五十鈴(軽巡洋艦)とは、大日本帝國海軍が建造した長良型軽巡洋艦2番艦である。1923年7月21日竣工。大東亜戦争では開戦劈頭より戦い続け、長良型最後の生き残りとなった。戦争末期の1945年4月7日、スンバワ島沖で雷撃を受けて沈没した。
艦名は三重県を流れる五十鈴川から取られている。伊勢市神路山を源とし、伊勢神宮内宮を通って二手に分かれ、二見ヶ浦と汐合で伊勢湾に注ぐ。由来が伊勢神宮と関わりがあるため、式年遷宮祭に参列した事がある。五十鈴は長良型はおろか日本軽巡の中で唯一防空巡洋艦に改装された奇特な艦歴を持つ。
要目は全長162.2m、全幅14.2m、排水量5570トン、出力9万馬力、最大速力36ノット。改装後の要目は全長162.15m、全幅14.17m、排水量5170トン、出力9万馬力、最大速力36ノット。主砲を全て降ろしたからか若干軽くなっている。
1917年度計画にて第7号中型二等巡洋艦として建造が決定。1919年7月17日、軍艦五十鈴と命名される。1920年8月10日、171番船の仮称を与えられて浦賀船渠で起工。浦賀船渠が手がける最初の巡洋艦となった。1921年10月29日に進水し、公試で35ノットを記録。1923年6月10日13時、全力公試中に二人乗りの漁船と衝突事故を起こして漁船が沈没してしまった。災難に遭いつつも、7月21日に竣工。8月15日に横須賀鎮守府へ編入された。
竣工から1ヶ月も経たないうちに未曾有の国難が襲った。9月1日午前11時58分、関東大震災が発生。五十鈴は駆逐艦初霜とともに横浜の警備を行った。横浜市本牧及び根岸方面の混乱を鎮めようと、台山の退役水兵・金子林蔵氏は単身小港からボートで出発。闇夜の海で2時間漕ぎ続け、沖合いを警戒していた五十鈴のもとへ辿り着いて警備を懇請。五十鈴側は水兵二個小隊を派遣し、金子氏の先導を受けながらラッパを鳴らして町を行進した。その力強い行進は被災者の心を支えたという。
1929年9月30日、伊勢神宮の式年遷宮祭に参列するため横須賀を出港。10月1日午前10時、二見沖に到着。10月2日及び5日、伊勢湾にて式年遷宮祭に参列。午前8時45分から20時まで伊勢湾から遥拝式を挙行した。10月30日、重天幕装置の新設と内火艇の換装を実施。12月21日、馬公要港部から中国方面の警備巡航指令を受け、12月26日17時に馬公を出港。翌27日に汕頭へ入港し、支那砲艦永績と礼砲交換を行った。艦長以下15名が見学の目的で潮州を見学。翌年1月6日17時、汕頭を出発してアモイに向かう。1月7日午前10時、アモイ入港。艦長が現地の領事館を訪ねる。1月13日15時、アモイを出発して福州へ移動。翌日午前11時、福州馬尾入港。支那軍艦海籌が入港してきたため、互いに特使を送って情報交換したのち礼砲交換。1月25日15時に出発する予定だったが、天候の悪化と高潮により延期。1月26日午前7時、巡航任務を終えて出発し、高雄に向かう。翌27日午前5時、高雄に到着。陸岸に横付けして燃料補給を受け、馬公に帰投。貴重な情報を持ち帰った。
1930年4月18日、馬公要港部から汕頭の警備命令を受領。中国では不穏当な空気が流れており、在留邦人の保護が急務であった。4月26日17時、馬公を出港して汕頭へ移動。支那軍艦楚同や米駆逐艦に訪問使を送り、艦長は現地の領事と情報交換を行う。対峙する中国国民党と軍閥同盟が各地に軍を展開している様子だった。5月8日午前10時、汕頭を去って帰路につく。道中、第26駆逐隊と連合教練を行い、5月9日午前10時に馬公到着。ところがその直後の5月11日、蒋介石率いる中国国民党と軍閥同盟が戦端を開いて中原大戦が勃発。福州でも銃撃の音が聞こえ始めたため、馬公要港部は五十鈴に福州全域の警備任務を命じた。6月7日22時40分、福州に向けて馬公を出港。速力22ノットで航行しながら陸戦隊教練や訓練を行った。6月9日午前10時29分、馬尾に入港。福州総領事代理と在留邦人代表数名が五十鈴に来訪した。一方で艦長は総領事館を訪れ、情報本部を設置。情報収集と各部の連絡を確立した。12月1日、横須賀へ帰投。
1933年、横須賀工廠で近代化改修。射出機の搭載、混焼缶を重油専焼缶へ換装、対空兵装強化、滑走台の撤去等を実施した。ここから細々とした改装に着手。12月11日、機械室に増減速計を設置。1934年5月15日、呉工廠で缶外部掃除装置を設置。7月19日、横須賀工廠で第2及び第3缶室の通風路防波幕装置を、8月29日に発射指揮所から測的所に至る伝声管を新設。1935年2月13日、前部機械室内電話室の拡張を実施。4月15日、第1缶室の通風路防波幕装置を新設。7月15日、無線電話機から前部電信室と測的所に至る3m半の伝声管を設置する。
