五十鈴(軽巡洋艦) 単語

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五十鈴(軽巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した長良軽巡洋艦2番艦である。1923年7月21日工。大東亜戦争では開戦劈頭より戦い続け、長良最後の生き残りとなった。戦争末期1945年4月7日、スンバワ撃を受けて沈没した。

概要

艦名は三重県を流れる五十鈴川から取られている。伊勢市路山をとし、伊勢神宮内宮を通って二手に分かれ、二見合で伊勢湾に注ぐ。由来が伊勢神宮と関わりがあるため、式年遷宮祭に参列した事がある。五十鈴長良はおろか日本軽巡の中で一防巡洋艦装された奇特な艦歴を持つ。

は全長162.2m、全幅14.2m、排水量5570トン、出9万馬、最大速36ノット。装後の要は全長162.15m、全幅14.17m、排水量5170トン、出9万馬、最大速36ノット。を全て降ろしたからか若干軽くなっている。

艦歴

戦前

1917年度計画にて第7号中二等巡洋艦として建造が決定。19197月17日軍艦五十鈴と命名される。1920年8月10日171の仮称を与えられて浦賀船渠で起工。浦賀船渠が手がける最初の巡洋艦となった。1921年10月29日に進し、試で35ノットを記録。1923年6月10日13時、全試中に二人乗りの漁と衝突事故を起こして漁沈没してしまった。災難に遭いつつも、7月21日工。8月15日横須賀鎮守府へ編入された。

工から1ヶも経たないうちに未曾有の国難が襲った。9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。五十鈴駆逐艦初霜とともに横浜の警備を行った。横浜市本牧及び根岸方面の混乱を鎮めようと、台山の退役兵・金子蔵氏は単身小港からボートで出発。闇2時間漕ぎ続け、合いを警していた五十鈴のもとへ辿り着いて警備を懇請。五十鈴側は兵二個小隊派遣し、金子氏の先導を受けながらラッパを鳴らして町を行進した。その強い行進は被災者の心を支えたという。

1926年4月21日横須賀で上甲流場を新設。

1929年9月30日伊勢神宮の式年遷宮祭に参列するため横須賀を出港。10月1日午前10時二見に到着。10月2日及び5日、伊勢湾にて式年遷宮祭に参列。午前8時45分から20時まで伊勢湾から拝式を挙行した。10月30日、重幕装置の新設と内火艇の換装を実施。12月21日要港部から中国方面の警備巡航を受け、12月26日17時を出港。翌27日に汕頭へ入港し、支那砲艦永績と礼交換を行った。艦長以下15名が見学の的で潮州を見学。翌年1月6日17時、汕頭を出発してアモイに向かう。1月7日午前10時アモイ入港。艦長が現地の領事館を訪ねる。1月13日15時アモイを出発して福州へ移動。翌日午前11時、福州尾入港。支那軍艦籌が入港してきたため、互いに特使を送って情報交換したのち礼交換。1月25日15時に出発する予定だったが、の悪化と高潮により延期。1月26日午前7時、巡航任務を終えて出発し、高雄に向かう。翌27日午前5時高雄に到着。陸に横付けして燃料補給を受け、に帰投。重な情報を持ち帰った。

1930年4月18日要港部から汕頭の警備命を受領。中国では不穏当な空気が流れており、在留邦人の保護が急務であった。4月26日17時を出港して汕頭へ移動。支那軍艦楚同や駆逐艦に訪問使を送り、艦長は現地の領事と情報交換を行う。対峙する中国国民党と軍閥同盟が各地に軍を展開している様子だった。5月8日午前10時、汕頭を去って帰路につく。中、第26駆逐隊連合教練を行い、5月9日午前10時到着。ところがその直後の5月11日蒋介石率いる中国国民党と軍閥同盟が戦端を開いて中原大戦が勃発。福州でも撃の音が聞こえ始めたため、要港部は五十鈴に福州全域の警備任務を命じた。6月7日22時40分、福州に向けてを出港。速22ノットで航行しながら陸戦隊教練や訓練を行った。6月9日午前10時29分、尾に入港。福州総領事代理と在留邦人代表数名が五十鈴に来訪した。一方で艦長は総領事館を訪れ、情報本部を設置。情報収集と各部の連絡を確立した。12月1日横須賀へ帰投。

1933年横須賀近代修。射出機の搭載、混焼を重専焼へ換装、対兵装強化、滑走台の撤去等を実施した。ここから細々とした装に着手。12月11日機械室に増減速計を設置。1934年5月15日外部掃除装置を設置。7月19日横須賀で第2及び第3室の通路防波幕装置を、8月29日に発射揮所から測的所に至る伝管を新設。1935年2月13日、前部機械室内電話室の拡を実施。4月15日、第1室の通路防波幕装置を新設。7月15日電話機から前部電信室と測的所に至る3m半の伝管を設置する。

