ドミートリイ・ドミートリエヴィチ・ショスタコーヴィチ(Дмитрий Дмитриевич Шостакович, 1906-1975)とは、20世紀にソビエト連邦で活躍した作曲家である。
概要
交響曲を中心に弦楽四重奏曲、管弦楽曲、室内楽曲、映画音楽、編曲などに幅広く活躍し、20世紀最大のクラシック音楽作曲家としての名声を確固たるものにしている。しかしその人生は歴史の荒波、とりわけ母国ロシアを彼のほぼ全生涯にわたって支配した共産主義政権に翻弄された波乱の人生であり、生前はソ連のプロパガンダ作曲家として、死後は体制の圧迫に苦しめられながらも音楽を以てそれに反逆した自由の作曲家というイメージが先行した評価ばかりがなされ、いまだ正当な評価を得られていない悲劇の作曲家でもある。本項ではそのような作曲家本人に被せられたイメージを取り払い、彼の生涯を3つに分けてその楽曲を解説することとする
初期(1919-1936年1月28日):世界最前衛の作曲家として
ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクに生まれた彼は1919年にペテルブルク音楽院に入学し、作曲とピアノを専攻した(あまり知られていないがショスタコーヴィチはピアノ奏者としてもかなりの実力を持ち、第1回ショパンコンクールにソ連代表の一人として選出・出場したという逸話を持つ。なお後に彼は脊椎性小児麻痺を発症し、ピアニストとしての可能性は失われた)。時は20世紀初頭、新ヴィーン学派に代表される無調音楽や新古典主義音楽など新たな音楽がヨーロッパを席巻した時代であり、彼もまた前衛的な手法に邁進していった。
そして1925年、作曲科の修了製作として作曲した交響曲第1番(作品番号はまだ10である!!)が大当たりし、“現代のモーツァルト”として若干20歳にしてソ連のみならず西側にまでその名を轟かせることとなった。当時ソ連は共産主義という当時最前衛の政治思想の基、ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれる政芸一体となった革新的な芸術運動の只中にあり、その中でショスタコーヴィチも軽音楽などの新しい要素も取り入れながら更なる前衛へと邁進した。だが彼の芸術が頂点に達したまさにその時、政治が彼の前に立ちはだかる。指導者がスターリンへと変わり、社会主義国家に役立つ音楽を求めるようになったソ連当局は、彼のオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」に目をつけ、これをソ連共産党中央委員会機関紙「プラウダ」で痛烈に非難、党を敵に回したショスタコーヴィチは作曲どころか命すら危ぶまれる窮状に陥り、彼の前衛の道は絶たれてしまう。
楽曲
交響曲
- 交響曲第1番
- 形式は古典的な4楽章制ながらモダンで軽妙洒脱な名作。これを20歳になるかならないかで作ったとかウッソだろお前!ショスタコーヴィチは重厚な曲を書くというイメージを持たれがちであるが、この曲の様に初期はむしろ衝動的な旋律を中核にした目くるめく流れの曲が多い。
- なんだこのサムネは…
- 交響曲第2番「十月革命に捧げる」
- 前衛手法を極めた曲。単一楽章制で最後合唱突っ込むとか突っ張ったなアンタ。
- 基本的には序奏部―中間部―緩徐部―合唱の4つに分けられるといえよう。珍曲扱いされがちだがちゃんと聞けば第1番から第4番までの彼の系譜の中にしっかりと位置づけられる秀作。中間部の27パートにわたる超巨大多声法は第4番でより洗練された形で再び現れることになる。
- ま た か
- 交響曲第3番「メーデー」
- 例によって単一楽章で最後に合唱が突っ込まれているが、第2番とは打って変わって前衛基調でありながらかなり聴きやすい出来になっている。第4番の先駆をなす作品と言えるだろう。
- 序奏―主部―緩徐部―第2主部―合唱に分けられる。
