フォイネイヴォン単語

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フォイネイヴォン
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フォイネイヴォンはノーチャンスだ。それほど大胆に跳べるではないから、ショックの多い展開になったとしても、無視して構わないだろう。

────1967年4月8日、『デイリー・エクスプレスの短評

ブリカーをした38番はフォイネイヴォン。彼のチャンス遥か彼方と考えなければならない。今シーズン14戦して勝ちはなく、ここで例外を作ることはありそうにない。

────パドック中、BBC中継のコメンテーター

フォイネイヴォン(Foinavon)とは、1958年アイルランドで生産された競走馬(セン馬)である。

1967年グランドナショナル奇跡的に勝利し、そのきっかけになった第7・第23障害にその名が刻まれたことでよく知られている。

血統

Vulgan Ecilace Interlace

Vulganはフランス産のゲインズバラ系。1947年クイーンアレクサンドラステークスなどに長距離路線で活躍し、障害種牡馬として一定の成功を収め、フォイネイヴォンの他にもグランドナショナル勝ちを2頭(1964年優勝Team Spirit1970年Gay Trip)輩出している。Ecilaceも、繁殖牝馬としてアイリッシュグランドナショナル勝ちを生むなどした。Interlaceは詳細不明だが、名種牡馬ハリーオン産駒である。

奇跡への道のり

1958年アイルランド西部リムリック県の牧場で生まれた。世界的には大種牡馬ヘイルトゥリーズンと同世代。その後1960年ダブリン近郊の牧場に売却された。
購入したのはウエストミンスター公爵夫人アン・グロブナー。グロブナー夫人は競馬好きで、イギリスアイルランドにそれぞれいくつかの牧場を所有していた。このころ夫人は名前を領地であるスコットランドの山から取ることにしていたのか、スコットランド高原地方にある900mほどの山にちなんで、このフォイネイヴォンと名付けた。ちなみにフォイネイヴォン山のすぐ近くにアークル山という山があり、グロブナー夫人はこの年の8月に購入したArkleという名をつけている。と言ってもフォイネイヴォンより1つ年上だから3歳になっているのだが。

1961年8月、フォイネイヴォンとアークルはってダブリンの北、グリーノーグというところのトム・ドリーパー調教師の厩舎に送られて障害としての調教を開始した。ドリーパーは既にアイリッシュグランドナショナルを5勝、しかも2連覇中というアイルランド障害界を代表する当代きっての調教師で、ここで調教を受けてメキメキと秘めた実力を伸ばしたのだった……アークルだけが。

フォイネイヴォンが初出走を果たしたのは1962年3月。一方アークルはというと、1961年12月デビュー、翌には初勝利をおさめ、フォイネイヴォンがようやく初完走にこぎつけた翌日には同じチェルトナムで1番人気に応える20身差勝ちを収め『タイムズに「将来有望なタイプ」と評されるなど、成功へのを駆け上がっていた。

勝利に至っては16戦になった1964年2月と、更に2年近い日が必要だった。なおアークルはその翌にはグランドナショナル双璧を成す障害競馬の大競走、チェルトナムゴールドカップに出走、前年の覇者ですでに何度か対戦していたライバルMill Houseを5身ちぎって勝利。さらに返す中2週・他より13kgも重いトップハンデアイリッシュグランドナショナルを制し、ドリーパー師の5連覇[1]に貢献するなど、両国障害界の頂点に立っていた。どこで差がついたのか。

転機:転厩

1965年2月にはFoxrock Cupなる名のついた競走で勝利を挙げているが、この年の後半、フォイネイヴォンはとうとうグロブナー夫人のもとから売りに出され転厩となる。新たな馬主はシリル&アイリス・ワトキンス夫妻とマックベネリックの3人。どうやら馬主として立ったの所有者ではないようで、英語版Wikipediaには彼らがグランドナショナルに出走するを探していたというが、正直フォイネイヴォンの成績的に疑わしい。ともかく新たな馬主を迎えて転厩した先はジョンケントン調教師の経営する、チャタム厩舎という小さな厩舎だった。ここで基礎から訓練を受けなおしたフォイネイヴォンはケントン調教師自らが騎手となってなおも勝てない日々が続いたが、それでも1966年の後半からは入賞が増えるなど成績は少しづつ良化をはじめ、遂にG1に出ることになる。1966年12月27日キングジョージ6世チェイスである。