1936年7月29日、降路管設置に伴い不要になった塞を撤去。11月2日、潜戦隊旗艦になるのを見越して部用図台を新設。12月1日、第7及び第8潜隊とともに第1艦隊第1潜戦隊を編制し、その旗艦となる。12月3日横須賀で機庫を兵員病室に改造

支那事変

1937年7月7日事件勃発により北支で日中の武衝突が発生。行きが怪しくなる中、五十鈴を含む連合艦隊佐伯湾に集結して訓練に従事していた。8月7日午前10時連合艦隊作第12号の発により五十鈴率いる第1潜戦隊力部隊へ編入。同日中佐伯を出港し、佐世保へ回航。作戦準備を整える。そして8月11日午前8時30分、佐世保を出発して南支方面で活動。ところが8月13日夕刻、第二次上海事変が発生。蒋介石総統が直々に揮を執る国民党軍3万が、日本人租界と守備隊4000名に襲い掛かったのである。国民党軍はドイツ製の最新鋭武器で固めており、また強航空攻撃が困難という不利も手伝ってく間に守備隊は劣勢に立たされた。8月14日20時連合艦隊部は五十鈴大井厳島第24駆逐隊に佐世保への帰投と、速やかに上海方面への増援輸送に従事するよう命じた。8月17日午前5時、佐世保を出港。第11師団の集結地となっている多度急行陸軍先遣部隊の上陸に協するべく軍隊区分が発され、五十鈴は第1護衛隊に部署。

8月20日17時、第11師団を乗せて多度を出港。戦渦巻く上海へと向かい、まず先にあるに寄港。淞方面から来た川内率いる第1戦隊と合流し、人員の移乗を行ったのち、8月22日17時に出発。川内大井第24駆逐隊、第9駆逐隊五十鈴の順に警航行序列を組んだ。中で台から撃を受けるも被害く、同23時51分に沙口泊地に到着。揚陸作業を行う。陸兵の揚陸を終えた後は撃任務につき、翌日駆逐艦山風とともに河河口へ約1時間の艦砲射撃を加えた。任務後、沙口泊地へ帰投。五十鈴偵は僚艦の偵と協同で、22日と23日に河鎮、嘉定、淞方面への偵察及び爆撃を行った。8月25日、佐世保に帰投。9月17日、第7、第8潜隊を率いて佐世保を出港。中支や南支方面で沿封鎖作戦に従事する。9月14日支那方面の作戦総括する第3艦隊に編入されるとともに南支部隊に所属。香港を中心として100里圏内の航洋船舶の監視任務につく。封鎖部隊の活躍により国民党軍が自由に使える港はか、後は他の租借地である香港門、広州湾に限定された。10月7日へ入港。12月1日、第2艦隊第2戦隊に転属。

1938年3月1日、予備艦となる。

1941年9月15日際情勢緊迫に伴って第2遣支艦隊は広東省において第23軍部と打ち合わせを行い、英領香港攻略を企図したC作戦を策定。香港は人口約100万を擁するイギリス租借地であったが、重慶政府の補給港として機。第三イギリスが領有しているため攻略する訳にも行かず、の上のコブとして支那派遣軍を散々悩ませていた。作戦の策定に伴って五十鈴は第2遣支艦隊第15戦隊に転属し、旗艦となる。9月16日横須賀を出港して南支方面での上封鎖に従事する。11月6日山泊地に五十鈴砲艦立、嵯峨、鵲が集結。旗艦五十鈴C作戦の図上演習が行われた。11月17日から26日にかけて、付近で第11航空艦隊の撃訓練と連合して各種対訓練を実施した。翌日に高雄へ回航され、完成した作戦を各所に転送11月27日より機密保持のため用以外の郵便物の発送及び上陸が禁じられた。南支部隊16号により12月1日までに臨戦準備を整えるよう命じられ、11月28日高雄を出発。山と大亜湾を経由し、12月4日アモイへ入港。五十鈴は各部に作戦を下達した。12月5日、開戦日は8日とする旨の電支那方面艦隊部より届いた。旗艦の五十鈴連合艦隊各旗艦通信系に配され、連合艦隊部と直接連絡できるようにした。12月6日アモイを出港。香港攻略作戦区へ回航して臨戦準備を取る。主任務は敵艦の監視封鎖と、衣局、ストンカッター、摩台の爆撃に大別された。

大東亜戦争

1941年

1941年12月8日未明、マレー半島への上陸とハワイ方面の攻撃が開始されて大東亜戦争が開戦。イギリスアメリカと交戦状態に入った。開戦と同時に陸軍航空隊が飛行場を襲し、12機の敵機を地上撃破。続いて第38師団が香港に突入した事で戦端が開かれた。上でも水上艦が香港合いを封鎖し始める。12月9日五十鈴から九四式水上偵察機が発進。港内の偵察を行う。午前9時香港を偵察中に英河用砲艦ターンを発見して60kg爆弾を投下したが、外れた。敵船舶は終日合いに現れず、不気味穏が続く。12月13日陸軍大陸側の九半島を占領。イギリス軍は対香港に追い詰められた。この日も水上に敵船舶は現れなかった。港内では進出した隊が英商を拿捕している様子だった。12月17日艇鵲と鵯の前路を受ける。12月22日駆逐艦電で発生した急病人を収容する。