- もう何も言わん…
- 交響曲第4番
- ショスタコーヴィチ初期の頂点の一角をなす(になってしまった)作品にして20世紀の交響曲の中でも最高傑作の一つと言えるだろう。マーラーの影響を受けており、1時間に達する巨大な曲の中で疾風怒濤の展開が目まぐるしく繰り広げられる。
- 第1楽章は主題を3つもつ極端に変形されたソナタ形式、第2楽章は5部形式のスケルツォ、第3楽章は序奏と長大なコーダを持つ自由な変奏曲。しかしプラウダ批判に巻き込まれて演奏されることなくお蔵入りになり、総譜も失われたがモスクワフィルに残っていたパート譜により何とか復活・初演のはこびとなったというギリギリのところで救われた曲でもある。
オペラ
- 「鼻」
- 「ムツェンスク郡のマクベス夫人」
- ショスタコーヴィチ初期の頂点の一角にしてその終焉の遠因ともなってしまった曲。その内容たるや、
- 欲求不満な人妻が使用人に強姦された挙句彼とずぶずぶの関係になり、それに感づいた夫と舅を殺害。何食わぬ顔で結婚しようとしたが殺害がばれ、シベリア送りに。挙句使用人は別の女に情を移し、絶望した元人妻はその女を道連れに自殺する
- という、薄い本か何かかというレベルの編集者にも弁護しかねるものである。だが実際音楽自体は交響曲第4番とも共通する素晴らしいものであり、特に強姦の場の音楽は、その、なんというか、『行為』をそのまま音楽化させたような凄まじいものである。
中期(1936年1月28日-1953年3月5日):体制との綱渡り
ソ連を敵に回し、命すら危ぶまれる状態に陥ったショスタコーヴィチは1937年11月に発表した交響曲第5番でソ連当局からの絶賛を受け、何とか作曲家としての名誉を回復した。しかしそこから始まったのは当局との綱渡りであった。プラウダ批判によって体制が彼を好ましくない作曲家と判断した場合作曲どころか粛清までありうることが示された以上、もはや自由な表現など困難であるのは明らかであった。ソ連当局が芸術家たちに義務付けた社会主義リアリズムと呼ばれる「内容においては社会主義的、形式においては民族主義的」形式と、自らの望む芸術表現の狭間で、さらにそこに第2次世界大戦などの世界的動乱も加わり、彼はその中で様々な音楽を発表してゆくことになる。
楽曲
交響曲
- 交響曲第5番
- ショスタコーヴィチの楽曲の中でおそらく一番有名な曲であり、最高傑作との呼び声も高い曲。この曲が当局に大ウケしたことによりショスタコーヴィチは命すら危うい状態からソ連邦の社会主義リアリズムを体現する作曲家へと逆転ホームランを決めた。その実この曲はスターリニズムへの弾劾という隠された意味を持っていたとの言説など、その表現するところに様々な議論のある曲である。
- また一つ特筆すべき点としてこのナンバーからショスタコーヴィチ演奏の神扱いされている節もあるエフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮をし始めるようになることがあげられよう。構成は4楽章制、第2楽章がスケルツォ、第3楽章が緩徐楽章の所謂第9型である。
- 交響曲第6番
- 散々な目に合った第4・第5の後にかかれた曲。当然の様に第5番の陰に隠れてしまっているが、中々の秀作である。第1楽章は苦悩と幻想に満ちた緩徐楽章。第2楽章は初期ショスタコーヴィチを思い出させる軽妙洒脱なアレグロ。第3楽章は突っ走るプレストである。特に見直されるべき曲ではないだろうか
- 交響曲第7番
- レニングラード包囲戦の最中に作曲され、ファシズムへの勝利とレニングラードへと捧げられたことから「レニングラード」という俗称を持つ。各楽章のみならず時に主題単位で表題性を持ち(これらは後にナチスの侵略を思わせるものとして作曲者自身により削除された。またこれらの表題性については作曲者の説明の通りなのでより信頼のあるところでご覧になってほしい)、急―緩―緩―急の4楽章制。