このキングジョージ6世チェイスには7頭が出走していた。前年3着のArctic Ocean3月チェルトナムゴールドカップ2着Dormant、前戦で快勝し格上挑戦ながらも勢いのあるWoodland Venture、同じコース距離で行われた前走を勝っているMaigret、そして特筆する戦績のないフォイネイヴォンとScottish Final。そして最後の1頭が前年の覇者──アークである。

このときアークルは、前走で15身差大勝を収めてから中1週。ここまで障害競走32戦27勝、落競走中止はたった一度、チェルトナムゴールドカップ3連覇といったように手を付けられない圧倒的強者として、フォイネイヴォンの前に姿を現したのだった。あのオジュウチョウサンですら障害競走32戦18勝であるから、戦績だけで言えばオジュウチョウサン以上の「障害界の絶対王者」だったことになる。

キングジョージ6世チェイスは彼にとってはチェルトナムゴールドカップ4連覇への前戦であり、実際オッズは1.2倍と圧倒的人気を集めていた。この頃のアークルの人気はまさしく絶頂期にあり、イギリスのある大衆雑誌が1966年を通した人気投票を行った結果、来日した年でもあり最盛期のビートルズ、この年自開催のW杯優勝したイングランド代表キャプテンのボビー・ムーアを押さえて1位アークルが入った。60年代どん中にビートルズより人気があったのである。イギリスでは障害レースの方が人気があるとは言うが、障害界の王者ともなるとここまで行くのか。新聞テレビ局アークルの一挙手一投足を追っていたという記述があるから、これが誇でなければ現在日本で言う大谷翔平並みの注度があったということであろう。

しかし、この日のアークルの飛越はおかしかった。先行するアークルだったが2番障害を飛越するときに足先を障害にぶつけてしまったのである。それ以降だんだんといつもの飛越が見られなくなり、第14号障害では上P. Taaffe騎手が「素通りした」と述懐するほどひどい飛越で、Dormantに先頭を明け渡してしまう。逃げDormantを追い上げるも半身差及ばず、二着に敗れてしまうのだった。[2]

アークルは2番障害にぶつけたことで蹄骨折しており、結局英史上最高のジャンパーはこれを最後にターフを去ることになる……が、読者の皆さんはお忘れではないだろうか、ここはフォイネイヴォンの記事である。フォイネイヴォンは4着に入った。その後何戦かはさんで1967年3月16日、フォイネイヴォンは大本命不在のチェルトナムゴールドカップへ向かう。ここにはキングジョージ6世チェイス組は彼のほかDormantWoodland Ventureが参戦し、他にもMill HouseStalbridge Colonistといったアークルに勝ったこともある実力や、この年のウィットブレッドゴールドカップでDormantを破っているWhat a Mythなどメンバー8頭がい、フォイネイヴォンは圧倒的最下位人気、オッズは501倍だった。レースは迫るStalbridge ColonistとWhat a Mythを押さえきってWoodland Ventureが勝利。フォイネイヴォンはいうちから集団から離されていき、その後着外となった。7着との記録があるが、Mill Houseが落しているので実質シンガリレース全な映像は確認できないため詳細不明だが、少なくとも特にいいところがかったのは確かである。

1967年グランドナショナル

さて、活躍できているかどうかは別にして、今シーズン好調で、キングジョージ6世チェイスチェルトナムゴールドカップとなかなかのローテを歩んできたフォイネイヴォンは、その後2戦した後、このシーズンの最終戦として、1967年4月8日グランドナショナルを選んだ。

前年1966年グランドナショナルは、日本からフジノオーが参戦した年として知られているが、この年から連続での参戦は覇者Anglo、2着Freddie、4着The Fossaほか16頭。完走していないが既に登場したScottish FinalWhat a Mythも連続参戦組。他には、1964年のスコティッシュグランドナショナル勝ち馬Popham Down、『ローマの休日』の新聞記者役で知られるムービースターグレゴリー・ペックの所有馬Different Classなど44頭が参戦した。