12月25日19時30分、ヤング総督と総指揮官ルトビー少将前線に現れ、降に向けての協議を開始。翌26日、五十鈴は急西口に進出して港内進入に備える。また乗組員で臨時の陸戦隊を編制し、九方面の警備に従事。12月27日午前11時、急西口を出発。午後12時30分に香港海軍前錨地へ到着した。12月31日には各路の掃了し、香港は制圧された。

1942年

1942年1月15日香港を出発し、翌日へ入港。1月26日マレー方面に向かう第25軍の輸送団を護衛して出港。2月3日シンゴラまで送り届ける事に成功し、2月8日香港へ入港。警備艦として港内に停泊し続ける。3月31日から4月8日にかけて第2海軍工作渠で入渠整備。4月10日、新設される第2南遣艦隊第16戦隊へ転属。名取鬼怒と肩を並べる。翌11日、香港を出港。マカサルを経由して4月24日にボルネオのバリクパパンへ寄港した。この日、小スンダ列攻略(S作戦)が発され、スラバヤへの集結を命じられる。4月29日、スラバヤへ入港。5月7日指揮官の原少将は機密東印部隊S攻略部隊作第1号を発して作戦計画を明らかにした。五十鈴艇友とともに隊へ編入され、全作戦支援を帯びた。5月8日、S攻略部隊はスラバヤを出撃。敵の抵抗く、予定より了。5月25日にスラバヤへ帰投。この日、S攻略部隊は編制を解かれた。6月20日、スラバヤを出港して内地へと向かう。6月28日横須賀に帰港。6月30日から7月8日まで横須賀で入渠整備。

次はタンニバル、ケイ、アルを敵に先んじて占領するT作戦への参加を命じられ、7月18日横須賀を出港。第24特別根拠地隊の揮下に入る。7月26日アンボイナを出港してアラフラに進出。三分割された攻略団の上陸援護に回った。7月30日、ほぼ同時にドボ、トアールラングール、サムラキへの敵前上陸に成功。サムラキではしい撃を受けたが、それ以外では連合軍の抵抗は微弱で簡単に制圧された。五十鈴アンボンへ帰投した。何事もくT作戦了するかに見えた7月31日サムラキの陸戦隊からイギリス軍の上陸を受けたとの緊急電が届いた。驚愕した第24根拠地隊は直ちに増援を送る事とし、アンボンに寄港していた五十鈴も緊急出動。増援を乗せた駆逐艦松風艇友とともにタニンバル急行した。ところが直後に誤報と判明し、輸送した増援部隊をそのままサムラキへ揚陸してアンボンに戻った。8月1日夕刻、T作戦は終了した。休む間もなく今度はインド洋で通商破壊を行うB作戦への参加が決まり、アンボイナを出港。8月8日に集結地のメルギーへ到着したのだが、同時期にソロモン諸島ガダルカナル島アメリカ軍の大部隊が襲来。B作戦は中止となり、翌9日にメルギーを出港。8月28日マカサルへ到着し、警備艦の任につく。

9月9日、スラバヤへ寄港し、ソロモン戦線に送る第17師団と第2師団を収容。9月11日鬼怒松風とともに出発して翌日バタビアに寄港。第2師団歩兵第16連隊第3大隊460名を収容した。9月13日鬼怒とバタビアを出発。ニューギニア航路を通り、9月20日ラバウルへ到着。ここで一部を揚陸し、翌日出港。9月22日に最前線基地ショートランドに入港し、輸送してきた人員と物資を全て揚陸した。翌23日に出港、ラバウル南東で鬼怒と別れてトラックに向かった。9月25日トラック着。午前9時45分から14時20分まで玄洋丸から補給を受ける。第2戦隊に編入され、田中頼三少将が座乗する旗艦となる。