1936年7月29日、降路管設置に伴い不要になった塞板を撤去。11月2日、潜水戦隊旗艦になるのを見越して司令部用海図台を新設。12月1日、第7及び第8潜水隊とともに第1艦隊第1潜水戦隊を編制し、その旗艦となる。12月3日、横須賀工廠で機雷庫を兵員病室に改造。
1937年7月7日、盧溝橋事件勃発により北支で日中の武力衝突が発生。雲行きが怪しくなる中、五十鈴を含む連合艦隊主力は佐伯湾に集結して訓練に従事していた。8月7日午前10時、連合艦隊電令作第12号の発令により五十鈴率いる第1潜水戦隊は主力部隊へ編入。同日中に佐伯を出港し、佐世保へ回航。作戦準備を整える。そして8月11日午前8時30分、佐世保を出発して南支方面で活動。ところが8月13日夕刻、第二次上海事変が発生。蒋介石総統が直々に指揮を執る国民党軍3万が、日本人租界と守備隊4000名に襲い掛かったのである。国民党軍はドイツ製の最新鋭武器で固めており、また強風の影響で航空攻撃が困難という不利も手伝って瞬く間に守備隊は劣勢に立たされた。8月14日20時、連合艦隊司令部は五十鈴、大井、厳島、第24駆逐隊に佐世保への帰投と、速やかに上海方面への増援輸送に従事するよう命じた。8月17日午前5時、佐世保を出港。第11師団の集結地となっている多度津へ急行。陸軍先遣部隊の上陸に協力するべく軍隊区分が発令され、五十鈴は第1護衛隊に部署。
8月20日17時、第11師団を乗せて多度津を出港。戦雲渦巻く上海へと向かい、まず鼻先にある馬鞍群島に寄港。呉淞方面から来た川内率いる第1水雷戦隊と合流し、人員の移乗を行ったのち、8月22日17時に出発。川内、大井、第24駆逐隊、第9駆逐隊、五十鈴の順に警戒航行序列を組んだ。道中で呉淞砲台から砲撃を受けるも被害は無く、同夜23時51分に川沙口泊地に到着。揚陸作業を行う。陸兵の揚陸を終えた後は砲撃任務につき、翌日駆逐艦山風とともに劉河河口へ約1時間の艦砲射撃を加えた。任務後、川沙口泊地へ帰投。五十鈴の水偵は僚艦の水偵と協同で、22日と23日に劉河鎮、嘉定、呉淞方面への偵察及び爆撃を行った。8月25日、佐世保に帰投。9月17日、第7、第8潜水隊を率いて佐世保を出港。中支や南支方面で沿岸封鎖作戦に従事する。9月14日、支那方面の作戦を総括する第3艦隊に編入されるとともに南支部隊に所属。香港を中心として100海里圏内の航洋船舶の監視任務につく。封鎖部隊の活躍により国民党軍が自由に使える港は青島か、後は他国の租借地である香港、漢門、広州湾に限定された。10月7日、馬公へ入港。12月1日、第2艦隊第2水雷戦隊に転属。
1941年9月15日、国際情勢緊迫に伴って第2遣支艦隊は広東省において第23軍司令部と打ち合わせを行い、英領香港の攻略を企図したC作戦を策定。香港は人口約100万を擁するイギリス租借地であったが、重慶政府の補給港として機能。第三国のイギリスが領有しているため攻略する訳にも行かず、目の上のコブとして支那派遣軍を散々悩ませていた。作戦の策定に伴って五十鈴は第2遣支艦隊第15戦隊に転属し、旗艦となる。9月16日、横須賀を出港して南支方面での海上封鎖に従事する。11月6日、萬山泊地に五十鈴、砲艦橋立、嵯峨、水雷艇鴨、鵲が集結。旗艦五十鈴でC作戦の図上演習が行われた。11月17日から26日にかけて、馬公付近で第11航空艦隊の雷撃訓練と連合して各種対空訓練を実施した。翌日に高雄へ回航され、完成した作戦命令を各所に転送。11月27日より機密保持のため公用以外の郵便物の発送及び上陸が禁じられた。南支部隊電令第16号により12月1日までに臨戦準備を整えるよう命じられ、11月28日に高雄を出発。萬山と大亜湾を経由し、12月4日にアモイへ入港。五十鈴は各部に作戦命令を下達した。12月5日、開戦日は8日とする旨の電令が支那方面艦隊司令部より届いた。旗艦の五十鈴は連合艦隊各旗艦通信系に配され、連合艦隊司令部と直接連絡できるようにした。12月6日朝、アモイを出港。香港攻略作戦哨区へ回航して臨戦準備を取る。主任務は敵艦船の監視封鎖と、青衣局、ストンカッター島、摩星嶺砲台の爆撃協力に大別された。
1941年12月8日未明、マレー半島への上陸とハワイ方面の攻撃が開始されて大東亜戦争が開戦。イギリスやアメリカと交戦状態に入った。開戦と同時に陸軍航空隊が飛行場を空襲し、12機の敵機を地上撃破。続いて第38師団が香港に突入した事で戦端が開かれた。海上でも水上艦が香港の沖合いを封鎖し始める。12月9日、五十鈴から九四式水上偵察機が発進。港内の偵察を行う。午前9時、香港島北岸を偵察中に英河用砲艦ターンを発見して60kg爆弾を投下したが、外れた。敵船舶は終日沖合いに現れず、不気味な平穏が続く。12月13日、陸軍が大陸側の九龍半島を占領。イギリス軍は対岸の香港島に追い詰められた。この日も水上に敵船舶は現れなかった。港内では進出した水雷隊が英商船を拿捕している様子だった。12月17日、水雷艇鵲と鵯の前路哨戒を受ける。12月22日、駆逐艦電で発生した急病人を収容する。