出走一覧(番順)

重量欄は12-00であれば12ストーン00ポンドの負担。1ポンド=約0.45kg、1ストーン=14ポンド=約6.35kg。

年齢 騎手 重量 オッズ
1 What a Myth 10 P. Kelleway 12-00 20/1
2 Freddie 10 P. McCarron 11-13 100/9
3 Rondetto 11 J. Haine 11-07 33/1
4 Different Class 7 D. Mould 11-02 100/8
5 Solbina 10 E. Harty 11-02 25/1
6 Kapeno 10 N. Gaselee 11-01 25/1
7 Anglo 9 B. Beasley 11-01 100/8
8 Kilburn 9 T. Norman 11-00 100/8
9 Limeking 10 P. Buckley 10-13 33/1
10 Bassnet 8 D. Nicholson 10-11 10/1
11 Rutherfords 7 J. Leech 10-11 28/1
12 Forecastle 9 N. Wilkinson 10-10 50/1
13 Greek Scholar 8 T. Biddlecombe 10-09 20/1
14 Meon Valley 12 A. Turnell 10-07 66/1
15 Honey End 10 J. Gifford 10-04 15/2
16 Ross Sea 11 J. Cook 10-03 66/1
17 Castle Falls 10 S. Hayhurst 10-03 50/1
18 Lucky Domino 10 J. Kenneally 10-05 66/1
19 The Fossa 10 S. Mellor 10-02 100/8
20 Norther 10 J. Lawrence 10-00 50/1
21 Packed Home 12 T. Carberry 10-00 100/1
22 Dorimont 13 R. Pitman 10-00 100/1
23 (出走取消)[3]
24 Kirtle Lad 8 P. Broderick 10-03 28/1
25 Popham Down 10 M. Gifford 10-00 66/1
26 April Rose 12 P. Bengough 10-08 66/1
27 Vulcano 9 J. Speid-Soote 10-00 40/1
28 Dun Widdy 11 J. Edwards 10-10 100/1
29 Aussie 10 F. Shortt 10-00 50/1
30 Penvulgo 8 J. Lehane 10-00 50/1
31 Leedsy 9 S. Murphy 10-05 50/1
32 Princeful 9 R. Edwards 10-02 100/1
33 Game Purston 9 K. White 10-00 66/1
34 Red Alligator 8 B. Fletcher 10-00 30/1
35 Ronald's Boy 10 P. Irby 10-13 100/1
36 Border Fury 8 D. Crossley-Cooke 10-02 100/1
37 Harry Black 10 R. Reid 10-00 100/1
38 Foinavon 9 J. Buckingham 10-00 100/1
39 Aerial 11 T. Durant 10-09 100/1
40 Scottish Final 10 B. Howard 10-00 100/1
41 Quintin Bay 11 J. Cullen 10-00 50/1
42 Tower Road 9 R. Williams 10-00 40/1
43 Barberyn 12 N. Mullins 10-01 100/1
44 Bob-a-Job 13 C. Young 10-00 100/1
45 Steel Bridge 9 E. Prendergast 10-00 100/1

1番人気Honey End。2番人気Bassnetというだが、それぞれこの年がグランドナショナル初参戦。戦績などは不明だが、両とも少なくとも1回ずつ、1966年中にフォイネイヴォンと同じレースに出て勝利している。3番人気は前年2着Freddie。実は一昨年も2着であることから、今年こそはという支持があったのかもしれない。

レース当日以前の事情

フォイネイヴォンは全く期待されていなかった。一応G1で4着に入ってはいるのだが、本当に立つ戦績はそれだけで、転厩以降23戦して未勝利エイントリーで走ったこともなく、4マイル4ハロンという距離も初めて。しかも、グランドナショナルハンデ戦。この戦績では最低ハンデの10ストーン(63.5kg)は確実だが、ここまで騎手を務めたケントン調教師長身で過酷な減量をしなければならず、ここ最近はグランドナショナルに向け小柄な騎手依頼していた。しかし、上は決まらなかった。グランドナショナルは危険であるため、ジョッキーには馬主から通常の依頼料とは別に手当を出す習慣があったのだが、馬主のワトキンス[4]がそこまで余裕がなく出し渋っていたのだ。その結果上がいつまでも決まらず、よって前戦の上も安定せず、ここ5戦の成績は4着1回、着外3回、落1回と露に悪化した。

