フォイネイヴォンはノーチャンスだ。それほど大胆に跳べる馬ではないから、ショックの多い展開になったとしても、無視して構わないだろう。
ブリンカーをした38番はフォイネイヴォン。彼のチャンスは遥か彼方と考えなければならない。今シーズン14戦して勝ちはなく、ここで例外を作ることはありそうにない。
フォイネイヴォン(Foinavon)とは、1958年にアイルランドで生産された競走馬(セン馬)である。
1967年のグランドナショナルを奇跡的に勝利し、そのきっかけになった第7・第23障害にその名が刻まれたことでよく知られている。
血統
父Vulganはフランス産のゲインズバラ系。1947年のクイーンアレクサンドラステークスなど主に長距離路線で活躍し、障害用種牡馬として一定の成功を収め、フォイネイヴォンの他にもグランドナショナル勝ち馬を2頭(1964年優勝のTeam Spirit、1970年のGay Trip)輩出している。母Ecilaceも、繁殖牝馬としてアイリッシュグランドナショナル勝ち馬を生むなどした。母父Interlaceは詳細不明だが、名種牡馬ハリーオンの産駒である。
奇跡への道のり
1958年にアイルランド南西部、リムリック県の牧場で生まれた。世界的には大種牡馬ヘイルトゥリーズンと同世代。その後1960年の春にダブリン近郊の牧場に売却された。
購入したのはウエストミンスター公爵夫人アン・グロブナー。グロブナー夫人は競馬好きで、イギリスとアイルランドにそれぞれいくつかの牧場を所有していた。このころ夫人は馬の名前を領地であるスコットランドの山から取ることにしていたのか、スコットランド高原地方にある900mほどの山にちなんで、この仔馬をフォイネイヴォンと名付けた。ちなみにフォイネイヴォン山のすぐ近くにアークル山という山があり、グロブナー夫人はこの年の8月に購入した仔馬にもArkleという名をつけている。仔馬と言ってもフォイネイヴォンより1つ年上だから3歳になっているのだが。
1961年8月、フォイネイヴォンとアークルは揃ってダブリンの北、グリーノーグというところのトム・ドリーパー調教師の厩舎に送られて障害馬としての調教を開始した。ドリーパーは既にアイリッシュグランドナショナルを5勝、しかも2連覇中というアイルランド障害界を代表する当代きっての調教師で、ここで調教を受けてメキメキと秘めた実力を伸ばしたのだった……アークルだけが。
フォイネイヴォンが初出走を果たしたのは1962年3月。一方アークルはというと、1961年12月にデビュー、翌月には初勝利をおさめ、フォイネイヴォンがようやく初完走にこぎつけた翌日には同じチェルトナムで1番人気に応える20馬身差勝ちを収め『タイムズ』紙に「将来有望なタイプ」と評されるなど、成功への道を駆け上がっていた。
初勝利に至っては16戦目になった1964年2月と、更に2年近い月日が必要だった。なおアークルはその翌月にはグランドナショナルと双璧を成す障害競馬の大競走、チェルトナムゴールドカップに出走、前年の覇者ですでに何度か対戦していたライバル・Mill Houseを5馬身ちぎって勝利。さらに返す刀で中2週・他馬より13kgも重いトップハンデでアイリッシュグランドナショナルを制し、ドリーパー師の5連覇[1]に貢献するなど、英愛両国で障害界の頂点に立っていた。どこで差がついたのか。
転機:転厩
1965年2月にはFoxrock Cupなる名のついた競走で勝利を挙げているが、この年の後半、フォイネイヴォンはとうとうグロブナー夫人のもとから売りに出され転厩となる。新たな馬主はシリル&アイリス・ワトキンス夫妻とマック・ベネリックの3人。どうやら馬主として目立った馬の所有者ではないようで、英語版Wikipediaには彼らがグランドナショナルに出走する馬を探していたというが、正直フォイネイヴォンの成績的に疑わしい。ともかく新たな馬主を迎えて転厩した先はジョン・ケンプトン調教師の経営する、チャタム厩舎という小さな厩舎だった。ここで基礎から訓練を受けなおしたフォイネイヴォンはケンプトン調教師自らが主戦騎手となってなおも勝てない日々が続いたが、それでも1966年の後半からは入賞が増えるなど成績は少しづつ良化をはじめ、遂にG1に出ることになる。1966年12月27日、キングジョージ6世チェイスである。
このキングジョージ6世チェイスには7頭が出走していた。前年3着のArctic Ocean、3月のチェルトナムゴールドカップ2着馬Dormant、前戦で快勝し格上挑戦ながらも勢いのあるWoodland Venture、同じコースと距離で行われた前走を勝っているMaigret、そして特筆する戦績のないフォイネイヴォンとScottish Final。そして最後の1頭が前年の覇者──アークルである。