12月25日19時30分、ヤング総督と総指揮官モルトビー少将が前線に現れ、降伏に向けての協議を開始。翌26日、五十鈴は急水門西口に進出して港内進入に備える。また乗組員で臨時の陸戦隊を編制し、九龍方面の警備に従事。12月27日午前11時、急水門西口を出発。午後12時30分に香港海軍工廠前錨地へ到着した。12月31日には各水路の掃海も完了し、香港は制圧された。
1942年1月15日に香港を出発し、翌日馬公へ入港。1月26日、マレー方面に向かう第25軍の輸送船団を護衛して出港。2月3日、無事シンゴラまで送り届ける事に成功し、2月8日に香港へ入港。警備艦として港内に停泊し続ける。3月31日から4月8日にかけて第2海軍工作部船渠で入渠整備。4月10日、新設される第2南遣艦隊第16戦隊へ転属。名取や鬼怒と肩を並べる。翌11日、香港を出港。マカッサルを経由して4月24日にボルネオ島のバリクパパンへ寄港した。この日、小スンダ列島の攻略(S作戦)が発令され、スラバヤへの集結を命じられる。4月29日、スラバヤへ入港。5月7日、指揮官の原少将は機密東印部隊S攻略部隊命令作第1号を発して作戦計画を明らかにした。五十鈴は水雷艇友鶴とともに主隊へ編入され、全作戦支援を帯びた。5月8日、S攻略部隊はスラバヤを出撃。敵の抵抗は無く、予定より早く完了。5月25日にスラバヤへ帰投。この日、S攻略部隊は編制を解かれた。6月20日、スラバヤを出港して内地へと向かう。6月28日、横須賀に帰港。6月30日から7月8日まで横須賀工廠で入渠整備。
次はタンニバル、ケイ、アルを敵に先んじて占領するT作戦への参加を命じられ、7月18日に横須賀を出港。第24特別根拠地隊の指揮下に入る。7月26日、アンボイナを出港してアラフラ海に進出。三分割された攻略船団の上陸援護に回った。7月30日朝、ほぼ同時にドボ、トアール、ラングール、サムラキへの敵前上陸に成功。サムラキでは激しい銃撃を受けたが、それ以外では連合軍の抵抗は微弱で簡単に制圧された。夜、五十鈴はアンボンへ帰投した。何事も無くT作戦は完了するかに見えた7月31日朝、サムラキの陸戦隊からイギリス軍の上陸を受けたとの緊急電が届いた。驚愕した第24根拠地隊は直ちに増援を送る事とし、アンボンに寄港していた五十鈴も緊急出動。増援を乗せた駆逐艦松風や水雷艇友鶴とともにタニンバル諸島へ急行した。ところが直後に誤報と判明し、輸送した増援部隊をそのままサムラキへ揚陸してアンボンに戻った。8月1日夕刻、T作戦は終了した。休む間もなく今度はインド洋で通商破壊を行うB作戦への参加が決まり、アンボイナを出港。8月8日に集結地のメルギーへ到着したのだが、同時期にソロモン諸島ガダルカナル島にアメリカ軍の大部隊が襲来。B作戦は中止となり、翌9日にメルギーを出港。8月28日にマカッサルへ到着し、警備艦の任につく。
9月9日、スラバヤへ寄港し、ソロモン戦線に送る第17師団と第2師団を収容。9月11日、鬼怒や松風とともに出発して翌日バタビアに寄港。第2師団歩兵第16連隊第3大隊460名を収容した。9月13日、鬼怒とバタビアを出発。ニューギニア接岸航路を通り、9月20日にラバウルへ到着。ここで一部を揚陸し、翌日出港。9月22日に最前線基地ショートランドに入港し、輸送してきた人員と物資を全て揚陸した。翌23日に出港、ラバウル南東で鬼怒と別れてトラックに向かった。9月25日朝、トラック着。午前9時45分から14時20分まで玄洋丸から補給を受ける。第2水雷戦隊に編入され、田中頼三少将が座乗する旗艦となる。
10月5日、戦艦金剛と榛名によるヘンダーソン飛行場砲撃が決定。その護衛の一員として五十鈴も参加する事になった。10月9日15時、タンカー日本丸が横付けして燃料補給。10月11日午前3時30分、戦艦金剛や榛名と一緒にトラックを出撃。駆逐艦黒潮、親潮、早潮、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波が戦艦に随伴する。針路170度、速力24ノットで一路ガダルカナル島を目指す。午前9時47分、遠距離に敵飛行艇1機が出現したが、敵機の運動と通信状況から発見の危険性は無いものと判断された。14時1分、ガ島及びツラギ方面の敵情把握のため五十鈴から水偵が飛び立った。基地航空隊の哨戒機や伊15潜から敵艦隊発見の報が届いたため会敵の公算大とし、16時以降は全魚雷即時待機となった。極限の緊張状態の中、敵に発見される事無くラモス島とマライタ島の間を通過し、サボ島北方に到達した。22時38分、エスペランス岬東方の灯火を認めてサボ島南方水道に進入。