金銭面で少なくとも2名の騎手に断られ、最終的に白羽の矢が立ったのは、1966年4月に1度だけフォイネイヴォンに騎乗したことがある当時26歳のジョン・バッキンガム。まだグランドナショナルに出たことがなく、グランドナショナルに出られるならロバであっても乗るつもりだったと後に語るほどグランドナショナルに憧れていたが、「もう乗る機会もやって来ないだろう」と半ば諦めてもいた。そんな彼のもとに突然舞い込んだ騎乗依頼を彼は一も二もなく快諾した。トキンス氏の出し渋りにも「償でもいい」と言うほどだった。こうして何とか上が決まったのは、4月6日──レースの2日前だった

レース当日の事情

フォイネイヴォンは全く期待されていなかった。どれくらい期待されていなかったかというと、馬主のワトキンスも、ケントン調教師も、エイントリー競馬場にいなかったくらいである。ケントン師はThree Donsという管理に騎乗するためにウスターに出ていた。障害界最高のレースに管理が出るのに他の乗りに行くってどうなの…とは思うが、Three Donsはこのレースで4身差快勝を果たすのでよっぽど期待していたのかもしれない。ワトキンス夫妻はバークシャーの自宅でテレビ観戦していた[5]

このような中では人気など集まりようもなく、そのオッズは公式スターティングプライス100-1つまり101倍、ブックメーカーによっては800倍ともいわれる。この記事の先頭に載っているのがメディアの評価だが、散々なのが見て取れるだろう。現代の振り返り記事にも「ノーホーパー」だの「アウトサイダー(部外者=帳の外)」だのと言われているほどである。立った戦績もなく、飛越が下手なグランドナショナル初参戦おまけにヤネもパッとしないといった具合で、正直買える要素がないので仕方ないだろう。

レース発走

小雨降るエイントリー競馬場1967年4月8日午後3時25分。レーススタートした。ゲートもなくどこからスタートするかの選択から戦略になる。内側は距離の節約になる一方で跳躍が難しくなるため実力い、外側には最初の周回は様子見してワンチャンを狙うが集まった。フォイネイヴォンのバッキンガム騎手は中央後方付近でスタートを切った。

Rutherfords、Penvulgo、Castle Fallsらを先頭に第1障害に臨んだ44頭だが、ここでくも3頭が落した。Meon Valley、Popham Down、そして2番人気Bassnetである。のっけから競走中止して馬券師たちは落胆したかもしれない。Meon ValleyとBassnetは転倒したのだが、Popham Downは騎手を振り落としたという表現の方が正確で、このままカラとして集団を追いかけることになる。

濠のある第3障害でも3頭が落。しかも前を走っていたDorimontの転倒に巻き込まれたVulcanoは脚をひっかける形で転倒し、その場で予後不良の判定が下されてしまう。また、April Roseというもここで転倒したがすぐ起き上がった同騎手が捕まえられず、カラとしてレースを続けた。

フォイネイヴォンは中段でレースを進め、第6障害、つまり1周のビーチャーズブルックではまだ後方に20頭近くいた。しかしながらだんだんと後方に沈んでいき、1周最後の障害、第16障害ウォータージャンプでは最後方で追うの1頭になってしまった。1週までに10頭がレースを中止し、残るは34頭のはずだが、筆者が映像を確認する限り、30頭弱が飛越したところで見切れているウォータージャンプ映像にはフォイネイヴォンは映っていない[6]

一方その頃、先頭にをやると、Penvulgoは後退。Rutherfords、Castle Falls、Kirtle LadPrincefulらが先頭を争い、そして更に、”あるたち”が上がってきて彼らと並んで軽やかに走っていた。第22障害、つまり2周のビーチャーズブルックでは、そのあるたち”は、Castle FallsやRutherfordsよりも前に踊り出て、続く第23障害に向かった。