このときアークルは、前走で15馬身差大勝を収めてから中1週。ここまで障害競走32戦27勝、落馬競走中止はたった一度、チェルトナムゴールドカップ3連覇といったように手を付けられない圧倒的強者として、フォイネイヴォンの前に姿を現したのだった。あのオジュウチョウサンですら障害競走32戦18勝であるから、戦績だけで言えばオジュウチョウサン以上の「障害界の絶対王者」だったことになる。
キングジョージ6世チェイスは彼にとってはチェルトナムゴールドカップ4連覇への前哨戦であり、実際オッズは1.2倍と圧倒的人気を集めていた。この頃のアークルの人気はまさしく絶頂期にあり、イギリスのある大衆雑誌が1966年を通した人気投票を行った結果、来日した年でもあり最盛期のビートルズ、この年自国開催のW杯で優勝したイングランド代表キャプテンのボビー・ムーアを押さえて1位にアークルが入った。60年代ど真ん中にビートルズより人気があったのである。イギリスでは障害レースの方が人気があるとは言うが、障害界の王者ともなるとここまで行くのか。新聞各紙やテレビ局がアークルの一挙手一投足を追っていたという記述があるから、これが誇張でなければ現在の日本で言う大谷翔平並みの注目度があったということであろう。
しかし、この日のアークルの飛越はおかしかった。先行するアークルだったが2番目の障害を飛越するときに足先を障害にぶつけてしまったのである。それ以降だんだんといつもの飛越が見られなくなり、第14号障害では鞍上P. Taaffe騎手が「素通りした」と述懐するほどひどい飛越で、Dormantに先頭を明け渡してしまう。逃げ粘るDormantを追い上げるも半馬身差及ばず、二着に敗れてしまうのだった。[2]
アークルは2番目の障害にぶつけたことで蹄骨を骨折しており、結局英愛史上最高のジャンパーはこれを最後にターフを去ることになる……が、読者の皆さんはお忘れではないだろうか、ここはフォイネイヴォンの記事である。フォイネイヴォンは4着に入った。その後何戦かはさんで1967年3月16日、フォイネイヴォンは大本命不在のチェルトナムゴールドカップへ向かう。ここにはキングジョージ6世チェイス組は彼のほかDormant、Woodland Ventureが参戦し、他にもMill HouseやStalbridge Colonistといったアークルに勝ったこともある実力馬や、この年のウィットブレッドゴールドカップでDormantを破っているWhat a Mythなど好メンバー8頭が揃い、フォイネイヴォンは圧倒的最下位人気、オッズは501倍だった。レースは迫るStalbridge ColonistとWhat a Mythを押さえきってWoodland Ventureが勝利。フォイネイヴォンは早いうちから集団から離されていき、その後着外となった。7着との記録があるが、Mill Houseが落馬しているので実質シンガリ。レースの完全な映像は確認できないため詳細不明だが、少なくとも特にいいところが無かったのは確かである。
1967年グランドナショナル
さて、活躍できているかどうかは別にして、今シーズン好調で、キングジョージ6世チェイス→チェルトナムゴールドカップとなかなかのローテを歩んできたフォイネイヴォンは、その後2戦した後、このシーズンの最終戦として、1967年4月8日のグランドナショナルを選んだ。
前年1966年のグランドナショナルは、日本からフジノオーが参戦した年として知られているが、この年から連続での参戦は覇者Anglo、2着Freddie、4着The Fossaほか16頭。完走していないが既に登場したScottish FinalやWhat a Mythも連続参戦組。他には、1964年のスコティッシュグランドナショナル勝ち馬Popham Down、『ローマの休日』の新聞記者役で知られるムービースター、グレゴリー・ペックの所有馬Different Classなど44頭が参戦した。
出走馬一覧(馬番順)
重量欄は12-00であれば12ストーン00ポンドの負担。1ポンド=約0.45kg、1ストーン=14ポンド=約6.35kg。
馬番 | 馬名 | 年齢 | 騎手 | 重量 | オッズ |
1 | What a Myth | 10 | P. Kelleway | 12-00 | 20/1 |
2 | Freddie | 10 | P. McCarron | 11-13 | 100/9 |
3 | Rondetto | 11 | J. Haine | 11-07 | 33/1 |
4 | Different Class | 7 | D. Mould | 11-02 | 100/8 |
5 | Solbina | 10 | E. Harty | 11-02 | 25/1 |
6 | Kapeno | 10 | N. Gaselee | 11-01 | 25/1 |
7 | Anglo | 9 | B. Beasley | 11-01 | 100/8 |