10月5日戦艦金剛榛名によるヘンダーソン飛行場撃が決定。その護衛の一員として五十鈴も参加する事になった。10月9日15時、タンカー日本丸が横付けして燃料補給。10月11日午前3時30分、戦艦金剛榛名と一緒にトラックを出撃。駆逐艦黒潮親潮潮、海風江風涼風高波巻波長波戦艦に随伴する。針路170度、速24ノットで一路ガダルカナル島す。午前9時47分、遠距離に敵飛行艇1機が出現したが、敵機の運動と通信状況から発見の危険性はいものと判断された。14時1分、ガ及びツラギ方面の敵情把握のため五十鈴から偵が飛び立った。基地航空隊哨戒機15潜から敵艦隊発見の報が届いたため会敵の算大とし、16時以降は全魚雷即時待機となった。極限の緊状態の中、敵に発見される事ラモスマライタの間を通過し、サボ北方に到達した。22時38分、エスランス東方火を認めてサボ南方に進入。速を18ノットに落として射撃コースに入った。23時35分、レカタ基地から来た偵が飛行場の位置を示す大投弾を投下。闇の中でハッキリとヘンダーソン飛行場が照らし出された。1分後、まず最初に金剛が、続いて榛名の巨が火を噴いた。五十鈴は第15及び第31駆逐隊とともにツラギ方面の敵軍と交戦。照射撃を受けたが、距離が遠すぎたため命中せず。五十鈴撃でサーチライトを破壊し、敵のを奪った。翌14日午前0時13分、反転して今度は来たを辿る。既に飛行場は火のに沈み、あちこちで誘爆が発生していた。午前0時58分、撃を切り上げて最大戦速で北方への離脱を図る。午前1時19分、南東方向にて突入してきたPT-46、PT-48、PT-60、PT-38からなる第3魚雷艇隊を発見。長波の活躍で追い払われた。午前4時48分、第2航空戦隊零戦が現れて上陸援護を開始。そして正午頃に本隊との合流を果たした。この撃はガで苦戦を強いられている第17軍の士気を上げ、現地の部は「野1000門に匹敵する」と報じた。

本隊合流後、ガダルカナル島陸軍総攻撃に呼応して艦隊決戦を挑むべく、ソロモン諸島北方を遊する。10月16日午前11時40分、日本丸から給油を受け、翌17日午前5時30分に二度の補給を受ける。10月19日午前1時45分、極東丸から燃料補給。10月22日15時30分、今度は飛鷹から送され、21時30分に了。10月24日深夜、第17軍が総攻撃を開始したため、近藤竹中将率いる前進部隊とともに南下を始める。17時より飛行場攻撃を実施、21時には占領したとの吉報が舞い込んだ。10月25日午前7時8分、比叡霧島が触接中の敵飛行艇を発見。後方の機動部隊にも触接機が現れた事から会敵は避けられない事態となった。

10月26日午前1時30分、敵機に発見されて爆撃と触接を受ける。被害こそかったが、これが南太平洋海戦の幕開けとなった。午前4時50分、サンタクルーズ北北東に敵機動部隊を発見。前進部隊は敵が潜む域への進出を命じられた。敵の攻撃は比叡霧島に集中したため、五十鈴は損を受けなかった。戦も終わりに近づいた23時30分、前進部隊285号により各艦から偵が発進。総揮は五十鈴の飛行長が執った。間もなく長良機が大破炎上中の空母ホーネットを発見。長良機、摩耶機、五十鈴機等が前進部隊ホーネットのもとまで誘導する。周囲を取り囲んでみると、既に放棄された様子だった。一時は駆逐艦による航が試みられたが火勢が強くて近づけず、結局撃処分となった。10月28日午前0時30分、長波とともに神国丸から燃料補給。10月30日トラックへ帰投。

11月3日、第15、第24、第31駆逐隊とともにトラックを出港。第38師団をショートランドまで輸送した。11月12日午前6時30分、給油鶴見の左舷に横付けて燃料補給。11月13日午前3時、飛行場撃に赴く重巡摩耶鈴谷を援護するため一緒にショートランドを出撃。第三次ソロモン海戦艦隊が退けられたため敵と遭遇する事はく、中で摩耶鈴谷と別れた。その後、2隻は内懐に飛び込んでヘンダーソン飛行場を撃。事帰路についた。11月14日午前6時ニュージョージア南方で2隻と合流。第四警航行序列を組み、駆逐艦4隻が横一列になって前路を実施。左に五十鈴衣笠鳥海が、右に鈴谷摩耶天龍が続航する。しかし安全圏へ逃げ切る前に明けを迎えてしまい、機回復したヘンダーソン飛行場から飛来した哨戒機に発見されてしまった。まず最初に敵戦闘機7機、ドーントレス急降下爆撃機7機、アベンジャー撃機6機が出現。衣笠に4本の魚雷が命中し、艦隊から落。続いてドーントレス16機が襲来。遅れていた衣笠トドメを刺されてしまった。午前8時30分頃からは五十鈴も標的となり、1000ポン爆弾2発が至近弾となって第2及び第3室満故障の被害をこうむる。一時は航行不能になって艦隊から落してしまう一幕もあったが、煙幕を出して沈没寸前に見せかける事でトドメを刺されるのを防いだ。駆逐艦朝潮の護衛を受けながらショートランドに帰投し、特設工作山彦丸に横付けして応急修理11月16日駆逐艦望月に付き添われてショートランドを出発。11月20日トラックへ入港、今度は工作明石から応急修理を受ける。本格的な修理を行うため内地帰投が決まり、12月8日トラックを出発。12月14日、やっとの思いで横須賀に帰投した。