速力を18ノットに落として射撃コースに入った。23時35分、レカタ基地から来た水偵が飛行場の位置を示す大型吊光投弾を投下。闇夜の中でハッキリとヘンダーソン飛行場が照らし出された。1分後、まず最初に金剛が、続いて榛名の巨砲が火を噴いた。五十鈴は第15及び第31駆逐隊とともにツラギ方面の敵軍と交戦。照射砲撃を受けたが、距離が遠すぎたため命中せず。五十鈴の砲撃でサーチライトを破壊し、敵の目を奪った。翌14日午前0時13分、反転して今度は来た道を辿る。既に飛行場は火の海に沈み、あちこちで誘爆が発生していた。午前0時58分、砲撃を切り上げて最大戦速で北方への離脱を図る。午前1時19分、南東方向にて突入してきたPT-46、PT-48、PT-60、PT-38からなる米第3魚雷艇隊を発見。長波の活躍で追い払われた。午前4時48分、第2航空戦隊の零戦が現れて上陸援護を開始。そして正午頃に本隊との合流を果たした。この砲撃はガ島で苦戦を強いられている第17軍の士気を上げ、現地の司令部は「野砲1000門に匹敵する」と報じた。
本隊合流後、ガダルカナル島の陸軍総攻撃に呼応して艦隊決戦を挑むべく、ソロモン諸島北方を遊弋する。10月16日午前11時40分、日本丸から給油を受け、翌17日午前5時30分に二度目の補給を受ける。10月19日午前1時45分、極東丸から燃料補給。10月22日15時30分、今度は飛鷹から送油され、21時30分に完了。10月24日深夜、第17軍が総攻撃を開始したため、近藤信竹中将率いる前進部隊とともに南下を始める。17時より飛行場攻撃を実施、21時には占領したとの吉報が舞い込んだ。10月25日午前7時8分、比叡と霧島が触接中の敵飛行艇を発見。後方の機動部隊にも触接機が現れた事から会敵は避けられない事態となった。
10月26日午前1時30分、敵機に発見されて爆撃と触接を受ける。被害こそ無かったが、これが南太平洋海戦の幕開けとなった。午前4時50分、サンタクルーズ諸島北北東に敵機動部隊を発見。前進部隊は敵が潜む海域への進出を命じられた。敵の攻撃は比叡と霧島に集中したため、五十鈴は損害を受けなかった。海戦も終わりに近づいた23時30分、前進部隊信令第285号により各艦から水偵が発進。総指揮は五十鈴の飛行長が執った。間もなく長良機が大破炎上中の米空母ホーネットを発見。長良機、摩耶機、五十鈴機等が前進部隊をホーネットのもとまで誘導する。周囲を取り囲んでみると、既に放棄された様子だった。一時は駆逐艦による曳航が試みられたが火勢が強くて近づけず、結局雷撃処分となった。10月28日午前0時30分、長波とともに神国丸から燃料補給。10月30日、トラックへ帰投。
11月3日、第15、第24、第31駆逐隊とともにトラックを出港。第38師団をショートランドまで輸送した。11月12日午前6時30分、給油艦鶴見の左舷に横付けて燃料補給。11月13日午前3時、飛行場砲撃に赴く重巡摩耶と鈴谷を援護するため一緒にショートランドを出撃。第三次ソロモン海戦で米艦隊が退けられたため敵と遭遇する事は無く、道中で摩耶や鈴谷と別れた。その後、2隻は内懐に飛び込んでヘンダーソン飛行場を砲撃。無事帰路についた。11月14日午前6時、ニュージョージア島南方で2隻と合流。第四警戒航行序列を組み、駆逐艦4隻が横一列になって前路哨戒を実施。左に五十鈴、衣笠、鳥海が、右に鈴谷、摩耶、天龍が続航する。しかし安全圏へ逃げ切る前に夜明けを迎えてしまい、機能が回復したヘンダーソン飛行場から飛来した哨戒機に発見されてしまった。まず最初に敵戦闘機7機、ドーントレス急降下爆撃機7機、アベンジャー雷撃機6機が出現。衣笠に4本の魚雷が命中し、艦隊から落伍。続いてドーントレス16機が襲来。遅れていた衣笠がトドメを刺されてしまった。午前8時30分頃からは五十鈴も標的となり、1000ポンド爆弾2発が至近弾となって第2及び第3缶室満水と舵故障の被害をこうむる。一時は航行不能になって艦隊から落伍してしまう一幕もあったが、煙幕を出して沈没寸前に見せかける事でトドメを刺されるのを防いだ。駆逐艦朝潮の護衛を受けながらショートランドに帰投し、特設工作艦山彦丸に横付けして応急修理。11月16日、駆逐艦望月に付き添われてショートランドを出発。11月20日にトラックへ入港、今度は工作艦明石から応急修理を受ける。本格的な修理を行うため内地帰投が決まり、12月8日にトラックを出発。12月14日、やっとの思いで横須賀に帰投した。
1943年1月11日に横浜へ回航され、1月19日より横浜浅野船渠に入渠して修理。4月1日、那珂とともに第4艦隊第14戦隊を編制し、5月1日に出渠。搭載機を九四式水上偵察機に刷新した。5月7日、横須賀に移動して公試と訓練に従事。5月21日に横須賀を発ち、瀬戸内海西部へ回航。