8 | Kilburn | 9 | T. Norman | 11-00 | 100/8 |
9 | Limeking | 10 | P. Buckley | 10-13 | 33/1 |
10 | Bassnet | 8 | D. Nicholson | 10-11 | 10/1 |
11 | Rutherfords | 7 | J. Leech | 10-11 | 28/1 |
12 | Forecastle | 9 | N. Wilkinson | 10-10 | 50/1 |
13 | Greek Scholar | 8 | T. Biddlecombe | 10-09 | 20/1 |
14 | Meon Valley | 12 | A. Turnell | 10-07 | 66/1 |
15 | Honey End | 10 | J. Gifford | 10-04 | 15/2 |
16 | Ross Sea | 11 | J. Cook | 10-03 | 66/1 |
17 | Castle Falls | 10 | S. Hayhurst | 10-03 | 50/1 |
18 | Lucky Domino | 10 | J. Kenneally | 10-05 | 66/1 |
19 | The Fossa | 10 | S. Mellor | 10-02 | 100/8 |
20 | Norther | 10 | J. Lawrence | 10-00 | 50/1 |
21 | Packed Home | 12 | T. Carberry | 10-00 | 100/1 |
22 | Dorimont | 13 | R. Pitman | 10-00 | 100/1 |
23 | (出走取消)[3] | ||||
24 | Kirtle Lad | 8 | P. Broderick | 10-03 | 28/1 |
25 | Popham Down | 10 | M. Gifford | 10-00 | 66/1 |
26 | April Rose | 12 | P. Bengough | 10-08 | 66/1 |
27 | Vulcano | 9 | J. Speid-Soote | 10-00 | 40/1 |
28 | Dun Widdy | 11 | J. Edwards | 10-10 | 100/1 |
29 | Aussie | 10 | F. Shortt | 10-00 | 50/1 |
30 | Penvulgo | 8 | J. Lehane | 10-00 | 50/1 |
31 | Leedsy | 9 | S. Murphy | 10-05 | 50/1 |
32 | Princeful | 9 | R. Edwards | 10-02 | 100/1 |
33 | Game Purston | 9 | K. White | 10-00 | 66/1 |
34 | Red Alligator | 8 | B. Fletcher | 10-00 | 30/1 |
35 | Ronald's Boy | 10 | P. Irby | 10-13 | 100/1 |
36 | Border Fury | 8 | D. Crossley-Cooke | 10-02 | 100/1 |
37 | Harry Black | 10 | R. Reid | 10-00 | 100/1 |
38 | Foinavon | 9 | J. Buckingham | 10-00 | 100/1 |
39 | Aerial Ⅲ | 11 | T. Durant | 10-09 | 100/1 |
40 | Scottish Final | 10 | B. Howard | 10-00 | 100/1 |
41 | Quintin Bay | 11 | J. Cullen | 10-00 | 50/1 |
42 | Tower Road | 9 | R. Williams | 10-00 | 40/1 |
43 | Barberyn | 12 | N. Mullins | 10-01 | 100/1 |
44 | Bob-a-Job | 13 | C. Young | 10-00 | 100/1 |
45 | Steel Bridge | 9 | E. Prendergast | 10-00 | 100/1 |
1番人気はHoney End。2番人気はBassnetという馬だが、それぞれこの年がグランドナショナル初参戦。戦績などは不明だが、両馬とも少なくとも1回ずつ、1966年中にフォイネイヴォンと同じレースに出て勝利している。3番人気は前年2着Freddie。実は一昨年も2着であることから、今年こそはという支持があったのかもしれない。