- 交響曲第5番と並ぶ高評価を得る曲であるが、愚作とする向きも一部には存在する。またこの曲は表面上はナチスの暴力への糾弾とソ連のファシストへの勝利を表しているとされるものの、実はソ連政府の暴力をも告発しているなどと呼ばれ、解釈に今なお議論がある曲でもある。彼の有名な曲にはありがちなことだが…
- 交響曲第8番
- 例によって第7番の影に隠れてがちであるが、第7番が闘争と勝利の陽の戦争交響曲だとすれば、これは戦争の悲惨と無常を全曲にわたって徹底して描いた陰の戦争交響曲ともいえる作品であろう(ちなみにソ連当局の反応は「暗すぎる」であった)。
- 全曲の半分を占める長大で異様な中身の濃さを持つ第1楽章、舞曲風の行進曲が後半に解体されてゆく第2楽章、アタッカでつながり長大な第1楽章と対応する第3~第5楽章(第3楽章は凄惨な戦闘を思わせる激しい音楽、それが頂点に達した後に無常感に満ちたパッサカリアの第4楽章が続き、第5楽章は解放と勝利の喜びが語られるかと思えば戦争の無意味さを思わせるように消えてゆく)からなる。どうでもいいが略称として用いられる「タコ8」というニックネームはなかなか親しみを持てるものではないだろうか。曲の雰囲気には全くあっていないが。
- 交響曲第9番
- 第9―多くの作曲家にとって大きな意味を持ってきたナンバーである。第8番の当局ウケがいまいちだったショスタコーヴィチは来るべき交響曲第9番を「大祖国戦争(第2次大戦の対独戦のこと)の勝利を祝う交響曲」と喧伝し、第9というナンバーも手伝って周囲の期待も大きくなっていたが、発表されたのは5楽章25分程度の軽交響曲であった。
- 交響曲第8番の件もあり今度こそ当局は大激怒、ソ連共産党中央委員会書記アンドレイ・ジダーノフによってショスタコーヴィチは名指しの非難を喰らい、自己批判を余儀なくされた。ここより彼は新たな交響曲の発表を行わなくなる。…と説明すると「なんじゃそれ変な色もんかいな」と思われるかもしれないが、実際のところ交響曲第9番は第1番を思わせる内容の濃い軽妙洒脱な名作であるといえる。急―緩―スケルツォ―緩(第4楽章は第5楽章の序奏に近い)―急の5楽章形式。
ちなみにジダーノフ批判を喰らい再び窮地に立たされたとも思えたショスタコーヴィチはソ連が進めていた自然改造計画の一環で行われた植林事業を讃えるオラトリオ「森の歌」で当局の大称賛を得てぬけぬけと地位回復を果たした。まあ快適ではなかったろうが少なくとも5番の時よりは当局との綱引きがうまくなっていたのだろう。
後期(1953年3月5日-1975年8月9日):ソ連最大の作曲家として
1953年3月5日、世界最悪の独裁者との評価も受けるスターリンは74歳で死去した。共産党による一党独裁体制と芸術表現への当局の介入はその後も続いたが、着実に業績を積み重ね、ソ連楽壇内での地位を確固たるものとしていったショスタコーヴィチへの縛りはどんどんと軽くなっていった。しばしば当局との綱引きを繰り広げながらもショスタコーヴィチはスターリン時代に果たせなかった純粋芸術表現の道へと邁進してゆく。しかしそれらの作品にも拭いがたく彼が受けた苦難の影響を見て取れるだろう。
楽曲
交響曲
- 交響曲第10番
- スターリンが死ぬや否や発表された曲。そしてソ連楽壇を2分する大論争を巻き起こすに至った。ショスタコーヴィチのドイツ語でのつづりのスペリングをもじったDSCH音型(Dmitrii SCHostakowitch、これ自体バッハが晩年用いたBACH音型のもじりともいえる)が重要なモチーフとして扱われており、さらにその他の様々な寓意性から表現しようとしたものについてはこれまた様々な解釈が存在する曲でもある。第1楽章は緩徐楽章、第2楽章はショスタコーヴィチらしい凶暴なスケルツォ、謎めいた第3楽章、アレグロの第4楽章の4楽章形式。ちなみにこの曲はカラヤンが指揮した唯一のショスタコーヴィチの交響曲でもある。