1943年

1943年1月11日横浜へ回航され、1月19日より横浜浅野渠に入渠して修理4月1日那珂とともに第4艦隊第14戦隊を編制し、5月1日に出渠。搭載機を九四式水上偵察機に刷新した。5月7日横須賀に移動して試と訓練に従事。5月21日横須賀を発ち、瀬戸内海西部へ回航。

6月10日三宅島東方トリガー撃を受けて航行不能に陥った空母飛鷹の救援に出発。翌11日に合流するも、既に自航行が可な状態にまで回復していた。駆逐艦有明や夕暮とともに飛鷹を警護し、に館山沖へ到着。6月16日14時戦艦金剛榛名空母龍鳳雲鷹冲鷹等と横須賀を出港。五十鈴にはナウルへ進出する第2特別陸戦隊453名と物資が便乗していた。6月21日午前2時41分、トラック前にして潜スピアフィッシュに発見される。午前3時37分、4本の跡が伸びてきて、そのうち2本が五十鈴に向かったが回避に成功。同日中トラック泊地へ到着した。6月22日那珂谷風浜風とともにトラックを出発。6月25日的地のナウルへ到着し、陸兵453名を揚陸する。6月28日トラック到着。タンカー玄洋丸から給油を受ける。7月2日五十鈴の九四式偵がパラオ派遣された。7月16日午前7時駆逐艦玉波とトラックを出港。2隻とも350名の陸兵と物資200トンを積載しており、ナウルに届けた。7月22日トラック帰投。7月24日トラック西方230里でティノサの撃を受けて航行不能になった第三図南丸を救うべく、駆逐艦を率いて出港。翌日到着し、玉波、特設工作艦雄、特設砲艦金城丸、第二長安丸、第5及び第12号駆潜特務艇を揮して航。7月28日午前1時45分、トラックへ戻った。

8月15日アメリカ軍がベララベラへ上陸。これを受けて五十鈴は14時30分にトラックを出撃、グリニッジへ送られる機弾200トンラバウルに輸送した。8月19日トラック帰投。9月3日、クェゼリンへ兵員を輸送する団を那珂と護衛して出発。クェゼリンマロエラップに寄港して兵員を揚陸した。9月12日、クェゼリンを出港した直後に五十鈴那珂団から分離。潜の撃で損傷した給油知床富士丸の救援に向かった。ミレ、ウォッゼ、ヤルートを巡航したのち、10月3日トラックへ帰投した。10月6日、被沈没した給油風早生存者を救うべく駆逐艦初風海風を率いて出港。翌日トラックへ戻った。10月7日午前に機動部隊大鳥へ来襲した事を受け、連合艦隊作戦第一法警が発。夕刻、第14戦隊栗田丸、駆逐艦、甲支隊を以って上機動兵団を編制。10月8日午前、五十鈴トラックを出発してボナペに向かったが、中で警解除となったため同日に帰投した。

支那派遣軍の第17師団をニューブリテン出する事になり、大軽巡洋艦の投入が決定。10月10日午前、丁4号作戦参加のため那珂、清澄丸、護丸、山雲トラックを出発し、上海に向かう。翌12日23時30分、南西で被大破した給糧艦間宮を救うため那珂と分離。10月16日まで間宮の護衛につき、内地まで送り届けた。10月18日上海に到着。第17師団兵員471名や弾薬202機関銃8丁等を搭載し、那珂や護丸と丁4号作戦第2輸送隊を編制。10月21日に出港してラバウルに向かった。しかし出港直後にシャドグレイバックセロウルフパックに捕まり、追跡を受ける。同日23時30分、シャドレーダーに捕捉される。攻撃位置へ付くのに手間取ったものの、10月22日午前2時13分に10本の魚雷を発射。爆雷攻撃を警してシャド々に潜航した。放たれた魚雷は全て五十鈴那珂に回避され、被害かった。しかし栗田丸が22日に撃沈されたため、ラバウル直行の予定から一旦トラックへ寄港する事に。

10月30日午前、中継点のトラックに寄港。ここで戦の再編を行い、駆逐艦磯風浦風が護衛に、ラバウル行きの日章丸、日威丸、丸が加わった。11月1日午後、ラバウルして出港する。11月3日午前11時29分、カビエンの北方60里でB-24爆撃機19機から襲を受け、続いて21機から襲を受けた。那珂と護丸は至近弾で済んだが、清澄丸が航行不能となる。15時五十鈴が清澄丸の航を開始。ラバウルから救援に来た駆逐艦水無月が対潜を行った。翌4日午前5時30分、カビエンへ避難。作戦に耐えられなくなった清澄丸から兵員196名と75mm機4丁を受け取った。同日夕刻、那珂とともにカビエンを出発。ところがカビエン南西8里にシルバーサイズが仕掛けた機原へ突っ込んでしまい、第2搭下の爆発で小破。五十鈴磯風が損傷したが、幸い航に支障はかった。11月5日午前6時55分にラバウルへ到着。五十鈴は兵員471名、弾薬202個、機8丁の輸送に成功した。しかし今度は第33任務部隊による襲に遭遇してしまう。第一次襲で戦闘機約40機と艦爆約40機が、第二次襲で大機28機と戦闘機約40機が襲来。対戦闘で応戦するも、機掃射で損傷を負った。11月6日午前4時30分、未だ襲の兆が見られるラバウルから脱出する。11月9日トラックへ到着し、緊急修理