レース当日以前の事情
フォイネイヴォンは全く期待されていなかった。一応G1で4着に入ってはいるのだが、本当に目立つ戦績はそれだけで、転厩以降23戦して未勝利、エイントリーで走ったこともなく、4マイル4ハロンという距離も初めて。しかも、グランドナショナルはハンデ戦。この戦績では最低ハンデの10ストーン(63.5kg)は確実だが、ここまで主戦騎手を務めたケンプトン調教師は長身で過酷な減量をしなければならず、ここ最近はグランドナショナルに向け小柄な騎手に依頼していた。しかし、鞍上は決まらなかった。グランドナショナルは危険であるため、ジョッキーには馬主から通常の依頼料とは別に手当を出す習慣があったのだが、馬主のワトキンス[4]がそこまで余裕がなく出し渋っていたのだ。その結果鞍上がいつまでも決まらず、よって前哨戦の鞍上も安定せず、ここ5戦の成績は4着1回、着外3回、落馬1回と露骨に悪化した。
金銭面で少なくとも2名の騎手に断られ、最終的に白羽の矢が立ったのは、1966年の4月に1度だけフォイネイヴォンに騎乗したことがある当時26歳のジョン・バッキンガム。まだグランドナショナルに出たことがなく、グランドナショナルに出られるならロバであっても乗るつもりだったと後に語るほどグランドナショナルに憧れていたが、「もう乗る機会もやって来ないだろう」と半ば諦めてもいた。そんな彼のもとに突然舞い込んだ騎乗依頼を彼は一も二もなく快諾した。ワトキンス氏の出し渋りにも「無償でもいい」と言うほどだった。こうして何とか鞍上が決まったのは、4月6日──レースの2日前だった。
レース当日の事情
フォイネイヴォンは全く期待されていなかった。どれくらい期待されていなかったかというと、馬主のワトキンスも、ケンプトン調教師も、エイントリー競馬場にいなかったくらいである。ケンプトン師はThree Donsという管理馬に騎乗するためにウスターに出ていた。障害界最高のレースに管理馬が出るのに他の馬乗りに行くってどうなの…とは思うが、Three Donsはこのレースで4馬身差快勝を果たすのでよっぽど期待していたのかもしれない。ワトキンス夫妻はバークシャーの自宅でテレビ観戦していた[5]。
このような中では人気など集まりようもなく、そのオッズは公式のスターティングプライスで100-1つまり101倍、ブックメーカーによっては800倍ともいわれる。この記事の先頭に載っているのがメディアの評価だが、散々なのが見て取れるだろう。現代の振り返り記事にも「ノーホーパー」だの「アウトサイダー(部外者=蚊帳の外)」だのと言われているほどである。目立った戦績もなく、飛越が下手なグランドナショナル初参戦馬、おまけにヤネもパッとしないといった具合で、正直買える要素がないので仕方ないだろう。
レース発走
小雨降るエイントリー競馬場、1967年4月8日午後3時25分。レースがスタートした。ゲートもなくどこからスタートするかの選択から戦略になる。内側は距離の節約になる一方で跳躍が難しくなるため実力馬が揃い、外側には最初の周回は様子見してワンチャンを狙う穴馬が集まった。フォイネイヴォンのバッキンガム騎手は中央後方付近でスタートを切った。
Rutherfords、Penvulgo、Castle Fallsらを先頭に第1障害に臨んだ44頭だが、ここで早くも3頭が落馬した。Meon Valley、Popham Down、そして2番人気のBassnetである。人気馬がのっけから競走中止して馬券師たちは落胆したかもしれない。Meon ValleyとBassnetは転倒したのだが、Popham Downは騎手を振り落としたという表現の方が正確で、このままカラ馬として集団を追いかけることになる。
乾濠のある第3障害でも3頭が落馬。しかも前を走っていたDorimontの転倒に巻き込まれたVulcanoは脚をひっかける形で転倒し、その場で予後不良の判定が下されてしまう。また、April Roseという馬もここで転倒したがすぐ起き上がった同馬を騎手が捕まえられず、カラ馬としてレースを続けた。
フォイネイヴォンは中段でレースを進め、第6障害、つまり1周目のビーチャーズブルックではまだ後方に20頭近くいた。しかしながらだんだんと後方に沈んでいき、1周目最後の障害、第16障害のウォータージャンプでは最後方で追う馬の1頭になってしまった。1週目までに10頭がレースを中止し、残るは34頭のはずだが、筆者が映像を確認する限り、30頭弱が飛越したところで見切れているウォータージャンプの映像にはフォイネイヴォンは映っていない。[6]
一方その頃、先頭に目をやると、Penvulgoは後退。Rutherfords、Castle Falls、Kirtle Lad、Princefulらが先頭を争い、そして更に、”ある馬たち”が上がってきて彼らと並んで軽やかに走っていた。第22障害、つまり2周目のビーチャーズブルックでは、その”ある馬たち”は、Castle FallsやRutherfordsよりも前に踊り出て、続く第23障害に向かった。