- 交響曲第11番「1905」
- ショスタコーヴィチの社会主義リアリズム交響曲シリーズ第4弾。1905年ユリウス暦1月9日(現在使用されているグレゴリオ暦では1月22日にあたる)の所謂「血の日曜日事件」を描くもの。ほとんど交響詩である。内容については作曲者によって説明されている通りなのでもっと信用のおけるところでご覧いただきたい。
- 交響曲第12番「1917」
- ショスタコーヴィチの社会主義リアリズム交響曲シリーズ第5弾。1917年ユリウス歴1月25日(現在使用されてるグレゴリオ歴では11月7日にあたる)の所謂十月革命を描くもの。ロシア革命は二月革命と十月革命の2回の革命があったが、共産主義理論においては二月革命はブルジョワ革命であり、十月革命をもって真の社会主義革命がなったということになるそうな。11番より抽象度は高いものの、まあ基本的には交響詩みたいなものであると思ってよい。内容についても第11番と同じく作曲者の説明の通りなのでそこでご覧いただきたい。
- 交響曲第13番
- 通称「バビ・ヤール」。エフゲニー・エフトゥシェンコの詩による歌詞付きのバス独唱とバス合唱付きの5楽章構成であり、第1楽章で歌われる「バビ・ヤール」という詩はバビ・ヤールで発生したナチスによるユダヤ人虐殺を弾劾し、世界、そしてロシアにいまだはびこる反ユダヤ主義を激しく糾弾するものであり、ソ連内に人種問題はないものとしてきたソ連当局と大揉めになったというスキャンダラスな逸話を持つ曲である(最終的に歌詞は一部書き直されることになったが、ショスタコーヴィチの立場が危うくなることは特になかった)。その他も中々にソ連当局への非難が感じられるものである。第1楽章は「バビ・ヤール」、内容は前述の通り。第2楽章は「ユーモア」、内容はどんな権力者にもユーモアは縛れないというもの。第3楽章は「商店」、内容は買い出しのため極寒に行列する主婦たちを讃えるもの。第4楽章は「恐怖」、内容はスターリン時代の恐怖政治は終わりつつあるが、新たな恐怖の苗が芽生えてきていると警告するもの。第5楽章は「出世」、内容はガリレオの異端審問を描きながら、権力者におもねるのではなく真実に忠実であることによって恒久的な名声を得ることができるというもの。
- 交響曲第14番
- ショスタコーヴィチが前衛手法を大きく取り入れた曲。編成は独唱二人、弦楽合奏、打楽器モリモリというなかなか意欲的な編成。11楽章からなる実質的にはカンタータに近い曲である。前回のごたごたとかなりあからさまな詩に懲りたのか、今回は自分で世界各国の詩人の作品をチョイスしてそのロシア語訳に詩をつけるという手法をとっている。「死者の歌」というのは俗称であるが、この曲の大きなテーマが「死」であることは明らかであろう。現代的な手法がショスタコーヴィチらしく取り入れられて消化されているほか、管弦楽法も弦楽と打楽器のみながら決して響きが不足することもなく、詩の文学性も高度な難解ながらも名作と言えよう。難解でありながら歌詞まで含めた解説はあまりないため、ここで大きくスペースをとって解説を行うものとする。
- 第1楽章「デ・プロフンディス」・・・これはラテン語旧約聖書詩篇第129編の冒頭の句。スペインの詩人でスペイン内戦でファシストに処刑されるという非業の最期を遂げたガルシア・ロルカの詩が歌われる。内容はアンダルシアの赤い大地の下には数知れぬ恋人たちの遺骸が埋まっているというもの。
- 第2楽章「マラゲーニャ」・・・歌詞はロルカ。内容は恋と雑然に満ちたこの酒場には死神が出たり入ったりしているというもの。