第23障害

この節での引用は、このシーン実況[7]を担当したBBCマイケル・オヘヒルの実際の実況であり、日本語訳は記事の筆者がつけたものである。

And they’re turning now to the fence after Becher’s, and as they do the leader is Castle Falls, with Rutherfords along the inside and he’s being
(さあ集団はビーチャーズの次障害を向けています。先頭はなおもキャッスルフォールズ、内からラザフォーズ、今…)

第23障害──1週では第7障害であるこの障害は、1955年に大きく弱体化され、その高さ4フィート6インチ。幅の広い障害を除けば最も低い障害の一つで、当時は最も穏やかであると評価されていた障害だった。ビーチャーズブルックとキャナルターン、難しい2つの障害に挟まれているだけの障害である。
「ビーチャーズの次」でしかない、その程度の障害だった。だったはずなのだ。

その程度であるはずのその障害で、あるたち”──カラPopham DownとApril Roseは、突然飛ぶのをやめ、急停止した。より正確に言えば、前を行くPopham Downが柵を回しようとしたか突然斜行し、進路を遮られたApril Roseが立ち止まったのだ。Popham Downはブリカーをつけており、後方のApril Roseが見えていなかったのかもしれない。

なんにせよ、突然立ち往生した2頭のカラを避けるには、後続達との差は短すぎた。RutherfordsやCastle Fallsが2頭に突っ込み、後続が突っ込み、さらに後続が…と、第23障害の前で大変な混雑が起きてしまい、多くのが転倒するか、騎手を振り落とすか、立ち往生してしまった。

And Rutherfords has been hampered and so has Castle Falls!
(おっとラザフォーズ妨を受けた! キャッスルフォールズも同様!)

Rondetto has fallen! Princeful has fallen! Norther has fallen! Kirtle Lad has fallen!
(ロンデット転倒! プリンスフル転倒! ノーザー転倒! カートルラッド転倒!)

Eh, The Fossa has fallen! There’s a right pileup!"
(ああ、ザフォッサ転倒! まさしく玉突き事故です!)

Leedsy has climbed over the fence and left his jockey there
(リージーは障害を越えたが上は置き去りだ!)

当時は再騎乗が認められていたため、再び乗ってレースを再開しようとする騎手もいたが、が混ざったりどこかに行ってしまったりで、自分のを見つけるのに苦労したという。Leedsyのようにだけが先に行ってしまったも複数いた。
Kirtle Ladの上P. Broderickは振り落とされるのには耐えたが、が壊れたフェンスにハマったのを見抜き、着地側に自ら降りてを救出しようとしたという。この試み自体は成功、再騎乗にこぎつけるのだが、実はKirtle Ladは後肢の筋肉を痛めており、次のキャナルターンの飛越を拒否した。

後方待機していたたちはその多くは落こそ免れたが渋滞を乗り越えられず立ち往生していた。1番人気Honey Endもそんな立ち往生組の一で、上J. Gifford騎手パニックにならないよう自分に言い聞かせながらできることを探していた。その時だった。ビーチャーズでHoney Endの少し後にいたが、混乱の少ないわずかな隙間を突いて飛んで行った。混乱の中でその人を確認したThe FossaのS. Mellor騎手は、上が知り合いだと認識すると、をかけて励した。

"Go on Buck! You'll win."(がんばれ、バック! 君なら勝てる。)

そう、そのこそ、ビーチャーズを先頭から8も遅れて飛越した
ゼッケン38番。転厩以来23戦未勝利騎手名。ノーチャンス帳の外。

And now, with all this mayhem, Foinavon has gone off on his own! He's about 50, 100 yards in front of everything else!
(そして今、この大混乱の中、フォイネイヴォンが事飛越! 他の何もかもの50、いや100ヤードほど前方に躍り出た!)