第23障害
この節での引用は、このシーンの実況[7]を担当したBBCのマイケル・オヘヒルの実際の実況であり、日本語訳は記事の筆者がつけたものである。
And they’re turning now to the fence after Becher’s, and as they do the leader is Castle Falls, with Rutherfords along the inside and he’s being…
(さあ集団はビーチャーズの次の障害に目を向けています。先頭はなおもキャッスルフォールズ、内からラザフォーズ、今…)
第23障害──1週目では第7障害であるこの障害は、1955年に大きく弱体化され、その高さ4フィート6インチ。幅の広い水濠障害を除けば最も低い障害の一つで、当時は最も穏やかであると評価されていた障害だった。ビーチャーズブルックとキャナルターン、難しい2つの障害に挟まれているだけの障害である。
「ビーチャーズの次」でしかない、その程度の障害だった。だったはずなのだ。
その程度であるはずのその障害で、”ある馬たち”──カラ馬のPopham DownとApril Roseは、突然飛ぶのをやめ、急停止した。より正確に言えば、前を行くPopham Downが柵を迂回しようとしたか突然斜行し、進路を遮られたApril Roseが立ち止まったのだ。Popham Downはブリンカーをつけており、後方のApril Roseが見えていなかったのかもしれない。
なんにせよ、突然に立ち往生した2頭のカラ馬を避けるには、後続馬達との差は短すぎた。RutherfordsやCastle Fallsが2頭に突っ込み、後続が突っ込み、さらに後続が…と、第23障害の前で大変な混雑が起きてしまい、多くの馬が転倒するか、騎手を振り落とすか、立ち往生してしまった。
And Rutherfords has been hampered and so has Castle Falls!
(おっとラザフォーズ妨害を受けた! キャッスルフォールズも同様!)Rondetto has fallen! Princeful has fallen! Norther has fallen! Kirtle Lad has fallen!
(ロンデット転倒! プリンスフル転倒! ノーザー転倒! カートルラッド転倒!)Eh, The Fossa has fallen! There’s a right pileup!"
(ああ、ザフォッサ転倒! まさしく玉突き事故です!)Leedsy has climbed over the fence and left his jockey there!
(リージーは障害を越えたが鞍上は置き去りだ!)
当時は再騎乗が認められていたため、再び乗ってレースを再開しようとする騎手もいたが、馬が混ざったりどこかに行ってしまったりで、自分の馬を見つけるのに苦労したという。Leedsyのように馬だけが先に行ってしまった馬も複数いた。
Kirtle Ladの鞍上P. Broderickは振り落とされるのには耐えたが、馬が壊れたフェンスにハマったのを見抜き、着地側に自ら降りて馬を救出しようとしたという。この試み自体は成功、再騎乗にこぎつけるのだが、実はKirtle Ladは後肢の筋肉を痛めており、次のキャナルターンの飛越を拒否した。
後方待機していた馬たちはその多くは落馬こそ免れたが渋滞を乗り越えられず立ち往生していた。1番人気のHoney Endもそんな立ち往生組の一角で、鞍上J. Gifford騎手はパニックにならないよう自分に言い聞かせながらできることを探していた。その時だった。ビーチャーズでHoney Endの少し後にいた馬が、混乱の影響の少ないわずかな隙間を突いて飛んで行った。混乱の中でその人馬を確認したThe FossaのS. Mellor騎手は、鞍上が知り合いだと認識すると、声をかけて激励した。
"Go on Buck! You'll win."(がんばれ、バック! 君なら勝てる。)
そう、その馬こそ、ビーチャーズを先頭から8秒も遅れて飛越した馬。
ゼッケン38番。転厩以来23戦未勝利。騎手も無名。ノーチャンス。蚊帳の外。
And now, with all this mayhem, Foinavon has gone off on his own! He's about 50, 100 yards in front of everything else!
(そして今、この大混乱の中、フォイネイヴォンが無事飛越! 他の何もかもの50、いや100ヤードほど前方に躍り出た!)