11月20日アメリカ軍ギルバートマキンとタラワに襲来。この危急を受け、翌日那珂とともにトラックを出撃。陸軍部隊をボナペに輸送する。11月22日、ボナペにてギルバート向けの援軍約1500名を収容するが、11月23日マキン及びタラワを失陥。増援が意味を成さなくなってしまった。やむなく行き先をマーシャル諸島へ変更し、クェゼリンとミレに陸兵を揚陸した。12月4日、ルオットへ寄港。

12月5日午前4時55分、ルオット停泊中に第50任務部隊による襲に遭遇。第6右舷側に250kg爆弾3発が命中し、士官室付近から出火。後部弾薬庫並びに後部電信室が被弾により使用不能となる。更に至近弾で機室右舷側外が破壊されて左側軸以外の全推進軸が使用不能、速12ノットに低下。機掃射で乗員20名が死亡、40名が負傷した。12月7日満身創痍の状態でルオットを出発してクェゼリン回航。特設工作艦山丸から応急修理を受け、12月9日長良に付き添われて出港。途中で海防艦天草も護衛に加わった。12月12日トラックへ到着し、工作明石から修理を受ける。

1944年

1944年1月17日トラックを出発し、1月19日サイパンへ寄港。港外に停泊していたため、第八丸や第十丸が対潜掃討を行っている。1月23日横須賀到着。直ちに入渠して本格的な修理を受けた。5月1日横須賀を出港して横浜に回航。5月13日より三菱重工横浜所で防巡洋艦への装が行われた。の14cm単装を撤去し、12.7cm連装高3基と25mm三連装機11基、25mm単装機5基を搭載。不要になった射撃揮装置を外し、九四式高射装置と対り用の21号7電探と13号電探、水上り用の22号電探を装備。前部の魚雷発射管を撤去し、後部の魚雷発射管を酸素魚雷に対応した九二式61cm四連装魚雷発射管2基に換装した。前部の発射管があった部分は兵員室が新設されている。更に対潜装備として水中探信儀、水中聴音機、爆雷投射機、爆雷投下軌条、爆雷90発を新たに装備。通信用に赤外線信号も備え、対潜・対に優れた艦に仕上がった。8月6日、工事了。8月20日連合艦隊隷下に新設された第31戦隊に編入されて旗艦となる。元々は名取定される予定だったが、その前日に撃沈されたため入渠中の五十鈴が代役となった。9月14日に再就役を果たす。

10月6日横須賀を出港し、へ回航。10月8日から瀬戸内海西部戦闘訓練に従事した。10月17日アメリカ軍レイテ湾スルアンに上陸して橋頭堡を築く。翌18日、捷一号作戦が発され、小沢三郎中将率いる機動部隊に編入された。とはいえその実態は敵機を釣り上げる囮部隊であり、生還を期さない絶望的な作戦だった。10月19日から来た給油艦から燃料補給を受け、夕刻までに出撃準備を了した。総兵空母瑞鶴(旗艦)、瑞鳳千歳千代田戦艦伊勢日向軽巡大淀多摩五十鈴駆逐艦秋月霜月、桑、槙、だった。10月20日午前7時、第43駆逐隊を率いて出港し、豊後の対潜掃討を実施。17時20分まで掃討を行った後、18時大分から出港してきた本隊と合流。栗田艦隊より先に見つかる必要があるため、盛んに偽電を打って立つ行動を取った。10月23日、パラワン重巡愛宕摩耶が撃沈され、高雄が大破したとの情報が入った。先行きを暗くする戦況に、艦には重苦しい空気が流れた。10月24日午前6時小沢艦隊は予定地点に到着。

エンガノ岬沖海戦

10月25日午前6時49分、第四警航行序列に移行。午前7時13分、最も南にいた戦艦日向270度方向170kmに2機の索敵機を発見。午前8時4分、瑞鶴が敵機4機発見を報じたため対戦闘を下。全即時待機となす。午前8時8分には左120度方向に敵機170機が確認された。2分後、見り員が「右40度敵機」と報告。ゴマ粒のように小さかった敵機の大群が次第に大きくなる。午前8時22分、五十鈴は24ノットに増速。そして午前8時26分に対射撃を開始した事でエンガノ戦が幕を開けた。

爆撃急降下爆撃撃と敵機は多な方法で五十鈴を攻撃するが、艦を右へ左へよじって回避する。午前8時34分、千歳の被弾を確認。その1分後には右30度1000m先にいた駆逐艦秋月が突如爆発。煙が晴れた時には何も残っていなかった。高められた対を最大限に発揮し、敵機2機を撃墜した。第一次襲は30分で終了し、午前9時五十鈴は対射撃を止めた。命中弾多数を受けた千歳の息になっており、瑞鶴から千歳航を命じられる。午前9時40分、準備を終えて千歳のもとへ駆けつけるが、到着する前に千歳沈没午前9時50分、多摩の警を命じられて現場から離れた。

