedia)
- ギフチョウの特徴
- アテナイの学堂(Wikipedia)
- レオナルド・ダ・ヴィンチ 洗礼者ヨハネ
- サロメ(Wikipedia)
- 能「殺生石」研究
- 能面女系一覧表
- 能「西行桜」ストーリー全体解説
- 九重に咲けども~の解説
- 六道(Wikipedia)
- 能(Wikipedia)
関連コミュニティ
関連項目
- 29
- 0pt