──フォイネイヴォンだったのである。
一人旅
かくして、100ヤードのビハインドが100ヤードのリードに進化したフォイネイヴォンの一人旅が始まった。ウスター競馬場から中継を見守っていたケンプトン師は興奮のあまりテーブルに飛び乗ってテレビに張り付き、自宅からテレビ観戦していたワトキンス夫妻はこの展開に驚愕。特に夫のシリル氏の方は現地に行かなかった事を酷く後悔し、居たたまれなさから見るのをやめたとか。元馬主のマック・ベネリックもこのレースをテレビ観戦しており、元所有馬に1ペニーも賭けていなかった自分に啞然としたという。
フォイネイヴォンは非常に穏やかな性格の馬で、空前絶後の惨事を前にしても興奮していなかった。アークルと同僚だったころの主戦騎手だったP. Taaffe騎手は、「あのレースに参加した馬の中で、道を見つけられそうな馬を選べと言われたら、フォイネイヴォンを選ぶ」と語っている。また、鞍上のバッキンガム騎手もまた冷静で明晰な思考力を持つ騎手で、過去に自分以外の全員がレースコースを誤る中で、自分だけ正しいコースを進んで勝利したことがあるとかなんとか。目の前のことに左右されない落ち着きのある人馬だからこそ、わずかな隙間を見逃さなかったのだ。
しかしそんなバッキンガム騎手でも、さすがに状況を飲み込み切れはしなかったようで、キャナルターンを越えた彼の目の前に広がっていた誰もいない馬場は、信じがたいものだったという。ここまでくれば残る障害はあと6つ。この時バッキンガム騎手は、馬をどう激励するか、自身の高鳴る鼓動をどう抑えるかに気を使い、そして後方から追いかけてくる怒りの再騎乗軍団が気になって仕方なかったという。
ちなみに、実はフォイネイヴォン以外にももう一頭、第23障害を困らずクリアした馬がいる。Packed Homeという名のこの馬はフォイネイヴォンよりさらに後方につけ──ビーチャーズをシンガリ飛越した馬で、第23障害を越えるころには混乱は終息しつつあったため、難を逃れた。ちなみにこの馬もオッズは100/1で、全く期待されていない馬だった。Packed Homeのほか、AussieとQuintin Bayの合わせて3頭が、フォイネイヴォンを真っ先に追いかけ始めた。残りの障害が3つになった頃には、この3頭を追走していたGreek Scholarが捉えた。Honey End、Red Alligatorらも続き、フォイネイヴォンのリードはみるみるうちに縮んでいく。
しかしそれでもバッキンガム騎手は、馬はもちろん自分さえ経験したことの無い厳粛な孤独の中、フォイネイヴォンを鼓舞し、走らせ続けた。バッキンガム騎手は何度か後ろを確認して、1番人気に応えんとするHoney Endのすさまじい追い上げと本命党の大歓声を確認した。最後の障害を越えてその差は約3秒。実況は「It may still be a race!(まだレースになるかもしれない!)」と叫んだ。馬券を買ってたのかもしれない。しかし追撃もここまで。フォイネイヴォンが1着で奇跡のフィニッシュを果たした。それを確認したHoney EndのJ. Gifford騎手は追うのをやめゆっくり入線したが、それでも15馬身ほどにリードは縮んでいた。勝ちタイムは9分49秒6、うちほぼ3分が一人旅。3着はRed Alligator、以下4着Greek Scholar、5着Packed Homeと続いた。
第23障害にたどり着いたのが29頭、再騎乗したのが20頭、完走したのが18頭だった。
結果
着順 | 馬名 | 騎手 |
1 | Foinavon | J. Buckingham |
2 | Honey End | J. Gifford |
3 | Red Alligator | B. Fletcher |
4 | Greek Scholar | T. Biddlecombe |
5 | Packed Home | T. Carberry |
6 | Solbina | E. Harty |
7 | Aussie | F. Shortt |
8 | Scottish Final | B. Howard |
9 | What a Myth | P. Kelleway |
10 | Kapeno | N. Gaselee |
11 | Quintin Bay | J. Cullen |
12 | Bob-a-Job | C. Young |
13 | Steel Bridge | E. Prendergast |
14 | Castle Falls | S. Hayhurst |
15 | Ross Sea | J. Cook |
16 | Rutherfords | J. Leech |
17 | Freddie | P. McCarron |
18 | Game Purston | K. White |
馬名 | 障害 | 理由 |
Bassnet | 1 | 転倒 |
Meon Valley | 1 | 転倒 |
Popham Down | 1 | 馬の騎手振り落とし |
Dorimont | 3 | 転倒 |
April Rose | 3 | 転倒 |