──フォイネイヴォンだったのである。

一人旅

かくして、100ヤードのビハインド100ヤードのリード進化したフォイネイヴォンの一人旅が始まった。ウスター競馬場から中継を見守っていたケントン師は奮のあまりテーブルに飛び乗ってテレビり付き、自宅からテレビ観戦していたワトキンス夫妻はこの展開に驚愕。特に夫のシリル氏の方は現地に行かなかった事を酷く後悔し、居たたまれなさから見るのをやめたとか。元馬主マックベネリックもこのレーステレビ観戦しており、元所有馬に1ペニーも賭けていなかった自分に然としたという。

フォイネイヴォンは非常に穏やかな性格ので、空前絶後の惨事を前にしても奮していなかった。アークルと同僚だったころの騎手だったP. Taaffe騎手は、「あのレースに参加したの中で、を見つけられそうなを選べと言われたら、フォイネイヴォンを選ぶ」と語っている。また、上のバッキンガム騎手もまた冷静で明晰な思考力を持つ騎手で、過去に自分以外の全員レースコースを誤る中で、自分だけ正しいコースを進んで勝利したことがあるとかなんとかの前のことに左右されない落ち着きのある人だからこそ、わずかな隙間を見逃さなかったのだ。

しかしそんなバッキンガム騎手でも、さすがに状況を飲み込み切れはしなかったようで、キャナルターンを越えた彼のの前に広がっていたもいない馬場は、信じがたいものだったという。ここまでくれば残る障害はあと6つ。この時バッキンガム騎手は、をどう励するか、自身の高鳴る鼓動をどう抑えるかに気を使い、そして後方から追いかけてくる怒りの再騎乗軍団が気になって仕方なかったという。

ちなみに、実はフォイネイヴォン以外にももう一頭、第23障害を困らずクリアしたがいる。Packed Homeという名のこのはフォイネイヴォンよりさらに後方につけ──ビーチャーズをシンガリ飛越したで、第23障害を越えるころには混乱は終息しつつあったため、難を逃れた。ちなみにこのもオッズは100/1で、全く期待されていないだった。Packed Homeのほか、AussieとQuintin Bayの合わせて3頭が、フォイネイヴォンをっ先に追いかけ始めた。残りの障害が3つになった頃には、この3頭を追走していたGreek Scholarが捉えた。Honey EndRed Alligatorらも続き、フォイネイヴォンのリードはみるみるうちに縮んでいく。

しかしそれでもバッキンガム騎手はもちろん自分さえ経験したことのい厳粛な孤独の中、フォイネイヴォンを鼓舞し、走らせ続けた。バッキンガム騎手は何度か後ろを確認して、1番人気に応えんとするHoney Endのすさまじい追い上げと本命党の大歓を確認した。最後の障害を越えてその差は約3実況は「It may still be a race!(まだレースになるかもしれない!)」と叫んだ。馬券を買ってたのかもしれない。しかし追撃もここまで。フォイネイヴォンが1着で奇跡のフィニッシュを果たした。それを確認したHoney EndのJ. Gifford騎手は追うのをやめゆっくり入線したが、それでも15身ほどにリードは縮んでいた。勝ちタイムは9分496、うちほぼ3分が一人旅。3着はRed Alligator、以下4着Greek Scholar、5着Packed Homeと続いた。

第23障害にたどり着いたのが29頭、再騎乗したのが20頭、完走したのが18頭だった。

結果
着順 騎手
1 Foinavon J. Buckingham
2 Honey End J. Gifford
3 Red Alligator B. Fletcher
4 Greek Scholar T. Biddlecombe
5 Packed Home T. Carberry
6 Solbina E. Harty
7 Aussie F. Shortt
8 Scottish Final B. Howard
9 What a Myth P. Kelleway
10 Kapeno N. Gaselee
11 Quintin Bay J. Cullen
12 Bob-a-Job C. Young
13 Steel Bridge E. Prendergast
14 Castle Falls S. Hayhurst
15 Ross Sea J. Cook
16 Rutherfords J. Leech
17 Freddie P. McCarron
18 Game Purston K. White