- 第3楽章「ローレライ」・・・歌詞の来歴はやや複雑で、どうもドイツに古来伝わるローレライ伝説にアイデアを得たドイツの詩人ブレンターノの詩にリスペクトされた、フランスの詩人でピカソなどと共に前衛的な活動を繰り広げたギヨーム・アポリネールの詩による…らしい(編集者にも実はよくわからない)。内容ももっとも複雑。まず男をたぶらかす魔女として大司教の前に引き出されたローレライは、本命の彼氏にはフラれ心は悲しみでいっぱいだが、私の目が勝手に人を見いらせてしまうと訴える。しかし肝心の大司教様も彼女の目を見てブヒってしまい、最終的にローレライは修道院送りの刑となる。騎士に送られて彼女は修道院へと向かうが、河岸から最後にフラれた彼氏のいるお城をみたいと頼む。騎士が気付いたときにはもう遅く、彼女は河岸の崖からラインの流れに飛び込んでしまう。水面に彼女自身の目を見ながら…という内容。
- 第4楽章「自殺者」・・・歌詞はアポリネールによる。内容は自殺者が自らの死骸から3本の百合が生えている、一本は私の傷口から、一本は私の心臓から、一本は私の口から…と歌うという内容。この自殺者を前楽章のローレライに結び付けることの可能だろう。ここから連続してアポリネールによるグロテスクな詩世界が展開されてゆく。
- 第5楽章「心してI」・・・歌詞はアポリネール。おそらく第5楽章と第6楽章の詩は同じ詩からそれぞれ抜粋されていると思われる。内容は解釈が分かれがちな故難しいところではあるが、死神が塹壕にうずくまって死ぬ定めにある兵士へのあふれる思いを歌うというもの。
- 第6楽章「心してII」・・・歌詞はアポリネール。内容は紳士に何か落とされたようですねと聞かれた乙女が「私の心だけどどうでもいいわ(高笑い)。私の愛は死神に刈り取られたのだから」と言うもの。おそらく前楽章と同じ詩であることからして、この乙女の恋人が前楽章で死神に魅入られた兵士だったと考えられるだろう。高笑いの箇所で音楽自体も高笑いするところは見どころ。
- 第7楽章「ラ・サンテ監獄にて」歌詞はアポリネール。アポリネールがモナリザ盗難事件で冤罪に遭い、ラ・サンテ監獄にぶち込まれた際に書かれた詩。内容は基本的に監獄にぶち込まれた悲嘆。この詩が何を暗喩しているかは言わずもがなであろう。
- 第8楽章「ザポロージェ・コサックのコンスタンチノープルのスルタンへの返答」歌詞はアポリネール。何かの詩の中で引用部分として書かれた部分を抜粋して使用してある。内容はウクライナにいたザポロージェ・コサックがオスマン帝国のスルタンから降伏と臣従を求められた書状へ返した罵詈雑言を極めた拒絶の答え。スルタンが何を暗喩しているかも明らかであろう。
- 第9楽章「おお、デルヴィーグよ」歌詞はロシア帝国末期に改革を訴えるもシベリア送りにされそこで生涯を終えたヴィリゲリム・キュレルベケルによるもの。彼はこの曲で使用された歌詞を書いた詩人の中では唯一のロシア人でもある。内容は、例え我々は死すとも、我々の作品は永遠であり、それによって我々も生き続けるのだというもの。
- 第10楽章「詩人の死」歌詞はドイツを代表する詩人ライナー・マリア・リルケによるもの。内容は、詩人が死んだ、彼は生前世界を映す鏡だったが、死んでしまえば結局ただの物というもの。第10楽章のキュレルベケルへの、最終的にシベリアで死に、大して有名なわけでもない彼へのカウンターととることも可能であろう。
- 第11楽章「結び」歌詞はリルケ。内容は死への賛歌。サバサバと終わってしまう謎めいた終曲である。
- 交響曲第15番
- 彼の最後の交響曲。構成は急―緩―スケルツォ―急の伝統的な4楽章構成。室内楽的な軽妙な曲だが第14番で培われた打楽器術が生きており、彼の技巧と渋みの極致がこの曲に現れているといえる名作。ある意味彼は様々な紆余曲折を経ながら、最後に彼自身の出発点である交響曲第1番まで戻ってきたともいえるのだろう。ウィリアム・テル序曲やワーグナーからの謎めいた引用など、いざ考察を行おうとするとかなり難解な曲でもある。この曲を書いた3年後に彼は68歳で死去した。
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