Vulcano | 3 | 転倒 |
Border Fury | 6 | 転倒 |
Ronald's Boy | 12 | 転倒 |
Anglo | 15 | 騎手による自主的中止 |
Forecastle | 16 | 騎手による自主的中止 |
Kilburn | 19 | 転倒 |
Lucky Domino | 19 | 馬の飛越拒否 |
Penvulgo | 19 | 騎手による自主的中止 |
Aerial Ⅲ | 19 | 転倒 |
Tower Road | 19 | 転倒 |
Rondetto | 23 | 馬の飛越拒否 |
Different Class | 23 | 馬の騎手振り落とし |
Limeking | 23 | 馬の騎手振り落とし |
The Fossa | 23 | 騎手による自主的中止 |
Norther | 23 | 騎手による自主的中止 |
Dun Widdy | 23 | 騎手による自主的中止 |
Leedsy | 23 | 馬の騎手振り落とし |
Princeful | 23 | 馬の騎手振り落とし |
Harry Black | 23 | 馬の飛越拒否 |
Kirtle Lad | 24 | 馬の飛越拒否 |
Barberyn | 29 | 馬の飛越拒否 |
レース後
「あんなことが無ければ勝ってた」と思っていた他の騎手は多く、中でも2着Honey EndのJ. Gifford騎手の悔しがりようは半端ではなかった。彼はレース直後のインタビューで、事故があったのを(一つ後の)キャナルターンであると誤認してコメントしており、これは彼の動揺を、そして第23障害の影の薄さを物語るエピソードであるといえるだろう。
不思議なことにこれだけの事故でありながら、騎手のケガはわずか1名にとどまった。その騎手もきわめて軽いけがで、その日の最終レースを勝利している。
ウイナーズサークルに戻ってきた人馬を迎える馬主も調教師もおらず、いるのは代理としてエイントリーに来ていたケンプトン師の父親くらいのものだった。グランドナショナルの優勝馬の馬主が欠席することはないわけではなかったが、調教師さえも不在というのは極めて異例だった。
丁度第23障害の混乱の時に実況を担当していたマイケル・オヘヒルはレース後、実際に第7・第23障害に訪れて「ここはフォイネイヴォン・フェンスと呼ばれることになるかもしれない」と呟いた。これは実際的中し、1984年にエイントリー競馬場は正式にこの第7・第23障害を“Foinavon fence” と名付けた。これにより、フォイネイヴォンの名はグランドナショナルの度に思い出されることになった。
こぼれ話
- 全英愛でフォイネイヴォンに賭けたのは100人ほどしかいないと推定されている。その中には罰ゲーム的に賭けさせられた者や、ほんの気まぐれで買った者もいる。
- 『サンデー・タイムズ』紙の報道では、サセックス在住の男性が3連単を当て、1シリングの賭け金で1,125ポンドを獲得したという。1ポンドは20シリングであるため、実に22500倍、日本風に言えば200万馬券ということになる。1番人気が2着に来ているのにである。
- 1928年のグランドナショナルでも、出走した42頭のうちで唯一落馬しなかったTipperary Timという馬が人気薄ながら優勝するという例がある。この年はTipperary Timを含め2頭しか完走しなかったという。
- 100-1のオッズは勝利馬としては最低タイ。1928年Tipperary Tim、1929年Gregalach、1947年Caughoo、1967年フォイネイヴォン、2009年のMon Momeの5頭だけ。
- 2001年のグランドナショナル
でも1967年同様、空馬が障害の手前を横切ることで多重落馬事故が発生した。こちらはキャナルターンでの事故。
その後
翌1968年のグランドナショナルにも参戦したが、負担重量は2キロちょっとしか増えず、オッズも70倍くらいだったので完全にフロック扱いされていたようだ。結果は第16番障害で転倒して競走中止、連覇とはならなかった。勝ったのは前年3着のRed Alligatorだった。
その後も現役を続け、2つの勝利を挙げたが、1969年2月のレースで転倒したのを機に引退した。通算成績は65戦6勝。転厩前と転厩後でそれぞれ3勝ずつである。引退後も、1971年に疝痛で死亡するまでケンプトン師の厩舎で過ごした。
彼と戦った馬たちの中にはその後活躍した馬も少なくない。前述のRed Alligatorのほか、ワットアミスが1969年のチェルトナムゴールドカップを制している。The Fossaは数週間後にスコティッシュグランドナショナルを制し、23番障害の憂さを晴らした。
グランドナショナルで戦った騎手の中にも、その後物語を残す者は多い。第一障害で無念の落馬となったMeon Valleyの鞍上A. Turnellはこれがグランドナショナル初参戦でまだ18歳だった。ハードルを中心に騎手としても調教師としても一定の痕跡を残したTurnellだが、騎手としてのグランドナショナルは13度挑んで1974年の3着がベストだった。しかし調教師として1987年のMaori Ventureで念願の勝利を挙げている。