6月10日、三宅島東方で米潜トリガーの雷撃を受けて航行不能に陥った空母飛鷹の救援に出発。翌11日に合流するも、既に自力航行が可能な状態にまで回復していた。駆逐艦有明や夕暮とともに飛鷹を警護し、夜に館山沖へ到着。6月16日14時、戦艦金剛、榛名、空母龍鳳、雲鷹、冲鷹等と横須賀を出港。五十鈴にはナウル島へ進出する第2特別陸戦隊453名と物資が便乗していた。6月21日午前2時41分、トラックを目前にして米潜スピアフィッシュに発見される。午前3時37分、4本の雷跡が伸びてきて、そのうち2本が五十鈴に向かったが回避に成功。同日中にトラック泊地へ到着した。6月22日、那珂、谷風、浜風とともにトラックを出発。6月25日に目的地のナウルへ到着し、陸兵453名を揚陸する。6月28日、トラック到着。タンカー玄洋丸から給油を受ける。7月2日、五十鈴の九四式水偵がパラオに派遣された。7月16日午前7時、駆逐艦玉波とトラックを出港。2隻とも350名の陸兵と物資200トンを積載しており、無事ナウルに届けた。7月22日、トラック帰投。7月24日、トラック西方230海里で米潜ティノサの雷撃を受けて航行不能になった第三図南丸を救うべく、駆逐艦朝凪を率いて出港。翌日到着し、玉波、特設工作艦雄島、特設砲艦金城丸、第二長安丸、第5及び第12号駆潜特務艇を指揮して曳航。7月28日午前1時45分、無事トラックへ戻った。
8月15日、アメリカ軍がベララベラ島へ上陸。これを受けて五十鈴は14時30分にトラックを出撃、グリニッジ島へ送られる機銃弾200トンをラバウルに輸送した。8月19日、トラック帰投。9月3日、クェゼリンへ兵員を輸送する船団を那珂と護衛して出発。クェゼリンとマロエラップに寄港して兵員を揚陸した。9月12日、クェゼリンを出港した直後に五十鈴と那珂は船団から分離。米潜の雷撃で損傷した給油艦知床と富士川丸の救援に向かった。ミレ、ウォッゼ、ヤルートを巡航したのち、10月3日にトラックへ帰投した。10月6日、被雷沈没した給油艦風早の生存者を救うべく駆逐艦初風と海風を率いて出港。翌日夜にトラックへ戻った。10月7日午前に米機動部隊が大鳥島へ来襲した事を受け、連合艦隊丙作戦第一法警戒が発令。夕刻、第14戦隊、栗田丸、駆逐艦朝凪、甲支隊を以って海上機動兵団を編制。10月8日午前、五十鈴はトラックを出発してボナペに向かったが、道中で警戒解除となったため同日夜に帰投した。
中支那派遣軍の第17師団をニューブリテン島へ派出する事になり、大型商船や軽巡洋艦の投入が決定。10月10日午前、丁4号作戦参加のため那珂、清澄丸、護国丸、筑紫、山雲とトラックを出発し、上海に向かう。翌12日23時30分、鳥島南西で被雷大破した給糧艦間宮を救うため那珂と分離。10月16日まで間宮の護衛につき、内地まで送り届けた。10月18日、上海に到着。第17師団兵員471名や弾薬202箱、機関銃8丁等を搭載し、那珂や護国丸と丁4号作戦第2輸送隊を編制。10月21日に出港してラバウルに向かった。しかし出港直後に米潜シャド、グレイバック、セロのウルフパックに捕まり、追跡を受ける。同日23時30分、シャドのレーダーに捕捉される。攻撃位置へ付くのに手間取ったものの、10月22日午前2時13分に10本の魚雷を発射。爆雷攻撃を警戒してシャドは早々に潜航した。放たれた魚雷は全て五十鈴と那珂に回避され、被害は無かった。しかし栗田丸が22日に撃沈されたため、ラバウル直行の予定から一旦トラックへ寄港する事に。
10月30日午前、中継点のトラックに寄港。ここで戦力の再編を行い、駆逐艦磯風と浦風が護衛に、ラバウル行きの日章丸、日威丸、神風丸が加わった。11月1日午後、ラバウルを目指して出港する。11月3日午前11時29分、カビエンの北方60海里でB-24爆撃機19機から空襲を受け、続いて21機から空襲を受けた。那珂と護国丸は至近弾で済んだが、清澄丸が航行不能となる。15時、五十鈴が清澄丸の曳航を開始。ラバウルから救援に来た駆逐艦水無月が対潜哨戒を行った。翌4日午前5時30分、カビエンへ避難。作戦に耐えられなくなった清澄丸から兵員196名と75mm機銃4丁を受け取った。同日夕刻、那珂とともにカビエンを出発。ところがカビエン南西8海里に米潜シルバーサイズが仕掛けた機雷原へ突っ込んでしまい、第2主砲搭下の爆発で小破。五十鈴と磯風が損傷したが、幸い航海に支障は無かった。11月5日午前6時55分にラバウルへ到着。五十鈴は兵員471名、弾薬箱202個、機銃8丁の輸送に成功した。しかし今度は米第33任務部隊による空襲に遭遇してしまう。第一次空襲で戦闘機約40機と艦爆約40機が、第二次空襲で大型機28機と戦闘機約40機が襲来。対空戦闘で応戦するも、機銃掃射で損傷を負った。11月6日午前4時30分、未だ空襲の兆候が見られるラバウルから脱出する。11月9日にトラックへ到着し、緊急修理。