以下は完走できなかった一覧。同障害内では番順。

障害 理由
Bassnet 1 転倒
Meon Valley 1 転倒
Popham Down 1 騎手振り落とし
Dorimont 3 転倒
April Rose 3 転倒
Vulcano 3 転倒
Border Fury 6 転倒
Ronald's Boy 12 転倒
Anglo 15 騎手による自的中止
Forecastle 16 騎手による自的中止
Kilburn 19 転倒
Lucky Domino 19 の飛越拒否
Penvulgo 19 騎手による自的中止
Aerial 19 転倒
Tower Road 19 転倒
Rondetto 23 の飛越拒否
Different Class 23 騎手振り落とし
Limeking 23 騎手振り落とし
The Fossa 23 騎手による自的中止
Norther 23 騎手による自的中止
Dun Widdy 23 騎手による自的中止
Leedsy 23 騎手振り落とし
Princeful 23 騎手振り落とし
Harry Black 23 の飛越拒否
Kirtle Lad 24 の飛越拒否
Barberyn 29 の飛越拒否

レース後

「あんなことがければ勝ってた」と思っていた他の騎手は多く、中でも2着Honey EndのJ. Gifford騎手の悔しがりようは半端ではなかった。彼はレース直後のインタビューで、事故があったのを(一つ後の)キャナルターンであると誤認してコメントしており、これは彼の動揺を、そして第23障害の薄さ物語エピソードであるといえるだろう。

不思議なことにこれだけの事故でありながら、騎手のケガはわずか1名にとどまった。その騎手もきわめて軽いけがで、その日の最終レース勝利している

イナズサークルに戻ってきた人を迎える馬主調教師もおらず、いるのは代理としてエイントリーに来ていたケントン師の父親くらいのものだった。グランドナショナル優勝馬主が欠席することはないわけではなかったが、調教師さえも不在というのは極めて異例だった。

丁度第23障害混乱の時に実況を担当していたマイケル・オヘヒルレース後、実際に第7・第23障害に訪れて「ここはフォイネイヴォン・フェンスと呼ばれることになるかもしれない」といた。これは実際的中し、1984年エイントリー競馬場正式にこの第7・第23障害を“Foinavon fence” と名付けた。これにより、フォイネイヴォンの名はグランドナショナルの度に思い出されることになった。

こぼれ話

その後

1968年グランドナショナルにも参戦したが、負担重量は2キロちょっとしか増えず、オッズも70倍くらいだったので全にフロック扱いされていたようだ。結果は第16番障害で転倒して競走中止、連覇とはならなかった。勝ったのは前年3着のRed Alligatorだった。

その後も現役を続け、2つの勝利を挙げたが、1969年2月レースで転倒したのを機に引退した。通算成績は65戦6勝。転厩前と転厩後でそれぞれ3勝ずつである。引退後も、1971年に疝痛で死亡するまでケントン師の厩舎で過ごした。

彼と戦ったたちの中にはその後活躍したも少なくない。前述のRed Alligatorのほか、ワットアミス1969年チェルトナムゴールドカップを制している。The Fossaは数週間後にスコティッシュグランドナショナルを制し、23番障害の憂さをらした。

グランドナショナルで戦った騎手の中にも、その後物語を残す者は多い。第一障害念の落となったMeon Valleyの上A. Turnellはこれがグランドナショナル初参戦でまだ18歳だった。ハードルを中心に騎手としても調教師としても一定の跡を残したTurnellだが、騎手としてのグランドナショナルは13度挑んで1974年の3着がベストだった。しかし調教師として1987年Maori Ventureで念願の勝利を挙げている。
The Fossaに騎乗したS. Mellor[8]は史上初めて障害1000勝を達成するし、April Roseに騎乗したP. Bengoughは当時英国陸軍の騎隊員[9]で、後にロイヤルアスコット開催の女王陛下名代を務める。Honey End上J. Gifford1970年調教師へ転身、1981年にAldanitiというグランドナショナル勝利する。Aldanitiとその上B. Championはともに生命の危機から這い上がってグランドナショナルの頂点に立ち感動を呼び、映画化もされた。

フォイネイヴォンに騎乗したバッキンガム騎手は、その後1969年から3年連続でグランドナショナルに参加し、いずれも完走している。1971年中に30歳で現役を引き、とともに騎手マネージャー事業を始め、が亡くなる2001年まで事業を続けた。プライベートでは2人の恵まれ2016年12月に76歳で死亡した。