午前9時56分、第二次襲開始。左100度方向より来襲する敵機10機に応戦し、1機を撃墜。傷だった千代田に攻撃が集中し、午前10時16分に大破漂流状態に陥る。また軽巡多摩航空魚雷により大破した。旗艦瑞鶴より多摩の救援を命じられ、午前10時25分に多摩と同航。本隊との合流をして移動を始める。3分後、左90度方向より敵機4機が接近し、1機を撃墜して追い払った。午前10時40分、左90度方向4000m先に千歳の集団漂流者を発見。襲を受ける危険を承知で艦を止め、救助を行う。応急修理により18ノットを出せるようになった事から、多摩は単独で中城湾へ向かった。およそ300名を救助したが、午前11時20分に敵機4機が飛来したため救助を打ち切り、第二戦速で対戦闘。1機を撃墜して敵機を退けた後、再び救助を実施。午前11時48分、霜月が現れて生存者救助を手伝ってくれたおかげで480名を収容できた。午後12時5分、救助を霜月に任せ、五十鈴は本隊と合流するべく18ノットで向かう。

午後12時45分、戦艦日向座乗の第4航空戦隊部より大破漂流中の千代田航するよう命じられる。しかしこれまでの戦闘五十鈴は燃料が不足し始めており、航は困難と返信。やむなく千代田を撃沈処分する事とし、五十鈴と槙に千代田の処分と生存者の救助を命。準備をしながら現場域へ向かう。13時26分に敵機の襲撃を受けるも撃退し、千代田に近寄る。13時50分、瀕死千代田トドメを刺そうと敵機が襲い掛かってきたが、2機を撃墜して切り抜ける。一度は困難と判断しながらも、航準備を開始した。度々米軍機が襲い掛かってきて、襲撃は17回に及んだが、その都度五十鈴の対射撃で追い払われた。艦内では救助された千歳の乗員も装填作業や死体の片付けを手伝っていた。14時14分に遂に五十鈴も被弾。前部機揚弾筒に爆弾が命中し、艦電路、機、転輪羅針儀が故障。応急操に頼らざるを得なくなる。14時20分、襲が終わったため千代田に近づこうとするも、再び敵機が確認された。14時26分から47分まで敵機3機と交戦。終わったのも束の間、今度は12機の敵機が襲来。対射撃で2機を撃墜する。千代田の救難及び処分を試みるも、敵機の襲来がしく一向に進まなかった。15時30分、千代田の放棄が決定。艦を接舷させる旨を手旗信号と旗流信号で伝える。千代田の飛行甲には生存全員が整列し、軍艦旗を降下させている。君が代を奏でるラッパの音が悲しく聞こえるようだった。千代田の左舷へ横付けしたその時、右線上に敵機の大編隊が発見された。慌てて千代田から離れ、対戦闘の態勢を取る。千代田でも戦闘配置を告げるラッパがき、クモの子を散らすように配置へついて高を撃ち始める。15時40分、やなむく襲の脅威が去る日を待つ事にし、北方へ退避。16時20分、左20度方向に伊勢を確認。執拗な襲により今や小沢艦隊は散り散りになっていて、広い域に散在している状態だった。16時26分、襲来した敵機10機に対して応戦し、1機撃墜。17時34分、今度は敵機40機が襲ってきたため対射撃で迎撃、1機を撃墜する。17時47分、千代田生存者を救助すべく南下を開始。

18時15分、瑞鶴生存者を救助していた駆逐艦初月と若を発見。初月千代田の位置を尋ねたが、判然としなかったので一緒に捜索する事に。19時5分、初月が突如発。その先にはデュポース少将率いる水上艦隊の姿があった。既に千代田はデュポース艦隊に討ち取られていたのである。2分後、五十鈴レーダー射撃を受け、艦首を挟叉。電探で距離を調べたところ、敵との距離は2万4500mと測定。恐るべき正確さであった。敵は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦12隻の計16隻で、軽巡1隻と駆逐艦2隻のみの日本側にはとても勝ちかった。直ちに五十鈴千代田の捜索中止を小沢中将へ報告、煙幕を展開しながら針路320度に反転する。しかし敵艦隊はレーダーを有しており、煙幕の中でも正確に撃を加えてきた。また敵の方が優速であり、このままでは追いつかれて全滅する危険性すらあった。彼距離がグングンと縮んでいく。そして6里まで距離が縮んだ時、初月が「、艦載内火艇収容のため引き返す」と手旗信号で伝えてきた。五十鈴と若を逃がすため、単身16隻の敵に挑みかかった。そして19時から21時までの2時間を稼ぎ、撃沈された。その間に五十鈴と若は安全圏まで離脱。予期せぬ足止めと弾薬消費を強いられたデュポース艦隊も追撃を諦め、レイに引き返していった。一連の対戦闘で、五十鈴は敵機撃墜確実9機と不確実4機の戦果を挙げた。