11月20日、アメリカ軍がギルバート諸島のマキンとタラワに襲来。この危急を受け、翌日那珂とともにトラックを出撃。陸軍部隊をボナペに輸送する。11月22日、ボナペにてギルバート諸島向けの援軍約1500名を収容するが、11月23日にマキン及びタラワを失陥。増援が意味を成さなくなってしまった。やむなく行き先をマーシャル諸島へ変更し、クェゼリンとミレに陸兵を揚陸した。12月4日、ルオットへ寄港。
12月5日午前4時55分、ルオット停泊中に米第50任務部隊による空襲に遭遇。第6主砲塔右舷側に250kg爆弾3発が命中し、士官室付近から出火。後部弾薬庫並びに後部電信室が被弾により使用不能となる。更に至近弾で舵機室右舷側外壁が破壊されて左側軸以外の全推進軸が使用不能、速力12ノットに低下。機銃掃射で乗員20名が死亡、40名が負傷した。12月7日、満身創痍の状態でルオットを出発してクェゼリン回航。特設工作艦山霧丸から応急修理を受け、12月9日に長良に付き添われて出港。途中で海防艦天草も護衛に加わった。12月12日にトラックへ到着し、工作艦明石から修理を受ける。
1944年1月17日にトラックを出発し、1月19日にサイパンへ寄港。港外に停泊していたため、第八京丸や第十京丸が対潜掃討を行っている。1月23日に横須賀到着。直ちに入渠して本格的な修理を受けた。5月1日、横須賀を出港して横浜に回航。5月13日より三菱重工横浜造船所で防空巡洋艦への改装が行われた。主砲の14cm単装砲を撤去し、12.7cm連装高角砲3基と25mm三連装機銃11基、25mm単装機銃5基を搭載。不要になった主砲の射撃指揮装置を外し、九四式高射装置と対空見張り用の21号7型電探と13号電探、水上見張り用の22号電探を装備。前部の魚雷発射管を撤去し、後部の魚雷発射管を酸素魚雷に対応した九二式61cm四連装魚雷発射管2基に換装した。前部の発射管があった部分は兵員室が新設されている。更に対潜装備として水中探信儀、水中聴音機、爆雷投射機、爆雷投下軌条、爆雷90発を新たに装備。通信用に赤外線信号灯も備え、対潜・対空に優れた艦に仕上がった。8月6日、工事完了。8月20日、連合艦隊隷下に新設された第31戦隊に編入されて旗艦となる。元々は名取に指定される予定だったが、その前日に撃沈されたため入渠中の五十鈴が代役となった。9月14日に再就役を果たす。
10月6日に横須賀を出港し、呉へ回航。10月8日から瀬戸内海西部で戦闘訓練に従事した。10月17日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸して橋頭堡を築く。翌18日、捷一号作戦が発令され、小沢治三郎中将率いる機動部隊に編入された。とはいえその実態は敵機を釣り上げる囮部隊であり、生還を期さない絶望的な作戦だった。10月19日、呉から来た給油艦から燃料補給を受け、夕刻までに出撃準備を完了した。総兵力は空母瑞鶴(旗艦)、瑞鳳、千歳、千代田、戦艦伊勢、日向、軽巡大淀、多摩、五十鈴、駆逐艦秋月、霜月、桑、槙、杉、桐だった。10月20日午前7時、第43駆逐隊を率いて出港し、豊後水道の対潜掃討を実施。17時20分まで掃討を行った後、18時に大分から出港してきた本隊と合流。主力の栗田艦隊より先に見つかる必要があるため、盛んに偽電を打って目立つ行動を取った。10月23日朝、パラワン水道で重巡愛宕と摩耶が撃沈され、高雄が大破したとの情報が入った。先行きを暗くする戦況に、艦橋には重苦しい空気が流れた。10月24日午前6時、小沢艦隊は予定地点に到着。
10月25日午前6時49分、第四警戒航行序列に移行。午前7時13分、最も南にいた戦艦日向が270度方向170kmに2機の索敵機を発見。午前8時4分、瑞鶴が敵機4機発見を報じたため対空戦闘を下令。全力即時待機となす。午前8時8分には左120度方向に敵機170機が確認された。2分後、見張り員が「右40度敵機」と報告。ゴマ粒のように小さかった敵機の大群が次第に大きくなる。午前8時22分、五十鈴は24ノットに増速。そして午前8時26分に対空射撃を開始した事でエンガノ岬沖海戦が幕を開けた。
水平爆撃、急降下爆撃、雷撃と敵機は多彩な方法で五十鈴を攻撃するが、艦を右へ左へよじって回避する。午前8時34分、千歳の被弾を確認。その1分後には右30度1000m先にいた駆逐艦秋月が突如爆発。煙が晴れた時には何も残っていなかった。高められた対空能力を最大限に発揮し、敵機2機を撃墜した。第一次空襲は30分で終了し、午前9時に五十鈴は対空射撃を止めた。命中弾多数を受けた千歳が虫の息になっており、瑞鶴から千歳の曳航を命じられる。午前9時40分、準備を終えて千歳のもとへ駆けつけるが、到着する前に千歳は沈没。午前9時50分、多摩の警戒を命じられて現場から離れた。