血統表

Vulgan
1943 鹿毛
Sirlan
1933 栗毛
Sir Nigel Gainsborough
Lady Elinor
Laniste Antivari
Loetitia
Vulgate
1932 栗毛
Motrico Radames
Martigues
Vodka Sans Souci
Viranka
Ecilace           
1938 青毛
FNo.11-a
Interlace
1930 青毛
Hurry-On Marcovil
Tout Suite
StraitLace Son-In-Low
Stolen Kiss
Ecila's Sister
1916 栗毛
Irishman Desmond
Calumet
Miss Eger Egerton
Miss M
競走馬の4代血統表

関連動画

ニコニコ動画には白黒フル映像が残る。記事内で引用した実況も聞くことが出来る。

YoutubeにはBritish Pat記録映像として5分半ほどにまとめられたカラー映像が存在する。

https://youtu.be/SAgwjkC4oXs?si=3gRZ80ydC5geJv3gexit

1分23-1分26ごろにカメラん中に映る、黄色ブリカーがフォイネイヴォン。その後もビーチャーズあたりまでは確認できるが、次第に見切れていく。4分22から2週のビーチャーズのシーンとなり、4分32-33にかけて画面左側で飛越しているのが確認できるが、後方には5頭ほどしかいないのが確認できる。なお、この直前にフェンスの右端、最内で飛越した袖の勝負服が2着のHoney Endである。

関連リンク

他にも、Foinavonで検索すれば『印的なグランドナショナル列伝』みたいな英語記事が結構引っかかる。興味ある方は是非。

関連項目

伝説は別の伝説の始まり

1967年4月7日伝説グランドナショナルの、その前日。
メインレースに向けて浮き足立エイントリー競馬場地スプリント競走で、ひっそりとデビュー勝ちを飾った2歳がいた。

そのの名は、Red Rum

そのが後に、このエイントリー、グランドナショナルで不滅の大偉業を打ち立てることを、まだ誰も知らない

脚注

  1. *1965年Splash1966年もFlyingboltで勝利し、連覇は最終的に7まで伸びる
  2. *この年のキングジョージ6世チェイスはなぜかBBCでさえ中継しておらず、偉大なの最後のレースだというのに映像現在まで一切発見されていない。そのため、逃げアークルを猛追するDormantが差し切ったとする記述もありはっきりしない。
  3. *おそらくHighland Wedding。前年8着1969年の勝者。
  4. *3人の馬主のうちマックベネリック1966年にフォイネイヴォンを見限り馬主を降り、ワトキンスの負担増になっていた
  5. *全く期待していなかったというわけではなく、本業が忙しく自宅で待機している必要もあった様である
  6. *ただし、人気Honey Endや実力のWhat a MythやFreddieも後方で機を伺っていたため、後方=ノーチャンスというわけではない。
  7. *グランドナショナルはあまりに長いため、数人で交代しながら実況する
  8. *チェルトナムゴールドカップのスタルブリッジコロニストの上でもある
  9. *つまりプロ騎手ではなかった
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フォイネイヴォン

1 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 14:49:49 ID: Vmoym21evo
ニコニコにあるまじき力作!
強さで認められるではないから名列伝物だとあまり見ないだよな、デヴィッド・オーウェンの伝記本はあるが……
実は名前はFoinaven山からのミススペルである


あと記事の一番上にあったから流石に気になったけど、引用デイリーエクスプレスの「ジャンパーたちの中で最も大胆さがないから」はチャールズベンソンの文句"Not the boldest of jumpers"の翻訳かな
これは最上級の否定形だから婉曲的な表現で、日本語訳すると「それほど大胆に跳べるではない」ってところじゃないだろうか
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2 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 21:23:55 ID: YQKaLvzXs6
>>1
ありがとうございます翻訳摘もありがたいです。
「最もboldでない」を、「最も『boldでない』」と解釈して訳したものの、解釈としては「『最もbold』でない」、の方が適当ということでしょうかね。訂正させていただきます
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3 ななしのよっしん
2025/01/31(金) 14:34:17 ID: Npa7K2hThn
うおー、気合の入った記事だ!久々に驚きましたよ
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