21時53分、五十鈴たちを助けるため南下してきた大淀伊勢日向霜月と合流。しかし五十鈴の燃料不足が深刻化していたため、夜戦には参加せず単独で中城湾に向かった。燃料が少なくなった事で喫線が見え、スクリュー回りするようになったためを入れて重しにした。10月26日19時中城湾に到着。ここで渇望していた燃料の補給を受け、10月29日へ入港。ここで新式装備を搭載する予定だったが、乗組員が謝絶して一刻も前線復帰を望んだため最低限の修理のみ行われた。

11月8日、第31戦隊駆逐艦8隻を率いて出港。伊勢日向進出を援護する。中で単独北上中の護丸と遭遇し、「必勝を祈る」との信号が送られてきた。返信は日向が行い、「ご期待に副わんことを期す」と返した。しかしその翌日、護丸はバーブに襲われて沈没した。11月14日駆逐艦とともにを出港し、マニラへの増援輸送に従事。11月18日にマニラへ寄港して物資や兵員を揚陸した。11月19日、マニラを出港した直後にコレヒドール西方55里で潜ヘイクから撃を受ける。之字運動むなしく、6本のうち1本が艦尾に魚雷が命中して大破、機を喪失して乗員32名が死亡する。旗艦任務を霜月に継承し、応急修理を行ったのちの護衛を受けてシンガポールに向かう。11月22日シンガポールへ入港し、第101工作部で12月10日まで応急修理を受け、同日にスラバヤへ回航。12月12日より第102工作部で修理に従事。

1945年

1945年2月13日五十鈴3月下旬に修理了と報告し、大本営海軍部に内地回航の示をめた。しかし大本営東南アジアに取り残された艦艇で編制した第10方面艦隊で運用するとして内地回航は果たされなかった。3月25日、全試を了。同日中に第10方面艦隊に編入となる。4月1日修理了。

4月4日ティモールにいる陸軍をスンバワへ輸送する第二次2号作戦に従事するためスラバヤを出港。護衛戦艇雁と第12号及び第34号掃海艇の3隻。これがスラバヤ基地の全戦であった。4月5日午前4時ワインガッで英潜水艦スパークから4本の撃を受けるも、回避に成功。艇雁が対潜掃討を行った。スパーク潜ガビランに位置情報通報し、別のベスゴが五十鈴を視認した。またイギリス第87飛行隊のモスキート戦闘機にも発見されている。同日19時30分、ティモールクーパンに入港。港に待機していた第48師団の兵員を搭載し、21時45分に出港。スンバワへと向かう。

4月6日午前4時45分、スンバワ北方にてダーウィンから出撃してきたオーストラリア空軍B-24、B-25爆撃機29機と交戦。最も大五十鈴に攻撃が集中したが、巧みな回避運動で致命傷を許さなかった。近隣に展開していた陸軍第17練成飛行隊の一式戦2機が応援に駆けつけ、後に増援を得て4機となる。午前9時40分にB-24から投下された300kg爆弾2発が至近弾となり、左舷艦首を損傷。やむなく人力に切り替える。計60発の300kg爆弾が投下されたにも関わらず軽微に留まり、五十鈴対空砲火により3機のB-24を撃墜した。16時25分、スンバワとコモドの間にあるセプ峡でベスゴが撃。五十鈴を確実に仕留めるべく、500m以下にまで薄した上で9本の魚雷を発射。うち1本が第12号掃海艇に命中し、沈没。数々の敵襲をかいくぐり、同日にスンバワ北東部のビマ港へ到着。第48師団を揚陸し、代わりに第46師団を乗艦させた。

最期

1945年4月7日午前2時20分、艇雁と第34号掃海艇に護衛されて出港。後はスラバヤへ戻るだけだった。ところがチャーのレーダーに捕捉され、ガビランに通報される。午前6時5分、ビマの北西60里で潜ガビランから5本の魚雷が伸びてきて、1本が艦橋下部に命中。浸によって艦首が沈下し、速10ノットに低下する。へ投げ出された陸兵を救助する一方、艦内では乗組員が応急修理を実施。午前8時27分、今度は潜チャーから撃を受ける。至近距離からの撃であり、回避する間もなく4本中2本が左舷後部機関室に命中。生じた大破孔から大量のが流入して体をっ二つに折られ、僅か3分で沈没していった。対潜制圧を警してチャーとガビランは中深くに潜航、五十鈴の最期はスパークが見届けた。乗員189名が死亡し、松田艦長以下450名が雁と第34号掃海艇に救助された。

1945年6月20日、除籍。潜水艦に沈められた最後の日本軽巡洋艦となった。五十鈴沈没を以って長良6隻は全滅した。

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