午前9時56分、第二次空襲開始。左100度方向より来襲する敵機10機に応戦し、1機を撃墜。唯一無傷だった千代田に攻撃が集中し、午前10時16分に大破漂流状態に陥る。また軽巡多摩も航空魚雷により大破した。旗艦瑞鶴より多摩の救援を命じられ、午前10時25分に多摩と同航。本隊との合流を目指して移動を始める。3分後、左90度方向より敵機4機が接近し、1機を撃墜して追い払った。午前10時40分、左90度方向4000m先に千歳の集団漂流者を発見。空襲を受ける危険を承知で艦を止め、救助を行う。応急修理により18ノットを出せるようになった事から、多摩は単独で中城湾へ向かった。およそ300名を救助したが、午前11時20分に敵機4機が飛来したため救助を打ち切り、第二戦速で対空戦闘。1機を撃墜して敵機を退けた後、再び救助を実施。午前11時48分、霜月が現れて生存者救助を手伝ってくれたおかげで480名を収容できた。午後12時5分、救助を霜月に任せ、五十鈴は本隊と合流するべく18ノットで向かう。
午後12時45分、戦艦日向座乗の第4航空戦隊司令部より大破漂流中の千代田を曳航するよう命じられる。しかしこれまでの戦闘で五十鈴は燃料が不足し始めており、曳航は困難と返信。やむなく千代田を撃沈処分する事とし、五十鈴と槙に千代田の処分と生存者の救助を命令。準備をしながら現場海域へ向かう。13時26分に敵機の襲撃を受けるも撃退し、千代田に近寄る。13時50分、瀕死の千代田にトドメを刺そうと敵機が襲い掛かってきたが、2機を撃墜して切り抜ける。一度は困難と判断しながらも、曳航準備を開始した。度々米軍機が襲い掛かってきて、襲撃は17回に及んだが、その都度五十鈴の対空射撃で追い払われた。艦内では救助された千歳の乗員も装填作業や死体の片付けを手伝っていた。14時14分に遂に五十鈴も被弾。前部機銃揚弾筒に爆弾が命中し、艦橋電路、舵機、転輪羅針儀が故障。応急操舵に頼らざるを得なくなる。14時20分、空襲が終わったため千代田に近づこうとするも、再び敵機が確認された。14時26分から47分まで敵機3機と交戦。終わったのも束の間、今度は12機の敵機が襲来。対空射撃で2機を撃墜する。千代田の救難及び処分を試みるも、敵機の襲来が激しく一向に進まなかった。15時30分、千代田の放棄が決定。艦を接舷させる旨を手旗信号と旗流信号で伝える。千代田の飛行甲板には生存者全員が整列し、軍艦旗を降下させている。君が代を奏でるラッパの音が悲しく聞こえるようだった。千代田の左舷へ横付けしたその時、右水平線上に敵機の大編隊が発見された。慌てて千代田から離れ、対空戦闘の態勢を取る。千代田でも戦闘配置を告げるラッパが響き、クモの子を散らすように配置へついて高角砲を撃ち始める。15時40分、やなむく空襲の脅威が去る日没を待つ事にし、北方へ退避。16時20分、左20度方向に伊勢を確認。執拗な空襲により今や小沢艦隊は散り散りになっていて、広い海域に散在している状態だった。16時26分、襲来した敵機10機に対して応戦し、1機撃墜。17時34分、今度は敵機40機が襲ってきたため対空射撃で迎撃、1機を撃墜する。17時47分、千代田の生存者を救助すべく南下を開始。
18時15分、瑞鶴の生存者を救助していた駆逐艦初月と若月を発見。初月に千代田の位置を尋ねたが、判然としなかったので一緒に捜索する事に。19時5分、初月が突如発砲。その先にはデュポース少将率いる米水上艦隊の姿があった。既に千代田はデュポース艦隊に討ち取られていたのである。2分後、五十鈴もレーダー射撃を受け、艦首を挟叉。電探で距離を調べたところ、敵との距離は2万4500mと測定。恐るべき正確さであった。敵は重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦12隻の計16隻で、軽巡1隻と駆逐艦2隻のみの日本側にはとても勝ち目が無かった。直ちに五十鈴は千代田の捜索中止を小沢中将へ報告、煙幕を展開しながら針路320度に反転する。しかし敵艦隊はレーダーを有しており、煙幕の中でも正確に砲撃を加えてきた。また敵の方が優速であり、このままでは追いつかれて全滅する危険性すらあった。彼我の距離がグングンと縮んでいく。そして6海里まで距離が縮んだ時、初月が「我、艦載内火艇収容のため引き返す」と手旗信号で伝えてきた。五十鈴と若月を逃がすため、単身16隻の敵に挑みかかった。そして19時から21時までの2時間を稼ぎ、撃沈された。その間に五十鈴と若月は安全圏まで離脱。予期せぬ足止めと弾薬消費を強いられたデュポース艦隊も追撃を諦め、レイテ島に引き返していった。一連の対空戦闘で、五十鈴は敵機撃墜確実9機と不確実4機の戦果を挙げた。