The Fossaに騎乗したS. Mellor[8]は史上初めて障害で1000勝を達成するし、April Roseに騎乗したP. Bengoughは当時英国陸軍の騎馬隊員[9]で、後にロイヤルアスコット開催の女王陛下名代を務める。Honey Endの鞍上J. Giffordは1970年に調教師へ転身、1981年にAldanitiという馬でグランドナショナルを勝利する。Aldanitiとその鞍上B. Championはともに生命の危機から這い上がってグランドナショナルの頂点に立ち感動を呼び、映画化もされた。
フォイネイヴォンに騎乗したバッキンガム騎手は、その後1969年から3年連続でグランドナショナルに参加し、いずれも完走している。1971年中に30歳で現役を引き、兄とともに騎手のマネージャー事業を始め、兄が亡くなる2001年まで事業を続けた。プライベートでは2人の娘に恵まれ、2016年12月に76歳で死亡した。
血統表
Vulgan 1943 鹿毛 |
Sirlan 1933 栗毛 |
Sir Nigel | Gainsborough |
Lady Elinor | |||
Laniste | Antivari | ||
Loetitia | |||
Vulgate 1932 栗毛 |
Motrico | Radames | |
Martigues | |||
Vodka | Sans Souci | ||
Viranka | |||
Ecilace 1938 青毛 FNo.11-a |
Interlace 1930 青毛 |
Hurry-On | Marcovil |
Tout Suite | |||
StraitLace | Son-In-Low | ||
Stolen Kiss | |||
Ecila's Sister 1916 栗毛 |
Irishman | Desmond | |
Calumet | |||
Miss Eger | Egerton | ||
Miss M | |||
競走馬の4代血統表 |
関連動画
ニコニコ動画には白黒のフル尺映像が残る。記事内で引用した実況も聞くことが出来る。
YoutubeにはBritish Pathéの記録映像として5分半ほどにまとめられたカラー映像が存在する。
https://youtu.be/SAgwjkC4oXs?si=3gRZ80ydC5geJv3g
1分23秒-1分26秒ごろにカメラの真ん中に映る、黄色と黒のブリンカーの馬がフォイネイヴォン。その後もビーチャーズあたりまでは確認できるが、次第に見切れていく。4分22秒から2週目のビーチャーズのシーンとなり、4分32-33秒にかけて画面左側で飛越しているのが確認できるが、後方には5頭ほどしかいないのが確認できる。なお、この直前にフェンスの右端、最内で飛越した袖の白い勝負服の馬が2着のHoney Endである。
関連リンク
- https://www.grandnationalbetting.net/raceyears/1967/
1967年グランドナショナルの結果
- https://www.bloomsbury.com/uk/foinavon-9781408192214/
フォイネイヴォンの伝記本
他にも、Foinavonで検索すれば『印象的なグランドナショナル列伝』みたいな英語記事が結構引っかかる。興味ある方は是非。
関連項目
伝説は別の伝説の始まり
1967年4月7日。伝説のグランドナショナルの、その前日。
メインレースに向けて浮き足立つエイントリー競馬場の平地スプリント競走で、ひっそりとデビュー勝ちを飾った2歳馬がいた。
その馬が後に、このエイントリー、グランドナショナルで不滅の大偉業を打ち立てることを、まだ誰も知らない。
脚注
- *1965年Splash、1966年もFlyingboltで勝利し、連覇は最終的に7まで伸びる。
- *この年のキングジョージ6世チェイスはなぜかBBCでさえ中継しておらず、偉大な馬の最後のレースだというのに映像が現在まで一切発見されていない。そのため、逃げるアークルを猛追するDormantが差し切ったとする記述もありはっきりしない。
- *おそらくHighland Wedding。前年8着馬で1969年の勝者。
- *3人の馬主のうちマック・ベネリックは1966年の秋にフォイネイヴォンを見限り馬主を降り、ワトキンスの負担増になっていた
- *全く期待していなかったというわけではなく、本業が忙しく自宅で待機している必要もあった様である
- *ただし、人気のHoney Endや実力馬のWhat a MythやFreddieも後方で機を伺っていたため、後方=ノーチャンスというわけではない。
- *グランドナショナルはあまりに長いため、数人で交代しながら実況する
- *チェルトナムゴールドカップのスタルブリッジコロニストの鞍上でもある
- *つまりプロの騎手ではなかった
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