21時53分、五十鈴たちを助けるため南下してきた大淀、伊勢、日向、霜月と合流。しかし五十鈴の燃料不足が深刻化していたため、夜戦には参加せず単独で中城湾に向かった。燃料が少なくなった事で喫水線が見え、スクリューが空回りするようになったため海水を入れて重しにした。10月26日19時、中城湾に到着。ここで渇望していた燃料の補給を受け、10月29日に呉へ入港。ここで新式装備を搭載する予定だったが、乗組員が謝絶して一刻も早い前線復帰を望んだため最低限の修理のみ行われた。
11月8日、第31戦隊の駆逐艦8隻を率いて出港。伊勢と日向の馬公進出を援護する。道中で単独北上中の護国丸と遭遇し、「必勝を祈る」との信号が送られてきた。返信は日向が行い、「ご期待に副わんことを期す」と返した。しかしその翌日、護国丸は米潜バーブに襲われて沈没した。11月14日、駆逐艦桃とともに呉を出港し、マニラへの増援輸送に従事。11月18日にマニラへ寄港して物資や兵員を揚陸した。11月19日、マニラを出港した直後にコレヒドール西方55海里で米潜ヘイクから雷撃を受ける。之字運動むなしく、6本のうち1本が艦尾に魚雷が命中して大破、舵機を喪失して乗員32名が死亡する。旗艦任務を霜月に継承し、応急修理を行ったのち桃の護衛を受けてシンガポールに向かう。11月22日にシンガポールへ入港し、第101工作部で12月10日まで応急修理を受け、同日夜にスラバヤへ回航。12月12日より第102工作部で修理に従事。
1945年2月13日、五十鈴は3月下旬に修理完了と報告し、大本営海軍部に内地回航の指示を求めた。しかし大本営は東南アジアに取り残された艦艇で編制した第10方面艦隊で運用するとして内地回航は果たされなかった。3月25日、全力公試を完了。同日中に第10方面艦隊に編入となる。4月1日、修理完了。
4月4日、ティモール島にいる陸軍をスンバワ島へ輸送する第二次2号作戦に従事するためスラバヤを出港。護衛戦力は水雷艇雁と第12号及び第34号掃海艇の3隻。これがスラバヤ基地の全戦力であった。4月5日午前4時、ワインガップ沖で英潜水艦スパークから4本の雷撃を受けるも、回避に成功。水雷艇雁が対潜掃討を行った。スパークは米潜ガビランに位置情報を通報し、別の米潜ベスゴが五十鈴を視認した。またイギリス第87飛行隊のモスキート戦闘機にも発見されている。同日19時30分、ティモール島クーパンに入港。港に待機していた第48師団の兵員を搭載し、21時45分に出港。スンバワへと向かう。
4月6日午前4時45分、スンバワ北方にてダーウィンから出撃してきたオーストラリア空軍のB-24、B-25爆撃機29機と交戦。最も大型な五十鈴に攻撃が集中したが、巧みな回避運動で致命傷を許さなかった。近隣に展開していた陸軍第17練成飛行隊の一式戦2機が応援に駆けつけ、後に増援を得て4機となる。午前9時40分にB-24から投下された300kg爆弾2発が至近弾となり、左舷艦首と舵を損傷。やむなく人力操舵に切り替える。計60発の300kg爆弾が投下されたにも関わらず損害軽微に留まり、五十鈴の対空砲火により3機のB-24を撃墜した。16時25分、スンバワとコモドの間にあるセプ海峡でベスゴが雷撃。五十鈴を確実に仕留めるべく、500m以下にまで肉薄した上で9本の魚雷を発射。うち1本が第12号掃海艇に命中し、沈没。数々の敵襲をかいくぐり、同日夜にスンバワ北東部のビマ港へ到着。第48師団を揚陸し、代わりに第46師団を乗艦させた。
1945年4月7日午前2時20分、水雷艇雁と第34号掃海艇に護衛されて出港。後はスラバヤへ戻るだけだった。ところがチャーのレーダーに捕捉され、ガビランに通報される。午前6時5分、ビマの北西60海里で米潜ガビランから5本の魚雷が伸びてきて、1本が艦橋下部に命中。浸水によって艦首が沈下し、速力10ノットに低下する。海へ投げ出された陸兵を救助する一方、艦内では乗組員が応急修理を実施。午前8時27分、今度は米潜チャーから雷撃を受ける。至近距離からの雷撃であり、回避する間もなく4本中2本が左舷後部機関室に命中。生じた大破孔から大量の海水が流入して船体を真っ二つに折られ、僅か3分で沈没していった。対潜制圧を警戒してチャーとガビランは海中深くに潜航、五十鈴の最期はスパークが見届けた。乗員189名が死亡し、松田艦長以下450名が雁と第34号掃海艇に救助された。
1945年6月20日、除籍。潜水艦に沈められた最後の日本軽巡洋艦となった。五十鈴の沈没を以って長良型6隻は全滅した。
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